偽月



「こんな、所で?」
やっと唇を離して黒羽は小さく尋ねた。
目の前の男は、微かに笑って頷く。
整った顔が、ほんの少し意地悪そうに歪んだ。
「言っただろう? どんな所でも、オレが求めたら応じろって」
「でも…」
「言うことを聞かないのは、悪い子だな」
さらりと言われた一言に、黒羽の顔が、さっと曇った。


部屋に入るなり、ネクタイを引っ張られて、いきなりキスをされる。
途端に、まるで頭を撫でて貰った仔犬のように、胸の中が嬉しさでいっぱいになった。
強引で乱暴なキス。
少し乱暴なくらいのキスが黒羽は好きだった。
冬馬の優しいキスは、逆に不安になることがあるから。
彼が優しい時は、何かがあった時だから。
しかし欲望を押しつけてくるような、いささか乱暴なキスは、冬馬が単純に身体を求めてきている証拠だった。
身体の関係が無い頃、自分はいつも不安だった。
冬馬に対する自分の欲望を知られて、彼に嫌悪される事が恐ろしかった。
だから受け入れてもらえた時は、天にも昇る気持ちだった。

しかし身体を重ねても、不安が無くなるわけではない。
今度は離れている時が怖いと思う。
身体を繋げる事を知ってしまったら、よりいっそう彼から離れる事が怖くなる。
そんな気持ちに常に支配されていたから、彼から求められるのは、何よりも嬉しい事だった。

目を瞑って乱暴なキスに応える。
夢中で舌を絡めて、冬馬を感じようとする。
早く帰って、二人きりになろう。
涼一が欲しい。涼一に抱かれたい。
身体も心も、熱くたかぶっていく。

「厭らしいな、コウの身体」
くすくす嗤いながら冬馬は黒羽の脚の間を探った。
「あ…」
「キスされただけで、こんなになっちゃうのか?」
「涼一…家に帰ろう」
「帰るの? 帰って、それで?」
うっとりと黒羽は呟いた。
「涼一に抱かれたい」
「可愛いなあ、コウ。だけど、そうだな」
冬馬は悪戯っぽい笑いを唇に浮かべて、それから言った。
「帰ったら、脚腰立たなくなるくらい愛してやるよ。久しぶりだしな。だけどその前に、ちょっと遊ぼう」
「涼一?」
もう一度キスされて、それから耳元で囁かれる。
黒羽の瞳が大きく開かれた。

「ここ…で? 今すぐ?」
冬馬は瞳を覗き込んで小さく頷いた。
「でも、ここは。帰ってからなら…僕は」
冬馬が決めたのなら抵抗しても無駄だと解っていたが、それでも反射的に首は横に振られた。
しかしもちろん、彼は許してくれなかった。
「悪い子は、オレは嫌いだよ」
その言葉に、黒羽はあっさり屈する。
冬馬の要求に、自分は逆らい続ける事が出来ない。彼はそれが解っていて、時々なぶるように無理な要求をしては、黒羽の微かな抵抗を楽しんでいた。

 

 

ひざまずいて、口を使うんだ」
狭い机の下に、黒羽は入り込む。
キツイ。
自分は身長だけはあるのだ。
それでも言われた通り何とか下に入り込んで、彼の股間に手を伸ばした。

署内でフェラチオをする。
トイレの個室でその行為をしたことはあったが、ここは部屋の中だった。
特殊班の部屋は大部屋ではないし、事件のない今は、署員はみな夜になると帰っていく。
だから今は、冬馬と二人だけだ。
しかしもちろん警察が無人になる事など無い。誰かが突然入ってくる可能性なんて、いくらでもあった。
黒羽の心臓は、動悸で張り裂けそうになる。
もし誰かに見られたら。
考えたくない。
冬馬は平気なのだろうか?
「スリルあるだろ?」
笑って囁かれたが、冬馬の言う事など半分も耳に入らなかった。
早く終わりにしたかった。
夢中で冬馬の勃ちあがったものを唇で挟み、舌で愛撫する。
「熱心だな、コウ。こういうシチュエーションが好きなのか? 興奮する?」
黒羽は眉をひそめた。

興奮するかって? どうしてそんなこと。
確かに心臓は、張り裂けそうなくらいおそろしく早く脈打っている。
頬は熱いし、鼓動は耳の中に響いてうるさいくらいだ。
でも僕は、ただひたすら早く終わりにしたい。
疾しさと恥ずかしさで、どうにかなりそうだ。
スリルなんて欲しくない。冬馬の気が済んだら、早く帰りたい。ベッドの上で二人きりならば、もちろん幾らでも抱かれたいのだから。

どうにもならない恥ずかしい気持ちを散らすために、帰って冬馬に抱かれる事だけを考えた。
抱かれる事を思うと、再び身体が熱くなってくるのが解った。
僕は男なのに、こんなに男に抱かれたいと思っている。
いや、涼一だけだ。僕は涼一に抱かれたい。
ベッドに押し倒されて、貫かれて、揺さぶられて、全部を涼一のものにしてもらって。
言葉なんて一つもいらない。
ただ、熱くて硬い涼一のこれで、何も解らなくなるくらい激しく、何度も何度も突き上げて責めたてて欲しい。
早く、早く帰りたい…。

目を瞑り、抱かれる事をひたすら考えながら、涼一のモノを喉の奥まで入れて吸いあげる。
「…っ」
ため息と共に、冬馬は微かに声を漏らした。
「…すごく、いいぞ、コウ。おまえは最高だよ」
冬馬の綺麗な指が黒羽の頭を撫でる。
撫でながら冬馬はゆっくりと腰を使い始めた。
喉を刺戟する行為は苦しかったが、黒羽は我慢した。
もうすぐ終わる。誰も来なかった事に心の底からホッとする。
冬馬は黒羽の頭を押さえると、喉の奥に何度か打ち込み、そして射精した。
黒羽は苦労してそれを全部飲み込む。
だが望んだようには終わらなかった。
冬馬は黒羽の腕を掴んで引き上げると、うつ伏せにして、上半身を机の上に押しつけた。


「涼一?」
「今度はオレがよくしてやるよ」
冬馬は片腕で黒羽の身体を机の上に押さえつけたまま、黒羽のズボンのベルトに手をかけた。
そのまま前を探られて、思わず声が漏れる。
冬馬の指が黒羽の形を確かめるように動いて、擦りたてた。
快感が体を震わせる。
「なんだ、とっくに勃ってるじゃないか」
耳元で囁かれて、顔に朱が上った。
「下でオレのを咥えながら、ずっと勃たせてたのか? 嫌だとか言いながら本当は好きなんだろ。こういう所でしゃぶるのが」
押さえつけられた格好で、顔を赤くしたまま黒羽は小さく首を振った。
「じゃあどうして勃たせているんだよ。ん? 淫乱だからか?」
「…はやく、帰りたい」
「帰る? 帰ってオレにされる事を考えてたら、勃っちゃたのか?」
今度は小さく頷く。冬馬は嗤った。
「厭らしい。どうしようもない淫乱め。オレにどうされる事を想像してたんだ? きっと凄く恥ずかしい事を考えてたんだろ。
言ってみろよ、いま聞いてやるから。そして帰ったら、その通りにお前を犯してやる。どんな事を考えてた?」
黒羽は首を横に振った。
「言えないのか? そんなにエッチな事を考えてたのか? 言えよ」
「涼一、帰りたい。帰って、僕を抱いて」

「こんな風に」
机に押さえつけていた手が離れ、冬馬は後ろで何かを取り出す。
身体は自由になったが、黒羽は体を起こさなかった。
冬馬は黒羽のペニスから指を離すと、後ろを探り始めた。
冷たいぬるりとしたものが身体の中に押し込まれる。ジェルか何からしい。冬馬は指を黒羽の奥深くまで入れて、何度か出し入れした。
「んんっ…あっ…」
蠢く指に嬲られる度に、もどかしい快楽が身体の中を走る。
「こんな風に、後ろから突っ込んで欲しいのか?」
もう一度潤滑剤を塗り込まれ、更に指の数が増やされた。
「ああ…う」
黒羽の勃ちあがった先端から、透明な滴がしたたり始める。
黒羽にセックスを教え込んだのは冬馬だった。彼は黒羽の身体のどこがどんな風に感じるか、全部知っていた。
「後ろで感じるんだよな。コウは。そんなに欲しいなら、帰ってからなんて言わずに、ここで突っ込んでやるよ」

「涼一、お願い。家で…」
言えば言うほど冬馬を煽るのがどこかで解っていながら、それでも黒羽は懇願する。
涼一はこんな風に、抵抗しつつ屈服する自分を見るのが好きなのだ。
だから、解っていながら何度も繰り返す。
けれど、こんな風に何度も言っていると、本当は自分も涼一のモノをここで突っ込んで欲しいんじゃないかと、そうも思う。
それが本心なんじゃないか?
僕は厭らしいから。
涼一にメチャクチャにされたいと、頭の中で口に出せないような事を、たくさん想像していたじゃないか。
だからこんな所で。
誰かに見られるかもしれないところで、僕は涼一に犯されて、声をあげて達したいのかもしれない。

「本当は我慢できないって言うんだ。言ったらオレのをやるよ」
黒羽は小さく頷く。
「ちゃんと声に出して言うんだ」
「でき…ない」
ため息のような声が唇から漏れた。
我慢できない。
僕を愛して、涼一。
もういい。ここでいいから。ここで僕は、きっとして欲しいんだ。
「今すぐオレに突っ込んで欲しい?」
「…欲し…い」
黒羽の小さな声に、冬馬は入れていた指を引き抜く。
「じゃあ自分で前は触れ。後ろは突っ込んでやるから」

 

 

「あっ…ああぁっ」
上半身をうつ伏せに机に押しつけられ、大きく脚を開いた格好で、後ろから貫かれる。黒羽は一瞬場所を忘れて、大きな声をあげた。
「バカ、もう少し声を落とせよ」
言いながら冬馬はぐいぐいと身体を進めてくる。机が揺れて、頭に書類の束が当たった。黒羽はきつく机の端を握る。
「コウのここ、すごくいいぞ。いつもよりずっと、きついな」
冬馬は自身を全部おさめると、ゆっくりとした抽送を始めた。
味わうように奥まで入れては、ゆるやかに引き抜き、また突き入れる。
「んっ…。あぁ…あ。涼一」
何度も名前を呼びながら、黒羽は冬馬に言われた通り、右手で自分の勃ちあがったモノを握った。
鋭い快楽が身体に走るが、黒羽は本当は、自分でする事があまり好きではなかった。だからマスターベーションは殆どしない。
セックスでないと意味がない。
涼一にして貰うのでなかったら、それは排泄と同じだ。
だから黒羽は、冬馬にされていると思いながら指を動かした。
「すごく、いい。熱い…涼一の…」
涼一に触られてるんだ。涼一に、こんな風に。
後ろから突き上げてくる動きに合わせて、自分のいいところを探る。

気持ちいい。
すごくいい。
涼一。熱くて硬い、涼一のモノ。
爪の先まで整えられた、綺麗な涼一の手…。

冬馬はひたすら自分の快楽だけを追い続けるように、黒羽の上で動く。
「いいよ、コウ。お前の身体は、本当に悦い」
冬馬の息も次第に荒くなっていく。
「帰ったら、もう一度抱いてやる。厭らしい穴に何度も突っ込んで鳴かせてやる」
冬馬は何度も激しく腰を打ち付けた。その動きに耐えかねるように、黒羽の口から悲鳴が漏れる。
「ゃ…あああ…あぁっ。涼一。涼一っ!」
黒羽の背が大きく反りかえり、先端から熱が弾けた。
しかしがくりと力が抜けていく下半身を押さえ込んで、冬馬は更に黒羽を責めたてた。
「涼一、ん…あぁっ」
「バカ、オレがまだだ。もう少し我慢しろ」

黒羽は机の端をきつく握り、冬馬の動きに耐える。
「ああ、あああっ…」
もう名前を呼ぶ事も出来ない。
ただ、喘ぐ事しかできない。
射精の快感と、後ろからの刺戟に、頭の中が白くなっていく。
涼一、もっと。
もっと涼一が欲しい。
僕の中に涼一を感じたい。
涼一、愛してる。
他の人間なんて、誰もいらない。
僕の世界には、涼一だけいればいい。

だから…だから、もっと……

冬馬が微かに声をあげて、黒羽の中に放った。
彼の熱いモノが、身体の中に拡がるのを感じる。
黒羽は息を吐いて、その感触を楽しんだ。

 

 

「誰か残っているんですか?」
突然声が聞こえて、部屋のドアが無造作に開けられる。
黒羽はギクリとして顔を上げた。
机が並ぶ向こう、ドアから半分身体を中に入れた格好で、若い制服巡査がきょとんとした顔をこちらに向けている。
「ああ…その」
「何か音がしましたけど」
巡査は相手が黒羽だと気付くと、緊張したような声になった。
「いや、書類の整理をしていたら、本を落としてしまっただけだから」
つたない言い訳が咄嗟に口から出る。
「手伝いましょうか?」
「いや、いい。部屋に入らないでくれ。その、個人的な…っ」
黒羽の言葉が途中で擦れて途切れる。ほんの少し、息が荒くなった。
「黒羽さん?」
不審げに首を捻る巡査に、黒羽は首を横に振った。
「なんでも…、ない。個人的な調べものをしているので。申し訳、ないけど…」
「はい…解りました。じゃあ…」
巡査は少しだけ躇ったが、黒羽に見つめられると眩しそうに目を細め、それから素直にドアを閉めて出ていった。
黒羽は大きく肩で息をつく。
足元からくすくす笑いが響いた。

「コウ、上着がずれて、えらく色っぽいぞ」
「涼一。見つかったら、どうするつもり…あっ」
冬馬は机の影に身を潜めて、黒羽の脚の間に手を伸ばしていた。
彼に悪戯をされて、黒羽のモノは再び勃ちあがりかけている。更に脚の間からは、冬馬の放ったものが流れだしていた。
いくつもの机と、その上に高く積み上げられた雑多な資料の山に隠されて、下は見えなかったとは思うが、上半身もシャツは乱れ、ネクタイは曲がっている。
薄暗いからよく見えなかったのかもしれないが、不審に思われて、ほんの十数歩ほど中に踏み込まれていたら、全てがお終いだった事だろう。
「危ない危ない。急いで隠れなかったら見つかってたな。さすがにここでヤルのはスリルがある」
冬馬はペロリと舌を出し、悪戯をやめて立ちあがった。

「お前は机に伏せてたんだから、そのままの格好でいればよかったのに。どうして顔を上げるんだよ、バカだなあ」
「だって…」
口ごもる黒羽の頭をポンポン叩きながら、冬馬は機嫌良く口を開けて笑った。
「見たか? 今のあいつ。いるのがコウだと判ったら顔を赤くしてたぞ。
あいつもきっと、コウとやれるならヤリたいと思ってるんだぜ」
「そんなこと……」
「だけどダメだ。あんなヤツには抱かせない。コウの身体は、最高だからな」
服を整えながら、冬馬はキスをする。
黒羽は目を瞑って、うっとりとそれに応えた。

帰ろう、涼一。
帰って、そうしたらまた僕を抱いて。
僕の身体は涼一のためにある。
僕の全部は、いつでも涼一のものだから…。
涼一も、こうして僕を抱く時だけは、僕のものになる。
だから、抱いて涼一。
そして僕の身体の中でって欲しい。


 冬馬は決して、黒羽とのセックスで我慢の類いをしなかった。
好きな時にしたい事を要求し、またそれが全て通るのを当然と思っていた。
その行為は時に黒羽に苦痛を強いたが、同時に歪んだ喜びももたらした。

仕事や駆け引きの場では、必要とあらば相手が理不尽でも、冬馬は自分を曲げて引いたり押さえたりする。
でも、自分とのセックスでは、それはしないんだ。と思う。
自分は彼の駆け引きの対象ではないのだ。
演じるのが上手い冬馬が、取り繕った表面だけではない、彼の「素」の部分を、たとえ一部分にしろ自分に対して無防備に見せる。
それが嬉しかった。
たとえ心が自分に向いていなくても、都合よく使われているのだと解っても、それでもいい。
男の身体は正直だから、僕の身体が欲しいという気持ちは本当なのだ。

欲しいと思われるのは嬉しい。その欲望は本物だから。
もっともこんな場所で求められる事が普通なのかどうかは解らない。
恥ずかしいとは思う。
しかし冬馬のセックスに疑問を持つ事が、黒羽には出来なかった。
曲がった思いを彼に抱いていたのは自分のほうなのだから、その思いが受け入れてもらえた瞬間から、彼の要求するセックスが絶対だった。
だから彼が求めるなら、いつでもどこででも、身体を差し出すつもりだった。

冬馬のキスは長く続いた。
また誰かが入ってくるかもしれないという思いが、一瞬だけ頭を掠める。
優しいキスは、少しだけ不安だ。
でも、帰ったらまた僕を抱いてくれるんだろう?
乱暴に何度も、僕を愛してくれるんだろう?
多くは望まないから、ずっとそうやって涼一の傍にいたい。
だから、いつか僕を置いて行ってしまうかもしれないなんて、そんな不安、ベッドの上で忘れさせてくれ。


暗い部屋の窓から、丸い月が見えた。
明るく輝いて見えるのに、けっしてこの部屋の中に、月光をそそぐ事のない、偽月。
造りものの月は濁る事も曇る事もなく、常に美しく空に輝く。

光を降らせない偽月は
黒羽が知っている、ただ一つの月だった。

END