Lost Wing 翼−喪失



 荒い息を吐きながら、長い間抱き合って深く口づける。
「香澄……」
ため息をつきながら、ようやく黒羽がキツイ抱擁をほどいた。
潤んだ瞳で白鳥を見上げ、はっきりと口にする。

「香澄、好きだよ」
火照った白鳥の顔に、更に朱が散った。
「オ…オレも好きだよ、コウ」
「気持ちいい…」
黒羽はうっとりと瞳を閉じると白鳥の肌に顔を寄せる。
「うん…、オレも。終わった後も、まだ気持ちいいよな。こんなセックス、コウとだけだ」
「…でも、ごめん、香澄」
「えっ? 何が?」
甘い息と共になされた謝罪に、白鳥は驚いて腕の中を見つめた。

「君の背中、絶対、跡がついてる」
「あっ、なーんだ。そのことか。ああビックリした。突然謝るから何かと思ったよ。えーっと、」
白鳥はボリボリと頭を掻いた。
「い…いいんじゃない? だってああいうのって、コウがその…イッた証拠だろ? オレにイカされたんなら、そりゃもう嬉しいって言うか何て言うか」
「でも…痛くないか?」
「痛いけど。でもほら、背中に爪で掻き傷って色っぽいじゃん」
「そうか…?」
「あ、そうそう。コウの背中にも瑕あるよな。だから、おそろい?」
白鳥は笑いながら黒羽の背中に腕を回し、白い肌に指を這わせた。
「…って、全然違うか〜。だってコウのは…」
言いかけて首を捻る。
「ん?」
「どうした、香澄」
「いやあ……気のせいかな」
「何が?」
「いや…何というか。えーと…」

コウの背中の傷。結構大きかったよな。
白鳥は指で傷跡をたどりながら感触を確かめる。
背中に2カ所。引きつれたような傷跡。
見ようによっては、背中に生えた翼をもぎ取った跡のようにも思える、ホテルレオニスの火災でつけた傷。
長い間臥せってて、やっと癒ったんだって聞いた。

指がたどるその跡は、前より滑らかになったような気がした。
指先がすごく敏感だって訳ではないし、気のせいかもしれない。
でも、セックスのたびに触っているから。前と感触が違うような気もする。
さっき抱いてる最中も、こうだったっけ?
「傷、薄くなってる? もしかして」
「背中は見えないから、僕には解らないな」
「ん〜…やっぱり滑らかになっているような気がするなあ。癒ってきたとか? こんな跡が残るような傷でも、時間が経つと薄くなるのかなあ?」

ハードな仕事をしている割に、黒羽の身体には驚くほど傷痕がなかった。
白くて滑らかな手触り。
だからこそ、背中の傷が印象深く白鳥の心と指先に残る。
「まあいいんだけどね。癒ってきたならそっちの方がいいし。せっかくコウの身体、綺麗なんだから。でもさ…」
白鳥は少しだけためらってから続けた。
「オレは、この瑕好きなんだよな」
「好き…? どうして」
黒羽の瞳が見開かれる。
「だってさ、これオレを助けてくれたあの時につけた瑕だろ?」
「ああ、そう…だが」

「だからさ…オレと逢ったんだなって。その印みたいで」

白鳥の言葉が黒羽に与えたのは、ある種の衝撃と、畏怖だった。
瞳を見開いたまま身体を震わせる。
表面に出たのはそれだけの変化だったが、黒羽の心の中には嵐のようなものが吹き荒れていた。

この傷は、僕の自責の念、そのままだ。
黒羽は思う。
あの火事で、いやもっと前から僕は間違いを犯した。
何人も殺し、罪に口をつぐみ、誰にも言えず謝罪も出来無いまま生き残った。
だから、傷は消えてはいけない。醜く身体に残っているべきなのだ。
それが罰なのだと。
なのに香澄。君は好きだというのか。
君と僕が出逢った、その印だと?

この傷は僕を罰するために残っているのか。
それとも今、香澄に好きだと言われるために残っていたのか。

黒羽はひどく混乱していた。
しかし同時に、恐ろしいほど嬉しかった。
香澄はいつでも、僕の価値観を変える。
僕が当り前だと思っていた暗闇をひっくり返し、同じ場所に違う光を当ててくれる。
それは時に、僕には眩しすぎる光だけれど。
でも、嬉しかった。

この傷は僕の失敗の印、僕の罪の象徴なのかも知れない。
だが同時に、香澄と出会った印なのだ。

黒羽の心に沈む、深く濁った澱。
嵐は恐ろしいけれど、その強い風は澱をかき混ぜ、垂れ込めた雲を遠くへと吹き散らす。
雲は再び心を覆うだろうけど。
それでも一瞬だけ、深い蒼穹と安らぎの光が見えるだろう。
それは涙が出るほど愛おしい。

香澄…。君は世界を作り直す。
新しい価値を、僕にくれる…。




「あー、でもほら。もちろん傷がこのまま残って欲しい、と思っているわけじゃないよ。もし癒って消えるならそっちのほうがいいに決まってるし」
黒羽の変化に気づくことなく、白鳥は陽気に続けた。
「ただオレは、この瑕も好きだって。それだけ」
「この傷は…癒ってもいいのかな」
「えっ? 何の話? 癒るのにいいとか悪いとかあるのか?」
黒羽は静かに首を横に振った。
「いや…ただ。香澄はどう思う?」
「どうって、その。もし癒るんなら、そりゃー癒った方がいいだろ?」
「そうか…」
「傷があってもなくてもいいよ」
「どっちでも香澄はかまわないか」
白鳥は頷いた。
「ああ、だってどっちも同じコウだろ?」

黒羽はクスリと笑って目を閉じた。
「香澄は…すごいな」
「は? 何が? どこが?」
「傷があることに、そんな大きな意味はないんだな」
僕は勝手にそれを罰だと思い、香澄は2人が逢った印だと思う。
罰ではないのなら、僕のこだわりはひどくバカバカしい。


心のどこかがほどけていく。
そう感じた瞬間、香澄が欲しくなった。
さっきまでの、何かが恐くてしがみつかなくてはいられない、そんな焦燥感に満ちた欲望とは違う。
ただ、彼に満たして欲しかった。
何度も抱き合ったから、身体が訴えるひりつくような性欲は、とっくに消えている。
だとしたら、自分が欲しいものは何なのだろう。

よく解らなかった。
解らないから、いつものようにしかできなかった。
黒羽は抱き合ったまま、彼の脚の間を名残惜しそうにまさぐる。
「香澄、もう、勃たない?」
「えっ? えええ? じ、時間が必要かなあ」
白鳥は少し顔を赤くして、困ったような声を出した。
「オヤジじゃないこと証明するとか言ったけど。ベッドでも何度か抱き合って、更にバスルームで…だしな〜。いくら若くても、オレ、そんなに絶倫ってわけでもないし…。ま、まあでも少し時間が経てば、ほら」
言い分けがましいことをべらべら喋る白鳥に、黒羽は少し含羞んだ顔で囁いた。
「だったら、もう一度ベッドに行かないか? 少しでも勃ったら、欲しい。
激しくセックスしなくていいんだ。ただ、香澄を感じたいんだ。
入れて、あまり動かずに、そのまま交わっているっていうのは、どうかな?」
白鳥の咽がかすかに鳴る。

「えっ…あー。そうだね。そういうのも、なんかいいな」
「いいか?」
黒羽の口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「うん。さっきまで激しかったし。ガツガツするのもいいけど。それは何度もしちゃったし。えーと…。コウの中に入れたまんま?」
「ん…」
「動いてもいいし、ただ感じているだけでもいい?」
「ああ……」
白鳥は少し眩しそうに、黒羽の顔を見つめた。

不思議だな、と思う。
背中の瑕と一緒に、コウの気持ちも滑らかになってるみたいだ。
一時的なものかもしれないけど、でも、何となく嬉しい。
だって、そんなセックス、恋人としか出来無い。
コウがそれを望んでいる。
まあ無意識なんだろうけど。
でも、身体で愛を語って欲しいって。そういうことだろう?
コウがこんなにはっきりと、自分のしたいことを言うのは珍しかった。
身体はもう満足しているのに、それでも抱き合いたい。
コウの心はまだよく解らないようだけど。
身体はちゃんと、愛を求めている。
だったらオレ、少しは出来てるのかな。

言葉が怖いなら、身体で愛を語ろう。
オレとセックスすることは愛しあうことなんだって、そんな風に抱くんだ。
いつかコウが、愛が怖くなくなるように。

そう思っていたけれど。
オレの身体、ちゃんとコウに愛してるって言えてる?
コウに通じているんだろうか。
もしそうなら、ホントにホントに嬉しい。


「香澄?」
黒羽が訝しそうな顔で、白鳥の瞳をのぞき込んだ。
抱き合う前は、どこか不安定な色を浮かべていた黒羽の瞳。
それはずいぶんと落ち着いて、柔らかくなっている。
衝動的に白鳥は、聞きにくかった質問を口に出していた。

「コウ、オレとセックスするの、好き?」
「ああ」
驚いた事に即答される。
セックスに対して、ある種の嫌悪感を持っていたコウが…。
もっとも一度、ホテルレオニスの、あの廃墟の屋上で言われている。
香澄とセックスするのが好きだって。
しかしあの時は、それを恐れていた。
オレが本当に欲しくなるのが怖いと、そんな風に思っていた。
なのに今、こんなに穏やかに、普通に言えるのか。
じゃあ…本当に、通じてる?

白鳥は黒羽を抱きしめた。
「なに?」
愛してるよ…コウ。
頭の中だけで、愛の言葉をささやく。
声に出すのは、まだ早いからだ。

でも、通じてる。
コウの身体がそう言ってる。

もう一度、愛しい背中の傷跡を指でたどった。
背中に生えた翼をもぎ取られた跡のようにも見える、大きくひきつれた瑕。

いらないよ、コウ。
2人が出逢った印なんて、もういらない。
だって今は、オレたち愛しあっているんだから。

もちろん瑕に、大きな意味なんかない。
でも、もしそのうち本当にこれが消えるなら。
翼は、もういらないって事なんだ。
オレと一緒に、歩いて行けばいいんだから…。


「明日も仕事だから、朝はちょっと辛いかもしれないけど。でも、朝までずっと
2人でベッドにいようか」
白鳥の言葉に、黒羽はゆっくりと目を閉じ、柔らかく頷く。
「ああ、身体…離れたくない」

今度のその言葉は、白鳥の耳には「愛してる」と響いた。

END