第三章 「龍の刻印」


龍が降り立つ。
この世界に住むありとあらゆるものに、印を付ける為に。



「思いきり研究がしたくない?」
B&B化学の河上は、涼一のそのセリフに、目を丸くした。
「どういう事です?」
「今度ね、新しい事業を始めたいんだよ。その為の準備として、独立して研究所を作ろうと思うんだ」
「…涼一さんが、ですか?」
「うん、そう。オレがオーナー。今すぐ商品にするとか、結果を出せとか、そういう狭いスパンの視野ではなく、使役品とジャンクの研究が出来る場所を作りたいんだ。
今すぐ利益になるわけではないけど、長期で見たら、絶対やっておいた方がいいと思う」

最初ぽかんと話を聞いていた河上の頬に、次第に赤味が差して来た。
「涼一くん」
河上は興奮して涼一の手を握る。
「それいいよ。理想は理想で、維持は難しいと思うけど、でも未来に視野を向けるつもりなら、やっておいた方が絶対にいい。僕たちは使役品の根本的な事について、知らない事が多すぎる。いいなあ、うらやましいよ」
「河上さん、オレそこにあなたを誘ってるんだけど?」
今度こそ河上は、実際にぽかんと口を開けた。
「え…え? オレ?」
言葉遣いまで変わっている。
「研究員がいなくちゃ研究は出来ないでしょう? オレはオーナーだし。手が欲しいんだよ。優秀な手ならなおさらね」
「で、でも…」
「大丈夫。今の生活とか地位とかは失わないようにするよ。最初のうちは上手くいかないかもしれないから、一年間はここからの出向という形で。給料も変わらない。出向手当がでる分だけ、ちょっと増えるかもね。
オレは失敗なんかさせるつもりはないんだけど、もしも失敗しても、所詮は冬馬グループ内の移動になるだけさ。ダメなら河上さんは、またここへ帰ってくればいい」

河上は涼一の話を聞いているうちに、再び顔を紅くしていった。
「いや、涼一くん! だめだそれじゃ」
「河上さん?」
「涼一くんの心遣いはありがたいけど、やるなら背水の陣だ。いつでも元に戻ればいいやなんて、オレ甘ったれてられないよ。
研究出来るんだろう? オレのやりたい事をやらせてもらえるんだろう?
だったら何も躊躇う事はない。今オレ決心したよ。君の所へ行く。何も保証が無くても構わない。君の為にも必ず成果を上げるよ」
「オレの為に?」
「ああ、もちろんさ。せっかく理解者がいて、場所まで提供してくれるんだ。無くしたくないよ。君の為にも、オレの為にも。
人手が必要だって言ったね。オレ知り合いの優秀でやる気のある奴に声をかけてみる。
ああ、すごく優秀なヤツが一人いる。変わり者で、有栖川って言うんだけど。
もっともそいつはまだ学生だった筈だから、今すぐというわけにいかないけどね。話だけでもしてみるよ。
他にも心当たりが色々いる。涼一くん。こんなチャンスを与えてくれて感謝してる。オレ、なんかすごく嬉しいよ」

「まだ確定じゃないんだけどね。黒羽志帆先生が協力してくれるかもしれない」
「えっ。えええっ。黒羽志帆って、あの黒羽志帆博士?」
「そうだよ」
「すごい。ますます凄いよ。その話をしたら、一にも二にも無くこっちへ来たいってヤツ増えるだろうな」




龍は夢をばらまき、印を与える。
彼に付き従う者の、右手か、その額に。
彼に忠誠を誓い、彼の許し無しではものを買う事すら出来ない徴。

−龍の刻印− を。


「新しい企画ですか?」
「そう、今までも色々アイディアくらいは出してきたけど。ちょっと本格的にやってみようと思って。
でも、なにせ若輩者だし、経験不足だから。協力というか、手を貸していただきたいんですよ」
「何を今さら。いきなりそんな口調にならないで下さいよ、涼一さん」
木下は顔中を笑い皺だらけにして、涼一の話に大きく頷いた。

木下はそれ程優秀な男ではなかったが、非常に機を見るに敏な男だった。
その時その時で上手くいきそうな方に、素早くおもねり、自分の立場を変える。
それたった一つで、現在の地位に昇ってきたと言っていい男だった。
その彼が今、自分の子供と同じ歳くらいの少年の前で頭を下げている。
彼を助け続けてくれた「勘」が、涼一に付いた方が美味しい事があると告げていたのだった。


 冬馬グループは、今のところ上手く動いている。
だがそれは決して現在のトップが優秀な為ではなかった。
多少の失敗は、巨大な組織が誤差として飲み込んでくれる。
その甘えの上に腰を下ろす事で、トップが能力的に欠けている事実は見過ごされてきた。
だが、組織が大きければ大きいほど、甘えに深く腰をかけすぎると、一度崩れた時に取り返しがつかなくなる。
木下にとって、冬馬グループ自体はどうでもよかった。
ただ自分を守れるかどうかが全ての基準だった。

最近涼一の後ろに、あの榊原がついている事が解った。
2人で穴蔵に潜って、何かを画策しているらしい。
実際大きな金も動き始めている。
榊原は冬馬グループの心臓と言ってよかった。
そして涼一は、これまでにも、ちょっとした企画を幾つか成功させている。
彼の思いつきは、時には思ったより金をもたらす事があった。

先代にもっとも期待され、確か彼は特別に財産分与をされた筈だった。
その彼が遊びでなく、何かを始めるのだという。
涼一が考え、それに榊原が力を貸せば、それは今までのものとは比べものにならないくらいの、巨大なプロジェクトにもなる。

乗り遅れるわけには行かなかった。
親族重用が幅をきかす冬馬ここグループでは、血の特権がない者は、蜜のある場所に、より早く、より近くまで走り寄る必要がある。
親族が冬馬涼一の若さをせせら笑っている、最初のうちが肝心だった。
自分はそういう勘にだけは自信があるのだ。

「では、協力いただけますか?」
涼一がにっこりと笑う。
木下はまったく躊躇せず、素早く答えた。
「もちろん、涼一さん。喜んで協力させていただきますよ。何でも木下に言って下さい。ああしかし、もしちゃんと何かを起こすのなら、涼一さんなんて呼び方はいけませんね。どうしましょう?」
「会社を興すのなら社長になるけど」
涼一は冗談めかしてくすくす笑った。
「でもそうじゃないし。何になるんだろう。オレは子供だから、組織の事はよく解らないんですよ。榊原が当分仕切るでしょうから。そういう事は榊原に相談して下さい。
じゃあ、そのうち正式に話が来ると思いますので、その時はよろしくお願いします」


 涼一の後ろ姿を木下は目で追う。
やがてその唇に、にんまりと笑いが浮かんだ。
そう、涼一のもとにいるという印は、やがて冬馬グループの中で、大きな意味を持ってくるだろう。
そういう確信が、木下にはあった。
自分が何かを興せない時は、より大きなものの庇護のもとに入る。
木下にとって、それは当然の事だった。
彼の印の前で、人は自分にも頭を垂れるだろう。
それはお前自身の力ではないと、言われるかもしれないが、その印を受ける事が出来たのは、自分自身の裁量だ。
指さしせせら笑う声は、所詮落ちこぼれたヤツの歯ぎしりに過ぎない。

木下は自らの心地よい夢を実現させる為に、涼一のもとで何が出来るか考え始めていた。
彼は優秀ではなかったが、決して無能な人間ではなかった。
そして、彼ほど人間関係にさとい男もいなかった。
涼一を邪魔する者が誰と誰なのか、彼の頭の中ではリストが組み上げられていった。

そいつらは、早晩排除する必要がある。
木下はゆっくり口の中で笑った。




龍は刻印を獣に与える。
頭に、神を汚す名の付いた獣に。
位と権威を持ち、地を統べる力を持つ獣に、龍の赦しが与えられる。



「榊原」
「はい」
榊原は椅子に座ったまま、小さな主人が自分に近づいてくるのを見つめた。
「呪文を唱えれば、お前が叶えてくれると言ったな」
彼の指が髪に触れる。
榊原の体は、ぞくりと震えた。
「はい…」

「見返りは、なんだ」
榊原は一瞬躊躇い、それから自分の心の中を探るように瞼を閉じた。
混沌には、様々な欲望がドロドロと渦巻いている。
自分の中に潜む、言葉にならない欲望。
欲望は、決して悪いものばかりではない。
欲しいと思う心。こう出来たらと思う心が、人を今のように豊かにしてきた。
だが同時に湧き起こる、目の前のものを引き裂きたい、という欲望は何だろう。
引き裂き、喰い散らし、打ち壊し、凌辱したいという、この感覚。
これも自分が求めているものなのか。
安全な世界にいたいくせに、恐ろしいほどに燃え上がる炎に、何故魅せられるのだろう。
まるで、炎が美しく大きい程、引き寄せられ、その中に飛び込み燃え尽きてしまう羽虫の様ではないか。
それはあまりにもバカバカしく、非生産的で、無駄な行為だった。

冷静な自分は、そう分析した。
しかしもう一人の自分。混沌に住むモノは、ドロリとした澱からぬめり出して囁いた。

好きな事をしろよ。
したい事をすればいい。
どんな汚い事でも、いやらしい事でも。
どんな事でも「彼」は赦してくれる。
お前は「龍の獣」になったのだから。
「彼」が赦すと言うならば、どんな事でも出来るのだから。

榊原の乾いた唇が、緩やかに開いた。

「…あなたです」
「オレ? オレの身体か?」
涼一はわざと身体をこすりつけるようにして、榊原の肩を撫で、膝に跨った。
榊原の目の前に、涼一の美しい貌があった。
「あなたです。あなたが欲しい。あなたの身体が、あなたのしようとしている事が。あなたが創る筈の世界が、私も欲しい」
榊原は涼一のシャツのボタンを外し、はだけた胸に指を、首筋に舌を這わせた。

もうすぐ大人になってしまう、少年の肌。
それでもまだ、華奢な骨を持つ彼の身体。
欲しくて、欲しくて、どうにかなりそうだった。


 榊原は夢中で涼一の服を剥いでいく。
薄暗がりの中で、涼一の白い裸身が逃げるように蠢く。
榊原はそれを捕まえ、押さえつけ、そして許されている彼の身体の奥深くまで、自身の欲望を突き入れた。
「……!」
悲鳴が上がる。
しかしその声は、ますます榊原の欲情に火をつけた。
奥まで貫き、乱暴に引き抜く。
何度も何度も彼の身体を穿ち、突き上げ、喉から零れる悲鳴を楽しんだ。
セックスが愛の行為だと言うならば、いま自分がしている事は、吐き気を催す様な行為だった。
にもかかわらず、榊原は涼一の身体を犯しながら言っていた。

「愛してます。涼一さま。あなたを…愛している」
「あ…ああ…ぁ」
「涼一さま。あなたが欲しい。あなたが赦してくれるなら、何でもする」

愛している。
おかしくなりそうなくらい。
彼の身体だけに溺れて、彼の声だけ聞いて、彼の意志にだけ従っていたい。
痺れるような感覚が身体を貫き、榊原は涼一の中で射精する。
「ん…んぁ…」
涼一はのけぞって体を震わせた。
その体を抱きしめる。
「榊原…」
薄く笑う唇に自分のものを重ね、舌を深く差し込んで彼の口腔内も犯した。

 彼の身体総てを、自分の行為で汚していく。
これが愛なのか、それとも自分の口が勝手に嘘をついたのか、榊原には、もうよく解らなくなっていた。
それとも、手に届かないものを愛する時は、そうするものなのだろうか?
けっして手に入れる事が出来ないものを愛してしまったら、ただ自分を差し出して、彼の足元に這いつくばり、彼に必要とされ、注目される存在になるしかない。
そして赦された時だけ、自分の欲望を彼の身体になすりつけるのだ。

せめて自分の印を残す為に。
彼の一部になり、残る事が出来たら、それ以上の喜びはないだろう。

あなたが欲しい。
あなたが創り出す世界に、私は心奪われている。
それが打ち壊された瓦礫の山だったしても、その壊れた世界に私は魅了されるだろう。
世界のありとあらゆる、目に見えるものや見えないものに縛られ続けてきた自分を解放してくれる存在。

彼のたった一言。
それで私は自由になろう。




「私を、赦してください」
「なんだ? 榊原。ヤッてる最中に変な事言うなよ」
「あなたを愛している。あなたの為に何でもする。その為の赦しをもらえたなら、私は何でも出来る」
「変なヤツだな。オレは言葉の約束など信じないし、守らないぞ」
「あなたはそれでいい。でも私は違う。徴が欲しいのです」
「呪文を唱えたら、お前が叶えてくれる」
「そうです…。その為の、赦しを…」
榊原の瞳の中に、暗い炎が燃えていた。

「なんだ、お前…」
涼一は榊原自身を身体に受け入れながら、ひっそりと笑い、その頬に触れた。
「なんだ…。こっち側へ来たいのか?」
榊原は黙って頷く。
「あなたの近くへ。誰よりも側に」
「バカだな。帰れないぞ」
「どこにも帰るつもりはありません」
「そうか…じゃあ」
涼一は榊原の身体を抱きしめて耳元で囁いた。

「オレが危なくなった時は、代わりの生け贄を、お前が選んで差し出せ」
「はい」
「ダメならお前がオレの代わりに死ぬんだ」
「はい」
「オレは責任をとらない。お前が全ての後始末をする」
「はい、涼一さま」
「どんな事があっても、オレの側から離れるな」
「…はい」

「じゃあ、いいよ」
耳元で、狂おしいほど欲しかった言葉が、甘く響いた。
「オレと一緒に、どこまでも来い」
「はい」

「何でもオレの為にするといい。何をどう動かせばいいのか、知っているのはお前のほうだ。好きなように動いて、したい事をするといい。
それをする為に倫理や常識や慎みが邪魔なら、オレが赦す。
上手くやれる限り、躊躇う事はどこにもない。
お前が本当にオレのものなら、お前を裁けるのはオレだけだ。そういう事だな、榊原?」
榊原はゆっくりと息を吐いた。
「はい、涼一さま。あなたの為に、動きましょう」
「赦す」
「あなただけに従う。あなたの声しか聞かない」
涼一は楽しそうに声を上げながら、身体を開く。
榊原は再び涼一の身体を貪り、行為に溺れていった。




 人は必ず何かに縛られて生きていく。
だから自分は何に縛られたいのか、それを選んだだけなのだ。
どこまで行けるかは解らなかった。
だが榊原は、初めて自由になった。
世界には、涼一以外の何も、自分を止めるものも咎めるものも存在しない。
どんなくびきからも解き放たれ、自身のささやかな良心さえも、もはや自分を縛る事はない。

何でも出来た。
どんな力を振るう事でも。
許しを得たのだ。
彼の為に何でもする「赦し」を。

彼は今、恐ろしく自由だった。
喜びが身体を満たしていく。

一頭の獣が解き放たれて、夜を彷徨い始めた。




龍は男子を生んだ女を追いかけた。
だが女は自分の場所である荒野に飛んでいく為に
鷲の翼を持っていた。
そこで龍から逃れ、数年の間養われる事になっていた。
龍は女を押し流そうとしたが、地は女を助けた。



『あなたが望んでいる事をするといい。
それが上手くいく限り、オレはあなたを護り、援助をしよう』

私はその手を取ってしまった。
陸には言えなかった。
いや、陸にもいつかは言わなくてはならないだろう。
私と陸は運命共同体なのだから。

ずっと一人だった私は、家族が欲しかった。
そんな理由で結婚を望むのは歪んでいるかもしれないが、でも自分を望んでくれ、家族になってくれる男ならば、相手は誰でもよかった。
「じゃあ、家族になろうか?」
研究仲間の陸がにっこり笑ってそう言った時、もちろん私は躊躇わなかった。
陸が最初にプロポーズした。
だから陸と結婚したのだ。
他に理由なんて無かった。

他に理由なんて無かった筈なのに、どうして私はこれほど愛しいと感じるのだろう?

長く望んでも出来なかった子供。
行き詰まった研究。
そして陸が囁いた。
「アンダーに潜ろう。そこが僕たちの新しい地になる」

その地で高が生まれた。
陸と私が望んで作った子供。
嬉しかった。夢の形が出来たのだと、私は思った。
しかし、元々夢とは形など無いもの。望んだ形を維持し続ける事は難しい。
それに私は、決して良い母親ではないだろうと思う。
それでもバランスをとりながら、毎日を変わらないように維持し続けていく。

高が、普通に大きくなっていく事が嬉しい。
当たり前の事だと誰もが笑うかもしれないが、私はそうは思わない。
命を維持させる事は難しい。
生み出された命が死なずに育っていく確率は、決して高くはない。
毎日大量の命が泡のように生まれ、泡のように消えていく。
残った泡のほんの小さな一塊りが、私と陸と、高なのだ。
私にとって、それは特別な泡だった。
誰にも壊させるわけにはいかなかった。

冬馬涼一が言ったように、高が私の子供として生まれた事は、単純な『運』なのかもしれない。
だが、あの子供は気付いていなかった。
そう、たとえ彼がどれほどの存在であろうと、それでも子供だから。
高が私にとってどんな存在であるのか。
私と陸にとってどんな存在であるのか。
冬馬涼一には決して解らない。

だから、その為だけに用意された『牙』がどんなものであるのかも、彼には解らないだろう。


 私は時間を稼いだ。
護ってくれるというなら、相手が悪魔でも、確かに私は構わない。
だが錯覚してはならない。
彼が私の築いてきたものを、いつでも奪い取れる場所に立っているのだという事を。

夫がいて、子供がいて、小さな家に住む。
バカな、バカな夢。
でも私にはどれだけ憧れた、大切な夢だった事だろう。
私はちっぽけな女だが、それを取り上げようとする者がいたならば、どこまでも呪われる事を覚悟しておくといい。
私の牙は小さいが、鋭い。
噛みついた小さな傷は、やがてそいつの身体を腐らせ、全身を毒の袋にするだろう。

そう。その為の傷を、私は仕込んでおこうと思う。

今から、どれくらいの間、猶予があるだろう。
2年? 3年? それとも10年くらいはあるのだろうか?
上手くいっている限り、彼は私には手を出さないと言う。
だから私は彼に協力しよう。
私がまったく彼の役に立たなかったなら、彼はあっさり見切りをつけ、全てを壊すだろうから。

それに同時に思う。
彼の提示する研究は、素晴らしく魅力的だろう。
彼の言う通り、私も実は見たいのだ。
この地の秘密を。
生と死、時間と空間。この世界以外の秩序。
私はそれに、どこまでも魅せられている。
ジャンクと名付けられた、あの異世界のモノ達に。
あれも、言ってみれば私の子供だ。
私が育て、維持し続けてきた、もう一つの子供なのだった。


プロメテウスは泥と水で人を創った。
そして自らの子供である『人』に火を与えた。
よく長く生きられるように。
よりよく生きていけるように。

私も火を手に入れたい。
子供に与える為に。
それを持って、ただ普通に生きていって欲しい。
子供の為になどと、見栄えの良い事は言わない。
それを創り出し、維持し続けていきたいと願っている、私の為にだ。

だが、冬馬涼一は私の子供ではない。
この違いが解るだろうか?
あの子供には解るまい。
子供という言葉を使う時に、その意味は二つある事を。
私はエゴイストだ。
陸と高を愛してはいるが、それは私が創り出した私の世界だからなのだ。


あとどれくらい時間はあるのだろう。
そしてどれだけ私は更に世界を創り、維持し続けていく事が出来るだろう。
今日は冬馬涼一が夕飯を食べに来ている。
陽気に笑う彼。楽しそうな陸。
はしゃぐ高。
まるきり幸せな食卓の風景だった。
夢でも、嘘でも、これを維持し続けていく事が私の望みだった。
いつか彼がこの風景を壊す事があるのなら
それはそう遠い未来ではないと思うのだが。
その時はきっと、私の牙が彼に突き刺さるだろう。

私は勝てないかもしれない。
だがそれでも、地は助けてくれる筈だ。
私は聖人ではなく、神も悪魔も信じない。
それでもこの地で子供を産んだ。
陸と、私と、そしてアンダーの子供。

龍はけっして、その子供に勝てないだろう…。




『龍の表象』
天に住むものであり、地に潜むものでもある。
飼い慣らされる事無い自然の象徴であり、地界の主。
宝物の守護者であり、秘密の知識の門番。
中国において、龍とは皇帝であり、至高の存在である。

だがキリスト教において、龍とは誘惑者であり
そして同時にこう呼ばれる。

「あの古き蛇」 と…。



 一人、また一人と、涼一の追随者は増え続ける。
彼らは涼一の後に従い、涼一が指し示す世界に自らの夢を重ねていった。
いいとも。
夢を見るといいさ。
全部引き受けてやるよ。全部叶えてやる。
欲望が全て叶う世界。
それがオレの創る世界だ。
ただしオレの手の中にいる限りは、だ。
そう。
愛してやってもいい。
オレのいい子でいるならば。

何故そうやって生きていたいのか解らない。
何故自分がこれほど貪欲なのか、常に渇いているのか、それもよく解らなかった。
祖父の言った通り、自分が龍だからなのかもしれないと思う。

生命の秘密を手に入れる。
この世界のものではない。
地の底から浮かび上がってきた異形の命だ。
自分で自分の命を贖う事が出来るようになったら、その時自分だけの世界が手に入る。

男は生命を生み出す事は出来ない。
だから自分の印を残す為には、疵をつけるしかないのだ。
世界に自分の爪痕を深く残せば残せるほど、それは自分という存在の証となるだろう。
更に言うなら、その世界は自分の世界でありたい。
自分の世界を創り、自分の爪痕を深く残す。
これこそが喜びだった。

この世界が嫌いなのは、それが自分のいるべき世界ではないからなのかもしれない。
自分は龍の子供だから。
もちろんそんな事は夢だとも思う。
どうあがいても自分は人に過ぎないのだし、限りある時間の砂は、今日も容赦なく流れ落ちていく。
それでもいつか、自らの王国が手に入る筈だった。
確信があった。
王はいつだって、生まれ落ちたその瞬間から『王』なのだ。
全てを手にする権利が、自分にはある。
でなければ、どうしてこんな風に生まれつく必要があっただろう。
夢想を現実に出来るだけの力が、黙っていても手に入る血筋に、何故生まれつく必要があっただろう。

だから慌てる事はない。
自分が望む事。
したい事と成すべき事を思うまま、ただやり続ければいいのだ。


 悲鳴が聞こえた。
ものが倒れ、壊れる音も。
激しい破壊音と重いものを引きずるような擦過音。
目の前で完全に固まっている15歳の黒羽 高の身体を引きずって、冬馬涼一は扉の外に出た。

頑丈な金属の扉を二回閉めると、中の物音は完全に聞こえなくなった。
扉にもたれかかるようにして、コウがズルズルと地面に座り込み、それからいきなり吐いた。
吐瀉物が階段を流れ落ちていく。
その背中をなでさすりながら、涼一は言った。

「警察を呼ぼう」
「父さんが…か…母さん…も…」
「見たのか、コウ?」
がくがくとコウの膝が震え始めた。
「ダメ…何も、僕できなかっ…」
「コウ、これは事故だ。コウのせいじゃない」

そう、事故だ。よくある話だ。
大体いくら許可を得ているとはいえ、地下などに研究室を作る方が悪い。
アンダーの地下は流動的だ。
いついきなり下と繋がる事になるのかは、誰にも予想がつかないのだ。
そう、それが実際に下と繋がったのが、もっと何年も前の事だったとしても。
それでもこれは、事故だった。
オレは最善の措置をとった。
生存者を助け、扉を閉めてジャンクを外に出さないように鍵をかけたのだ。
砂城市民として褒められる事はあっても、決して非難される事はない筈だ。


「涼一さま?」
陽気に笑う涼一に、榊原が問いかけた。
「楽しい事でもありましたか?」
「手に入れたよ、榊原」
涼一の手の中には、薄汚れたノートと、フロッピーディスクが握られていた。
「タイミングとしては、少し早かったかもしれない。本当はもう少し、黒羽志帆には生きててもらいたかったな。でもまあいいか。ここまで出来ていれば時間はかかっても何とかなるだろう。
彼女は優秀だが、優秀すぎるのも使いにくい。陸が邪魔をしそうだったしね」
殆ど独り言のようにベラベラと喋った後、涼一はいきなり榊原の方にまっすぐ視線を向けた。

「なあ、榊原。オレ、人を殺したよ」
「そうですか」
まるで今日の昼食の内容でも聞いているかのように、平然と榊原が答える。
「それは、フォローが必要ですか? 邪魔をするもの、処置をしなくてはならない事は何かありますか?」
「何もない。オレは上手くやった」
「解りました」
そう言いながらも、榊原の手は電話に伸びる。
多分涼一がやった事を調べ上げ、主人のした事を、より確実にする為に動くつもりなのだろう。
もしかしたら、もう全て解っていて、既に動き始めているのかもしれない。
だがそれは、涼一にはどうでもいい事だった。

何もかも上手くいっていた。
新しく始めた事業も、自分の研究所も軌道に乗っている。
今、手の中にある宝石。
それと、オプションとして自分に残された綺麗な少年。

あの時志帆は、陸を助ける為にジャンクの中に飛び込んだのだった。
そしてコウを助ける為に、オレの腕の中に突き飛ばした。
あの女は、最後まで自分が大切に維持し続けてきた『家族の幸せ』とやらを護ろうとしていたらしい。
あれほど優秀な女はいなかったのに、彼女が一番執着し、大事に抱えていたのは、恐ろしくちっぽけなものだった。
オレと一緒に、いくらでも大きな事が出来た筈なのに。
それに、自分のものを護る為とはいえ、自分自身が死んでしまっては意味が無いじゃないか。
涼一には、まったく理解出来なかった。
「つまらない女だったと言う事だよな」
フッと呟く。
そんな微かな呟きにさえ、榊原が密かに耳を澄ませて聞き漏らすまいとしているのが解った。

 …コウはオレの腕の中に投げ入れられた。
たとえオレの手の中でも、生きていればいいと、そう思ったのかもしれない。
だが同時に、オレがコウを殺したりはしない事を、コウを欲しいと思っている事を、見透かされたのかもしれなかった。

それとも、何か意味があるのだろうか?
チラリと黒い靄が頭をかすめる。
最後にあの女の顔が、ほんの少し勝ち誇ったように見えたのは、錯覚だったのだろうか?

オレの手元に残されたものは、研究成果が詰まったノートにフロッピー。
そして黒羽高。

どちらもあの女の作品だ…。


「有栖川さまがいらっしゃいました」
榊原の声で、思考は中断された。
形にならないもやもやは、現実の前に、あっさりと吹き散らされる。
そうだ。やる事はたくさんある。
迷っている時間はどこにもなかった。
まだ終わったわけではないし、成功したわけでもない。
これからが始まりなのだ。

涼一は、22歳になっていた。

彼の砂時計は、まださらさらと死に向かって砂を落とし続けている。
 

END