過去−dark past6−



冬馬涼一に会わせてやる。
男は言った。
嘘だとそう思った。
嘘でもいい。セックスが出来ればそれでいい。
そう思って、男と会う為に黒羽はスカイに上がった。
しかし男は、冬馬が使っていたのと同じロープを持ち出してきて、黒羽を縛り上げた。脚を縛られ、高く吊され、男は何度も黒羽の身体を貫き、突き上げた。
男は身体が大きく、そして薬でも服用しているのかと思うほど性欲が旺盛だった。
「ああぅっ…!」
ベッドが激しく轢み、黒羽は声をあげる。
快楽というより、むしろ苦痛の声だ。
しかし男はその声に興奮しているようだった。
目には淫蕩な光が宿り、口元が興奮で濡れる。
一通り黒羽の身体を味わうと、男は口での奉仕を要求した。
腰を揺すりながら、黒羽に囁く。
「どうだ? いいだろ」

どうもこうも……。
黒羽は眉を寄せた。
何か言おうにも、あんたのでかいのが口の中に突っ込まれてる限り、声をあげるのさえ無理じゃないか。

男の巨大なペニスを、唇と舌を使って愛撫する。
もっともあまりにも大きいので、ほとんど小技は使えなかった。
仕方ないので唾液で濡らし、しゃぶって吸い上げる。
「ああぁ…」
男はうっとりと目を瞑った。
「聞いたとおりだ。口でするのが得意なんだな」
黒羽は嫌悪の表情を浮かべたが、もともと男の逸物を咥え込むこと自体が苦しい行為なので、男には気付かれなかった。
もっともこの男は、もしかしたら目の前で唾を吐いても、自分に向けられる侮辱にも気付かないかもしれない。
それくらい鈍感で、自己中心的なタイプ。
そんな気がした。

だが、まともにセックスしたいなら、それ以上口を開くな。と思う。
冬馬涼一に本当に繋がっているかどうかは、セックスが終わったらでいい。
いま、冬馬を少しでも匂わせる様な言葉を聞きたくない。
でないと、口の中のものを噛み切ってしまいそうな気分になるから。

男の自分勝手なセックスは、延々と続いた。
黒羽は何度も身体を抉られ、口の中にも突っ込まれ、しゃぶらされる。
確かに激しいセックスを期待していたし、最初のうちは悪くもなかった。
だが、これほど長時間奉仕を要求されるとは思ってもみなかった。
並みの男なら、途中で音を上げていただろうから、逆に楽だったかもしれない。
しかし黒羽は、見た目から人が想像する以上に、体力も持久力もあった。
恐ろしいほどタフな、この男に付き合えてしまう。
間違いなく今までの相手は、途中で逃げ出していたのだろう。
黒羽の身体を嬲り続ける男は、ひどく満足そうだった。

しかし、体力的に負けるということはなかったが、さすがに男の大きなものを何度も受け入れるのは苦しかった。
下の感覚は無くなっていき、顎もぎしぎしと痛む。
何人もの男に輪姦されるのもキツイが、この男の回を重ねるほどに執拗になるセックスは、かなり苦痛だった。

結局、黒羽は明け方近くまで男に嬲られ続けた。
身体はぐったりと弛緩し、頭が朦朧としてきた頃に、やっと解放される。



頭には半分霞がかかっていたが、それでも黒羽は男を逃がすつもりはなかった。
普段は一人で浴びるシャワー室に、男も一緒に引きずり込む。
身体に脚を絡めながら、男の身体を洗って囁く。
「…いつ、冬馬に会える?」
「これから、すぐさ」
男は黒羽の愛撫に、卑猥な笑みを漏らしながら言った。
「本当に?」
「ああ、あの男と約束しているんだ。そんなにあの男に会いたいのか?」
黒羽も薄く微笑む。
「ああ、借りがあるんだ。借りは返さないと」
「そいつのセックスが好きなのか?」
「好きと言えば、好きだったかな。でもあんたの方がすごいよ」
言いながら指を肌に滑らせる。
男は満足そうな笑みを浮かべた。
「そうだろう? オレのはすごかっただろう?」

自分がどれだけすごいか、セックスの最中にも何度も言わせたな。
滑稽さに、黒羽は胸の中で笑う。
男は自らのセックスにこだわった。
大きなペニス。有り余る体力。
セックスがきっと、男の唯一の自慢なのだろう。
そして理由は知らないが、ひどく執着している。
あんな風に執拗に黒羽の体を責めたてたのも、それを見せつけようと思ったからなのだろう。
けれど。
バカバカしいと思う。
その過剰な執着に、誰もがお前のセックスからは逃げるだろう。
ああそうか。だから余計お前はこだわるのか。

「ずっと、こんな風に出来るようになるって、冬馬涼一は約束した」
男はうっとりとそう言った。
冬馬の名前に、黒羽の身体に緊張が走る。
「年をとったら、ダメになるんだ。男としてダメになる。そんなのは嫌だ。でもあの男は、ずっと今のままでいられると、そう約束した。だから…」

本当だ、と改めて確信する。
本当にこの男は、冬馬を知っているのだ。
そして、アレになろうとしている。
どんなものかは解らないが、冬馬が作っている、アレに…。

「オレのがそんなに良かったなら、あの男との用事が終わったら、もう一度どうだ?」
返事の代わりに、黒羽は男の身体をまさぐった。
もちろん用が済めば永久に会うつもりはない。
それに、本当に用が済むのなら、永久に会えない可能性もある。
しかし黒羽の愛撫を、大抵の男は勝手に解釈した。
この男も同じだった。狭いシャワー室で、もう一度のしかかってくる。
さすがに黒羽は今度は押しとどめた。
「ダメだよ。時間がない」
「ああ…うーん」
男は残念そうな表情を浮かべたが、現実問題に思いあたったようだった。
「仕方ない。今じゃなくてもいいか」
黒羽は唇を舐めて、男の股間に指を滑らせた。
「かわりに、手でしてあげるから…」
男は、ひどく嬉しそうだった。

勃起しなくなったら男としてはお終いだ、と考える類いの男はいる。
きっとこの男は、それが過剰なのだろう。
それしか持っていないから。
「若さ」と「男」にしがみついて、執着して、無くしてしまうことを死ぬほど怖れている。
冬馬涼一は、そういった『隙間』を突き刺すのが、恐ろしく得意だった。
誰でも持っている、ほんの少しの希望、執着、望み、欲望。
そういったものを何百倍にも膨らませて、夢を見させて、相手を操る。
人は、きっといつか望みが叶うと思いこみ、彼に使われ、利用されて捨てられるのだ。

この男も、自分と同じだ。
同情など爪の先ほども感じない。
火の中に好んで飛び込む羽虫は、そうするしか無いから飛び込むのだ。
愚鈍なのでも哀れでもない。
火と出会ってしまったら、羽虫は飛び込むしか道がない。
ただ…それだけだった。

「これから、すぐに会うのか?」
「ああ……」
「どうして…僕のことを知った?」
「冬馬に、教えてもらったんだよ」
黒羽は眼を細める。
「冬馬が、僕のことを?」
「ああ…。自分の代わりに、可愛がってくれってさ」

自分の代わりに可愛がれと。
そう言って、ロープを渡したのか?
黒羽の中に、どろりとした殺意が湧き上がった。

 

 

スカイは他の地域から、まるで線でも引かれているように、キッパリと区別されていた。
砂城市のまわりには、ぐるりと一定の広さを持つ空き地が広がっている。
それは人々が、かつての忌まわしい出来事を、けっして忘れていない証拠だった。
その空き地の境界線ギリギリに建てられた、今は見捨てられた廃ビルに、銃声が2発響く。

目の前で、男の身体がくるりと回転した。
口から大量の血液が、赤黒く噴き出す。
冬馬が放った銃弾は、一発で男の額を貫いたが、容赦なく続けて2発目が放たれた。
銃で狙うときは2発ずつ撃つ。
コンバットシューティングの基本を、冬馬は忘れていなかった。
男は即死だった。
彼はもう、時が過ぎていくのを心配する必要はなくなった。

黒羽は男の死体を一瞥もしなかった。
暗闇に佇む背の高い男の姿を、ただ見つめていた。

「冬馬!」
多分叫んだのだと思う。
だが、そう思っただけなのかもしれなかった。
唇は動いたが、声が出たのかどうかは疑惑わしかった。
全身が泡立ち、背中に冷たい汗が流れる。
冬馬、冬馬、冬馬。
いた。やっと会えた。
ずっと信じていた。
絶対に生きていると。
そうだ、死ぬはずはない。僕が殺すのだから。
いいや、もう死んでいるその身体を、僕が壊す。

うまく動かない左手を、震えながら握りしめ、ベッドの中で僕が決めた。
次に会ったら、彼を撃つ……。


しかし、こうやって実際に彼の顔を見ると、夢のようにも思われた。
これは本当に夢ではないのか。
あまりにもあの男の事を追いかけて、思いつめたあげく、自分は幻を見ているのではないだろうか。

しかし、幻に人は殺せない。
夜が明ける前の薄暗がりの中で、男は口を開いた。

「やあ、コウ」

無意識に唇を噛みしめる。
綺麗な声。
人を殺したすぐ後に、朝の挨拶をするかのように屈託なく名前を呼ぶ男。
「どうだった? コウ。その男は。アレがでかかっただろ?」
冬馬は口を開けて陽気に笑った。
何年も時が経ったのが嘘のように、彼は鮮やかに笑った。
「こいつはな、ナニだけが自慢だったんだよ」
あざける声が虚ろに響く。
「テクニックも何もあったもんじゃない。突っ込んで、出し入れするだけだ。でもでかいだろ? だからコウを可愛がってやってくれって言ったんだ。味はどうだった? 気に入ったか、コウ」

「冬馬…」
軋むような声が、黒羽の唇から、やっと漏れ出てきた。
冬馬は嗤いながら首を傾げる。
黒羽の手には、ナイフが握られていた。
上には銃が持ってこられない。だからナイフを忍ばせてきた。
冬馬は銃を持っている。腕も衰えていなかった。あれで狙われたら逃れるのは難しい。
だが、それならそれでよかった。
僕が冬馬を殺しても、冬馬が僕を殺しても、どちらも僕が望む結末なのだから。
冬馬はチラリと、黒羽の手の中に光るナイフを見て、それから大袈裟に肩をすくめた。

「しょうがないな。こいつはオレのコウを愉しませることも出来なかったのか? せっかくコウの感じるところまで全部教えてやったのに」
ゲラゲラと冬馬は嗤う。
「楽しそうだな、冬馬。望みが、かなったからか?」
黒羽の言葉に、冬馬はピタリと笑うのをやめた。
笑っている間も、冬馬は一瞬たりとも気を抜いたりはしなかった。
「ああ、そうだな。お前の望みはなんだ? コウ。あるならオレが叶えてやるよ。何でも叶えてやる。魔法のランプみたいに3つ限りなんてしけたことは言わない。あるだけ望みも欲望も、叶えてやるよ、言ってごらん」
「僕に……何か望みが残っていると思うのか?」
「じゃあ欲望は? オレとセックスしたくないか?」

黒羽は飛び出した。
その一瞬の動きは、誰の目にも捉えることは出来なかっただろう。
手の内を知りつくしている冬馬でさえ、黒羽の速さにはついてこられなかった。
空気を裂く鋭い音。
軽い手応えと共に、ネクタイがちぎれて空を飛ぶ。
身体の真ん中を狙ったのだが、ほんの少し距離が足りなかったらしい。
黒羽の身体は無意識のうちに失敗を修正していた。
体重をかける脚を替えて逆の手を前へと突き出す。
ナイフは魔法のように、突き出された手の中へと移動していた。
冬馬の瞳が驚いたように見開かれる。
黒羽の右の手を、冬馬は避けることが出来なかった。
ぶつりと、弾力ある手応え。

しかしそれはほんの一瞬だった。
熱した鉄を押しつけられたような痛みと痺れが右腕を貫く。
痛みと衝撃で、黒羽はよろめいた。
その隙に、冬馬は誰かに引きずられるように建物の影へと後退した。
「……っ」
腕からは熱く血液が溢れ出していた。
顔を上げると影の中に、冬馬の他にもう一人男が立っていた。
闇に溶け込んで顔は判然としないが、男が持つ銃の先からは薄く煙が立ちのぼっている。
冬馬の眷属に撃たれたのだ。しかし痺れるような熱さはあっても、痛みはまったく感じなかった。
それともこの熱さが痛みなのだろうか。
男の気配さえ感じ取れず、銃の動作音どころか銃声すら耳に入ってこなかった。

自分がどれだけ冬馬しか見ていなかったか。
黒羽は唇だけで薄く笑った。

冬馬以外の誰かに殺される予定はない。
あの男が邪魔をするなら、まず彼から取り除かなくては。
他に誰がいる? 何人いる?
どう動けば、効率よく邪魔者を殺せる?

黒羽の意識はクリアーに研ぎ澄まされ、身体から冷たい殺気が立ちのぼった。

「いい子だ、コウ」
冬馬の瞳は暗闇の中でギラギラと光っていた。
「オレが教えたことを忘れていないな。ナイフは投げるな。逆手に持つな。首や目などの小さな部分より、確実にしとめられる胴体を狙え。全部オレが教えた。基本通りだ。お前はホントに優秀な生徒だよ。でもな、ダメだコウ。オレはナイフでは殺せない」

黒羽は眼を細めて、冬馬の言葉を聞いた。
ナイフは確かに冬馬の身体にめり込んだ。刃先だけかもしれないが、それでも、ある程度は深く彼を傷つけたはずだった。
にもかかわらず、冬馬の肌からは、生きているようには血液は流れ出さなかった。
「……おまえは、何になった?」
黒羽は呟いて、動物のように首を傾ける。
「オレを追いかけているんだってな、コウ。嬉しいよ」
「そして、何をしている?」
冬馬はその問いには答えなかった。
黒羽は無意識のうちに、冬馬と自分の距離を測り始めていた。



「撃ちますよ」
冬馬の隣に立つ男が、再び銃を構える。
「彼は危険だ」
しかし冬馬は首を横に振った。
「なぜです?」
「あれはオレの玩具なんだ。できるだけ綺麗なまま、とっておきたい。それにホラ」
冬馬はクスクス笑った。
「おまえは勝てないよ、沢木。銃を持っていてもな。今、最高に綺麗だろう? オレのコウは」
冬馬は楽しそうに、瞳に危険な光を湛えながら呟いた。

「余計なことを一切考えていない。単純シンプル透明クリアで機能的。コウはあんな風に、誰かを狙っている瞬間が一番綺麗なのさ。
あいつは今、怒ってもいないし感情的にもなってない。ただ冷静に、おまえを取り除くことだけを考えている」
沢木は眉をひそめた。
「もうあいつは、殺す手順しか考えてないよ。プロフェッショナルに、腕に覚えがある程度の素人が勝てると思うか? やめておいた方が無難だな」
「あなたが彼を、そう造ったんでしょう?」
「そう、オレの傑作」
「そんな危険な玩具を、野放しにしておかれたら困ります」
「だからさあ、今日連れて行けるかと思ってたんだよ。だってコウ、オレを追っているんだぞ。可愛いじゃないか。多少暴れたとしても、押し倒してキスしたら拒まないと思うな」
「本気ですか?」
冬馬は頷きかけたが、黒羽の足先がじわりと動いたのを感じて、口元を引き締めた。

「だけどまずったな。オレ一人の方が良かったかもしれない。おまえが出てきたら、いきなり戦闘モードに入られちゃったよ」
「先ほどのやり取りは、違うんですか?」
「違う。確かに速かったから遅れはとったが、感情にまかせて芸もなく突進してきただけだ。そういう時のコウは隙だらけさ」
冬馬は黒羽の瞳を正面から見返した。
「コウ」
黒羽は何も応えず、ただ冬馬を見つめる。
「コウ、返事をしてくれないのか?」
喋りながら冬馬は、沢木に逃げるように合図した。
「……冬馬さま?」
「いいから。相手が複数の時は、弱い奴から倒していくのがセオリーなんだよ。おまえが今死んだら、色々と困る」

黒羽の瞳は瞬くこともなく、冬馬と沢木を見据えていた。
感情を映さないガラスのような瞳。
なのに殺意だけは肌を刺すように伝わってくる。
沢木の背中に冷たい汗が流れた。
黒羽 高。
この男は嫌いだった。
そして今は恐ろしかった。
できるなら引き金を絞って、残りの銃弾を全部この男の身体に撃ち込んでしまいたい。
しかし……。
それは単なる生理的な反応だった。
腹の底に溜まっていくような恐怖が、防衛本能を刺激する。
冬馬涼一も化け物だが、黒羽 高にも同じ匂いがした。


暗がりにいた男が、ゆっくりと下がっていく。
しかし黒羽はチラリとも視線を揺らがせなかった。
見えなくなっても、音で動きが追える。
逃げるのか、それともこちらの死角に回り込むつもりか。
辺りの気配を探ったが、どうやら冬馬とその男の二人しか、ここにはいないようだった。
ならば、あの男を排除するだけでいい。
しかし男は、この場から離れていくようだった。
「コウ」
再び冬馬が呼びかけてきた。こちらの注意をもう一人の男から逸らすつもりなのだろう。黒羽は答えるつもりはなかった。
にもかかわらず、次の言葉を無視することは、どうしてもできなかった。

「コウ、愛してるよ」

「……嘘だ」
黒羽の唇から、唸りに近い掠れ声が小さく漏れ出る。
冬馬はほんの少し、ホッと息を緩めた。黒羽は唇を噛む。
「信じないならいいさ。でもコウの方はオレを愛してるだろ? それは間違いじゃないだろ?」
冬馬は少しの間答えを待ったが、再び沈黙が辺りを支配した。冬馬は軽く肩をすくめる。
「せっかく逢えたのに黙りか? おまえが追ってきてると聞いて、オレは嬉しかったのにな。コウはオレの事が好きなんだって」
「……今日は、おまえが仕組んだのか?」
「ああ。久しぶりにコウの顔が見たくてさ。怖い顔をするなよ。何年も放っておいたから怒っているのか?」
「…次に、おまえに会えたら、お終いにしようと思っていた」
「オレを殺すって言いたいのか?」
黒羽は頷く。
「でもおまえはナイフでは殺せないんだろう?」
「そうだよ、コウ、どうするつもりだ?」
黒羽は、白い歯を見せた。

「おまえは、嘘つきだ」


黒羽の身体が弾丸のように飛び出す。
三本のナイフが冬馬の身体に向かって正確に投げられた。
これで傷つくとは思っていない。煙幕代わりだ。
冬馬がナイフを払いのける瞬間の1秒。
その1秒があれば、この手に握る大型のナイフを、胸の奥深くまで突き立てることができるだろう。

しかし、冬馬はナイフを払わなかった。
腕を伸ばし、拳銃の引き金を二回引いた。
黒羽が投げた小型のナイフは、三本とも綺麗に冬馬の身体に突き刺さった。
彼の右腕と、胸のすぐ下と、それから頬に。
奇妙なオブジェのように、身体にナイフを突き刺したまま冬馬は嗤い、もう一度銃の引き金を黒羽に向けて引き絞った。
夜が明け始めた廃ビルの中に、銃声が重く響く。

「困ったな、コウ。新品のスーツに穴があいただろう? 今日コウに会うから新調してきたんだぜ」
頬にナイフを突き立てたまま、平然と笑う冬馬は、もう人間ではなかった。
たいして黒羽は、苦痛のうめき声を上げながら、地面に転がる。
冬馬の放った銃弾は、黒羽の左腕と両脚を綺麗に貫通していた。
「まあいいや。このナイフもおまえの愛の証なんだから。オレも三発返した。おあいこだ。おまえは痛いだろうけど、それは仕方ないな」
黒羽は完全に地に伏していたが、冬馬は気を緩めなかった。

「おまえを抱いてやりたいけど、今は無理そうだな。両手両脚を撃たれていても、近寄ったら噛まれそうだ」
冬馬は、ゆっくりと闇の中に下がっていく。
黒羽は苦痛に唸りながら、それでも頭を上げた。
「…とう…ま……」
「また会えるさ。オレが望む時に。コウはおとなしく待っているんだ。そうすれば、迎えに来てあげるよ。
待ちきれないなら、追いかけてきても、もちろんいいぞ。恋は駆け引きって言うからな。おまえが追う。オレが逃げる。楽しいゲームだ。まあ、その手足じゃ、しばらくは無理だろうけど。
でも約束だ。次は二人っきりで会おうな」

愛しているよ、コウ……

冬馬が去っていく。
闇に紛れて、ほんの一瞬、彼の最後の声が聞こえた。
「……嘘だ」
口の中の泥が、じゃりっと嫌な音をたてる。

 

 

失敗した。
殺せなかった。
冬馬の用意した舞台で、冬馬がセッティングした環境で勝負を仕掛けて、彼に勝てる筈はなかった。
解っていたのに。
冬馬に会えるチャンスを逃したくなくて、解っていながらここに来た。
そして、初めから決まっていたかのように、失敗をした。
自分と同じ様な格好で地に転がる、名前も知らない男の死体を見つめる。
初めて黒羽は、彼を気の毒だと思った。
自分と同類なのだと考えていた時は、同情など微塵も感じなかったのに。
でも、彼は違う。
騙された方が悪いなんて言葉は、最低だ。
だから彼は僕とは違う。
彼は騙された被害者なんだ。

僕は、ずっと冬馬の眷属だった。
加害者の側だった。
今だってそうだ。
彼は僕のせいで死んだ。
冬馬を殺したいと願ったのは何故だ?
追い続けているのは何故だ?
けっして罪の意識からではない。贖罪のつもりもない。
僕はもっと最低だから。

僕が冬馬を殺そうと思っている間中、彼の意識は全部僕に向けられていた。
全神経を集中させて、僕を見ていた。
あんなに真剣に、僕しか目に入らないくらい真剣に。

黒羽は地面に突っ伏しながら、クスクスと笑い始める。
それに悦びを感じなかったか?
そうして欲しかったんじゃないのか?

涼一。
ずっと、あんな風に見て欲しかったよ。
あんたはいつでも片手間に僕を操っていたな。
僕はそれでもいいと思っていたが、本当は自分は、自分で思うより、ずっとずっと貪欲な男だったのだ。
愛しているなんて、嘘だ。
冬馬は嘘しか言わない。
愛が何なのかも、僕はとうに見失った。

だから、愛じゃなくてもいい。
片手間でなく、まっすぐに本気で、僕を見てくれる存在が欲しかったのだ。

何故冬馬を殺したいのだろう。
何も考えずに彼の影を追いながら、それでも何度も疑問は過ぎった。
彼を殺して、自分のものにしたいのか?
違う。殺しても、彼は自分のものにはならない。
彼の所に行っても、同じだ。
そんなことは、あの炎の中でも解っていた。

ならばどうしてこれほど、僕は彼を殺そうとしているのか。

ほんの少し、解った気がした。
本気で殺そうとしなければ、彼に本気で殺してもらえないからだ。
彼の手元でぬるい夢を見ることに、もう僕は耐えられない。
命を狙っている間、冬馬は僕だけを見つめる。
僕のことしか考えられなくなる。
ほんの少しでも意識を逸らしたら、お終いだよ、冬馬。

……これは愛なのだろうか。それとも単なる執着か。

どちらも同じものだった。
なぜなら、僕には区別がつかないのだから。



追わなくてはならない。
今までは、あてもなく情報を集めていただけだった。
しかし、会うことができた。
具体的に、僕は僕の行く道を見ることができたのだ。
だから、今度はアンダーで。
銃が使える環境で彼に会うのだ。
今度こそ殺すために。
そうでなければ、殺されるために。

黒羽は立ちあがろうともがいた。
火のような痛みが、腕と脚を支配している。
だが、痛みは悪くなかった。
苦痛は常に、黒羽の望むものだった。
もともと自分は、かなり痛みに鈍感らしい。
辺りの瓦礫にしがみつきながら、何とか立ちあがる。
立ちあがれたなら、帰れるはずだった。
廃ビルの中にも、曙光が射し始める。
地下からほとんど出たことのない黒羽に、地平から光が昇ってくる光景は、ひどく不思議なものに感じられた。

眩しい。
地上ではこんな風に、突き刺すように、光とはあるものなのだ。
「帰らなくては……」
夜が明けきる前に、地下に、自分の属する世界に戻らなくてはならない。


しかし、どう言い訳すればいいだろう。
冬馬に会ったら、殺すか殺されるか。二つの選択肢しかなかった。
失敗することは考えていなかった。
だから、今日出勤するつもりもなかったのに…。
もちろん当分、仕事はできそうにない。

頭の中で言い訳を考えながら、あまりのバカバカしさに、黒羽は嗤った。
日常に戻るのは、何と面倒くさいのだろう。
生き残ってしまうとは、何とみっともない事だろう。

朝陽に背を向けて、黒羽はよろめきながら歩き出した。

END