世界の終わりに


赤みのかかった 月が昇る時
それが最後だと 僕は聴かされる
世界の終わりが そこで見ているよと
紅茶飲みほして 君は静かに待つ



 正月が明け、白鳥と黒羽は時期外れの「正月休み」をもらえる事になった。
家族や彼氏・彼女と正月を共にした同僚たちは、多少の正月疲れを見せてはいたものの、概ね満ち足りたような、幸福そうな雰囲気を纏っていた。
彼ら二人も、遅れてその幸福感を味わう予定であった。

白鳥の、一言があるまでは。

「オレさあ、正月休みは上に行くな」
「上?」
「ん」
ディスクの上の書類を軽く整理しながら、白鳥は黒羽の顔を見ずに言った。
「実家…に行くということか?」
白鳥は、なんだかひどく自分との正月を楽しみにしていたように見えていたのだが。
神社に初詣に行こうだの(もちろん、自分たちが張り込んだ社ではない)
お雑煮を作ってやるだの、録画していた正月番組を見ようだのと、
それは色々と計画を語っていたのだ。
それが、休暇の前日になっていきなりである。
「実家に行くわけじゃねぇよ。ええと…とにかく、悪い」
やはり黒羽からは視線を外し、書類を持って桜庭のデスクに向かう。
その後ろ姿は、妙に小さく見えた。
白鳥は実際に黒羽よりも身長こそ追いつかないが、肩幅はあるし、割と筋肉質だ。
普段は頼もしいと感じるそれが、不自然な印象を受けた。
黒羽は背を見、ついで何気なく白鳥のディスクに目をやった。
自分よりはるかに乱雑なディスクの上に、走り書きしたメモがあった。
どこかの催事場の名前と電話番号――市外局番からいって砂城ではない――が
記されており、更にメモには続きがあった。

通夜 PM6:00〜
告別式 AM10:00〜

誰か、亡くなったのだろうか。
白鳥が戻ってきて、デスクの整理を始めた。
訊いてもいいだろうか、誰の葬式かを。
黒羽は迷う。
メモを盗み見たつもりはないが、目につくような場所にあった。
だが、普段より格段に雰囲気の暗い白鳥に、この話題を持ち出すのは躊躇われた。

 

 

寮に帰り、各自の部屋に戻ると、黒羽は暫く考え込んだ。
三日は香澄に会えない。
仕事上、そんなことはいくらでもあった。
仕事だと思えば、それは別段気にならない。目の前の任務を遂行し、確実な成果を挙げなければならないのだから。
しかし、プライベートな時間で香澄と離れるのは、正直妙な気分だった。
香澄はいつでも黒羽と一緒に居たがる。
休暇はもちろん、寮でも、勤務中でさえ、香澄は黒羽のそばになるべく居ようとする。
黒羽も、香澄と一緒に居るのは好きだ。それは心地好く、特にセックスをしなくても、落ち着ける時間だった。

やはり、訊きたい。香澄が今、何を思っているのかを。
黒羽は背中を預けていた壁の冷たさにようやく気付き、苦笑しながら立ち上がった。

白鳥の部屋の前まで来ると、中から音楽が聞こえてきた。
かなりの大音量だ。
壁が薄いから、他の住人から苦情が来るかも知れない。
ノックしても、果たして聞こえるだろうか?
「香澄」
名を呼び、取りあえず扉を叩く。
返事はない。
「香澄、入るよ」
もう一度ノックして、今度はドアノブを回す。
薄く開いた扉の隙間から、想像以上の音量が黒羽の耳に流れ込んできた。
先ず目に着いたのは、壁にかかった喪服。白鳥はベッドにもたれ、顔を伏せている。
近づいて、白鳥の耳元で声をかける。そうでもしなければ声が届かないくらいの音量だ。
「香澄、音量を下げた方が良い。苦情が来る」
「ん…」
承諾らしきものが取れたので、黒羽はベッド脇のコンポのボリュームボタンを操作する。
音は急激に小さくなり、話ができる程度のBGMになった。

「香澄、…誰の葬式に行くんだ?」
ぴくりと白鳥の腕が震えた。
単刀直入に訊ねてしまったことを後悔し、黒羽は少し身を引いた。
顔を伏せたまま、白鳥が言う。
「誰かに訊いた?」
「いや。…香澄の机のメモを見た。すまない、勝手に…」
「はは、いいよ。オレ、メモったのそのまんま置いといたし。コウ、目いいもんな」
白鳥は顔を上げない。見ると、まだ背広のままだ。部屋着に着替えてもいない。
「上司。…元の、だけど」
葬式の事を言っているのか。では、話してくれるのか。
黒羽は少しだけほっとした。
内容を思えば不謹慎だが、本心を出さない香澄を見ているのは辛い。
「殉職されたのか?」
「ん…。さっき、っつても署に居る時だけど。上の、ここに来る前の署から
連絡があった。昨夜遅くに、亡くなったって」
「そうか…」
「交番勤務してた時一緒だった人でさ。定年間近だった。オレが刑事になりたいって言ったら、冗談だろうって笑った。砂城に行きたいって言ったら、マジな顔でやめとけ、なんてさ。
砂城行きが決まった時、オレより階級が上になるんだから奢れ、なんて言ったり…」
同じ歌がエンドレスで流されている。テンポの速いハードロックだ。

「世界の終わりが そこで見ていると
紅茶飲み干して 君は静かに待つ…」

白鳥が曲に合わせて小さく歌う。
「オレね、さんざん世話になってたからマジで奢ったんだ。最初は居酒屋。
んで、オレの奢りなんだから二次会も付き合って下さいよって、カラオケ連れてった。
おっかしいの。オレの歌う歌はみんなやかましいって。そりゃそうだよな。オレの親父みたいな歳だもん。
でもさ…この歌だけは良いって」
だらりと下げられている白鳥の手を取り、自分のそれで包む。
白鳥は強く握ってきた。
「歌詞にあるだろ? ”世界の終わりを紅茶飲みながら待つ”って。
これが良いんだって……言ってた。こんな風に、退職したら、茶ー飲んで、
ゆっくり歳とって……死んでいきたいって……。
少なくとも、酔っ払った馬鹿な学生に集団で殴られるような、そんな目にあう理由なんかない人だったんだ!」
黒羽の手を、爪の痕がつくほど握り返してくる。だが、不思議と痛みはない。
そのかわりに、心が軋むような感覚がある。

「香澄は、その人が好きだったのか…?」
「好きだったよ! 尊敬してた! またいつか会えるだろうと思っていた! 会いたかったよ!
畜生! 何だってあの人があんな死に方しなきゃならない! 畜生! 畜生!!」
ひとしきり喚いたあと、小さく「未成年が酒飲んでんじゃねえよ」と呟いた。


落ち込んでいる香澄のそばに居てやりたいと思うのは、何故だろう。
本当に、本気で香澄が好きなのだろうか。
それは…わからない。
好きだとか愛しているだとか、そういうものを自覚するのは怖い。恐ろしい。
けれど、こんな香澄を一人にして置けない。そうも思う。
香澄は自分よりも精神的には強い男だ。
おそらくは、自分の足で立ち上がり、またいつもの彼に戻っていくのだろう。
尊敬するという、その人の事は忘れずに、それでも香澄は自力で立ち直るだろう。
だが、たとえ何の役に立たなくても傍に居たいと黒羽は思う。
…思って、しまう。

「香澄の予定に、僕も同行したい…ダメだろうか?」
握られた手の力が、少しだけ緩んだ。
数秒の沈黙のあと、白鳥がゆっくりと顔を上げた。
かすかに笑みを浮かべているが、ひどく悲しげだ。
「ダメ。上へは、オレ一人で行くの」
「僕が居ては邪魔か? 確かに、僕はその人と何の接点もないけれど、同じ警察官だし、香澄が尊敬する人なら、せめて…」
「コウ、違うよ。コウは邪魔なんかじゃない。コウの気持ちも嬉しい。でもさ」
壁の喪服に視線を移して、白鳥は続けた。
「オレ、きっとすごく格好悪いから。今だって最悪だ。葬式で、そういう格好悪いところ、コウに見せたくない。オレがけっこう涙もろいの、知ってるだろ? だから、ダメ」
「泣くことは格好悪いのか? 生理現象だろう?」
「はは、コウらしいや」
一筋の涙が頬を伝っていく。
それを慌てて拭い、白鳥はおもむろに身を起こした。
「オレ、準備あるから。ごめん」
暗に部屋へ戻れと言っている。だが、黒羽はそんな気にはなれない。
「僕は香澄と一緒に行く」
「コウ、だから…」
「香澄の傍に居たい。香澄の傍から離れるのは…嫌だ」
今の香澄からは。

自分には何もできない。
セックスでは、きっと香澄の心にあいた穴は塞がらない。
他の慰め方など知らない。ただ、傍に居ることしかできない。
傍に。

「傍に居たい。香澄、君の傍に」
黒羽は自分の中の暗部を見せている。
そのつもりはなくても、白鳥はいつの間にかそれに気付いている。しかし、決して責めない。
それなら、白鳥のいう「格好悪い」ところも、自分が受け止めたかった。
「香澄は、格好悪くなんかない。人の為に泣ける香澄は、ずっと綺麗で正しい」
僕よりは、という言葉を、黒羽は飲み込む。
微かに唇を震わせて、白鳥はようやく黒羽を見た。
手を伸ばして、その白い肌に触れる。眼鏡を外し、整った眉毛を撫で、前髪を掻き揚げる。
黒羽はされるがままだ。

「オレが綺麗ってなんの冗談だよ。コウの方が綺麗だよ」
会話はすれ違う。
それでも、お互いの思いは伝わっていた。

「コウは、オレがガキみたいに泣き喚いても呆れない?」
「呆れる理由がない。香澄は香澄だ。どんな時でも」
ふ、と緊張が解けたように白鳥が息を吐いた。
黒羽の睫に唇を這わせ、そのまま頬を伝い、深く口付ける。
BGMは流れ続けている。
白鳥の腕が、ゆっくりと背中にまわされた。
次第に抱く力が強くなっていく。

しがみつく様な激しい抱き方に変わると、白鳥は、今度こそ号泣した。

 

 

スカイへと昇るエレベーターを待ちながら、白鳥は鞄から数珠を出した。
「いつ同僚が逝くかわからないから、持っておけって言われてさ。一番安いの買ったんだ。勧めた本人に使うなんて、変な話だよな」
隣で、黒羽が数珠を見つめている。
黒羽はあまりにも多くの同僚の死を見すぎて、そういう感覚が麻痺しかかっていた。

もしも香澄が死んだら。
それは香澄の尊敬するその人に対して失礼だけれど。
そんなことはあって欲しくないと思うけれど。
香澄が死んだら。
自分は正気でいられるだろうか。
彼と離れるのがこれだけ辛いというのに。

「お、来たぜ」
エレベーターが降下する音が聞こえてきた。
黒羽は、数珠ごと白鳥の手を握る。
「コウ?」
「香澄、僕は誰の死も見たくない。香澄に会って、最近そう思うようになった。
香澄、君と一緒に居たいよ」
「はは、それってばコウ、愛の告白?」
「うん」
驚いて目を見開いた白鳥の手を取ったまま、エレベーターに乗り込む。

喪服の男を二人乗せたエレベーターの扉が、静かに閉じられた。



「…日深夜、数人の酔った学生たちが路上で喧嘩を始めたと通報が入り、近くの交番の警察官が仲裁に入りましたが、逆に集団で暴行を受け、●●巡査部長が内臓破裂のため死亡、●●巡査も重症を負いました。
逮捕された学生たちはいずれも未成年で、事件当時はかなりの酩酊状態でした。
喧嘩や暴行に関しては良く覚えていないと供述しているとのことです。それでは次のニュースです……」

END