「追います」
白鳥香澄は休暇申請書を叩きつけるように桜庭のデスクに置いた。
「あの野郎、許せねえ。いきなり消えて。オレのパートナーのくせに、どっこにもいないんですよ。帰る所なんて無いのに」
「白鳥くん、君ね。黒羽くんも大人なんだから、彼の都合もあるでしょう? ホテルだってあるし、帰る所を君が心配する必要はないよ」
「大人って、あいつのどこが大人? 何も言わないでふいっと消えるのが責任ある大人の態度ですか」
白鳥の剣幕に桜庭は目を丸くした。
「桜庭さんがそんなだからコウが甘ったれちゃうんでしょう? オレは心配なんてしてない。腹立ってるんです。会ったらぶん殴ってやる」
「…そんで、責任ある大人の君は、パートナーがいなくなった穴を埋めるんじゃなく、君までいなくなって仕事に更に大きな穴を開けようと言う訳?」
「うっ…」
桜庭の意地悪な物言いに、白鳥は思わず詰まる。

ちらりと白鳥を見上げると、桜庭は書類を突き返した。
「よって長期休暇は許可できません。ただし…」
そこまで言ってニヤリと笑う。
「白鳥くんが黒羽くんをぶん殴る事は、仕事と認めます」
「桜庭さん!」
「まあ、前例があるしね。黒羽くんが迷った時に殴れるのは君だけでしょう。それに私、全面協力するって言っちゃったしね」
白鳥は桜庭の言う事はもう殆ど聞いていなかった。
一礼して踵を返すと、大股でドアに向かって歩き出す。
「…ただちょっと、出来るなら早めに何とかして欲しいなあ、人数少ないんだし…って、聞いてないか…」
もちろん白鳥は、既に部屋の中にはいなかった。
「あの子は止まらないんだな。絶対」
桜庭はこっそりと笑った。



黒羽の行く場所の心当たりなど、白鳥にはなかった。
それくらい彼の事を知らなかった。
「だけど、解ってるさ。外じゃない。砂城の中だ。それだけで充分」
それだけと言ったが、砂城はバカみたいに広かった。アンダーにいなかったら、スカイも捜さなくてはならない。当てもなくうろつくだけでは、埒があかない。
「けどまあ、その。コウは目立つからな」
白鳥はまず、片端からホテルに電話してみる事にした。
そして、目星をつけたホテルのロビーで聞き込みを開始した。


どんなに目立たないように行動してもダメだよ、コウ。
オレは見つける。オレはしつこいんだ。コウは知らないだろうけど、オレ、あんたを7年間も追い続けてきたんだよ。
だから、覚悟しとくといい。
オレが一度こうと決めたら、なかなかやめさせられるもんじゃないって事。
あんたは一度思い知らなくちゃいけないよ。


そして、次の日までにオレは立っていた。
ホテルレオニスの『廃墟』に。

 

 

「ここか。よくよく縁があるな」
白鳥は瓦礫の山を避けながら、かつては豪奢なホテルだった残骸に足を踏み入れた。
始まりの場所で、終わりの場所。
「コウの奴、何してるんだ、こんな所で」
今は誰も近寄らない廃墟。ここだけ時が止まったように7年間も沈黙を守ってきた。
あの時何人死んだのか、白鳥は知らない。
ただ今はもう、静かだった。
埃だけが静寂の中に降り注いでいる。
「やっぱりここ、誰か入り込んでるよな。火遊びの跡が一階にあるし。誰が入り込んでも文句言う奴いないし。良くない場所だな」
ぶつぶつと独り言を呟きながら上へと歩く。

「冬馬涼一は、ここへ何をしに来たんだろう?」
あの時出会ったのは偶然だったのだろうか? 
オレ達は仕事だった。だが、あいつは? 冬馬涼一は? あいつが何をしているのかは知らないが、あいつも仕事だったのだろうか?
コウは冬馬がしている事を、はっきりとではないにしろ、何か知っているようだった。
そして休みまで取って、コウはここに何をしに来たのか?
オレから逃げるためだけじゃないだろう。
ならばここには何かがある筈だった。

階段を踏みしめて上に上がる。
瓦礫を避けながら道を捜すのはけっこう大変だった。
砂城一高い建物。広く、薄暗く、半分壊れた迷路。一歩間違えたら、コウを見つける事は難しそうだった。
だけどオレには確信があった。
会えるとも。オレがそう信じて出来なかった事なんて無いんだ。時間はかかっても、それでも、必ず…。

そして、オレは見つけた。
最初からそう決められていたように。コウの姿を。
壊れた窓から吹き込んでくる風に、髪を散らしている彼を。



なんて綺麗なんだろう…。
何もかも壊れた廃墟、死に絶えた過去の時間の中で、彼だけが生きて立っていた。
風が彼の髪を乱し、服を弄んですり抜けていく。
壊れた窓から覗く透明な空に、風をはらんだシルエットが浮かぶ。
風の翼が彼を空に攫っていってしまいそうだった。
涙が出そうになった。

…ここで、出会ったんだ。
そう思う。
オレとあんたはここで出逢ったんだよ。


「香澄?」
瓦礫を踏む靴の音に気付いて、黒羽は驚いたように振り返った。
「どうしてここに? 仕事か?」
「ああ、仕事だよ」
白鳥は一歩前に踏み出し、腕を後ろに鋭く引く。
「あんたを殴りに来たんだ」
黒羽は避けなかった。拳は綺麗に彼の顔にヒットする。身体は後方に飛んで、黒羽はそのまま尻餅をついた。
「あんたを殴るの3度目。だけど、ずいぶん弱いじゃないか。最初の時はぐらつきもしなかったくせに」
黒羽はうつむいたまま顔を上げなかった。
「あの時はパートナーじゃなかった。2度目に殴った時はメガネが飛んだ。その時は恋人じゃなかった」
「香澄…」
「言ったよな。オレを冬馬涼一と同じにしたら、3度目はグーで殴るって」
黒羽の唇が微かに震えた。
「香澄、すまない」
「どうして謝るんだ?」
「僕に関わったらダメだ。きっと君も死ぬ」
「コウ」
「僕はいいんだ。僕はずっと終わりにするつもりだったから。冬馬に出会ったら、今度こそ全部終わりにする。だからどうかそれが償いだと思ってくれ」
「償い…?」
白鳥は黒羽を殴った拳を、もう一度硬く握りなおした。
そして叫んだ。



「コウはオレから手を離すのか!」
白鳥の突然の怒鳴り声に、黒羽はびくりと体を震わせ、顔を上げる。
「手を離して、オレを殺すのか!?」

そして、冬馬と行くのか!! 
オレを殺して冬馬と行くのか!?

白鳥は黒羽の胸ぐらを掴んで、そのまま引きずり上げた。
「あんたにとってオレがどういう存在だったのか知らない。オレはきっと邪魔者だった。役立たずで足手まといで。あんたにとってはカスのようなもんだっただろうさ。だけど、だけどな!」
殆ど付くばかりに顔を近づけて白鳥は叫ぶ。
「だけどオレは生きてる。あんたが助けた。今この時間があるのはあんたがそうしたからなんだ。あんたにとってはオレが生きていようと死んでいようと、どっちでも同じかもしれない。だけど、オレは生きてなかったら、今ここにいないんだよ!」
「香澄…違…」
黒羽は目を瞑って首を左右に激しく振った。
「何が違う!?」
「僕は…。香澄が思っているような人間じゃない。僕は最低だ。僕は、失敗…した」
「この野郎!」
もう一度腕が上げられたが、その拳は振り下ろされる事はなかった。
食いしばった歯の間から、苦しい息が漏れる。
「失敗だって? 失敗だったって? なんだよ、それ。なんなんだ。コウ」
振り上げられた腕が微かに震える。

「失敗だった? じゃあオレがこうしてここにいるのも失敗なのか。オレがあんたに助けられて生き残ったことも? あんたを追ってここに来て、あんたを好きでいるオレも失敗なのか!? オレを見ろ。あんたが助けたオレを見ろよ! オレは誰だよ!?」
黒羽はゆっくりと瞳を開く。
「……香澄」
「そうだ! 名前は知らなかったな、コウ。だったら今度こそちゃんと覚えろ。オレは白鳥香澄だ。もう一度、ちゃんと。オレが誰だか言ってみろよ!」
「香澄。白鳥香澄」
木精のように黒羽が言葉を返す。
「そうだよ、オレだよ…」
オレだ…。オレだよ。あんたにもう一度逢うために、ここに来たんだ。
ずっとあんたの事を思っていた。
忘れた事なんて無かった。
あの、炎の記憶…。

白鳥の瞳から涙がこぼれた。
泣きたくなんか無かったが、どうする事も出来なかった。
泣きながら黒羽の肩を掴む。
「あの時死んでいたら、オレはここにはいない。あんたはオレがいない方がよかったか? オレが死んでた方がよかったって言うのか!?」
口の中に涙が入り込んでくる。なんて苦い味。
「あの時死んでたら、今あんたの前に立っているのは、きっと違う奴だった。オレにとってそれはすごく大事な事なんだ。だってそれ、オレじゃないんだぜ? これがどんな大事な事か、あんたに解るか?」
怒鳴りつけるように叫びながら、白鳥は黒羽の体を激しく抱き寄せた。
「失敗か? オレが生きていたって事。あんたがオレを助けた事は、あんたにとって失敗なのか? あんたはここに立っているのがオレじゃなくても、他の誰でもよかったのか?」

きつく、きつく体を抱きしめる。
白鳥は黒羽の顔を見る事が出来なかった。ただ、体は暖かかった。
うん…。モノなんかじゃないよ、コウ。
人形でもない。あんたはオレの…。
オレのたった一人の…。

答えを聞くのが怖かった。
誰でもいいと言われたら、オレはどうすればいいだろう。
冬馬涼一とどっちを選ぶ? そう聞いた訳じゃない。
だってあんたは、まだ遠い。
ここで抱きしめているのはオレなのに。あんたはどこにいるんだろう…?

だから言いたかった。
ここにいる白鳥香澄はたった一人なのだと。
黒羽高も一人だけだ。代わりなんて誰もいない。
誰も、いないんだよ…。

 

 

長い時間が流れたような気がした。
もちろん実際には、たいした長さではなかっただろう。
だがほんの僅かな沈黙でも、それは何よりも重かった。

「どうして…」
やっと黒羽が口を開いた。掠れた声が唇から紡がれる。
「どうして生きているんだ? 香澄…」
白鳥はただ黙って続きを聞く。
「誰もが、僕をおいていった。両親は助ける事が出来なかった。僕は役立たずだった。
何もかも失った僕に価値を与えたのは涼一だった。でも涼一も僕を棄てた。
もう嫌だ。誰にも、置き去られたくない。僕を独りにして、どこかに行ってしまわないでくれ」
黒羽は白鳥にしがみついた。
「嫌だ。僕はもう、誰もいらない。明日の…事なんて誰にも解らない。何が来るか解らない未来なんていらない。香澄だって、死ぬだろう? 僕の前からいなくなってしまうのだろう?」
指がきつく白鳥の背中に食い込む。
体がそこにあるのを確かめるかのように。
「この間会ったばかりの、ただの、香澄…なら。今いなくなっても、僕は、そうかと思うだけだ。香澄、君が嫌いじゃなかった。好きだった。けれど…だけど僕は…」

酷い言葉だ…。
だが白鳥は柔らかく息を付いて目を瞑った。
だけど…コウ。不思議とオレは落胆していない。変だな。どうしてだろう?

…誰もいらない。
そう言いながらコウの爪が背中を掴む。
しがみつく手は、その言葉が嘘だと言っていた。
あんたは嘘が下手だよ。
いなくなってしまうのが本当に怖いなら、早い死を望むべきなんだ。なのに会ったばかりのオレにさえ、半年生きろとあんたは言った。


「好きだ。好き…だった。香澄と抱き合うのも、キスを、するのも…」
「うん、コウ」
呟くように返事をする。

…まだ半年たってないね。

「他の誰かだったらどうかなんて、そんな事、よく解らない。だって今…、香澄しかいない」
「うん…。うん、コウ」
何度も彼の耳元で囁く。
「僕は、香澄とセックスするのが好きだった。好き、好き…だった」

…オレが本当に欲しくなるのが怖いのか、コウ。

「どうして生きているんだ、香澄。どうして僕の前にいるんだ。君が…。君が」
白鳥は少しだけ体を離し、改めて黒羽の顔を見つめた。
黒い髪に縁取られた、白く硬い美貌。
目を瞑り、体を震わせるその顔は、それでも泣いてはいなかった。

どんなに苦しくても、それを外に吐き出す術を忘れてしまった男。
涙を流せない男。
いつから泣けなくなったんだ? コウ…。

白鳥はその瞼と唇に、そっと口づける。
黒羽は震えながら、それに応えた。



「コウの前にいるのは、オレだよ」
黒羽の顔を掌で包む。7年夢に見続けた、愛しいかお
「コウのパートナーになって、5ヶ月と2週間生きてきた白鳥香澄だ」
「香澄…」
「そして13の時に死ななかった、あれからずっと生き続けてきた白鳥香澄だよ」
黒羽を見つめながら、柔らかく笑う。
「他の誰かじゃない。オレがあんたの前にいる。それはね、死ななかったからさ。明日の事は解らないってあんたは言うけど、でも死んだりしなかった。毎日あしたを重ねて、今も生きてる。オレの時間は過去から繋がっているんだ」
「香澄…?」
黒羽は不思議そうに白鳥の瞳を覗き込んだ。

「あんたが、そうしたんだろ?」
「僕が…?」
「あんたが、オレを選んだんだろ? オレを見つけて、オレの手を握って、オレの運命も、決めた」
黒羽の指が背中を離れ、緩やかに白鳥の指に触れる。

「知らない…手だ」
「大人だもん、オレ…」
もう一度口づける。

「7年、たったんだよ。もう、子供じゃないんだ。あんたを抱きしめられる。あんたを護れる。ねえ、もう、7年もたったんだよ…」




停滞し続ける時間。
どこまでも死んだような水の底。
いつでも一瞬の時間しかなく、明日へとは永遠に繋がらない道。
時間は凍り付いていると、そう思っていた。
なのに気が付いたら、彼は大人の顔をして自分の前に現れた。
太陽のような輝く笑顔と共に。


大人になった少年は、もう一度その手を握り直し、そしてあの時と同じ言葉を囁いた。
「帰ろう。コウ。下に、降りよう」

過去の残骸を踏みしめる音だけが、誰もいない廃墟の中に響いて消えた。

END


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