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僕を呼ぶ声 −voice−



「黒羽さん」
香澄が耳元で囁く。
声の響きに瞳を開けると、目の前に香澄の顔があった。
あれ? 昨日は香澄が僕の部屋に泊まったのだったか?
一緒のベッドで寝たのか?
記憶が混濁して何も思い出せない。
たぶん呆けた顔をしていたのだろう。香澄は軽く笑って、身体を寄せてきた。
「香澄……朝はダメだ。遅刻するよ」
香澄の心地よい重さに心はぐらついたが、二人そろって遅刻するわけにはいかない。
しかし香澄はこちらの言葉をまったく聞いていないようだった。
どんどん上にのしかかってくる。

「黒羽さん……」
黒羽さん? 懐かしい呼び方だった。
最初の頃、香澄は自分の事をそう呼んでいた。でも、どうして今もその呼び方をするのだろう?
もちろん名字で呼ばれても名前で呼ばれても、どちらでも自分は構わない。
香澄が名前を呼ぶことが大切だった。
香澄の声で、自分の名前が形づくられる。

『黒羽さん』 『コウ』

どちらも香澄が口にすれば、綺麗な響きだった。
でも香澄は、僕のことを名前で呼ぶことにこだわっていたはずだ。
なのに、どうして?
怒っているのだろうか?
ふっと不安が心に過ぎる。
怒っているなんて、どうしてそう思うのだろう。
何か心当たりが……。

考え込んでいるうちに香澄の手は下に伸ばされ、黒羽の下半身をまさぐってきた。
「……あっ」
思わず声が出る。
そういえば、しばらく触ってもらっていない。
仕事が忙しくなって、最後にセックスしたのは二週間も前のことだ。
「朝だから……香澄」
口に出しながら、香澄が触れてくることを、強烈に身体は期待していた。
少しだけなら。
少しだけ触りあって、キスして…それで…。
いやでも。香澄の身体を感じてしまったら、そこで引き返す事なんて出来るだろうか。

「黒羽さん」
もう一度名前が呼ばれる。
うん、香澄。
「黒羽さん?」
もう、怒っていないのか? 香澄。
「黒羽さーん」
だんだん声が大きくなっていくような気がする。
それに、怒っているとは何のことだっただろう……。
「黒羽さん、黒羽さん、起きてますかー? 黒羽さんっ」

ハッと、瞼が開いた。
夢? 夢だったのか?
僕は一度目を覚ましたと思ったのに。あれも夢だったのか?
香澄は? どこからが夢で、どこまでが夢だ?
ベッドには香澄はいなかった。
そして見上げた天井は、知らない部屋のものだった。
いや、待てよ。
ここは南署だ。砂城南署の宿舎に僕は泊まったんだ。

やっと思い出して、黒羽は身体を起こした。
そうだ。南署に一週間の出向。
「凶悪犯罪対策強化週間」に向けての特別講師。

「黒羽さん、黒羽さーん。起きてますか?」
そしてドアの外で自分の名前をずっと連呼しているのは、南署の巡査、日比野ひびの大樹だいきだった。
ドアを開けると日比野大樹は浅黒い顔に笑顔を浮かべて、スパッと敬礼した。
「……日比野さん」
「呼び捨てでお願いしますっ」
「いや…あの。時間がまだ、ずいぶん早い…ような気がするんだが」
「ええまあ、その〜」
日比野はほんの少し照れたような顔をして、頭をぼりぼり掻いた。
「そうなんですけど。あの、黒羽さん、オレに朝稽古つけてもらえませんかっ?」
黒羽は心の中で、密かにため息をついた。

嬉しそうに笑う日比野の声は、白鳥香澄にそっくりだった。

 

 

香澄とケンカをしてしまった。
いや、正確に言うなら喧嘩ではないだろう。
何故なら自分の方はまったく怒っていないからだ。
むしろなんというか。香澄の態度に戸惑っていた。
いったい何が香澄を怒らせてしまうのか、実は自分にはよく解っていない事が多い。
解っていないから、いつでもいきなり不意打ちを食らった気分になる。
それは困ったことではあるのだが、黒羽にはこういった事にたいする経験値が、圧倒的に少なかった。
だいたい考えてみると、自分の事を正面切って怒るのは香澄くらいだ。
黒羽には友人もいないし、かろうじて近い存在である桜庭も、黒羽を頭ごなしに怒ったりはしない。
ましてや他の人間は、かなり遠巻きに黒羽を見ているだけだ。
黒羽は基本的に、誰かと親しい関係を持つという状態に、まったく慣れていないのだった。

普通解ることが、たぶん自分には解らない。
そういうコンプレックスが常にあるから、香澄に怒られるたびに、きっと自分が悪いのだろうと、そう思う。
思うのだが……。
思うだけで、怒られた原因が解るわけではない。
だから黒羽は、香澄が怒るたびに、どうしていいか解らなくなり、固まってしまうのが常だった。
しかし、今回の香澄の怒りは、実は少しだけ解る。
「クリスマスの予定は?」
そんな風に妙に楽しそうに香澄が聞いてきたとき、気付くべきだったのだ。
なのに自分は不用意に、まったく何も考えず、ただ予定を言ってしまった。

「クリスマスは仕事だ」

しかし、それで香澄の気分が一気に萎んだことは解ったが、更にあんな風に怒られる流れは予想がつかなかった。
どの辺が悪かったのだろう。
南署への出向は、少し前から打診されていた仕事で、変更はきかない。
確定してから香澄に言おうと思っていたので、クリスマスの予定は、確かに伝えていなかった。
しかしそれが悪いと言われても、少し困るような気がした。
あの日は確定した予定を伝えようと、そういえば思っていたのだ。
だから言った。
クリスマスは仕事なのだと。

……たぶん、伝え方がまずかったのだとは思う。
香澄からはいつも言葉が足りないと言われるから、その時もそうだったのかもしれない。
だが結局あんな流れになってしまったため、黒羽は正確に仕事の内容を香澄に伝える機会を失ってしまった。
あえて言うなら、様々なことの「間」が、なにもかも悪かった。
そんな気がする。
香澄にちゃんと予定を伝えられなかったのも、伝えようと思ったタイミングも、足りない言葉も、何もかも一気に重なって、悪い場を作ってしまった。

『オレがいなかったら、他のヤツと寝るんだよな』

ズキリと胸が痛む。
痛いということは、その言葉で痛む心当たりがあるという事だ。
『オレは単なるセックスの相手だよな』
その言葉が腹立ち紛れに言われたのだということは解る。
しかし同時に、心のどこかで香澄がそう思っているというのも事実だった。
どうなのだろう。
セックスの相手とは、自分にとって何なのだろう。
長い間、思春期の一番そういうことに興味を持つはずの時さえ、自分はセックスを見ないようにしていた。
それはどことなく汚く、触れてはいけない衝動のように思えた。

普通に女の子が好きだったなら、そんな事も思わなかったかもしれない。
しかし、その時自覚はなかったが、自分はゲイだった。
しかも好きになった相手は、当時は兄のように思っていた男だった。
兄のような存在に欲情する。
欲情をきっちり自覚したわけではないが、それでもその感情は、ひどくいけないことのように思われた。
そしてこんな感情が知られてしまったら、彼に嫌われると思っていた。
だから、わざと閉じてしまった。
情報も入れず、そういうことに興味も持たない。
男同士の恋愛の情報など、あえて求めなければ手には入らない。
だからずっと、知らないできた。
性の衝動をきつく封じ込め、押さえ込んできた。

『一度味を覚えたら、底なしだな』

かつて冬馬に言われた言葉を思い出す。
確かに僕は、いつでも冬馬とのセックスを望んでいた様に思う。
きつく押し込めてきた分、どうしようもなく吐き出してしまったのかもしれない。
しかし僕は、あれ程望んでいたくせに、セックス自体を好んでいたわけではなかった。
いや、欲望はあるのだ。どうしようもなく男だから、身体がある限り性欲を感じないわけにはいかない。
しかし欲望を吐き出すためだけにセックスはあるのだと、割り切ることができなかった。
特別なものだと、そう思おうとしていたのかもしれない。
にもかかわらず今は、セックスに愛を求めることができない。
解っている。僕はどこかおかしい。
心が求めているものと身体が求めているものが大きく分離し、つながってくれないのだ。
だからぐるぐる迷うし、そうでなければ何も考えずに、ただ身体の欲求に従ってしまう。

つながっていないのだから、答えは出せなかった。
香澄がセックスの相手か、と聞かれたら、そうだと答えるだろう。
香澄とセックスしているのは事実なのだから。
でも、単なるセックスの相手かと聞かれたら、僕はなんて答えたらいいのか解らない。
単なるとは、どういう意味だろう。
身体だけの相手? セックスするだけの相手?
上の歓楽街に行って、行きずりの男と寝る時と同じということか?
それは違うとキッパリ言えた。
香澄とは明日も会う。
身体をむさぼって、射精して、それで二度と会わないわけではない。
僕と寝た男達が明日死んでも、自分の仕事にならない限り、僕は気にも留めないだろう。
でもそれが香澄なら違う。
明日死なないために僕は彼を護るし、もしも死んだら……。
いや、その事は考えたくなかった。
とにかく香澄は、セックスするだけの相手ではない。
彼は、僕のパートナーなのだから。

じゃあ、パートナーだというなら、何故セックスの相手なんだ?

今の流れから結論を言うと、香澄が他の男達と違うのは、セックス以外の部分だ。
じゃあどうして、僕は香澄とセックスしている?
ゲイだからか?
ゲイの欲望の部分を、香澄に慰めてもらう。
ただそれだけなのだろうか。

それだけならば、香澄がいなかったのなら。
……僕は他の男と寝るのだろうか。

その疑問には、すぐには答えが出なかった。
沈黙の間に香澄は背を向けて立ち去り、自分は残された。

一週間、ひとりきりで。

 

 

「君は強いとか弱いとかにこだわっているようだが、無条件に強いなどということはありえない」
「そうなんですか?」
黒羽は柔道場で日比野の隣に座り、強さについての講義をしていた。
浅黒い顔に眼だけをキラキラ光らせて、日比野は黒羽を見上げる。

結局黒羽は、日比野大樹に朝稽古とやらにつきあわされて、南署の道場で一汗かくはめになった。
何度投げても倒しても立ちあがり向かってくる日比野の熱心さには好感が持てたが、どうしてこんな風に彼にまとわりつかれるようになってしまったのか、黒羽にはサッパリ解らなかった。
なぜなら最初に彼と顔をつきあわせた時、ものすごい目で睨まれたからだ。
憎しみや恨みの目ではもちろん無い。
しかしその目は、あからさまに勝負を、というよりどちらかというと、喧嘩を仕掛けてくるような目だった。
初対面の彼に喧嘩を売られる理由がわからない。

しかし彼がそんな態度をとる事は、どうやら普通であるらしく、南署の人間は、みな苦笑いして肩をすくめた。
特に日比野の直属の上司である生活安全課の課長は、黒羽の肩をたたいてこう言った。
「あいつ、日比野のヤツを投げ飛ばしてやってくださいよ」

もちろん何もしていない男を、いきなり投げ飛ばすわけにはいかない。
実際に投げ飛ばしたのは、西署における実際の事件とその対策についての講義をした後だった。
講義の間中睨まれていたので、自分が彼に歓迎されていないことだけは確かだと思っていた。
なのに何故か、その後行った柔道の稽古が終わったら、突然ものすごい勢いで彼にまとわりつかれる事になってしまった。
喧嘩を売ってくるような火花を散らす瞳が、気がついたら何かを激しく期待するキラキラ光る瞳に変わっている。
彼の豹変を不審に思っていることが、お茶を持ってきた婦警の一人に露骨にバレたらしい。彼女は軽く吹きだした。
黒羽が疑問の表情を向けると、彼女は頬を染めてこう言った。

「日比野くんは、強い人マニアなんですよ」

強い人……マニア?
黒羽は首を捻る。
「えーとですねえ」
婦警は黒羽と話せるチャンスを逃すまいと、ここぞとばかりに説明をはじめた。
「彼、南署では有名で。とにかく強い人が好きなんです。それも肉体的に」
「…肉体的に?」
「つまり格闘とか射撃とか、具体的な戦闘面についてですね。男の子は強い男が絶対的に好きなものだと言いますけど、それをずーっと引きずっている感じでしょうか。
もちろん本当の子供じゃないですから、人には、強い、弱いの他に色々な才能や長所や付加価値があるということは解っているでしょうけど。
でも日比野くんが純粋に価値を認めるのは、戦う事に関して強い人だけです」

「巡査部長、柔道場で日比野くんに指一本かけさせないで圧勝したでしょう? だから好かれちゃったんですよ」
いきなり後ろから、別の婦警の声が響く。
黒羽が振り向くと、ドアの向こう側には何人もの婦警がこちらをのぞき込んでいた。
自分の外見がある程度女性を惹きつけることは、さすがに黒羽も自覚していたので、あまり驚きはしない。
それにこの状態は、男にまとわりつかれる事より、ずっと解りやすかった。
たぶん単純に、普段見ない顔がもの珍しいのだろう。(←黒羽、根本的な所で、よく解っていません)

「階級じゃなく、名前で呼んでいただいてかまいませんよ。講師で来ていますから」
黒羽がそう言うと、婦警達はいっせいにキャアとかわあとか、はしゃいだ声をあげた。
「日比野くんは、本気で子供なんです。二十三にもなってあれはどうかと思うくらい」
「そうそう、社交辞令とか言えないタイプ。純粋と言うにしても、社会人としてあれはどうよ、というか、せめてもう少し、ねえ」
「彼、大樹なんて名前の割に、身長はそれほど高くないでしょう? だから余計体格をよくしようとか、筋肉つけようとか、身体を鍛えることに入れ込んじゃっているわけですよ」
雀のさえずりのような婦警達のお喋りが、一斉に黒羽に向かって浴びせかけられる。
シャワーのように降ってくる言葉の洪水に、黒羽は圧倒されてしまった。

だから、僕に投げ飛ばされたから、僕を認めたと、そういうわけか?
しかし彼は、最初のうちは僕をあからさまに嫌っているようだったが…。

黒羽の無言の質問には、勝手に婦警達が答えてくれた。
「だいたい何よ、あれ。黒羽さんが来るーって私たちが騒いでいたときは鼻でせせら笑ってたくせに。いきなりあの、すりよる態度」
「ああ、そうそう。日比野くんは黒羽さんのこと、馬鹿にしてましたからね、最初は」
「うんうん。綺麗な男が強いはず無いとか。肌が白いのは男らしくないとか。見た目で強さが解るのかお前は、って言いたい」
「噂なんて大きくなるもんだ。実際は張りぼての椅子の上でふんぞり返っている男じゃないのか、とかさ」
「講師だなんて偉そうに来やがったら、化けの皮はがしてやるですって。結局ぜんぜん黒羽さんには勝てなかったのにね」
「……ああ、えーと」
エスカレートしていく彼女たちの言葉を、さすがに黒羽は咳払いでさえぎった。

「彼はその。弱くはないですよ。むしろ強いほうでしょう。技術も力も充分ありますし。日々の鍛錬も忘れていない。たぶん今回は気負いすぎていたのでしょう。あまりにも投げ飛ばす気満々だったし。殺気がありすぎると、手の内が読めてしまいますから」
黒羽にしては長い言葉を、何とか口に出す。
別に彼を庇うつもりもないが、このまま彼が「弱い」とレッテルされてしまうのは気の毒な気がしたのだ。
実際、彼は強い。
ただ、勝てなかっただけだ。
強くても勝てない。そんな事はいくらでもある。
しかし、どうやら日比野という男は単純な世界に生きているらしい。
負けたことで「弱い」とレッテルされることは、きっと彼のプライドを深く傷つけるだろう。

しかし婦警達は、そんな黒羽の気遣いのようなものを鼻で笑った。
「黒羽さん、日比野くんはね、そんな繊細なタマじゃないんですよ」
「そうそう、すっごい無神経なんです。超図太い」
「少しくらいへこんでるところを見たいですよ」
「もっとバンバン投げられるといいんですよ」
「そう……なんですか」
黒羽の眼は、たぶん点のようになっていたに違いない。
婦警達はケタケタと笑った。
「日比野くんはね、馬鹿だから。強い人が本当に好きなんです。黒羽さんに突っかかってこてんぱんにやられたことなんて、むしろ嬉しいんじゃないですか? だって強い人が見つかったんですもの」
「ためしに突っかかってみないと解らない、というところがますます馬鹿だよね」

ああ……、と黒羽は思う。
これだけ言いたい放題誹られても、日比野という男は愛されているらしい。
それが黒羽には、ほんの少し羨ましかった。
自分ならこうはいかないだろう。
誰かが自分の事を悪く言うときは、それにいい感情が伴うことなど無い。
しかし……。
ふっと、香澄が頭に浮かぶ。
怒っていた香澄。
あんな風に僕を怒るのは、香澄しかいない。
いつも怒られると、僕は戸惑ってしまう。
でも、香澄に怒られると、しまったとは思うけれど、決して不愉快じゃない。
それは、つまり…同じ事なのだろうか。
怒っているのは確かかもしれないが、それでも香澄は僕を……。



黒羽の思考が日比野から香澄に移りかけた瞬間だった。
恐ろしく大きな声が廊下に響いた。
「おいっ。人のことピーチクパーチクしゃべりやがって。仕事に戻れよっ!!」
「……香澄?」
黒羽は思わず呟いてしまう。
もちろん香澄ではなかった。香澄はあんな乱暴な話し方はしないし、南署にいるはずもない。
しかしその声は、恐ろしく香澄と似ていた。
「ああ、日比野くんだ。すみません黒羽さん、うるさくしてしまって」
婦警達は、あーあ、とため息をついたが、それでも三々五々散っていった。
「なに喋ってたんだよ」
「ホントのことしか言ってません」
「嘘だ。なにか吹き込んでたんだろ」
「日比野くんは馬鹿だから、躾けてやってくださいね、って黒羽さんにお願いしていたんですよー」
「なんだ、それっ!」

黒羽はあっけにとられた。
このやり取りは何だろう。なんというか…まるで学校のようだ。
南署は比較的のんびりした雰囲気で、緊張感も足りないと聞いていたが、そういうことなのだろうか?
呆然とソファに座っていると、婦警達を全員追い払ったらしい日比野が、しかめっ面をして部屋に入ってきた。
しかしその顔は黒羽を見た瞬間、パアッと輝く。
日比野は入り口で直立不動になり、カチンと踵を合わせて敬礼した。
「日比野大樹巡査であります。黒羽巡査部長、先ほどはご指導ありがとうございましたっ!!」
黒羽は慌てて立ちあがり、敬礼を返した。
見下ろすと、10センチほど下から、浅黒い顔とキラキラ瞳が見上げてくる。

ドキリとした。
砂城に赴任してきた香澄と初めて会ったときも、こんな感じで見上げられたような気がする。
同じ様な距離で、こんな風に敬礼して。
たぶん年齢も似たようなものだろう。
もっとも顔は、二人はあまり似ていなかった。

「…ええと」
「はいっ!」
「日比野さん」
「呼び捨てでお願いしますっ!」
「君は、仕事は?」
「巡査部長がここにいる間、その補佐をするように命じられましたっ。何でもお申し付けくださいっ!」
あまりに元気がよすぎて、すべての語尾が破裂音で終わっている。
「僕の補佐? 君は、パートナーはいないのか?」
「いますけど、今回は俺が、いや、僕、私がっ、巡査部長のっ…」
「いつもの話し方で構わないよ、僕のことも、名前で呼んでくれていいから」
日比野は目をまん丸く開き、それから香澄にそっくりな声で叫んだ。
「はいっ、黒羽さん。よろしくお願いしますっ」

それは……。
警察官として初めて自分の前に立った香澄が言った言葉と同じだった。
挨拶なんだから、同じで当然なんだ。
そう自分に言い聞かせながら、それでも黒羽の心は妙にざわついた。

 

 

「でも、黒羽さん。無条件に強いなどということはありえないって言いますけど、それでも絶対的に強い場合はあるでしょう? 大人と幼児だったら大人のほうがいつだって強いし、プロの格闘家とがりがり痩せたシロートだったら、確実にプロの格闘家の勝ちですよ」
日比野は承服しかねるように唇を尖らせる。
香澄も不満だと唇が少し尖る。それを思い出して、黒羽の口元はほころんだ。
しかし逆に、日比野の口がきつく結ばれたので、黒羽も慌てて表情を引き締めた。
そう、彼にとって、「強さ」は絶対なのだ。
彼の言を馬鹿にした笑いではなかったが、タイミングによっては誤解されるということだ。
現にこんな風に間が悪くて、香澄を怒らせてしまったのだから。

「ああいや。言いたいことは解る」
黒羽は真剣に日比野に向き直る。その瞬間、日比野はびくりと身体を震わせた。
香澄もたまに同じ様な反応をするが、自分の動作は時々こんな風に、人を驚かせてしまうらしい。
そんなに唐突なのだろうか。それとも危険に見えるのか。
少し落ち込みかけたが、すぐに黒羽は説明に戻った。今は自分の気分より、彼に説明することの方が大切だ。

「大人と幼児だったら、ほとんどの場合確かに大人の勝ちだ。プロの格闘家と素人だったら、プロの方が非常に有利だろう。しかし、それは同じ条件でリングに上がった場合に限る」
「同じ条件?」
黒羽は頷いた。
「スポーツでの試合はみんなそうだ。自らの肉体以外の条件は一緒。そして共通のルールがある」
はあ…、とぼんやりした返事を日比野は返してきた。
多分黒羽が何を言いたいのかよく解らないのだろう。
黒羽は唇を曲げて笑った。

「では、両手両脚が動かせないような恐ろしく狭い場所で、ルール無しに大人と幼児が戦ったらどうなる? 幼児は脚の間に潜り込んで、急所にがぶりと噛みつくこともできるぞ」
日比野はギョッとした表情をした。
「プロの格闘家は素っ裸で、身を隠す場所もない。物陰に隠れている素人が銃を持っていたら?」
「…そっ。それはその。ええと……。そんな極端な例を出されても」
「君が言っている強さというのは、実戦における強さのことではないのか? それともスポーツのことだったか。実戦になってから、そんな例はありえないと、そう言い訳するのか」
「あっ…ううう」
日比野は目を白黒させてから、唇を噛んだ。

「もちろん鍛えれば人は強くなる。戦ったとき常に有利なのは、自らの研鑽を怠らなかった人間の方だ。しかし、どれだけ強くても実戦での勝敗は、+α(プラスアルファ)が大きく左右する」
「+α(プラスアルファ)ってなんです?」
日比野の瞳がきらめく。どうやら彼には非常に興味深い話題らしい。
だが残念ながら黒羽は、彼の期待に応えることはできそうになかった。
「まわりの状況だ」
「はあ…まわりの状況」
どんな訓練をすればいいかなど、何か秘訣を教えてもらえると思いこんでいたらしい日比野は、マヌケな声を出した。
「状況ですか」
黒羽は頷いた。
「実戦では様々なファクターが存在する。障害物、地の利、人質の有無。たとえばどれだけ肉体的に強くても、ファクターを無視する人間は、決して勝てない」
「それはその〜…。どれだけ訓練しても無駄って事ですか?」
黒羽の眼が、スッと細められた。

「訓練は、何のためにする?」
「えっ……。そりゃあ、強くなるため…」
「死なないためだ」

黒羽は、ぶつりと切り取るように言葉を発した。
日比野の瞳が一瞬見開き、喉がごくりと鳴る。

「実戦の勝ち負けは、スポーツのそれとは違う。実戦で負けるとは、死ぬことだ」
「…に、逃げるのは?」
黒羽は首を横に振った。
「勝ちではないかもしれないが、負けでもないな。何故なら実戦にはルールがない。時間制限もない。死なない限り、次の一手が出せる。
もちろんその時の失敗は償えない。実戦は勝負ではないから、本来は適切な言い回しではないかもしれない。
だが、勝ち負けを当てはめるなら、生きている限り負けではない」
黒羽はくるりと日比野の方を向いた。

「ファクターによってはどうしても勝てない場合もある。しかし訓練は自分が死なないためにある。無駄だとは、僕は思わない」
黒羽は唇を結んで、それからもう一度開いた。
「君は、絶対に死ぬな」

「……はい」
迫力に押されるような形で、日比野の口から返事が漏れる。
少しの間、二人の間に沈黙が流れた。
しかし婦警達が言っていたように、日比野は図太いタイプだった。
重い沈黙をあっさりと破る。

「要するにこうですか? まわりの状況をスパッと読んで、臨機応変に対応すれば勝てる。そういう事ですよね」
黒羽は日比野に解らない程度に苦笑した。
実戦は勝ち負けでは計れないと自分は思うが、日比野はどうしても「勝負」したいらしい。
「まあ…。そういうことだが。人には得意不得意があるし、運にも左右される。だから絶対的に強いということはありえない、と言ったんだよ」
「でもなあ…」
ブツブツと口の中で日比野は呟く。
なんとなく生徒に教えている教師のような気分になって、黒羽は促した。
「なに?」

「黒羽さんの言わんとしていることは解るんですよ。でもですね、強い人はメッチャ強いでしょう? たとえば黒羽さんなんて、俺から見たら神憑り的に強いですよ。
さっきの朝稽古だって、確かに数回、俺は黒羽さんと組ませてもらいましたけど。でもあれ、練習用でしょ? 黒羽さん、俺にわざと組ませたんでしょ? 初日の時みたいに組まないで投げ飛ばしてばかりいたら、練習にならないから」
「ああ…うん」
「そんな黒羽さんでも、どうしても勝てない状況なんてあるんですか?」
「……あるな」
「あるんですかっ。ええええ?」
「信じられないか?」
日比野は何度も大きく頷いた。

「……あるよ」

そうだ。何度もある。
どうにもならなくて唇を噛んだこと。
ほんの僅か手が届かなくて、すり抜けて落ちてしまった命。
いくつもある。
自分は日比野みたいに勝負にはこだわれない。
勝つも負けるも、どうでもよかった。
僕のせいで命が失われたのなら、僕自身が勝とうと負けようと、それは失敗だった。
そう。
日比野には死ぬなと言ったが、僕は彼に何かを言う資格など、無いのかもしれない。
ずっと自分は死んでもいいんだと、そう思い続けているのだから…。

けれど……。
失敗だったとそう言ったら、香澄に殴られたな。
一つの命を助けた事が、失敗だったのかと怒鳴られた。

香澄はいつでも僕をそんな風に怒る。

「黒羽さん、どうかしましたか?」
香澄と同じ声の男が、不思議そうにこちらを見ていた。
黙ってしまったのが不審だったのだろう。
けれど彼は、黒羽の曖昧な言葉に、なんとなく納得はしたようだった。
どんな納得をしたのかは解らないが、これ以上追求されたら、たぶん自分はひどく困るだろう。 
こんな風に、簡単につまずいてしまう男が強いなんて、自分ではどうしても思えなかった。
強いとは、どういうことだろう。
自分から見たら、香澄も、この日比野という男も、充分強い。
彼らは二人とも、僕に投げ飛ばされると悔しそうな顔をする。
そんな風に、上を見続ける心がある人間のことを、「強い」というのではないだろうか。
もっとも僕の考えに、日比野は納得しそうもなかった。



はっ、と気がついて、黒羽はドキリとする。
日比野の瞳が見開かれ、前よりもキラキラと輝いていた。
……ちょっと待て。
いったい彼は、僕の沈黙に、どんな納得をしたんだ?
彼がこんな瞳をするのは、強いと思った時なんだろう?
いま僕は、勝てないこともあるって言ったばかりだぞ。
恐る恐る黒羽は尋ねる。
「ええと…日比野くん?」
「呼び捨てでお願いしますっ!」
「あ、いや、ええと。君は今、僕の話を、どう聞いたんだ?」
「どうって…。勝てなかった相手がいたんでしょう?」
「ああ、うん」
それは正しい。
「でも黒羽さんは生きている。だから負けてない」
「ああ…そ、そうだな」
理屈から言ったら、そういう事になるかもしれない。
「だから今は黒羽さんは、そいつを投げ飛ばすために、次の会心の一手を用意してチャンスを窺っている!!」
「……うっ…」
違う、とは言いきれない。しかし、どこかずれているような…気がする。

自分が勝てなかった相手は冬馬涼一だから、確かにある面において、それは正しい。
しかし。どうもこちらが抱いているイメージと、日比野が心に描いているイメージは、果てしなく反対方向にずれているような気がした。
もっとも、どう訂正していいのか黒羽には解らなかった。
解らないでいるうちに、日比野のキラキラ瞳は、ますます輝きを増していく。
「やっぱりすごいッスよ、黒羽さんは。師匠って呼んだらいけませんかっ?」
「……申し訳ないけど、それはやめてくれ」
勝ち負けで言うなら、いま自分は絶対、日比野大樹に負けている。
にもかかわらず、このギャップは何なのだろう。

かつて香澄に目の前で『レフトハンドショットガン』と連呼された記憶が甦ってくる黒羽だった。

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