閉ざされた白い部屋
僕は腕に力を込めていた。
彼の苦しそうな顔を、僕は黙って見つめる。
見つめながら、それでも力を加え続けていく。
指の下で彼の喉が、苦しそうに脈打った。
彼はNOと言ったのだ。
彼は僕と共にいないと。
僕は置いて行かれるのは嫌だった。
二度とそんな目にあいたくなかった。
彼を失うくらいなら、僕の前から去らせるくらいなら、僕は彼の時間を喰ってしまおう。
彼の全部。
彼の過去も、彼の未来も、彼の言葉も。
息すらも僕はここに閉じこめて手に入れる。
そうして永遠に、目覚めない彼と暮らすのだ。
愛している。
愛している。
愛している。
心の中で呟きながら彼の首を絞め続ける。
涙があふれて止まらなかった。
唇を噛みしめ、嗚咽を漏らしながら、僕は彼の命を奪っていく。
彼の身体から力が消え、その瞳がぼんやりと濁った。
「ああ、ああ、あああ…」
白い部屋に僕の声だけが、虚ろに響く。
彼は、抵抗しなかった。
まったく抵抗しなかったのだ。
たくさんの花に囲まれた白い顔を隠すように、棺の蓋が閉められる。
「最後のお別れを…」
血縁のいない彼の為に喪主を務めたのは、彼のパートナーだった。
似合わない黒い服を着て、黙って頭を下げる。
儀式は進み、彼が一握りの白い塊になる。
夜になって一人きりになってから、やっと男は泣いた。
「どうして?」
密やかな泣き声は、やがて激しい慟哭へと変わる。
「どうしてオレを置いていったんだ、コウ」
置いていかれるのを怖がっていたのはあんたじゃないか。
一人っきりにしないでくれ、と言っていたのはあんたの方じゃないか。
一週間前には笑っていた。
オレが愛した綺麗な顔に、驚くほど素直な笑いを浮かべて、オレにキスした。
『すぐ帰ってくるから』
うそつき。
交通事故なんかで、あっさり逝ってしまうなんて。
巻き込まれて何人も死んだ大事故だったのに、誰もが見とれるあの綺麗な顔は、まったく傷ついていなかった。
そして、綺麗な顔のまま昏睡状態になって、それきり意識を取り戻すことなく、この世界から消えた。
「どうして? コウ」
何度も呼んだのに、どうしてオレのいる世界へ帰ってきてくれなかったんだ。
なんでその扉を開いてくれなかったんだ。
なあ、あんたは最後にどんなことを思ったんだ?
オレの事を、少しでも考えてくれたか?
それともそんな暇はなかっただろうか。
あんたは今どこにいるんだろう。
天国があるなら、そこにいるのだろうか。
そうしたらいつか、いつかオレもそこに行く。
それまで待っててくれるだろうか?
コウ、あんたは寂しがり屋だけど、でも一人の時間は長くはないよ。
あんたが待っていてくれるなら、いつか来る死も怖くはない。
でもあんたは、どうなんだろう?
怖かったか?
オレの名前を呼んだか?
なあ、聞こえているか?
オレはあんたを愛していた。
ずっと、ずっと、いつでもあんたの隣で笑いながら、人生を生きたかったよ。
愛しているって、こんなにも愛しているって、溢れるくらい耳元で囁きながら暮らしたかった。
うるさいって言ってオレを押しのける位、もう聞くのが嫌だって思うくらい、あんたを愛してあげたかった。
なのに、どうして今ここにいないんだ?
あんたのいない残りの時間を、
オレはどうやって過ごしていけばいいのだろう…。
白い棺の蓋は閉められ、けっして開くことはなかった。
男はいつまでもいつまでも、涙を流し続けた。
僕は口をきかなくなった彼の隣で、膝を抱えて座る。
彼は瞼を閉じ、まるで眠っているように身体を横たえている。
まるで…。まるで?
まるでって何の話だろう。
だって彼は眠っているんじゃないか。
目覚めたら、僕の顔を見て笑ってくれる。
僕はそれを想像して楽しくなった。
彼が目覚めたら、何て言おう。
おはよう? よく眠った?
いや、やっぱりこう言おう。
「愛している、香澄」
呟いてみる。
なんて素敵な言葉。
こんなにも素直に、こんなにも軽々と言える。
ああ、早く目を覚ましてくれ。
なんで彼は、こんなにも静かに、ずっと眠っているんだろう。
香澄…。
最期の瞬間、君の名前を思い出したよ。
最期、最期ってどういう意味だ?
いや、それはどうでもいい。
香澄。香澄。何度でも呼びたい。
素敵な響き。
君を、君の名前を愛しているよ。
自分の名前は、まだ思い出せない。
でもかまわない。
だって彼が目覚めたら、きっと僕の名前を呼んでくれる筈だから。
そうしたら、それがどんな名前でも、僕は返事をする。
だから、目を覚ましてくれ。
早く。出来るだけ早く。
僕はそれだけを楽しみに、彼を待った。
長い、長い間、僕は彼が目覚めるのを待ち続けた。
彼の瞼は、ずっと閉じられたままだ。
僕は、まだ待ち続けている。
END