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正義の味方incident14 前編

incident14 闇の胎動−予兆−


キスをする。長いキス。
あまり深くは口づけないで、そのかわり何度も角度を変えて、唇をあわせる。
挨拶と愛撫の間。
コウの息が湿ってきて、オレの身体はほんの少し疼いた。


「コウ、キスしてよ」
何やら紙袋を抱えて部屋に入ってきた黒羽に、白鳥は唐突にそう言った。
黒羽は一瞬目を見開いたが、すぐに白鳥を抱きしめ、唇を寄せた。

普段だったら、『キスしよう』と言うだろう。
自分のほうから抱きついて、唇を押しつけるに違いない。
しかし白鳥は今、妙に緊張していた。ストレスと言うほどのものではないが、心臓の鼓動は早くなり、そわそわと落ち着かない。
原因はわかっていた。
映画祭が始まる。『第二十回 KISHIMA記念映画祭』
ここ十年の間で一番大きな、砂城市をあげての催しだ。
特にこの西地区では、オープニングセレモニーが開催されることになっていた。
砂城西署からも、たくさんの警察官が会場の警備に駆り出される。
白鳥の所属する捜査一係強行特殊班も、警備の一端に加わることになっていた。

その特殊班の指揮をオレがとる。

解っていたはずだった。覚悟も決めた。
別に大きな事件の陣頭指揮をとるわけじゃない。
いつもの手伝いだ。特殊班は捜査課の中にありながら、一種のなんでも屋だから。手が空いているならどこの手伝いでもする。
今回は特に、猫の手も借りたいくらい人員が必要だ。
だから警備の一部に加わるだけ。
それだけ。それだけだ。
オレはただ、滞りないように班の皆の動きを把握していれば、それでいい。

しかしどう言い聞かせても、白鳥の心はざわついた。
いつも通りに、なんてそんな事出来そうもない。
せめてほんの少し勇気が欲しかった。
恋人からのキスで勇気づけられるとか、ベタベタすぎて恥ずかしいけど。
しかしそれでも、黒羽の顔を見た瞬間、ねだるような言葉が出てしまった。

柔らかい唇。
長い睫毛。綺麗な顔。
吐息と体温に、かすかに欲情する。
怖れに近い緊張感が、少しだけほどけた。

コウ、好きだよ。

言葉には出さなかったのに、黒羽は一瞬唇を離して、小さく呟いた。
「香澄……好きだよ」
白鳥はドキリとして目を開いたが、黒羽は瞼を伏せて、ただ唇の感触だけを感じていた。

好きだと、最近やっと言ってもらえるようになった。
セックスの最中、流れに任せてじゃなくて、ちゃんと意識して。
それは嬉しくてたまらないことだったけれど。
同時に、どこか不安だった。
嘘をついているとか、そういう事ではない。
誰かを好きだということに関して嘘をつくことを、黒羽は嫌悪していたから。
ただ……。
「好き」と呟く黒羽は、時に妙に不安定だった。

好きだってお互い言い合ったら、それはちゃんと恋人同士になったって事だよな。
白鳥は自分に言い聞かせるように思う。
ちゃんと恋人になれたら、気分とか関係とか、普通は前より落ち着くんじゃないかと思うんだけど。
でもコウは、どちらかというと前より焦ったような、貪欲な感じでオレを求めてくるようになった。
まるで今すぐに撫でてもらわないと、オレがどこかにいってしまうとでも思っている、捨てられそうな犬みたいに…。
オレは心の中で、思いっきり首を横に振った。
コウは未来を考えることが怖いんだって事は知ってる。
でもコウ、オレはずっとそばにいる。
コウが逃げようとした時も、追いかけて抱きしめて、そしてオレに縛り付けた。
それくらいオレはコウを離したくないんだから、いつかオレの方が離れていくなんて、そんな不安をコウが持つ必要はないんだ。
今だって抱きしめてキスをしてる。
絶対に、どこにもコウをやらない。

「香澄…好き」
再びかすかに呟かれる言葉。
「うん」
白鳥は情熱的に頷いた。
「オレも好きだよ」
オレが好きだよ。心の中で少しだけ訂正する。
オレがコウを好きなんだ。最初からそうだ。コウは最初は、オレの事なんて覚えていなかった。
だから…『オレも』って言えるのが、実は嬉しい。
やっと好きになってくれたって事だから。コウがそう言ってくれた証だから。
「うん、オレも、コウ…。オレも、好き…」
「大丈夫、香澄なら」
「……えっ?」
「僕が…護るから」
「コウ」
唇を離したら、澄んだ水みたいな瞳がこちらを見ていた。
「えーと、コウ?」
そういえば、ずいぶん前にも同じ事を言われた気がする。

『香澄は、僕が護りますよ』
『パートナーなんだから、僕が香澄を守るのは当然でしょう?』

あれは、オレがジャンクに襲われて、ケガして入院して。
復帰した職場で最初に言われた言葉だった。
コウは気にしていたんだと思う。オレを守りきれなかったことを。
昔、大切な人を護ることが出来なかった。その事がずっとコウの中で負い目になっている。
オレの怪我は、その思いを増幅させたんじゃないだろうか。
だからコウは、余計にオレを護りたがるのだ。
まるでそれが、自分に科せられた重大任務ででもあるように。
オレは小さく息を吐いた。
うん、そうだね。コウ。
前に、護りますよって言われたときには、即座に反発した。
もう子供じゃないんだから、立派な男なんだから、誰かに護ってもらう必要なんてないって。
一人前として見てもらえてないんじゃないかって。オレの中のコンプレックスが、そう反発させたのだ。

でも今は、ほんの少しだけ違う。
桜庭さんに最初に言われた言葉がよみがえる。

『あの子には、護ってくれる人がいないし、護るべき人もいない』

そう。
オレ達の仕事は、そういう世界にある。
女の子や子供みたいに、ただ保護して護ってもらうって事じゃない。
オレ達は、たとえどれだけ強くても、それでもお互いがお互いを護りあわなければいけないんだ。
一人で立っていられないからじゃない。
出来るだけ長く、立っているためだ。
超人的な力を一瞬出すことより、長期にわたって維持していく力強さが必要だ。
それが日常を守るということ。
オレが選んだ『正義の味方』は、そういう仕事だった。

オレはコウを守れる男になりたい。
そしてコウもオレを護ってくれる。
そういうことだよな?
オレ達はパートナーで、お互いが絶対に必要な存在なんだ。
今だってオレに力が無いから、自分が護ると、コウは言った訳じゃない。
確かにオレは、新しい責任にドキドキして、まだ少し自信はないけれど。
でも、お互いを護りあえるパートナーとして、コウがオレを認めてくれてるんだって。
そういうことだよな、コウ。

もちろんコウは何も言わなかった。
ただ綺麗な目でオレを見ていた。

「オレなら、大丈夫?」
白鳥の呟きに、黒羽は黙って頷いた。
「香澄なら、大丈夫だ」
「わかった」
小さく息を吐き、白鳥は軽く目をつぶる。それから何かを決意したように言葉を発した。
「コウ、オレを護ってくれ」
「香澄…?」
黒羽の瞳が、一瞬見開かれる。

「オレもコウを護るから。だからコウもオレを護ってくれ」

黒羽の瞳に、不思議な光が宿ったのを、白鳥は見なかった。
一瞬の沈黙の後、黒羽はゆっくりと頷く。
「わかった、香澄。かならず」
静かだが力に満ちた言葉が、まるで何かの誓いか神聖な契約のように、黒羽の唇から囁かれた。

「コウ、好きだよ」
黒羽の瞳の光に気付かないまま、白鳥は顔を上げ、二人はもう一度唇をあわせた。

 

 

「ええっ? なに? この蝶ネクタイ」
いきなり目の前に差し出された黒の上下に、白鳥は目を白黒させた。
「何って、タキシード」
「タキシード…どうして? これ着るの? オレが? だってオレたち警備だろ。普通のスーツでいいじゃん。警備だからスーツじゃなくて制服を着ろってのならともかく。どーしてタキシード?」
黒羽は、持参した紙袋の中から、黒服の塊をもう一組掴み上げながら言った。
「映画祭側からの要望だ。香澄だって聞いていただろう?」
「あ…ああ。コウが目立つから芸能人のふりをするってヤツ…。って、えええーっ? それってコウだけじゃなかったの? オレも?」
「僕だけ?」
心外だとでも言いたそうな不満の声を黒羽は漏らした。
「香澄は僕を一人にするつもりか」
「あっ…。いや、えーと…」
白鳥の頬がかすかに赤くなった。

何かそう言われると妖しい気分だよな。
そりゃコウが言ったのは、一人だけタキシード着せて笑いものにする気かって意味なんだろうけど。
でもキスの最中、コウをどこにもやらないって思ったばかりだし。
コウの隣に立つのはオレって、決めているけど。
「いや、その。ひ、一人になんかしないけどさ。でもその〜。いつオレもって決まったわけ? ホントはコウだけでいいんじゃないの?」
白鳥の言葉に、黒羽が鼻に皺を寄せた。
どうやらその辺りは図星だったらしい。
やれやれ、と肩をすくめながら、白鳥香澄は綺麗にプレスされた黒の上着をびらりと広げた。


映画祭の警備に関して、映画祭スタッフも交えての打ち合わせが事前に行われた。
今回の警備は砂城市あげての大がかりなもので、他の署との連携も大切になる。
だからもちろん事前の打ち合わせは何度も行われたわけだが、それとは別に、映画祭側スタッフとの顔合わせみたいな会議があったのだ。
西署の特殊班からは、主任の桜庭さんとリーダーのオレが出席予定だった。
だが桜庭さんの希望により、コウも行くことになった。
コウは部下だけどパートナーだし、何より今までずっとリーダーだったから、話は聞いておいた方がいいに違いない。
それにまあ、どーせオレ達は警備部のお手伝いにすぎないから、隅っこの方にいて、よろしく〜、とか言えばいいや、なんて思っていたんだよな。
でも、もちろんそんなわけにはいかなかった。
当たり前か。コウが行ったんだからな。
映画祭スタッフは、コウを見るなり興奮し始めた。
コウが注目されるのはいつものことな訳だけど。考えてみたら彼らは綺麗な男や女で商売している人たちだ。
ただ見とれるだけの普通の人と違い、目の色が変わってしまうのは無理がなかった。

もっとも当たり前だが、コウは芸能界に興味はない。
一騒ぎはあったが、とりあえずその場は警備に関しての確認と顔合わせということで、いったん落ち着いた。
しかしその後、映画祭側が警備人員としてのコウに難色を示したのだ。
つまり、単純にひと言。

『目立ちすぎる』

もうそれは身にしみているので、ぐうの音も出ない。
もっともでございます、と頷くばかりだ。
しかしただでさえ猫の手も借りたい人手不足の状態なのだ。
更に言えば、目立つことをのぞけば、コウはおそろしく有能だった。
警備から外すことなど考えられない。
そこで出された折衷案が、今目の前にあるタキシードと、そういうわけだった。
確かに、どれだけ普通の警備の服装をしていたって、コウは目立つ。
だったらいっそのことタキシードを着せて、芸能人の端くれな顔をしていた方が自然に見えるというわけだ。
まあそれには賛成だけどさ。
でもオレは関係ないだろ。オレは普通の顔してるんだしさ。
「オレも着るのか〜」
少しばかりため息をつく。
別に芸能人たって超美形ばかりじゃないから、オレが着てたっていいんだけど。
でも絶対、特殊班の連中からはからかわれるに違いない。
コウは黒服も似合うだろうけど、オレが着たら七五三みたいだとか言うんじゃねえの?
そうでなかったら、黒羽さんのマネージャーですか? とかさ。
でも、これってどうやって着るものなの?
結婚式とかにもまだ参加したこと無いし、着たこと無いんですけど。
と心の中で文句を言いながら、それでもオレはよく解らないネクタイを首にまわして不器用に結んだ。

「香澄、ネクタイがおかしい」
あっという間にコウからダメ出しをくらった。
仕方ないじゃん、とオレは膨れたが、くるりと振り向いてオレの頸に手をかけたコウは、おっそろしい程タキシードが似合っていた。
「うへー」
「なに?」
「いや。モデルでもないのに、そこまで正装が似合うってどうだよ。足が長いからか? それとも…」
「香澄だって似合っているよ」
「そうかな? 借り物みたいじゃないか?」
「もともと借り物だろう」
「そういう問題じゃなくて。まあ2人でこの格好してたら、コウが芸能人、オレがマネージャーみたいだし。いい感じでごまかせるかもしれないけどさぁ…」
ぶつぶつ呟くオレのネクタイを長い指で直しながら、コウは口の端で微かに笑った。
「香澄はいつでも格好いいじゃないか」
「えええ?」
「正義の味方なんだろう? 警察は。香澄が最初にそう言った。正義の味方はカッコイイ。服なんか関係ない」
「えーと…。それは最終的にタキシードが似合わないって言ってるのかな?」
「そうだよ」
言うなりコウは頭を下げて、オレの唇をついばんだ。
綺麗で柔らかい唇。
「コウ…」
「タキシードが似合わない香澄の方が、僕は好きだ」
「あ…うん」

さっきさんざんキスしまくったばかりなのに、オレの頬は再び熱くなった。
なんだよオレ。
何度も顔を赤くしちゃってさ。
やっぱり情緒不安定って言うか、緊張しているんだろうか。
でも、妙にコウがストレートなせいだとも思う。
好きだとか、護るとか。正義の味方はカッコイイとか。
言ってることが『たらし』くさいぞ。そんな風にすらすら口が回るタイプじゃないだろ、コウの奴。

そこまで思って、オレは気付いた。
コウは、オレの緊張をほどこうとしているんだろうか。
もう既に、オレを護ってくれてる?
次の瞬間、オレの胸の中に何かが湧き上がってきた。
好きだって気持ち。
コウがホントに好きだって。
うん、コウ。
仕事をしよう。頑張ろう。
正義の味方に、出来るだけ近づけるように。

綺麗な水が、オレの指の先にまで広がっていく。
こんなに小さな事が、オレの中で大きな力に変わる。

「よっし、行くぞ!」
襟を正して、鼻息荒く顔を上げる。黒羽は微笑んだ。
「その調子だ、香澄」
「それにしてもコウは、タキシードとか何度も着てるわけ? ずいぶん手慣れてるけど」
「タキシードだけじゃなくて、テイルコートも何度も着てる」
「テイルコートって? 正装の時に上に着るコートとかあるの?」
「そうじゃなくて。今度調べてみるといい。そんなに着る機会はないだろうけど。…ああ、結婚式なら白いテイルコートを着るかもしれないな」
「結婚式? えーと、どういう服だ?」

考え込む白鳥を、黒羽は適当に誤魔化した。
こんな服を着慣れているのは、かつて冬馬に何度もパーティの類いに引っ張り回されたからだ。
なんだかよく解らない華やかなパーティで、僕は冬馬の綺麗な人形として引き回され、玩具にされた。
パーティの裏の余興で、嬲られたこともある。
自分の持ちものには、常に最高を求めた冬馬。
だから当然、僕も躾けられた。
ベッドの上、パーティ会場。
どんな場所でも、どこに連れ回してもいいように、冬馬は僕を仕込んだ。

忘れてしまいたい。
彼から叩き込まれたすべてを、捨て去ってしまいたい。
何度もそう思ったが、彼の知識は確かに一流で、こんな時には役に立つ。
それに、銃の撃ち方も体術も、もともとは冬馬が師匠なのだ。
もう僕の一部になっているから、捨て去ることは出来ない。
だから……。
彼に教えてもらったすべてを駆使して、彼に立ち向かう。
それは皮肉かもしれないが、確かに一種の復讐でもあるような気がした。


そうだ……。
ゆっくりと手を握る。
左手で撃って、右手で護る。
僕の両手を使って、僕は香澄を守ろう。

かつて世界を失ったと思った時、左手に銃を抱えて、ただ荒野をさまよった。
目的は無かった。
ただ殺すために。ただ死ぬために。ただ彷徨うために。
人殺しに帰る場所はないから。
だから、ただ彷徨うために。
なのに今、香澄が道を指し示す。
僕は君の指す方向に歩いていいのだろうか。
僕にはどこかに帰る資格なんて無いのに、香澄が僕を抱きとめる。
その腕の中に、僕はいていいのか。
腕の暖かさに執着する自分が怖かった。
大切なものが無ければ、喪失に怯えることも無い。
でも、もう無理だ。
すでに僕は怯えている。

だから……香澄を護ろう。
どんな状況でも、香澄の命を、まず最初に考える。

そう決めた瞬間から、僕はそれしか考えられなくなった。
その為には何でもやろう。
僕はいい。僕自身はどうでもいい。
香澄、君さえ守れれば。
もちろん、君に言われたことも忘れてはいない。
『コウがいなくなったんじゃ、意味ないんだからな?』
耳元で、囁かれた言葉。
僕自身を守れと。自分も大切にしろと。
難しい、彼の要求。
でも香澄。香澄が僕に価値があるとそう思ってくれるからこそ、僕は君を
すべてを賭して護らなくてはならない。
でなければ僕自身が、自分にそんな価値があると思えないからだ。
暖かい腕の中に、ほんの少しの間でもいていいのだと、そう思うことが出来ないから。

これが良いことなのか悪い事なのか、自分には解らなかった。
かつて冬馬に盲目的に従っていた頃のように、また自分はなってしまうのかもしれないと思った。
だが確信する。
香澄は冬馬とは違う。
たとえ愚かな僕が同じ轍を踏んだとしても、香澄ならば、違う道を僕に見せてくれるだろう。

だから香澄。
今は君を護ることだけを考える。
目を瞑り、意識を全てその事だけに集中した。

不安定にぶれた心が、フッと一つに重なり、鮮明になる。
静かに、自分の中のスイッチが切り替わっていくのが解る。
彼を護るために神経が研ぎ澄まされ、感覚が鋭敏になっていく。
壁すらも透明になり、空気の流れも、人の体温も、息遣いさえ手に取るように解る気がした。
世界がくっきりと、クリアーになっていく。
この感覚。戦闘時にしか覚醒しない広域知覚。
辺りの空間まで、広く自分の身体であるような、この感覚。

久しぶりに、取り戻した。
盲目的に冬馬を守っているとき、常に持っていた感覚を。
それを冬馬と戦うために使う。
使わなくては勝てないだろう。
僕は冬馬に勝つつもりなど、まったく無かったのだけれど。
だが、香澄が望んでいる。
彼の望みを叶えたかった。

大丈夫、香澄なら。
今日は冬馬と戦うわけじゃない。映画祭のオープニングセレモニーの警備だ。
彼なら十二分にその役目を果たすだろう。
だが、もしもイレギュラーな出来事があった場合…。
その時は、僕が動く。


不吉で、不安な気分が何故かしていた。
これは広域知覚が知らせる高度な予測なのか。
それとも単なる気の迷いか。

オープニングセレモニーの会場が、巨大な鯨のような口を開けて待っていた。
黒羽と白鳥は、そこに呑み込まれるように入っていった。

 

 

無線機を上着の裏にセットする。
タキシードは身体に合うシルエットに本来は出来ているものだが、黒羽と白鳥の服は借り物だったので、多少だぶついていた。
「何とか銃も持てるな。でも小さいのしか無理か。コウ、ショットガンは?」
黒羽は首を横に振った。
「この格好で持ち歩くわけにはいかないから。でも、控え室には置いてきたよ」
「えっ、マジで?」
「香澄のベレッタもそこに置いた。必要になるようなら取りに行く。コンシールド銃(ガン)一丁では、何かあった場合あまりにも心もとないからな」
「ウチのメンバーはちゃんと持ってるんだろ?」
「僕たちは服がこれだから特別だ。他は通常装備をしている」
白鳥はホッと息を吐いた。
「そっか。いや、何かはあって欲しくないけどさ。この装備だと手元が心細くてさ」
黒羽はフッと笑った。
「な、なんだよ」
「いや、砂城の人間の感想だな、と思って」
白鳥はほんの少し膨れた。
「そういう区別はだな〜、オレとしては……」
言いかけたところで、白鳥はフッと口をつぐんで眉を寄せた。

「どうした香澄」
白鳥はセレモニー用の会場入り口付近で立ち止まって、辺りを見回した。
会場準備のために立ち働いているスタッフが、急に立ち止まった白鳥にぶつかりそうになり、舌打ちをして避けていく。
だが白鳥は働いている人たちは目に入れず、ただ建物だけを見つめた。
「ああ、いや。うーん。なんかさ、この建物って変じゃない?」
「変というと?」
「気のせいかな。ここって、映画祭に間に合わせるようにして作った、新設の多目的ホールだよね。変なのはデザインかなあ。新しい建物って、奇抜だからさあ…」
「建築デザインも発注も、外の人たちだそうだ」
黒羽は眼をスッと細めて白鳥を見下ろす。
「あっ、そうなんだ。それで見慣れないだけかな? 見取り図は頭に叩き込んだつもりだったんだけど、実際来てみると印象違うな」
「建物自体が出来上ったのがギリギリだったから。僕たちだけじゃない。警備部も入るのは初めてだろう。しかし香澄…。どんな風に変なんだ?」
「えっ?」
白鳥は少し頭をひねって、うーんと唸った。

「どこがって、えーと。オレが緊張しているせいかもしれないけど。なんとなくその。嫌な感じ」
「嫌な感じ?」
「なんかさあ、不安なんだよな。このまま奥に入っていくのが。見取り図見てる限りでは普通だったと思うんだけど」
「……香澄」
「えっ?」
「君は鋭い」
「何のこと?」
黒羽はまっすぐに白鳥の瞳を見つめ、僅かに声をひそめて言った。
「当たり前だ。多分、砂城の人間だったらかなりの割合で、なんとなく居心地が悪くなるはずだ」
「ホントに? コウも? オレの気のせいじゃなく?」
黒羽は頷いた。
「気付いたか、香澄。ここからセレモニー会場に行くためには、下に降りなくてはならないんだ」
「えっ?」
白鳥は目を見開いた。
「そんなの、見取り図にはなかったけど?」
「そう。見取り図ではすべてが一階にあるように描かれている。実際、扱いとしては一階だ。だが…」
そこで黒羽は再び声をひそめた。

「入り口からホールに向かって、だんだん低くなっている。つまり、セレモニー及びパーティ会場になるメインホールは、すべて半地下にあるんだ」

一瞬ポカンとした後、白鳥は驚愕の表情を浮かべた。

「ち…地下? この砂城で、一番人が集まるホールが、地下にある!?」
どうして、そんな非常識な、と白鳥の瞳は語っていた。
「バカな。砂城で地下室なんてありえないじゃん。許可が下りたなんて信じられない。そりゃ、ここは居住地区だから地層は厚いのかもしれないけど。でも、確実じゃないわけだろう? なのに地下を掘るなんて」
呆然と呟いた後、再び白鳥は恐ろしいことを思いついたように、軋んだ声をあげた。
「だ、だって。でっかいホールだよ。人が大量に集まるんだよ。それこそ千人単位で。もし、もしも……」
黒羽は黙って頷いた。
白鳥が何を思い浮かべたか、黒羽には自らのことのように解った。
彼が初めてジャンクに襲われた場所。そこは居住区に掘られた地下室だったのだ。

黒羽は静かな声で呟いた。
「この企画は、砂城市だけのものではない。外と協力して企画されたビッグプロジェクトの一つなんだ。外の人間は砂城の禁忌を知らない。知っていても、実感はまったく無いだろう。砂城で地下を掘ることがどれだけきわどいことなのか、理解しがたいはずだ」
「でもさ、それでも。一応砂城市だって関わっているわけだろ?」
黒羽は首を横に振った。
「詳しい事情は僕には解らない。しかし実際は半地下な場所が、すべて一階として扱われている事が、何らかの妥協点か、ごまかしじゃないかと、僕は思う」
「妥協点とかそういう問題じゃないじゃん。もっと実際的な…」
「その通りだ。だが上の人間には解らない。砂城市は大分前から閉鎖都市の形から、もう少し開かれた都市に変化したいと画策してきた。その為に様々な施設の誘致や、イベントを企画しているんだ。
今回の映画祭は、その皮切りだ。大量の金や利権が動いているだろう」
「金とか利権の都合を優先させて、安全性は軽視したと、そういうこと?」
「ああ。世間ではよくあることだ。これくらいなら大丈夫だろうと、人は甘い夢を見る」
「…ツケは、誰が払うと思ってるんだろう」

「香澄。どれだけの金が動き、利権の都合があったのだとしても、最終的に砂城市はひどく損をしたと僕は思う。もっとも政治で造られた建築物は、みな損をする事を気にしないようだがな。
このホールは悪い場だと砂城の人間なら感じるはずだ。これから先、多少の利用はあっても、決して盛況にはならないだろう。
だが、とにかくは今だ。この映画祭の期間だけ、とりあえず無事に済めばいいんだ。
確かにこの短い期間だけなら、何も起こらない可能性の方が高い。未来を今から憂えても仕方ない。まずは目の前の今日。今日を守るのが僕たちの仕事だ」
白鳥は、ああ、と低い声で頷いた。
「そうだな。せめて今日、何も起こらないことを祈るよ」



ふうっと息を吐き、うつ向いた白鳥の肩に、黒羽はそっと手を置いた。
「香澄、指揮官は不安を顔に出すな」
「えっ!?」
「どれだけ心に引っかかったことがある時でも、絶対に表に出してはいけない。不安は指揮官のみが検討して考えることだ。無駄に部下の思考を消費させてはならない」
「あ…ああ。解った」
「だが、香澄自身は忘れるな。不安を感じることは大切だ。安全だと思った瞬間に、事は起きるのだから」
淡々と言った後、黒羽はひどく綺麗に笑った。
「大丈夫だよ。僕がいる」

白鳥は一瞬眩しそうに黒羽の顔を見つめたが、次の瞬間、さっと裾を翻してためらうことなく奥へと歩き出した。
黒羽が音もなく、その後ろに付き従う。
白鳥は後ろを見なかった。
だが、大きな安心感がそこにはあった。

コウ……。
こんな時に、コウはオレの先輩なんだって感じる。
格好良くて、強くて綺麗な、オレのコウ。
炎の中からオレを助け出してくれた。正義の味方。

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