僕を呼ぶ声 −voice−3


黒羽が宣言したとおり、長期戦にはならなかった。
というより最初の2班は、ほとんど瞬殺の勢いだった。
もちろんテロリスト黒羽側の圧勝である。

黒羽が建物の中に入ったら即時ゲーム開始。この言葉の意味が最初の班には解らなかったらしい。
入った瞬間、黒羽は振り返って引き金を二度引いた。
入口すらにも入れないまま、呆然と胸のペイント弾を見下ろす男が2人。
最初の班は、結局3人で突入するはめになった。
3人ではまったく黒羽に歯が立たなかった。
次々と胴体を撃ち抜かれて、黒羽が潜んでいる場所を探り当てることすら出来ずに、最初の一班は全滅した。
その班の中に、日比野も混じっていた。彼は香澄と違い、銃の扱いはあまり上手くないようだった。
悔しそうに胸のペイントを睨みつけている。
黒羽は第一班に向かって言った。
「君たちがここで得た情報は、後の突入メンバーに教えても構わない。時間制限がないのだから、経験はじっくり検討して作戦に生かすように。
当然後の班の方が有利になるが、これはチーム戦だ。失敗したなら、その経験を後の仲間の成功につなげろ」

黒羽の忠告通り、第二班はある程度作戦を立てて突入してきた。
一班から建物内部の情報を得たらしい。壁を効果的に使って身を守りながら入ってくる。
しかし彼らの突入は、愚直なほどセオリー通りだった。
そして黒羽は、彼らが作戦を立てているあいだ、ただ黙って待っていたわけではない。
建物内部に残っていた机やロッカーなどを動かし、ルートや行動領域を微妙に変えていた。
「あれっ?」
「ヤバイ、戻れ!」
トップアタッカーがトラップに気付いた時にはもう遅かった。
廊下の角から黒羽が腕だけを伸ばし、ペイント弾を連射する。
ファーストとセカンドが瞬時に倒され、サードのリーダー役がかろうじて撃ち返すが、その時は黒羽の腕はとっくに引っ込んでいた。

黒羽はただでさえ狭い廊下にロッカーなどを配置して、更に狭くしておいたのだ。
インドアファイトの場合、狭い廊下や階段が一番の危険区域になる。
狭いから横への展開がきかない。なのに奥行きだけはあるので、待ち伏せにピッタリとなる。
その廊下を更に狭くしておいたため、廊下に突入した瞬間に、二班の5人は完全に縦一列に並んでしまった。
その瞬間を逃さず黒羽は撃った。
前の人間の身体で射線が遮られ、後ろは銃を撃てなくなる。逃げるにしてもまともに背中を向ければ格好の標的だ。
さすがにリーダーは背中を向けることはしなかったが、黒羽はすでに次の場所に移動していた。


結局二班は、自爆でジエンドとなった。
つまり人質を撃ったのだ。
最初のトラップに過敏になった五番手が、動いた人影をよく確認しないで攻撃した。
人形を動かしたのはもちろん黒羽だ。単純に紐を付けて引っぱっただけだが、トラップを過剰に警戒していた彼らは簡単に引っかかった。
人質を撃った時点でゲームオーバーだったが、黒羽は反対側から3人の胴体にきっちりペイント弾を撃ちあてた。
二班の全員が、ガックリと首を落として外に向かって白旗を振る。

あきらかに彼らは、こういう突入行動に慣れていなかった。
黒羽は指の先すらも汚れていない。
まあそれは仕方ない、と黒羽は思った。
こんな訓練は、普通の警官がやるものではない。
だからこの訓練は、黒羽を打ち倒す事が目的ではなかった。
「もっとも、それに誰が気付くかだが…」
呟きながら黒羽は次の突入に備えた。
「次は彼が突入してくるわけか」

 

 

驚いたことに彼はリーダーだった。
班の中には彼より年上の警官も混じっていたが、彼がリーダーなのはその資格があると判断されたからに違いない。
優秀だ、かなり。
まだ名前すら聞いていなかったことを黒羽は後悔する。
こういった突入に慣れていない事は解ったが、彼をリーダーとする三班は、前の2つの班と比べると、はるかに黒羽をてこずらせた。
もちろん前の二つの班から情報を得ている分、後の班の方が有利だ。
廊下のトラップには当然引っかからないし、角を出る前には、必ず鏡で周囲を確認警戒する。
仕方ないので黒羽は班を分断することにした。
1対5より、1対2や3の方が当たり前だが有利になる。
黒羽は遮蔽物を利用しながら、足音を立てずに移動した。

足音を立てない移動方法は訓練によって身に付く。
残念ながら三班の全員とも、その技術は持っていなかった。彼らの動きは、黒羽にはほとんど筒抜け状態だ。
しかし黒羽はあえて気を散らした。
その気になれば足音だけで、何人の人間がどこに向かうのかも判断できる。
しかしそれはいくら何でも不公平だろう。
自分の探索能力がずば抜けているのは自覚している。足音の情報は、だいたいの位置を判断するくらいに留めておくべきだ。
彼らは一階の探索を終わり、いま二階に上がろうとしている。
しかけるなら階段がベストだろう。
黒羽は動こうとして、フッと首を捻った。

何かノイズが聞こえる。
だがそれに注意を向ける前に、彼らが階段を上がり始めていた。

「またロッカーだ…」
「今度は階段で罠をしかけるつもりか?」
廊下の情報を得ている三班は当然警戒した。
トップアタッカーがリーダーを振り返る。
「とりあえずロッカー自体には何も無いように見えるが、迂廻するか?」
リーダーの彼は首を捻った。
「いや、ここに仕掛けられているならば、他にも仕掛けられていると思う。黒羽巡査部長が抜け道を見逃すとは思えないし。もし抜け道みたいに見える場所があるなら、逆に危ないんじゃないだろうか」
「じゃあ」
「迂廻は無し。前進する。ただし前後に注意しろ」

ロッカーは階段の手すりに斜めに立てかける形で進路を塞いでいた。
上をまたぐのも下をくぐるのも、少々きつい。
一番手が下をくぐる。
「装備が引っかかるぞ。注意しろ」
「上からの方が楽かな?」
二番手が上を通り、リーダーの彼がやはり上を抜けようとしたその時だった。
いきなり階段の上からペイント弾が発射された。
ペイント弾はリーダーを手助けしようとしていた2番手の背中と、リーダーの腕に当たる。
2番手セカンド死亡」
黒羽の声が廊下に響いた。
「うわっ!」
「う、上だっ」
踊り場から更に上がった手すりのあいだから、黒羽の腕がチラリと見えて、引っ込む。
リーダーの彼は素早く銃を構えたが、不安定なロッカーの上からでは狙いが定まらなかった。舌打ちをして、前方に飛びおりる。
すると上から、もう一つロッカーが落ちてきた。
「わああっ!」
慌てて飛び退ったそこに、耳が痛くなるような金属音が響く。
落下したロッカーは前のロッカーを押し潰し、完全に階段を塞いでしまった。
「上、追うぞ」
リーダーがトップアタッカーに顎をしゃくる。
「し、下の奴らは?」
リーダーは大声で怒鳴った。
「迂廻ルートを探してくれ。とにかく上だ。トラップに気をつける以外は、ステルス行動は解除する」

怒鳴ったら作戦が筒抜けだ。
黒羽は首を捻った。彼は優秀だが、やはり慣れていないという事なのだろうか。
しかしとりあえず分断には成功した。
これで4対1から2対1になったわけだ。
そして分断する事の利点は、もう一つある。
黒羽は二階を通り過ぎ、三階まで駆け上がった。

「うわ…暗いぞ」
黒羽の後を追いかけて三階まで上がった二人は、最上階の暗さに驚く。
下の階は窓が割れて外の光が入ってきたが、ここの窓にはみな板が打ち付けられていた。
廊下にはまだ下からの光が届くが、部屋の内部は間違いなく真っ暗だろう。
いままでの二つの班は最上階までは上がってこられなかった為、この階の情報はまったく無い。
「気をつけろ」
言った瞬間ペイント弾が何発も壁に命中する。
「チッ。向こうのほうが先に来てるから目が慣れてるんだ」
身体を低くしながら二人は撃ち返す。
「移動しながら撃つぞ」
「えっ? それじゃ当たらないと思うが」
「当たらなくてもいい。一発必中が必要な場面じゃないんだから。逆にここに居座っていたら場所が丸わかりで狙い撃ちだ」
幸い廊下にも遮蔽物になるものがゴロゴロ転がっていた。
二人は移動しながら向こうからのペイント弾の直撃を避け、撃ち返す。
「くそっ。大分目が慣れては来たが、黒羽巡査部長がどこにいるのかサッパリだ」
「移動はこっちより手慣れてるって事だろう? だが下の班が上がってくるはずだ。そうしたら挟み撃ちにできる」


しかしその目論みは、あっさり流れた。
廊下の向こうから強い光が、こちらに向かって突然あてられる。
暗闇に慣れた目に、光は一種の凶器だった。
「くっ」
ファーストアタッカーの男は見えなくなった目を瞬きながら、光源に向かってペイント弾を乱射した。
「あっ、畜生」
「うわっ!」
光源から悲鳴が上がる。
「ちょっと待て、いまの声は」
「同士討ち、4番手と5番手、死亡だ」
「えっ!?」
リーダーが顔を上げると、目の前に左腕を伸ばした黒羽が立っていた。
「そしてファースト死亡」
声と同時に、目をやられたファーストアタッカーの胸に、ペイント弾が叩き込まれる。

「くっ!」
リーダーは反射的に、黒羽に銃口を向けて引き金を引いた。
しかし解っていた。
先ほどの撃ち合いで銃の遊底は下がり、ホールドオープン状態になっている。
弾切れだ。
間違いなく最後の一発が撃ちきられるのを見計らって黒羽は出てきたのだろう。
黒羽のペイント弾が、あっさりリーダーの胸に炸裂する。
「こういう撃ち合いの時には、リロードが大切だ。残弾数を常に覚えておき、最後まで弾を撃ちきらないうちに弾倉を交換すること」
黒羽の言葉に、リーダーは唇を噛んだ。

「…あの光は、黒羽巡査部長が?」
「違う、君のチームメイトだよ。暗いから明かりをつけたんだな」
リーダーの彼は静かに首を横に振った。
「それで、同士討ちか」
「複数から突入する場合、同士討ちの危険が常にある。たまたま明かりをつけたために同士討ちが早くなったが、一応明かりが無くても狙っていたよ、僕は」
「そうですか…。三階が暗かったのが盲点でした。」
「三階が暗いだろう事は、外から見れば解る」
「はい。オレの注意力不足です」
「では、班が分断された場合の予備(バックアップ)プランはあったんだな?」
「はい。単純なものですが。ステルスから突入プランをダイナミックに変更。両側から一気に黒羽さんを取り囲んで連射予定でした」
「OK。班が訓練を積んだ正式な突入班なら可能だっただろう。残念ながら今回は即席編成だった。しかし最後に一つ質問がある。人質への考慮は?」
「……それは」
彼が何か言いかけた時、ノイズが黒羽を振り返らせた。
「誰だ!」
反射的に左腕が伸びて銃を構える。
しかし……。


「コウ!」

「……っ香澄!?」


黒羽は目を見開き、銃口がほんの僅か上にぶれる。
その瞬間だった。
発射音と共に、黒羽の肩にペイント弾が命中した。
「…あっ…」

黒羽は肩に触れて、手についたペイントを確認する。
必死の形相で銃を構えているのは、香澄ではなく日比野大樹だった。
ガチガチと歯をならしながら、銃と黒羽の顔を交互に見る。
「あ…当たった?」
「当たったな。僕の負けだ」
黒羽は座り込んでいるリーダーを見下ろすと、薄く笑った。

「そうか、六人か。五人一組ではなく、六人で突入したのか」
「…はい。日比野のアイディアです」
「なるほど。それで途中で大声で指示したわけが解った。君たちの状況が彼に聞こえるように怒鳴ったんだな。日比野くんが人質の捜索を担当か?」
「そうです。同士討ちしないようにルートを決めて」
「なるほど」
黒羽はまだガチガチに銃を構えている日比野の腕を、軽く押さえた。
「日比野くん」
「は、はいっ」
「もっと下だ。下を狙う。人の胴体に当てるつもりなら、突っ立っていたらダメだ。もっと腰を落とせ」
「こ…こうですか?」
「そう、銃は出来るだけ低く構えろ。そうすれば確実に身体にあたる。
今回は運良く肩にあたったが、それは僕の身長が高かったからだ。
それに肩では相手の動きは止められない。胴体に数発撃ち込むことが必要なんだ。弾が逸れたときのために、せめてもう一発撃っておくべきだったな」
「は、はいっ…」

「それで日比野くん、どうして6人で突入するプランを?」
「あ…ええと。その。黒羽さんが前に言ってた事を思い出して。
幼児と大人で戦ったとしても、幼児に有利な条件さえセッティングしてあれば勝機はあるって話。
実戦ではルールはない。時間制限もない。これは練習ではあるけれど、実戦の模擬戦。そうでしたよね?」
「ああ、そうだ」
「最初にファイブ・マン・セルとは言われましたが、その後のルール説明に人数制限はありませんでした。自由に作戦を立て、どこの班がどう突入してきてもかまわないという事でした。だから……」
「うん、なるほど。解った」
黒羽は満足そうに頷いた。

「もともとこのゲームは、僕を倒すのが最終目的ではなかったんだ」
「え? そ、そうなんですか?」
「即席のチームで、いきなり僕を倒すのは難しいよ」
「ええと…ええと、でも勝ちましたよ」
「日比野くんというイレギュラーがなかったら、三班も全滅だった」
「…そ、そうかもしれませんけど」
「だから」
黒羽は薄く笑った。
「だから、そこが大切なんだ。誰がいつ、どんな形で気付くかと思っていた。日比野くんとは意外だったが、君は勝利にひどく貪欲だったな」
「…う…ええと」
黒羽は三班全員を集め、白旗をリーダーに差し出す。

「これは僕がしかけたゲームだ。ルールも僕が決めた。僕を倒せばお終いの簡単なゲームだが、僕のルールに囚われている限り、君たちに100パーセント勝ち目はなかった。
だから肝心なのは、僕のルールで目隠しされている事実に気付くことだったんだ。
いいか。戦うときはこちらでルールを作れ。それも君たちがマスターすべき事の一つだ」
言い終わると、黒羽はすうっと笑った。
「講義終了。よくやった」


二階の窓から白旗が外に振られ、三班の勝利が告げられる。
下で待っていたペイント弾まみれの聴講生達は、一斉に大きな歓声を上げた。

 

 

「日比野くん」
「はいっ、黒羽さん」
「あの…さっきは何故。いやその。君は、コウって呼んだか?」
「あっ。ああっ」
日比野の顔が真っ赤になった。
「す、すみません、ええと。馬渡に銃が突きつけられてるんで、ちょっと慌てちゃって…」
「馬渡? 君が馬渡くんか。日比野くんのパートナー?」
黒羽は驚いてリーダーの彼を振り返った。
彼、馬渡はきょとんとした表情をして、黙って頷く。
馬渡浩介まわたりこうすけ巡査です」
「コウスケ…。ああ、それでコウ」
「すみません。子供時代の呼び方が、慌てるとたまに出ちゃって…」

「そうか。いいパートナーだな。質問も鋭いし、実技も優秀だ」
「あ…ありがとうございます」
「馬渡くんがセオリーに忠実に。日比野くんがそれを破るわけか」
「そんなところです」
「なっ、何の話だよ、馬渡。俺を馬鹿にしてないか?」
「してない。今回のアイディアもお前だろ?」
「そ、そうだけど…お前はいつもさあ」
言い合いをする二人は、黒羽の中に微かな苦い気持ちを湧き上がらせた。

「日比野くん、明日はもういいよ」
「えっ?」
日比野は驚いたように黒羽を見上げる。しかし黒羽は日比野に視線を合わせなかった。
「明日からいつものように、パートナーと組んで仕事をするように」
「どうしてですか? そばで勉強させてくださいよ」
「肝心なことは、もう教えたよ」
「だって、あと一日じゃないですか」
しかし黒羽は視線を遠くに向けたまま、首を横に振った

「一人で、いたいんだ」

そうだ、一人だ。
黒羽は心の中で呟く。
ここに僕のパートナーはいない。
僕の名前を呼ぶ者はいない。

ここがどれだけいい所でも、どれだけ似た声で呼ばれても。
それでもここは、『違う』のだ。



香澄の声かと錯覚した瞬間に、僕は身体を開いてしまった。
そう、日比野の射撃の腕なら、身体さえ開かなかったら、弾が当たったのは腕だっただろう。
いや、それより先に僕は引き金を引いていたはずだ。
訓練を受けた身体は、日比野の足音に反応して、左腕は勝手に上がった。
通常なら、瞬時に彼を撃っていた。
なのに僕は彼の声と僕を呼ぶ名前に、反射的に振り返り、身体を開いたのだ。
香澄だと思った。
僅か0.1秒、僕はごまかされて侵入を許した。

こんな簡単なことで僕は負ける。
こんな男が強い筈がない。

最終的に、講義は思惑を遙かに超えて成功した。
彼らは一つ学び、勝つことによって自信もつけた。
だから彼に撃たれたことはよかったのだ。
でも僕は、誰にも悟られたくなかった。
僕がどれだけ情けないか。
どれだけ弱いか。
正義の味方なのかと幼い香澄に聞かれたときも、僕はこんな風に装った。
そうだと言って笑い、強い存在として振る舞った。
僕自身の弱さをさらけ出しても、誰の役にも立たない。
弱さを知っているのは自分自身だけでいい。

ここには、僕の弱さを知っている大人の香澄はいないから。
僕は、一人だから……。

 

 

「黒羽さん…」
後ろから、小さく声がかけられた。
気がつくと南署の裏手に黒羽は来ていた。
土手のようになった草原に座って、視線を遠くにさまよわせる。
ここは居住区ギリギリの辺りで、もうこの先、建物はまったく建っていなかった。
振り返ることなく、黒羽は唇だけを動かす。
「日比野くん」
今は誰の声か、はっきりと区別できた。
後ろから声をかけられても、多分もう間違えることはないだろう。

「なんだい? 日比野くん。申し訳ないけど今日はもう、稽古には…」
「あー…、そうじゃなくてですね」
日比野は、彼にまったく似合わない歯切れの悪い口調で続けた。
「いや、何か気になることでもあるのかなって思って。まあその。一人になりたいときはあるだろうし、それだけなら俺は退散するんですけど」
日比野は鼻の頭をぼりぼりと掻いた。
「あ、俺はいいんですよ、別に。明日一緒にいられないことは残念ですけど。まあ、それならそれで。ただ…その〜黒羽さんが」
心配で、と無神経で図太い男とは思えない言葉を、日比野は口の中でもごもごと呟いた。


「…カスミって、誰ですか?」

日比野の問いに黒羽は微かに唇を曲げた。
「そう、呼びましたよね?」
「ごめん。香澄がここにいるはずはないんだ」
「えーと……。もしかして、黒羽さんの、彼女ですか?」
黒羽は仰天したように目を見開く。
日比野は顔を真っ赤にして、広げた手のひらをバタバタと振った。
「あ、だってあの。し、仕事とは関係なさそうだなって思ったから。仕事だったら、さっきの突入演習でもそうでしたけど、黒羽さんまったく隙がないじゃないですか。だからその、違うんだろうなって。
それにカスミって名前だから、えーと…」

「ああ……、あ。そうか」
黒羽は口をつぐんだ。
そんなにも僕の態度はあからさまだったのだろうか。
日比野みたいな男から、こんな風に心配されてしまうくらいに?

黒羽の沈黙に、いまの日比野は黙ってつき合った。
かなり長い間黒羽は押し黙っていたが、ふっと思いついたように口を開いた。
「今日は、何日だ?」
「…25日です」
「12月25日。クリスマスか…」
「あ、もしかしてその。クリスマスだから彼女のこと考えていたんですね?」
「…彼女じゃなくて」
黒羽の頬に薄く血の色が散る。
「ああ、いいからいいから。そりゃークリスマスに彼女を放って、こんなところで野郎どもの相手をしているんじゃ、気が滅入りますよねえ」
「そうなの…かな」
「そうって、そうじゃないんですか?」
「君は、その。クリスマスに誰かと一緒に過ごす予定はあるのか?」
「あー、彼女はいませんよ。それにクリスマスなんて俺はどうでもいいし。クリスマス祝うと強くなるっていうんなら別ですけど」
これは日比野の冗談だったらしい。
しかし黒羽は上手く笑うことが出来なかった。


「もしかして、カスミちゃんに怒られたんですか? 黒羽さん」
「…どうして、解る?」
「どうしてって。仕事と関係なくて、クリスマスを口に出されたら、普通思うでしょ」
「そ、そうなのか」
黒羽は少し考えていたが、やがて何かを吹っ切ったように話し始めた。
「怒らせてしまったんだ。その…。僕が多分、悪い」
「何か言ったんですか?」
「…クリスマスは仕事だと言った」
「うっひゃー、そりゃ怒りますよ」
「怒るだろうか? やはり?」
「いやまあ、俺には彼女がいないから、えらそうなことは言えませんけどね。でも彼女だったら怒るでしょ。クリスマス一緒に過ごせないなんて言ったら」
「か…彼女じゃなくて」
「そこはとりあえずいいから」
「…い、いいのか?」
黒羽は困ったように眉を寄せたが、日比野はうんうんと妙に偉そうに頷いた。

「俺は女どもから無神経だの何だのと言われてますけどね。一般常識程度なら女心ってヤツも解っているんですよ。
俺の考えですけどね、そーいうのって放っておくと、後引きますよ。なにせ今のクリスマスって、デートの日、みたいなもんですからねえ」
「…香澄にも、似たようなことを言われた」
「そーでしょーとも」
ホラあたった、と日比野は得意そうに鼻をうごめかせた。
「どうしたらいいんだろう…」
「どうしたらって、会いに行くしかないじゃないですか」
「えっ? 今日?」
「あったりまえでしょう。今日がクリスマスなんですよ。明日行ってどうするんですか」
「でもその…仕事が」
「仕事は終わったでしょうが」
「あ…ああ、うん」
「黒羽さん、すごく歯切れ悪いっすよ。とてもさっき俺たち全員を全滅させたのと同じ人とは思えないなあ」
「全滅は…させてない」
「させました。本当なら俺は最初に死んでたんだから。って、そんな事はどうでもいいんですよっ。今はカスミちゃんの話でしょう?」
「あ、ああ」
「ごまかしちゃダメですよ。ずっと気にしてたんですか? ここに来てからずっと?」
「き…気にしていた、んだろうか、やっぱり」
黒羽はぼそりと呟いた。

「僕は、きっと変なんだ」
「変って、どこがですか?」
「ずっと……、香澄のことばかり考えている」
「黒羽さん」
「夢にまで見た。僕は、どうかしている」
「黒羽さん、あのねえ」
日比野はしょうがないなと言いたげに笑い、ため息をついた。
「好きな人のことだったら、一日中考えていたって普通じゃないですか。怒られたんなら気になって夢くらい見るでしょ?」
「好き…好きな人?」
「違うんですか?」
「……解らない。嫌いではないと思う」
「じゃあ黒羽さんは、他の人のことも、一日中思ってしまったりすることがあるんですか?」
黒羽はあわてて首を振った。
「そうでしょう? だったらその人の事を好きなんですよ、黒羽さんは」
「僕が…香澄のことを?」
「好きなんですってば」

日比野はえへん、とわざとらしい咳払いをした。
「会いに行ったほうがいいっすよ。出来るだけ早く」
「…そう、だろうか?」
「ほら、長く時間が経っちゃうと、会いにくくなるでしょう? 向こうだって同じ事。放っておく時間が長いほど、元に戻すの難しくなりますよ。今日行くべきです。今すぐ」
黒羽は一種感動したような瞳を、日比野に向けた。
「そうだろうか」
日比野は大きく頷く。

「今すぐ、行くべきだろうか」
「もちろん」

黒羽は立ちあがった。
何もない草原から振り返ると、遠くに街が見えた。
あの方向に西署がある。
香澄がいる……。


二、三歩歩きかけて、黒羽はフッと顔を日比野に向けた。
「日比野くん、あの、いろいろと……」
「あ、いいっすよ。気にしないでカスミちゃんの所へ行って下さい」
「か、香澄のことは…彼女じゃないし。だから…」
「解ってますって。誰にも言いませんよ。ここで喋ったことも秘密です。俺は口が硬いんです。本当ですよ」
日比野は子供たちと話している時と同じ、開けっぴろげな笑顔を黒羽に向けた。
黒羽は少しの間、何か言いたそうに唇を開けたり閉じたりしていたが、やがて小さくひと言だけ呟いた。

「ありがとう」
声は小さかったが、言葉は風に乗って、日比野の耳にはっきりと届いた。
黒羽の唇には、微かに微笑みが浮かんでいた。



黒羽の後ろ姿に、日比野は大きく手を振る。
「うわ、足速いぜ、黒羽さん。畜生、背が高くて足が長いっていいよな。戦う時、同じ一歩でも先に近づける分、有利だもんな」
足が長いと女にモテるとかの発想は、二の次な日比野である。
「いやー、俺もなかなかやるじゃないか。それにしても黒羽さんみたいな綺麗な人でも、あんな事で悩むんだなあ」
日比野は悦に入って、一人うんうんと頷いた。
「でも…。あれだよな。なんていうかその…黒羽さん、俺見てカスミって言わなかったか? 俺がカスミちゃんに、まさか…似てるとか?」
日比野は腕を組んでしばらくうーんと唸っていたが、あっさりと追求を放棄した。

「ま、それはないか。俺みたいな男らしい男が女と間違われるはずはないからなっ。何かのはずみに名前を呼んじゃったんだろ、きっと」
もともと細かいことは気にしないタチだ。
日比野は自分に都合のいいことを呟きながら、黒羽 高の個人的な相談に関われたことに、ちょっぴり満足感を覚えながら口笛を吹いた。

 

 

抱きしめたい。
抱きしめて欲しい。
ビルの入り口を見つめながら、黒羽はひたすら思っていた。
香澄。君のことしか考えられなかった。
きっと怒っているだろう。
謝らなくてはならないだろう。
けれどそのまえに。きっと怒られても、僕は君に触れてしまう。

抱きしめたい。
キスがしたい。
身体は熱くなって、雪が降ってきてもまったく寒くはなかった。
待っている事が、こんなに暖かい。

僕は莫迦だ。
香澄が好きなのかどうかも解らない。
あれだけ言われても、よく解らない。
君から言われたことにも、まだ答えは出ていない。
でも……。
ただ逢いたい。
顔が見たい。
君がいなかったら他の人と?
何故そんな事をしなくてはならない。
だって君はいる。たとえどれだけ遠くにいても、こうして会いに来られるところに君はいる。
君の他に、誰に逢いたいというのだろう。

香澄に逢いたい。
笑顔じゃなくても、怒られても。
一週間たってないのに。

淋しかったよ、香澄。



雪に霞んだ街の光に視線を移した瞬間、携帯が鳴った。
ディスプレイには香澄の名前。
ああ、なんて僕は莫迦なんだろう。
あれほど香澄の事を気にしていたくせに、電話することを、まったく思いつかなかった。
でもそうだな。
電話じゃ顔が見られない。
身体に触ることも出来ない。
だから逢いに来たんだ、僕は。

顔を上げたら、香澄が呆然と口を開けて立っていた。
僕は傘を落として彼に向かって駆けよった。
抱きしめた身体は温かく、声は耳の奥に心地よく響いた。

「…コウ」
香澄の声で、自分の名前が形づくられる。
僕を呼ぶ声。本物の、香澄の声。
ずっと、聞きたかったよ。

「すごく……逢いたかった」

香澄の顔が見たかった。声が聞きたかった。
君の声が僕の名前を呼ぶ。
僕も君を呼び、抱き合ってキスをする。

それは、独りではない、ということだった。

END

−sight&voice−