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 まずは、どこかのSF小説の、パロディなタイトルをつけてみました。メアリ・スーは二次創作の申し子なので、まあまあ悪くないような気がします。
 少し前に、メアリ・スーという言葉を聞きました。名前からして外国産だな、と思って調べてみたのですが、同人や創作に関わる人間には大変興味深い話だったので、色々考えてしまいました。
 まあ、別に新しい言葉ではないので、ご存じの方はとっくにご存じだとは思いますが。
 Mary Sue(メアリ・スー)テストというものがあります。
 詳しくはこちら。
 http://iwatam-server.dyndns.org/column/marysue/index.html
 メアリ・スーの説明に関しては、この辺りのサイトが詳しいです。
 http://www.imasy.or.jp/~hir/hir/marysue/marysueinfo.html
 (勝手にリンクしてしまい、申し訳ありません)
 一応ここでも簡単に説明してしまうと。基本的にはアメリカ発祥の言葉で、二次創作に自己投影をしたキャラを出して、そのキャラを万能にして、話を作ってしまう。
 二次創作だというのに、何故かそのオリキャラが主役になって、恋をしたり物語を解決したり。
 そういう自己愛たっぷりの自己投影キャラを出してしまうことを、メアリ・スーと言うそうです。
 (アメリカで、スタートレックの二次創作において、メアリ・スーという人が、自分の名前を付けた万能キャラを出して小説を書いたのが、事の発端だという話です)
 この辺りでメアリ・スーに関してのアメリカの事情、とかいうのを書いてもいいのですが、結局ネットで調べた伝聞になってしまうので、ここはよく解らないアメリカ事情ではなく、私自身の経験を、少々語ってみたいと思います。
    私は、今はオリジナルメインでやってますけど、実は二次創作歴長いです。私がやっていた頃は、パロディって言ってましたけどね。アニパロとか。最近は小説や映画のパロも多いので、アニパロとは言い切れなくなっております。
 なので『二次創作』という言葉は、誰が作ったのか知りませんが、大変便利な言葉だと思っています。
 原作がまずあって、それを自分なりに分解したり解釈したりして、話を作る。
 物語の世界観に共通の基礎があって構成される物語、ですね。
 (二次創作の中には、ダブルパロとかパラレルとかもありますが、とりあえずはそういうのはパロの中でもアウトローなので、ここでは考慮に入れません)
 で、私の場合、パロディをはじめた理由なんですけど。とりあえずこの原作に突っ込みたいぜ。というギャグの突っ込み欲求から来ていました。
 (もちろんキャラ萌えもありましたけど、作品として描いたのは、突っ込みマンガばかり)
 なので、ストーリー性のあるものではまったくありませんでした。
 場面をとりだして、それに対して「なんでやねん」とか「どうしてそうなるんじゃっ!」とか、愛するがゆえにハリセンで叩いてオチをかます。
 ……みたいな?
 (自分で書いててなんですが、説明下手だな)
 パロディ隆盛のハシリみたいな頃だったので、周りにもそういう本が多かったですね。
 まあそういう周りのせいだけではないとは思うのですが、私はパロディにオリキャラを出すということ自体が、本気で思考の範疇外でした。
 しかし、メアリ・スーなんて言葉を今さら聞いて、ああ、そういえばそういう話を書く人がいたなあ、とふっと思い出しました。
    当時一大ジャンルだったのはキャプテン翼だったのですが。そのキャプテン翼のパロディの雄、日向小次郎に、オリキャラの彼女を作って話を描いた人がいたのです。(小説ではなく、マンガでした)
 しかもその彼女は、美人でみんなの人気者。
 喧嘩も強くて、いつもしっかり者。
 でももちろん、誰にも嫌われてなんかいなくって。
 日向ですら尻に敷かれてます。な万能キャラ。
 日向は私の萌えキャラではなかったので、どーでもいいと言えばどーでもよかったのですが、その話を読んだ時
 『え〜と。これって、どうよ』
 と思った覚えがあります。
 なぜかと言いますと。その彼女、作者の投影だったんです。私の大好きなキャプテン翼の世界に、どうしてそんな他人が出てくるんだ〜?(しかも主役っぽい) と、その辺りがどうにもモニョモニョしまして。
 はっきり言えば、好きではなかったです。
 しかし今考えると、あれって本気で「メアリ・スー」の典型的キャラだったんだなあ、と懐かしく思い出されてしまいました。さすがに大昔のことなので、どうしてその日向の恋人キャラが本人自身だったと思ったのか忘れてしまったのですが。
 見た瞬間、なにこの人、自分をパロディの中に入れてるの? と速攻思ったくらいですので。
 間違いなく、メアリ・スーテストの中にあった
 ●そのキャラの名前は、あなたの名前、ニックネーム、ハンドル名のどれかである
 か、そうでなければ、テストにはありませんけど
 (何故ならテストは、小説表現の二次創作を対象に書かれているから)
 ●本人が自分の同人誌で描いていた自画像にそっくり
 だったんでしょうね。たぶん。覚えてないけど。
 まあ、私なんかは、原作にあなた自身を入れないでくれるかな〜、と思ってイヤンな気分になっていたクチですが。そのオリキャラが好きです、という人も中にはいたようなので、そこはかとなく不快に思いながらも、そういうのも好きずきかあ、と思っていました。
 しかし海外では(主にアメリカ)、なんだかそういうオリキャラ、メアリ・スーは、ものすごく排除されるべき『対象』になっているようですね。
 メンタリティーの違いなのか、当時起こされた論争の果てにそういう流れになったのか、私には解りませんけど。
 もっとも日本でも、オリキャラがたくさん出張る二次創作を好んで読みたい人は少ないようなので、アメリカほど排斥されていなくても、たぶん少数派だとは思います。
 
   
 
  ただですね。ここからが少々複雑になっていくところなのですが。物語の中に投入されるのが
 『誰かが書いた見知らぬオリキャラ』ではなく
 『読む人自分自身』
 になると、ちょっと事情が違ってくるようなんですな。
 つまり、ぶっちゃけ言っちゃうと、ここ数年でいきなりどばっと増えてきた
 「ドリーム小説」
 という存在です。
 ドリーム小説とは何かというと、まあその。小説があるわけですが。そこのキャラの名前部分が空白になっているんですよ。
 で、読む人がその空欄に好きな名前を入れて、変換をクリックすると。
 その小説が好きなキャラの名前で読めてしまうと。
 (ヒロイン名に自分の名前を入れることが多いらしい)
 自分を話の中に入れることができる、自己陶酔型の小説として
 一部では熱狂的に受け入れられ
 一部では蛇蝎のごとく忌嫌われているらしいです。
 しかし私なんかは最初に聞いたとき、要はゲームみたいなものよね、と思ったんですけどね。
 ほら、ゲームもよく、名前欄空白になっているじゃないですか。
 そこにもちろん、自分の名前を入れる人もいる。
 自分の名前を勇者に付ければ、ゲームの中で、大活躍、という訳です。
 (私も、アンジェリークで自分の名前を入れたクチです。告白されるシーンはめっちゃ恥ずかしかったが、でも萌えた(笑)
 そういうわけで、ドリーム小説に関して、私は中庸でこざいます。楽しむ人の気持ちも解るし、自己陶酔は嫌な感じ(メアリ・スーですしね)と不愉快に思う人がいるのも解る。
 ま、いっそのこと全然違う世界から名前を持ってきてしまって。
 BLラブラブ世界に、ウルトラマンとセブンを放り込んで読んだりしたら、そりゃー楽しそうだなー、と思ったりすることはあるんですが。
 ……まあええと。閑話休題  何が言いたかったかというと、つまり。自分自身を既存のストーリーの中に入れるという創作形態は、紙媒体しか発表の場がなかった時代には、受け入れることが難しい形態だった。
 しかし、ネット小説という新しい形が普及してきた今だからこそ、陽が当たる存在になったのではないだろうか。
 という考察でございます。
   紙媒体とネット小説の一番の違いは紙媒体は「アナログ」ネット小説のテキストは「デジタル」
 だということです。
 そんなの当たり前だとお思いになるかもしれませんが、この違いは思ったより大きい。
 なぜならデジタルテキストは、あっさり入れ替えることができるわけです。
 紙媒体だったら、名前変換小説なんてできません。
 一度印刷された文字は変えられないし、空白を開けてそこに自分で名前を書き込んで……なんて労力はバカみたいです。
 でもデジタルテキストなら、名前の部分だけ空けておいて、任意に入れ替えることが瞬時に可能になる。
 というわけで、同人の中でも「ドリーム」というジャンルは、デジタルテキストを当たり前のように読むという環境が広く整って、初めて出来るようになった、新しい創作形態ということです。
 同人という形式が、紙媒体でしか存在しなかったら、ドリームはありえませんし、メアリ・スーは結局書いたその本人にしか楽しめないという、狭い自己満足の殻の中に収まっていたでしょう。だってやっぱり、せっかくの好き世界に、知らない他人が出しゃばって大活躍する話なんて、読んでいたらちょこっと不愉快な気がすると思いますしね。
 誰よあんた、みたいな。
 しかしですね。それが他人じゃなくて、もしも自由に自分を入れることが出来たら。
 そりゃーその……。
 少しくらいはそういう願望があったりしませんか?
 好きキャラ達を自分が助けて、恋をして、物語世界で大活躍。
 もちろんメアリ・スーが、基本的に少々幼稚な自己愛にまみれた創作物であることは解っています。
 しかし、創作物としての出来はともかく、そういう幼稚な欲求って、誰にでも多少はあると思うわけですよ。
 こっそり名前変換して楽しむくらいは、いいんじゃないの?
 そういう精神に支えられて、一方では忌避されながら、一方では熱狂的消費者を持つジャンルが「ドリーム」と呼ばれる創作形態です。(ドリームに嵌まる人は、数としては子供が多いそうです。まあそうだろうな。もっとも大人だって乙女ゲーに嵌まるように、好きな人はいるでしょう)
    デジタルテキストの隆盛によって、本来広まるはずがなかった創作形態が市民権を得た。アメリカではかなりの勢いで排斥されている「メアリ・スー」の書き手ですが、日本ではドリームという形で存在を容認されている。
 時代性をあらわした大変面白い例だと、私は思います。
 デジタルで書こうとアナログで書こうと、小説は小説。
 そこに違いなんて無い、単に使っているツールが違うだけだろ。
 と実は私は、心のどこかでずっと思ってきました。
 しかし、そのツールが新しい創作形態を作ってしまった。
 そのことが私にとっては、とても興味深かったです。
 ただですね。ドリーム小説という存在があるのだから、問答無用で排斥されているアメリカと違って、日本ではメアリ・スーは歓迎されているのだ、というわけではありません。
 だってもし、名前変換できなかったとしたら。
 やっぱり日本でも、かなり排斥されてると思いますから。
 デジタルによる名前変換という技が加わったことによって、初めてドリーム小説は、多くの人が消費できるモノとなった。
 消費しやすい形にデジタルがしてくれた。
 それだけなのだと思います。
 
 
 しかし、上記で書いた、私の古い思い出ですが。中にはオリキャラが好きだという人もいるのよね〜、という例。
 えーと。それは…その〜。
 人は決して100パーセント全部こうだというわけではないので。中には本気で言っている人もいるかもしれませんが。
 でも、おつきあいの範疇で言っている人も多かったと思います。
 そのサークル、当時C翼サークルでは、大手だったので。
 オリキャラほめられると、本人喜んだし〜(^_^;)
 (そりゃそうだよな、自分自身ですから)
 なので当時、オリキャラ好きですよ、と言った人がすべて、それを本当に受け入れていたか。私は怪しいと思っています。
 また、アメリカで徹底的に排除されたのは、メンタリティの違いも大きいと思われます。
 アメリカ人は「無理してでも自分という存在を周りにアピールし、際立たせなくてはならない」
 世界に住んでおり
 日本人は
 「無理してでも自分という存在を周りに合わせて、溶け込んで行かなくてはならない」
 世界に住んでいますから。
 どっちも行きすぎると疲れる世界ですが、まあ、基本メンタリティがそこにあるので。
 日本だったら、ある程度はおつきあいの範疇で迎合された「二次創作内のオリキャラ」も、アメリカでは徹底排除の対象になるのでしょう。
    さて、ここでもう一度書きますが。メアリ・スーというのは、
 単なる二次創作内のオリキャラのことではなく
 自己愛と自己投影にまみれた「ひいきされたキャラ」
 の事です。
 神(作者)は彼(彼女)を愛し、才能と運と力を与え、世界は彼(彼女)に都合よく動いていく。
 そんなご都合主義の固まりのようなキャラを出して話を作る、ということですね。
 それは自己満足の甘いキャンディーですが、私は決してそれを否定しません。
 (時々は浸りたくなるじゃないですか、そんな甘ったれた世界に)
 しかし、お話の造りとしては、幼稚なものです。
 ただのオリキャラは、メアリ・スーではありません。二次創作に、様々なオリキャラが出てくることなど、よくあることです。
 (学園生活とか書いてると、既存のキャラ以外の名もないクラスメイトが必要になる時がたくさんある)
 悪者の役を本来のキャラの誰にもやらせたくないなあ、と思ったときに仕方なくオリキャラを出す、などという手法はよくとられるものです。
 アメリカでも、そういう名もないオリキャラは容認されているようです。
 
   
 
  以上ここまでは、二次創作とメアリ・スー、そしてデジタルテキストという形が、どのようにそれに影響を与えてきたのか、について持論を述べてみました。メアリ・スーとは、もともと二次創作に突っ込まれた自己投影されたオリキャラ、から来ているわけですから、まずは二次創作から語るのは当たり前。
 しかし、ならばオリジナル作品の中には、メアリ・スー的存在はいないのか。
 と考えると、う〜む、と唸ってしまいます。
 何故なら私は、たぶん物語を作っていく過程で、かならず誰もが「メアリ・スー」に遭遇するのではないかと思っているからです。
 その辺りを次に考えるのも、面白そうです。
 
 
 先に簡単に、結論みたいな事を述べてしまうと、私は創作過程において、完全に彼女を排除してしまわない方がいいと思っています。しかし彼女がやたらと自己主張してもいけない。
 彼女は作品内に、さりげなく存在させ、出しゃばってきたら注意深く排除する。
 蛇蝎のごとく嫌うのでも、無条件に容認するのでも、どちらでもない。
 その辺りの、一次創作とメアリ・スーについて、そのうちに語れたらいいなあと思っています。機会がありましたら、その話は次回に。
 
 
 END |