第二章 「Key」


 それは、本当に恐ろしく綺麗な子供だった。
自分も綺麗な顔だと言われ続けてきたが、この子供は別格だった。

黒い大きな瞳。煙る様な長い睫毛。
白い陶器の肌に、漆黒の髪が長めにかかる。
形の良い唇には薄く血の色が上り、なめらかな肌に魅力的なアクセントを描く。

驚いた。
視線が吸い寄せられるみたいだ。
子供の顔から目を離す事が出来ない。
女の子のような、という言葉があるが、女の子にだってこれほど綺麗な子供はいない、と思う。
まるで造りもののようだった。
細心の注意を払って、完全な形に整えられた人形。
もっとも、ここまで綺麗な男の子の人形も無いと思うが。

そこまで考えて、涼一は子供の顔以外の部分にも目を走らせた。
男の子…、だよな、この子って…。
半ズボンからは、少年特有の細い足がすらりと伸びている。

再び視線を上げると、驚いたように大きな瞳を開いたまま、少年は黙って自分を見つめ続けていた。


「おかあさんって、志帆さんだよね」
驚かさないように、出来るだけ優しい声を出す。
少年は黙って頷いた。
「研究室の方に来るのは、もうちょっとしてからだと聞いているけど。オレは留守番を頼まれているんだ。
聞いていない? 冬馬涼一。お父さんとお母さんの手伝いをしてる」
再び少年は黙ったまま頷く。
どうやら彼は、のんびりした陸より、神経質な志帆に性格が似ているらしかった。
涼一は安心させるべく、にっこりと笑ってみせる。
人の警戒心を蕩かす、最高の笑顔。
どんな男でも、女でも、これで微笑み返さないヤツはいない。
涼一は自分が与える印象に、絶対の自信を持っていた。

もくろみ通り、少年の緊張が微かに緩んだ気配があった。
「家の方から来たの? この間オレ、お家の方にも行ったんだよ。その時はいなかったよね」
思いきり優しい声を出す。
ただし気さくさも忘れずに。
涼一は自然に獲物を捕らえる体制に入っていた。

「…学校の…」
少年がやっと口を開いた。
形の良い唇から、幼い声が流れ出してくる。
「校外授業で…泊まってた、から…」
「そうかー。それは残念だったな。会ってれば良かったのにね」
遠慮がちに見上げる少年に、ここぞとばかりに涼一は笑いかける。
すると少年は、やっと笑い返してきた。

涼一は一瞬ドキリとした。
微かに頬に血が上って熱くなる。
笑った少年の顔には、格別の美しさがあった。
真っ白な雲間から、一瞬だけふわりと光が射し込んでくる様な笑顔。
えらく印象的だった。

欲しい…。

身体の中に欲望がせり上がってくるのが解る。
この綺麗な子供が、欲しい。


「おかあさんが帰ってくるまで、一緒に待っていよう。一人じゃつまらないだろう?」
「え…。でも」
「仕事は先生達が来てからでいいんだ。オレは君と仲良くなりたいな」
少年は微かに顔を赤らめて、嬉しそうに小さく頷いた。
「うん。じゃあ、オレは冬馬涼一。高校2年生だ。涼一って呼んでいいよ。君の名前は?」
君などと呼ばれた事はないのだろう。
子供は少々照れたように下を向いたが、言葉ははっきりと明解だった。

黒羽くろはね こう

美しい形が、涼一の中で組み上げられようとしていた。

 子供が欲しいと思うなんて、初めての事だった。
本当は子供になんか興味はない。
子供は涼一の中で、常に無価値な存在だった。
力も能力もなく、利用価値のまったく無い、足手まといな生き物。
なにも生み出さず、ただ与えられたものを、だらだらと消費するだけ。
経験も知識もなく、頭も悪い。
それが子供のイメージだった。

現に目の前の少年、黒羽 高も、運良く天から与えられた美しさ以外は、まったく普通の子供と同じに見えた。
小さく、弱く、自分一人では立つ事も覚束ない。
「弱さ」は涼一がもっとも嫌う類のものだった。
だから本当なら、子供だと言うだけで価値はない。
自分の視線は、幼い頃から常に大人社会にのみ向けられていた。

だけど…。
唇を軽く舌で湿らせる。
彼自身の手柄ではまったく無いけれど、それでもこれだけ綺麗なら、それなりの価値はある。
そう思った。
ただ綺麗なのではない。飛び抜けて美しい。
美しさだけで言うなら、どんな美少女も足元にも及ばない。
彼を見落としたりする人間など、一人もいないだろうと思う。

そう。宝石は、ただ美しいだけが価値の全てなのだ。
それ以外に求めるものはない。

涼一は基本的には役に立つものが好きだった。
宝飾類は財産としてのみ、その価値を認識していた。
でも、そうだな。
宝石を持っているのも素敵かもしれないと思う。
何の役に立たなくても、それはただ輝いて、人の目を惹き付ける。

特別な子供。
自分以外でそう感じた存在はいなかった。
しかし確かに目の前の子供は特別だった。
手に入れたいと思わせた、初めての子供。
今まで誰かと遊ぶ事などあまり無かったのだろう。
自分と一緒に嬉しそうに遊ぶ子供の姿を、涼一は見下ろす。

雪のように白い肌。
漆黒の黒い髪。
薄く血の色が透ける唇。

それはまるで白雪姫じゃないか。
自分の連想が可笑しくて、唇に笑みが滲む。
そういえば、白雪姫は世界中の誰よりも美しかったんだっけな。
最高って事だ。
最高のものを自分が手に入れるのは、当然だった。
だから彼は差し出されたのだ。
自分の前に。
最上の供物として。

「あっ、おかあさん」
黒羽 高の声が嬉しそうに跳ね上がる。
振り返るとそこには、妙に表情を強張らせた志帆が立っていた。
「お帰りなさい、志帆先生」
涼一はにっこりと笑いかける。
しかし志帆の表情は固まったままだった。
「おかあさん、お兄さんに遊んでもらったんだ」
「うん…。よかった、ね」
志帆の声は微かに震えていた。

その瞬間、涼一の頭の中に稲妻のように何かが弾けた。

彼女の態度は、涼一にとって、大変お馴染みのものだった。
涼一は人間のそういった状態に、非常に敏感だった。
それを素早く掴み取り、利用して人を操り、支配し、征服する。

初めて、志帆のそれを見つけた、と思う。
固く閉じたようなこの女にも、もちろん隙間は存在したのだ。
その隙間に、指を入れて押し広げて犯す。
涼一は嬉しくて飛び上がりそうになった。
この子供。
美しいだけで何の役にも立たないと思っていた子供。
しかし彼は鍵だったのだ。
彼女の奥をこじ開けるための、宝石付きの鍵。

「お兄ちゃんじゃなくて、涼一でいいって言ったろ?」
涼一は言いながら、黒羽 高の身体を捕まえて引き寄せる。
高は、きゃあ、と嬉しそうな声をあげた。
「仲良くなったんだよな、なぁ?」

ふざけながら膝をつき、高を抱きしめる。
そして見せつけるように、わざと顔をすりつけてやった。
子供の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
チラリと見上げると、志帆の硬い顔が目に映った。


あんたの大事な子供は、オレの手の中にある。
子供はバカだから、安心しきって自分を預けている。
今オレは、この身体をどうにでも扱えるんだ。
いや、もちろん何もしないさ。
オレは優しいお兄さんになるつもりなんだから。
大事な子供に、何もしたりはしない。
ただ、仲良くなるだけさ。

あんたが望むより、ずっとずっと仲良くね…。

知らず勝利の笑みが唇に浮かんでいた。

 

 

 初めて自分の思い通りにならないものもあると知ったのは、祖父が死んだ時だった。
祖父は、血筋ばかりが自慢でまったく内実の伴わない、没落しかけていた冬馬一族の救世主だった。

若くして会社を興し、天才的なカンと精力的な働きで、どんどんその力を大きくしていく。
商売の才能だけではなく、祖父は人を使う能力にも長け、彼の持つ巨大な人脈は、政治の世界にも力を及ぼしていた。
東京の大きな部分が欠落した『異界浮上大変動』の時は、さすがの祖父も様々なものを失い、その力も少々衰え気味だった。
しかしまもなく発見された『使役品』が、祖父に再び巨大な力をもたらした。
祖父は成功しか知らない男だった。
幼い頃の涼一には、祖父は神様か何かのように思えたものだった。

出来ない事は何ひとつ無い筈の祖父。
望めば世界を手に入れる事も出来たように思える祖父。
だが…。
その彼も、自らの命だけは思い通りにする事は出来なかった。


祖父は病気になった。
原因のよく解らない難病で、治療の方法はまだ見つかってもいなかった。
祖父に施される処置は、全て対症療法にしかすぎず、病の苦しみを一時的に押さえることだけが目的だった。
祖父はけっして治らない。
ただ病気にじわじわと蝕まれていくのを、黙って見ている事しか出来ないのだ。

それが解った時、涼一は大きなショックを受けた。
あの祖父が、手出しすら出来ない。
蹂躙されても、黙って眺めている事しかできない。
それを認めるのか?
自分にも敵わない相手がいると、負けを認めて引き下がるのか。

結局祖父は負けた。
いや、病気になった瞬間から、祖父はけっして勝つ事は出来なかったのだ。
最初から死ぬ事は決定していた。
後は残りの時間をどれくらい未練がましく引きずるか。
たったそれだけの選択の余地しか、祖父にはなかった。


 人は死ぬ。
どんな栄光の時を過ごしても、それはいつか必ず終わりが来る。

しかもその終わりは、自分の自由にはならないのだ。
2000年生きたいと思っても、人はそう造られてはいない。
造られ、産み落とされた瞬間から、砂時計は死に向かって、ひたすら砂を落とし続ける。
そしていつか、持ち分の砂が落ちきれば、その人は死ぬのだ。
自分の意志に関係なく。
死ぬ運命に、人間はけっして勝つ事は出来ない。
「死」に対して、人は最初から敗者だった。


 黒白のだんだら幕が、忌まわしく身体にまとわりつく。
鮮やかな花の色と、香の匂いが吐き気を催させる。

祖父は、自分が15になる年に死んだ。

少々太り気味の身体を黒い喪服で締めつけるように包んで、父が葬儀を取り仕切る。
忙しそうに動きながら、凡人の父が少しだけ嬉しそうな顔をしたのを、涼一は見逃さなかった。



「嫌だ…」
「え?」
身体にのしかかっていた榊原が、怪訝な表情をして顔を上げる。
小さな主人が機嫌を損ねたのかと思ったらしい。
自分の行動の何が涼一の気分を害したのか、榊原は小声で尋ねる。
「やはり、やめますか?…」
涼一は眉をひそめると、煩そうに命令した。
「何してんだ? さっさと続きをやれよ」


 通夜ぶるまいの席で、冬馬の親戚達の接待をしていた榊原を、涼一は廊下に呼びだして誘った。
「え…? 涼一様。今夜は」
「じいさんは死んだ。それだけだよ。生きているオレ達には関係ない」
「しかし…」
「儀式は必要さ。知ってるよそれくらい。だからちゃんと葬式もするし、今、通夜ぶるまいだってしているじゃないか」
「だったら」
障子の向こうからは、通夜にしては少々賑やかすぎる騒ぎが聞こえてくる。
涼一はそれを顎でしゃくって、軽蔑したように息を漏らした。
「今まであそこで接待してたなら解るだろ? あの親戚連中の、一体誰が本当にじいさんの死を悲しんでいるって言うんだ。楽しそうに酒飲んで、騒いでるだけじゃないか。
中にはきっと本気で喜んでいるヤツもいると思うぜ。これから相続税に悩むって言う、面倒くさいが堪えられない蜜にありつけるからな」
榊原は廊下の暗い明かりの中で、黙って涼一を見下ろした。

「だから、いいじゃないか…。あいつらだって、誰もじいさんの事なんて考えちゃいない。だから、オレが楽しみたいと思ったって、いいじゃないか」

何だろう。どうして声が震える?

「…悲しいのですか? 涼一様」
低い大人の声が、耳元で囁いた。
「悲しかった事なんて無い。じいさんは、ただ死んだ。もういない。それだけだ。オレはまだ生きてる」
「なにか、怖いのですか? 涼一様」
涼一はうつむいたまま、首を横に振った。
「一体何が怖い。そんな感情は知らない。オレは、ただ…。オレは生きているから。死んだヤツにはもう出来ない楽しみを味わいたいだけだ」

榊原は辺りを見回し、それからそっと涼一の体に腕を廻した。
身長は自分と殆ど変わらないまでに伸びたが、それでも少年の華奢さを失っていない細い体を、しっかりと抱きしめる。

「ええ。涼一様。私が少しの間抜け出しても、誰も気付かないでしょう。どこか部屋に入りましょう」


「あああ…、う…」
榊原は、涼一の口を掌で塞ぎながら、彼の体を犯す。
「は…あっ…」
苦しそうに閉じられた薄い瞼。
のけぞらせた頸の白さが欲情を誘い、指の間から微かに漏れてくる息が、温かく榊原の掌を湿らせる。

冬馬の家は広く、もうこの部屋までは、宴会の大騒ぎの音も聞こえてはこなかった。明かりもつけない暗闇で、ただ二つの影だけがもつれ合い、絡み合って蠢く。

「いい…。すごく、いい…。榊原」
まるで何かを振り切ろうとしているかのように、情熱的に涼一は足を絡めてきた。
その足を抱え上げ、より深く欲望を涼一の体に突き立てる。
「うっ。あっ…。あああっ」
榊原に突き上げられて、涼一の身体は畳の上で跳ねた。
半分物置になっているような狭い和室。
その辺にあった布きれと、座布団を敷いただけの場所で、二人はひたすら肌の感覚を求め続けた。

生きている、肉と肌の感覚。
息と、汗と、獣の喜び。

オレは、生きてる…。
死んだのは、じいさんだ。

榊原の唇が、涼一の胸にキスを散らす。

オレには体があって、こんな風に楽しむ事が出来る。


「もっと…。やだ。もっと…。ああっ…」
榊原の動きに合わせて、自分も腰を動かす。
「見せつけて、やりましょう」
榊原が耳元で密かに囁いた。
「あなたは生きている。まだ死者の仲間になったりしない」
「ああ…」
「冬馬の全ては、いつかあなたが手に入れる」
「うん…」
「大丈夫です。私がいる。いつでも私がいる。あなたの側を離れたりしない」

「うん…」
涼一自身は、けっして気付く事がなかった。
榊原に抱かれて、何もかも解らなくなるくらい乱れながら、その頬に涙が流れている事に。

肉親の情は、涼一には無縁のものだった。
祖父を愛していたという感覚は、まったく無かった。
だが、それでも涙は流れ続けた。
失った世界を取り戻すために。
生きている事を、ただ確認するために、ひたすら肉の感覚を追い求め続けながら。


 榊原は涼一が求めるままに、彼の体を激しく責め立てた。

半身を引き裂かれた、可哀想な龍の子供。
あなたは人ではないのだから、人と同じ悲しみ方をする必要はない。
死者と、いつかあなたの足元に這いつくばる筈の者達に、見せつけてやりましょう。
あなたは生きているのだという事を。

あそこで騒いでいる連中も、いつかそれを思い知る事になる。
そして…。
誰もが先を争ってあなたの元に集い、龍の刻印を付けてもらいたがるだろう。
私の背中には、もう付いている。
彼の刻印が。
彼と共に歩く、契約の印が。

「あああああっ…!」
快楽の叫びと共に、涼一の爪が再び深く、榊原の背中を抉った。



「嫌だ…」
「なんです? 涼一様」
「オレも、いつか死ぬのか?」
「…まだ、死んだりはしませんよ。涼一様は…」
「子供だからって、死なないとは限らないぜ」
涼一は裸のまま薄暗がりにうつ伏せて、呟く。
「誰かが殺しに来たりしたら、死ぬだろう?」
「そうなる前に、私がそいつを殺してやりますよ」

「…本気か?」
涼一は目を丸くして榊原を見上げる。
「あなたが望むなら」
「ふうん…」
ほんの少しだけ、いつもの涼一が戻ってきた。
声に面白がるような響きが混ざっている。
「人を、殺せるのか? お前」
「解りません。しかし、必要ならできるでしょう」
「必要…。必要ね。どういう時が必要な時なんだろう」
涼一は黙って暗がりを見つめた。

「…たとえ必要じゃなくても、人は人を殺す事がある。そんな風に、造られているんだ。きっと…」
独り言のような呟き。

「だったらオレは、殺される側にはいたくない」
「涼一様?」
「オレは、死にたくない。人にも、病気にも、殺されたくない」
「病気と人は違いますよ」
「そうかな?」
涼一はむくりと起きあがり、榊原の顔をまっすぐに覗き込んだ。
「一緒じゃないか。どんな手段でも、人が死ぬ事には変わりない。そうしたら、オレが死んだら、きっと喜ぶ奴がいる」
「私は、喜んだりしません」
「そりゃあ、そうさ。お前はオレのものだもの。榊原」
涼一は榊原の裸の肩に腕を絡ませ、指で頬を撫でる。

「でも、オレが死んだら、お前は別の人のものになるのだろう?」
言いながら唇を微かに歪ませる。
暗闇は、ぞっとするような美しさを涼一に与えた。
「オレは死にたくない。死ぬのが怖いんじゃない。オレが死んだら、間違いなく喜ぶ奴がいる。オレが死んだ事で得をするヤツ。
オレが手にするべきものを横から攫って持っていこうとするヤツ。そんなのは許せなくないか? なあ。
もしもオレが死んだら、手にする権利のないヤツが、ニヤニヤ嗤いながら分不相応なものを勝手に取っていく。そんな事はとても我慢出来そうにない」

「もしも、そんな奴がいたら、それも私が殺します。私も誰のものにもならない」
榊原の言葉に、涼一は瞼を閉じて首を横に振った。

「いいや、違うんだよ。榊原。オレは、生きていたいんだ」


 どんなものでも手に入れてきた。
欲しいと思ったものは、いつでも手に入れてきた。
これからだってそうするつもりだ。
だったら、生死だけ自分の自由にならない筈はないだろう。

自分も死ぬのだという事実。
他の有象無象の奴らと同じように死ぬのだという事実。

…我慢できなかった。

世界が自分の思い通りにならないというなら、オレはそんな世界は否定しよう。
そんな世界は嫌いだ。
いま自分を取り囲んでいる、全てのものが嫌いだ。
オレはいつか全てを壊し、自分の思うとおりの世界を手に入れる。

涼一の瞳の中には、暗い炎が揺らめいていた。
出来ない筈はない。
自分は王に生まれついたのだから。
手に入れたいと思ったものは、必ず手に入れる。


 一ヶ月後、涼一は15歳になった。
砂時計の砂は、さらさらと確実に落ち続けていた。 


「使役品の事を詳しく知りたいなら、アンダーに行かなきゃ」
涼一は陽気な声で、アンダーに潜る事を宣言した。
「危ないですよ、あそこは」
会社の重役達が笑いながら涼一と軽口を交わす。
「でも、会社はあそこからの利益に負ぶさっているんだろう? だったら少しは知っておいたほうがいいんじゃないのかな?」
「将来のためにですか? それとも研究者になるつもりなのかな?」
「そこまではしないけど。でも、興味があるんだよ」
「勉強熱心だなあ、涼一さんは。私の息子にも見習わせたいよ」
「木下さんの正くんは優秀でしょ? 木下さんに似て」
「口もお上手だ」

陽気な笑い声が部屋の中に響く。
高校生になったばかりの涼一は、ほぼ毎日会社に顔を出していた。
今ではここで涼一の顔を知らない人間は一人もいないし、涼一もまた、清掃のアルバイトに至るまで、殆ど全ての人間を記憶していた。

会社での力関係。
誰がどう思われ、どう扱われているのか。
自分はその中でどういう位置をキープし、演出するべきなのか。
涼一にとっては、何もかもが楽しいゲームだった。


本当に知りたいのは、使役品の事ではない。
涼一の興味を引いたのは、ジャンクだった。
砂城に住み、使役品産業に大きく関わりながら、冬馬一族がアンダーに潜る事はほとんど無かった。

『穴ぐら』という蔑称で、密かに囁かれるアンダー。
危険で野蛮で、下賤な世界。
特に父親は潜るのを嫌がって、アンダーとの連絡は、全て他の者にやらせていた。

何を言っているんだか。
自分はお貴族様だとでも言いたいのか。
その世界におんぶにだっこで養ってもらっているくせに。
砂城に住んでいるからには、アンダーもスカイも変わらない。
所詮同じ穴のムジナだ。
大変動で色々なものを失って、お情けで住まわせてもらっている類の人間。
本当は使い捨てなのだ。
自分たち砂城に住む人間は。

けれど、いつかそこが世界の中心になる時が来る。
悪夢と繁栄の生まれる場所、砂城。
自分が求める新しい世界は、そこしか考えられなかった。


 最初に気付いたのが、外の人間のジャンクへの関心の低さだった。
いや、低いとか高いとかいう問題ではないのかもしれない。
誰も知らないのだから。
砂城に関係する人間なら、ジャンクの事は誰でも知っている。
涼一も本物こそ見た事はなかったが、当たり前の知識として、ジャンクの存在を認識していた。
何故外の人間がジャンクの事を知らないのか。

涼一自身も一度もアンダーに潜った事がないとはいえ、砂城の住人だったので、内と外をあからさまに分けて考える癖を持っていた。
使役品から作られたものは、たくさんある。
まだ高級品ではあるが、使役品を繊維の形にして造られた布地は、たくさんのブランド品に使用されている筈だった。
普通に暮らしているなら、使役品で作られた様々なものを、一瞬でも目にしない事など無いだろう。
そう思うくらい、使役品は人々の暮らしに浸透しつつあった。

「当たり前ですよ。普通の人はどんなブランドとか、どこで製造されているかとかは気にしますが、たとえばこの繊維が石油から造られているのか、使役品から造られているのかなんて事は、気にしないでしょう?」
一人の研究員からにっこり笑ってそう言われた時、何か頭を殴られたような気分になったものだった。
「だからねえ、誰も僕たちの研究の事なんて、重要視してくれないんですよねぇ」
自嘲気味に呟く研究員は、半分あきらめたように肩をすくめてみせる。

そう。
ジャンクとは『クズ』の意味なのだ。
人々の生活には、何の役にも立たない、ただのクズ。
だからこそジャンクという名前が付けられたのだ。
使役品のように役に立っているものすら、人々の意識には上らない。
ましてや『クズ』の事など考える人間はいないだろう。
毎日普通に暮らしていたら、誰がゴミ捨て場のゴミの中身などを気にかけるだろう。
きっとそういう事なのだった。


 初めて潜った砂城アンダーの雰囲気は新鮮だった。
外とはまったく違う世界。
スカイも砂城である限り、ジャンクの事は知っていて当然の知識だったが、ここではジャンクとは知識ではなかった。
それは、リアルだった。

もっと切実に、そして片時も忘れてはならない存在。
ここでは、ゴミの事を忘れたら、生きていけないのだ。
何故ならここは、ゴミの生まれる場所だからだ。

外と内との意識の差が、これほどかけ離れているならば、砂城が閉鎖的になるのも、無理はなかった。
砂城が閉鎖的なのは、政府による閉鎖政策のせいばかりではない。
間違いなく、ここと外とは所属する「世界」そのものが違うのだった。

穴ぐらで、ゴミ箱。
なるほど。
ハイソサエティーを気取る父親が、来るのを渋るのは当然って事か。
だが、ゴミ箱の中を覗き込んでみなくては、捨てられた宝は見つける事が出来ない。
そして自分のカンは、確かにその中に何かがあると告げていた。

next