incident10−2
目が覚めて、最初に見えたのは白いカーテンだった。
カーテンはカーテンレールに沿って、自分の周りをぐるりと半周ほど取り囲んでいる。
『オレの部屋にも、そういえばカーテンを買ったほうがいいよな』
そんなとりとめもない考えが、最初に頭に浮かんだ。
砂城には太陽が無いから、陽の光が眩しくて堪らない、って事は無いんだけど。でも向かいのアパートに女が住んでいるからな…。
丸見えってのは、オレもあっちも居心地が良くない。
「海里」
誰かが自分を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある声だった。
「海里、目が覚めたのか? 大丈夫か?」
「カーテンがあるって事は、ここはオレの部屋じゃないんだよな」
呟きながら頭を廻すと、そこには知っている顔があった。
心配そうに眉を寄せて、こちらを覗き込んでいる。
「おっちゃんがいるって事は、一応ここは砂城なのか」
「ああ、良かった」
男は大きく一つ息を吐いて、それからホッと緊張を解いた。
「海里、あんたは熱を出していたんだよ。何度か目は覚ましたけど、でもやっと意識がはっきりしたんだな」
「ああ、オレ、どうした…」
言いかけた瞬間、記憶が頭の中でフラッシュした。
すれ違った男。
背中に受けた爆風。
ゆっくりと崩れかかってきた、大量の瓦礫の山。
そして…。
「オレの足!」
叫んで起きあがろうとした海里の身体を、おっちゃんが全身で押さえつけた。
「動くんじゃない!」
「えっ!? あっ…。お、おっちゃん、オレの…足は?」
おっちゃんは海里の身体にのしかかりながら、微かに首を横に振った。
「はっきり言ってしまうと…あまり、よくない」
「良くないって」
「いま固定してある状態だから、動かしちゃダメだ。ボクは医者じゃないから詳しいことは解らない。だから聞くな」
海里は黙って、再びゆっくりとベッドに身体を沈めた。
「…仕事、どうした? おっちゃん」
「仕事って?」
「オレが受けた、ビデオの仕事だよ」
「ああ、大丈夫だよ、心配しなくても」
「でも、オレ…金無いぜ。気絶してからどれくらい経ったかよくわかんねえけど。タダじゃねえよな、病院って」
「怪我人のキミが、いま心配する事じゃないさ。助かって、本当に、よかった」
「もしかしておっちゃん、ずっとオレの所にいたのか?」
「まさか。ボクも仕事があるんだよ。でも、ずっとここにいたって言ったら、感動してくれて、ボクのイイ人になってくれるとか、そういう可能性はあるかい?」
海里は軽く吹き出す。
その笑い顔に、初めておっちゃんの口元も綻んだ。
「ばーか。オレはホモは嫌いだっての。それにおっちゃんだって、オレの事はタイプじゃないんだろ?」
「そうだね」
「おっちゃんのタイプはさ…」
言いかけて、再び記憶が頭をよぎる。
オレを助けてくれた人。
その顔と、その、声…。
見た事もないくらい、綺麗な…男。
「海里?」
黙ってしまった海里に、心配そうな声がかかる。
「いや、おっちゃん。オレ、死ぬ所だったんだ」
「うん。死ななくて本当によかった」
「オレを助けてくれた人が、いたんだ」
「うん、警察の人だってね」
「そうか? あの人警官だったのか」
「あの人って」
「…名前、知らない。でもすごく綺麗な人だったぜ。信じられないくらい綺麗な人だった。綺麗な人はたくさん知ってるけど。でも…」
「そうか、男の人だよね。それはボクも会ってみたいなあ」
「おっちゃんの好みだぜ、きっと。向こうはどうだか知らないけど」
その時突然ドアがノックされた。
引き戸を開けて看護婦と医師が入ってくる。
その時海里は、初めて自分の部屋が個室であることに気付いた。
「篁さん、話せますか?」
医師はベッドの中で意識を取り戻している海里を確認すると、そう聞いてきた。
「あ…はい。大丈夫ですけど」
「そう、思ったより悪くないみたいですね。何度か目を覚ました事は覚えていますか?」
「ぼんやりとは。オレ熱を出していたんですか」
「ええ。だからね、私達は断ったんですけど。いまね、警察のかたがみえて。どうしても話をしたいと言っているんですよ」
「海里はまだ…」
言いかけるおっちゃんを遮る様にして、海里は言った。
「いいですよ」
「海里」
「いいよ。話せるんだし、話します。警察の人でしょう? オレ助けて貰ったお礼もしたいし」
「そうですか、そう仰有るなら」
医者が振り向くと、ドアの内側には、もう男が一人立っていた。
なんだ…、あの人じゃないんだ。
少しだけがっかりする。
立っていたのは40がらみの、いかにもたたき上げの刑事でござい風な無精髭を生やした男だった。
「篁 海里さんですね?」
声も聞き込みのしすぎで潰しました、と言っているかのような、嗄れた声だ。
「はい。オレを助けた刑事さんは?」
「まずお話を聞かせていただきたいのですが」
「オレはまず、その人と話をしたいんだけど」
一瞬の沈黙が二人の間に流れる。
男は海里から視線を外し、おっちゃんの方に向いた。
「あなたは? どういうご関係です」
「私は松本と言います。海里の、ここでの保護者って所ですかね」
「お仕事は何を」
「ええと、私はですね。あなたのお名前もお仕事も、まだ存じ上げないんですけど。そちらはどなたですか? 警察のかたなんでしょうか?」
言いながら松本は目を細め、値踏みをするように男をじろじろと眺め回した。
松本の発した鋭い声に、海里はびっくりして目を見開いた。
おっちゃん、やるじゃん。
話を聞きたいならそっちが先に名乗れと、先制パンチを食らわせた訳だ。
ナヨナヨって喋ってるだけじゃないんだな。
だてに年は食ってないって事か。
男は松本の挑戦的な視線に肩をすくめると、手帳をとりだして中を開いて見せた。
「今回の連続爆破事件の担当をしています。辻と言います。よろしければ事件にあわれた時の状況をお聞かせ願いたいのですが」
松本はふうん、と鼻を鳴らして手帳を覗き込んだ後、自分も名刺を差し出した。
辻は名刺と松本を見比べる。
「アトランダムコーディネーターって、どういうご商売ですか?」
「何でもやりますよ。頼まれればね。今は雑誌の仕事が多いかな。編集もするし企画も立てるし、原稿の取り立てもやるし、資料探しもやります。季節にはパーティーの裏方も…」
「何でも屋ね」
辻は煩そうに手を振ると、鋭い視線を海里に向けた。
「あなたも何でも屋ですか?」
「オレは…更にその下請けです」
「ビデオ屋に何しに行かれたんですか?」
「ビデオを返しに」
「他に用事は」
「無いですよ。ビデオ屋に行く時はビデオを返す時か借りる時か、どっちかだけです」
「誰かに会う約束とかは…」
「この子は私の仕事の手伝いで、ビデオを返しに行っただけです。あなたが何を想像しているか解りませんけどね。この子は薬をやったりヤバイものをやり取りしたりするような子じゃないですから」
横から松本が口を出す。
「まあ、保護者の方は、皆そう言われます」
「ちょっと待ってくれよ。オレは未成年じゃないぜ。今年で23だ。それに何だよ、勝手に質問始めてさ。オレを助けてくれた人は?」
海里が憤然として二人の会話を遮ると、やっと辻は後ろを振り向いて口を開いた。
「仕方ない黒羽、入ってくれ」
ドアが開いて、長身の男がゆっくり中に入ってくる。
「失礼します」
静かな、しかしよく通る礼儀正しい声が室内に響く。
男がドアを閉め、こちらを振り向いて会釈した瞬間、隣の松本が大きく息を呑むのが解った。
すらりと背の高い、ストイックなシルエット。
一度見たら忘れる事が出来ない、透明でクールな美貌。
細い銀縁メガネの奥にあるアイスブラックの瞳と、黒い髪に縁取られた白い顔は、まるで造りものの様な雰囲気を漂わせている。
同じ部屋にいるにもかかわらず、彼だけが違う空気を呼吸しているような、一種現実感を欠いた美しさがそこにはあった。
「黒羽 高と言います。砂城西署捜査一係に所属していますが、今回の事件の担当ではありません」
「…あなたが、海里を? あなた、警察官だったんだ」
松本が、やっと絞り出すように言葉を発した。
辻が眉をひそめる。
「知り合いか? 黒羽」
「いえ、僕は…」
黒羽はベッドの上にいる少年と、隣に立っている男を見つめる。
目が合うと、二人とも視線に射抜かれたかのように体を震わせた。
どこかで会っただろうか。
少年は自分が助けたのだから、もちろん覚えている。
しかしもう一人の男の方は…。
松本はいきなりブンブンと首を振った。
「いえ、街でちょっと見かけただけ。こんな綺麗な人、一度見たら忘れられないでしょう? それだけです。でも警官だってのは意外だったな。あなたが海里を助けてくれたんですか?」
「偶然です」
「それじゃあ偶然に感謝しないといけないな。海里、何か言いたいことがあるんだろう? この人なんだろう? キミを助けてくれたのは」
海里はベッドに横たわったまま、呆然と黒羽を見上げた。
この人だ…、と思う。
この人だった。
瓦礫の山が、スローモーションのように、自分の上に落ちてくる。
もう、死ぬのだと思った。
その瞬間に、死神の手からオレを引きずり出して助けてくれた。
確かに、この人だ…。
でも、でもこんな…綺麗な人だっただろうか?
いや、綺麗な男だという事はあんな時にさえ思った。
生の側に戻った瞬間、この顔はオレの目の中に焼き付いたのだ。
でも…。
実際にもう一度会った今の方が、ずっとずっと綺麗だと思うなんて。
そんな事って、あるんだろうか?
「大丈夫ですか?」
声に鼓動が跳ね上がる。
「はい…。もう大丈夫、です。あの、ありがとう、ございました」
黒羽は海里の足をチラリと見たが、それに関しては何も言わなかった。
海里の中に、濁った不安が湧き上がる。
この人はオレの足の状態を、あの時見ている筈だ。
何も感じることが出来なかった足。
無くなってしまった訳ではないようだが、かなり酷いのだろうか?
「海里さん、あなたは…」
黒羽の唇が自分の名前を形づくる。
海里は魔法にかけられたように、その唇をじっと見つめた。
「あなたは今回の連続爆破事件において、たった一人の生存者なのです。これまでに、もう8人も犠牲者がでています。
ですからぜひ、あなたが見た事、気が付いた事を残さず全て話していただきたいのです。どうかご協力願えませんか?」
「…はい」
海里の返事に、黒羽の唇が僅かに緩む。
その瞬間、玲瓏だがモノトーンで無機質な美貌に、ふうっと色が仄めいた。
…綺麗だった。
こんな綺麗な男は、見た事がないと海里は思った。
「ではお願いします。前後関係とかはあまり気にしなくて結構です。ただどんな些細なことでも抜かしたりしないでください。
事件に関係しているかどうかは、あなたではなく、こちらが判断することですので」
こいつ、一言多いんだよな。
さっきもオレの事をその辺のチンピラみたいに扱おうとしたし。
辻の言い方は何となく海里を苛つかせた。
こいつと黒羽さんが同じ刑事だなんて、オレは信じられないぜ。
しかし海里はその事には文句を言わず、目を瞑って息を吐くと、頭の中にある映像を巻き戻して話し始めた。
そういったことはお得意だった。
自分はカメラマン志望だが、頭の中にもカメラがある、と思うことがある。
もちろん完全完璧ではないと思う。
人間なのだから見落としはたくさんあるだろう。
それでも映像に関しての自分の記憶はいつでも鮮明で、時がたっても殆ど損なわれることはなかった。
ビデオを返しに行く事になった顛末から話す。
ヤクの取り引きとかしていたなんて、妙な勘ぐりはゴメンだったからだ。
しかしビデオの説明に入った所で、辻はゴホンと一つ咳をした。
「そういう事は、…その」
「何で? 何が関係しているかはオレじゃなくてあなたが判断するんでしょう? ビデオは全部で12本。全てアダルトですよ。
タイトルはまず、『痴漢電車で感じちゃう』これは定番の痴漢ものです。タイトル通りくっだらねえ痴漢ものでした。触ってるだけで、全然突っ込んでないんだもんな。オレ的には本番のないエロビデオは金払う価値はないですね。評価D。
次は『コスプレ屋敷でハメハメハ』えらいタイトルセンスだけど、オレ的には悪くなかったですよ。看護婦さんのコスプレでね、白いタイツびりびりに裂いてハメ撮りすんの。カメラアングルが結構凝っててね…」
「海里、ちょっと海里。ここ病院なんだし、看護婦さんだってそこに…」
おっちゃんが困ったように話を遮りにかかる。
しかしチラリと見た看護師は、別に頬を赤らめることもなく、しれっとした顔で立っていた。
エロ話ごときで動じていては、看護師はつとまらないものなのかもしれない。
「でも。ちゃんと話さないと、そのビデオを本当にオレが見たのか、疑われるかもしれないじゃないか。ねえ、そのビデオがちゃんとビデオ屋にあったかどうか、警察って調べたりするんでしょう?」
「…調べたくても、そのビデオレンタル店は、爆発してもう無いのでね」
「ああ、そっか。じゃあ、説明はいい訳? オレ、全部言えますけど」
「その辺りは、飛ばしてくださって結構です」
ガキみたいだとは思うが、海里は辻をやりこめたような気がして、少しだけ溜飲が下がった。
だが黒羽の視線に気が付くと、そんな態度がいきなり恥ずかしくなってくる。
後はひたすら真面目に、起こった出来事を話す事にした。
帽子の男とすれ違った所で、辻と黒羽、二人が同時にぴくりと反応した。
「あなたと入れ違いに入っていったんですか」
「ああ。変なヤツだったな。オレが謝っているのに何かボーッとしちゃってさ。オレにぶつかったことも、解ってたんだか」
「彼が最後の客でしたか?」
「多分な。早くビデオ返して家に帰ろうって思ってたから、奥の方までは人がいるかどうか見てないけど。でも狭い店だったしな。オレが帰る時は客は誰も店内にいなかったと思うよ」
「彼が入ってすぐに、爆発が起こった」
「そう。うん、そうだった。…何? そいつが犯人なの?」
「それはまだ解りません。野球帽をかぶっていたんですね。顔は見ましたか? もう一度見たらその人だと解りますか?」
「解るさ。オレは人の顔を覚えるのは得意なんだ。でもなんて言うか、死人みたいな奴だったぜ。腐った魚のような目をして。
ちょっと寝不足でさ、オレそいつに寄りかかっちゃったんだ。身体も妙に冷たかったぜ。危ないヤクでもやってたのかな?」
海里の言葉に、黒羽の瞳がすうっと細められる。
『体温の無い男…』
口の中で小さく呟かれた言葉に、辻も海里も気付かなかった。
「ああ…だけどそいつが犯人なら、あのタイミングだと一緒に死んじゃったよな。でもまだ警察が調べてるんだから、あいつは犯人じゃなかったって事かな? それともあの場から逃げたのか…」
「推理は結構です。事実のみを話していただけませんか?」
辻が苛ついたように海里の呟きを遮って先を促す。
しかし海里は首を横に振った。
「もう無いよ。話はそれだけだ。オレは男とすれ違って店を出た。途端に後ろから爆風が襲って、後はこのザマさ」
辻は黙ったまま手帳に幾つか書き留め、それから再び海里の方を向いた。
「解っているでしょうけど、あなたは運がよかった」
「ああ、そこにいる黒羽さんのおかげでね」
「ビデオ店のドアとか、電飾の看板とかに遮られたおかげでね」
「何の、話です?」
ずっと黙っていた松本が、じろりと辻を睨む。
「足だけで済んだ」
「ちょっとあんた」
「ご存じないのかな? まだ」
「オイ、なんの話だよ。オレの足がどうした」
辻は奇妙に唇を歪ませながら、肩をすくめた。
その仕草は、彼を恐ろしく意地の悪い男に見せた。
「あなたは唯一の生き残りだ。運がよかった。これからきっとマスコミとかの取材も来ることでしょう。そこの誰かさんみたいにね。
でも誰かさんと違うのは、あなたは一般市民だって言うことだ。これはちょっとばかり困った事態でね」
チラリと黒羽に視線を走らせて、辻は続ける。
「この事件に関して、さっき言ったようなことをベラベラ話されると拙いんです。理由は捜査上の秘密って奴ですが。ですから約束していただきたいんですよ。これから一切取材は受けない。この事に関して誰にも何も話さないってね」
「オレは、立派な成人なんでね。自分の責任で、言いたいことも言いたくないことも決めるさ」
海里は歯を剥いて辻の言葉をはねつけた。
しかし辻は薄く笑みを浮かべながら、海里の敵意を流した。
「そうですね。ぜひ自分で決めてもらいたい。後で警察から色々強要された、とか言われたら困るからな」
「辻さん…」
緊迫した雰囲気に、黒羽がそっと声をかける。
しかし辻は黒羽を振り向きもせずに、海里を見下ろして言い続けた。
「取り引きって言い方はあまりよくないんですけどね。特例措置が認められたんですよ。篁さん、砂城市にちゃんと市民登録をされてますね」
「あ…ああ」
「それはよかった。でないと話が続かない。体組織の採取保存手続きは済ませていますね」
「してるけど」
「では、それで新しい足が作れます」
「!」
海里は目を大きく見開いた。
松本はもしも海里が動こうとしたら押さえつける体制に入ったが、彼の身体はベッドの上で硬直したままだった。
代わりに松本は視線で殺そうとでもするように、辻の顔を睨みつけた。
「オレの足は…ダメなのか?」
絞り出すようにして、やっと海里は声を出した。
「後で医師から詳しく説明があるでしょう」
後ろで当の医師が、非常に困った表情でウロウロしている。
「細いガラス片のようなもので、筋肉がずたずたにされている筈です。多分骨の一部もね。でもダメじゃありませんよ。今の足はダメかもしれないけど、修復する事は出来る。新しい組織を作って根気よく繋げれば、いつかはね」
「歩けるようにも、なる…のか?」
「その辺りは医師に聞くんですね。まあ、多分歩けるようにも走れるようにもなるとは思いますけどね」
それを聞いて、海里の瞳に安堵の色が浮かんだ。
しかし辻は、そのつかの間の希望も次の言葉で摘み取った。
「しかしね。技術的には充分可能なんですけどね、それは凄く金がかかるんですよ。篁さんにも、多分松本さんにも払いきるのは無理でしょうね」
「あんた、何が言いたいんだ?」
「動かない足を切り取って義足をつけるのがベストでしょうね。それなら砂城ではよくある治療だし。砂城の義足は世界一ですから」
「義足…」
海里は呆然と呟いた。
先程の希望の光が嘘のように、瞳は暗く沈んでいく。
「オレは…オレの足は」
「ちょっとあんた、何様なんだよ。警察はそういう事を無神経に言ってもいいのか? もう出ていけ。話は終わったんだろう? さっさと海里の目の前から消えろ!」
松本は殆どつかみかからんばかりの勢いで辻にくってかかった。
辻は両手を上げて首を横に振る。
「いや、まだ終わってないんだよ。話はな。さっき取り引きって言っただろう? 特例措置が出たって。
ただな、状況をよーく解って貰おうと思ってな。自分が今どんな立場にいるのかってことは、ちゃんと把握してもらわないと」
「オレの…立場?」
「そうだよ、自分で選ぶんだ。義足か本物の足かをね。私達警察は決して強要しない」
「海里」
松本は心配そうに海里を見下ろした。
「ご存じかどうか知りませんけど。砂城では市民ならね、ジャンクにやられた怪我の医療は、全て無料で行われます。ええ。どんな大変で金のかかる治療でも。それだけは保証されている。
よかったな、篁さん。砂城に来たばかりの人間は市民登録を済ませていない人も多い。手続きに時間がかかるからな。でもあなたは賢明だ。だからこんな話も出来る」
「無料って。それは知ってるけど、でもこれは」
言いかけた松本に、辻はフンと鼻を鳴らす。
「そう。ジャンクにやられた怪我ではない。確かにね。しかし、そういう事にしておいてもらえませんか?
ビデオ店にあなたは行かなかった。だから生存者は今回もいなかった。あなたの怪我は爆発ではなく、ジャンクにやられたものだ。
だからあなたは何も知らないし、証言も出来ない。どうです?」
「OKすれば、無料でオレは足の治療が出来るって…そういう事か」
「ええ。何も言わないで、知らん顔をしていて下さるだけでいいんです。積極的に嘘をつく必要はない。損はどこにもないはずだ。あんたは本当に運のいい男なんだよ」
最後の言葉を、辻は吐き捨てるように言い放った。
海里はベッドの上できつく目を閉じ、唇を噛む。
どちらを、選ぶかって…?
本物の足に決まっている。
選択の余地はなかった。これを蹴る理由はどこにもない。
オレがあそこにいようといまいと、そんな事は誰にとっても重要ではなかった。
だから、別にいいんだ。
そんな事はどうでもいい。
どうでもいい事で足が戻ってくるのならば、そっちを選ぶ事になんの躊躇いがあるだろう。
理屈は通っていた。何の問題もなかった。
だが海里は、まるでいい訳をするように、何度も自分の選択を頭の中で繰り返していた。
…当然だ。あたりまえだ。
だってオレがあそこにいた事は、全然大切な事じゃないんだから…。
海里はゆっくりと目を開き、答えを待っている人達を見上げた。
手前には辻、後ろには影のように黒羽が立っている。
海里は二人を見比べ、それから辻に視線を戻した。
「どうします? 篁さん」
唇を曲げて辻が尋ねる。
「……はい」
「はい、何です?」
「仰有る通りにします。この傷はジャンクにやられた。そういう事にすればいいんですよね」
「ええ、そうです。あなたが頭のいい人でよかった」
辻は嬉しそうに両手を拡げてみせた。
松本は何も言わずに頭を振り、そして優しい目で海里を見つめる。
黒羽はただ軽く目を伏せ、その顔には何の表情も浮かべなかった。
「では、そういう事で手続きをお願いします、先生。話は全て終わりました。ご協力ありがとう。それじゃあ、どうぞお大事に」
辻は手帳をポケットに仕舞うと、黒羽に向かって顎をしゃくり、ドアに手をかけた。
黒羽は無言で後に続く。
「なあ、黒羽さん」
その背中に妙にはっきりとした声がかけられた。
黒羽と辻が同時に振り向く。
「何です? まだ何か? 篁さん」
「あんたじゃねえよ」
海里の口調は非常に静かだった。
しかし押し殺したような暗い何かが、彼の瞳の中には燃えていた。
「黒羽さんと、もう少し話がしたいんだ。別に大事な話じゃない。助けて貰ったから、…もう少し話がしたいだけだ。出来るならあんた抜きで」
辻はじろりと黒羽を睨んで鼻を鳴らす。
「いいですよ、別に。彼は人気者だからな。誰でもね、一度見たらしばらくはこいつの顔をじっと見ていたくなるらしい。どうぞ。存分に鑑賞なさるとよろしいでしょう」
黒羽の耳元で、『余計な事は言うなよ』と唇が動く。
しかしそれ以上憎まれ口を叩くことなく、辻は部屋から出ていった。
海里は、すみませんが、と言って医者と看護婦も外に出す。
松本は花瓶の水を取り替えてくると言って、病室から姿を消した。
広い個室に、海里と黒羽の二人だけが残された。
「あなたの…選択は正しい」
少しの沈黙の後、黒羽が静かに言った。
「そうかい?」
「ええ。僕はそう思う。あなたは間違っていない。篁さん」
「さっきは海里って呼んだだろう? 海里って呼んでくれよ」
「はい、海里さん」
海里は唇にうっすらと笑みを浮かべた。
「黒羽さんは、この事件の担当はしていないって、言ったよな」
「はい」
「じゃあ、オレを助けたのは偶然?」
「ええ。偶然通りかかったんです。僕たちももう少し近くだったら、あなたと一緒に吹き飛ばされていたでしょう」
「僕たち…ふうん。彼女は元気?」
「え?」
「彼女と一緒に歩いていた訳じゃないのか? あの辺ラブホテルもたくさんあるぜ」
「いや…、僕は…」
妙な間で口ごもった黒羽に、海里はニッコリ笑った。
「いいよ、お巡りさんだって男だものな。別にそんな事はどうでもいいさ。ただ、オレ…。あんたに礼が言いたかったんだ。助けてくれて、本当にありがとう」
「……」
「足はね、さっき決めた通りさ。だからもういい。生きていたんだから充分だ。オレには色々やりたい事があるんだ。まだ若いしな。それが、全部なくなっちゃう所だった。だから感謝してる」
黒羽は、やはり黙ったままだった。
仕方なく海里は、布団の下から腕を差し出す。
「ありがとうで握手ってのは、何となく変な気がするけど。でもオレ今動けないから」
黒羽は差し出された手を握り返した。
その手は柔らかく、暖かく海里に触れる。
何だか背中がぞくりと震えた。
怖いのでも寒いのでもない。
黒羽に触れられた部分は熱く、心地よかった。
しかしそれは安心出来る心地よさではなく、海里は妙に落ち着かない気分になった。
胸がざわざわする。
手を離したくない、と思う。
何故そう思うのかは解らないが、しかし、この人は事件の担当をしていない。
このドアを出て行ってしまったら、この次に偶然を期待するのは奇跡に近いだろう。
「退院、オレがしたら。そうしたらちゃんとお礼をさせて欲しい」
「気に、しないで下さい」
「いや、そうじゃなくて、オレは…」
何をどういったらいいのか解らなくなって、海里は口ごもった。
オレは何が言いたいんだ?
どうしてこの人が出ていくのが嫌なんだろう?
助けて貰ったから? この人が綺麗だからか?
バカじゃねえ。この人は男で、そしてさっきの奴と同じ警官だ。
警察はオレを無いものにしておきたいらしい。
オレは足と引き替えに、それを呑んだ。
オレは…。
一人で生きる為にここに来て、何もかも一人で決めて生きて行こうと思った。
誰に指図も受けず、何に縛られる事もなく。
オレはオレ自身だけの力で……。
オレだけの…ちからで…。
「海里さん…?」
気が付くと、涙が頬を濡らしていた。
涙は後から後から、ただ溢れて頬を流れ枕を濡らした。
「海里さん」
「なんで…泣いて、るんだ? オレ…」
黒羽が近寄り、肩に手をかける。
暖かい…。
そう思った瞬間、またどっと涙が目の奥から溢れ出す。
「うぅっ…」
海里の口から嗚咽が漏れた。
みっともねえ!
ぎゅっと目を瞑り、唇を噛みしめたが、それでも一度流れ出した声は止める事が出来なかった。
「海里さん、足は必ず治ります」
静かな声が、海里の嗚咽に重なる。
「元のように歩けるし、走れるようになる。あなたは正しい。あなたは決して間違っていない」
「お…オレはっ…」
嗄れた、子供のような泣き声が口から濫れる。
何だよ、オレ。
この人に何を言おうとしているんだ。
聞かせても仕方が無いじゃないか。
オレが思ってきた事。オレのコンプレックス。
どうして…全然関係ないこの人の前で…。
「オレは、一人で何もかも出来ると思ってた。だ…誰の指示も受けない。ひと、一人で生きるんだって。それくらい、出来るんだって、ずっと、ずっと思ってたんだ…。
金だって、家には頼らない。オレは…一人の力だけで。できる…つもりだった。だけど、でもオレは…実際のオレは」
握りしめた拳は弱々しく震え、まだ力が戻っていない事が解る。
「オレは…畜生。オレは、なんて力が無いんだ。何も出来ない。何も持ってない。口ばっかりだ。自分で全部出来るって…やっと決める事が出来たって、そんな事に舞い上がって、思い上がってた…ガキ。ガキなんだよっ…」
海里は吐き出すように言い続けた。
まるで今まで心の中に溜まっていた澱が、一気に溢れ出してくるようだった。
「何も…できない。いいさ。別にいいんだ。オレがそこにいたかどうかなんて、誰にとっても、オレにとっても重要じゃない。足の方が大切さ。
だから…だから、オレは間違ってない。間違ってなんかいないんだ。
でも…でもおれは」
涙と共に、全ての言葉が流れ出す。
「オレは…、結局人が指し示した中からしか、選択出来なかった」
黒羽の手が、いつの間にか髪と頬に触れている。
温かい、指の感触。
海里はほんの一瞬、自分が小さな子供に戻ってしまったような気がした。
オレは、小さい。
オレは、まだ何もかもに無力だ。
自分が喋る事一つ、結局他人の手の中からしか選べない。
情けない…。
情けなかった。
オレは言いたい事も、自分自身では決められないんだ。
自分で何もかもやるんだと、意気揚々と家を飛び出してきた筈なのに。
最初に思い知らされた事は『自分には力が無い』という事実だった。
篁の家に泣きつけば、足を癒す金くらい幾らでも出してくれただろう。
だが、かわりに篁の家に捕われ、二度と自由に飛ぶことは出来なくなる。
そして、家に頼らないなら、出された提案を呑むしかなかった。
どちらの手を取っても、結局自由は奪われる。
だが、どちらの手も振り払う、などという事ができる筈はなかった。
どちらも嫌だと自分を押し通せば、足を失う。
自由の代償として何を差し出す、と問われて、オレが持っているものは足しかなかった。
それを差し出したくないならば、他人が出したものの中から選ぶしか、オレにはできなかった。
涙は滲み、口の中に苦い。
足を失わなくてよかった、と思う。
しかし思い知らされた事実は、どこまでも辛く苦かった。
「海里さん、僕には重要です」
黒羽の綺麗な声が、上から降ってきた。
見下ろす彼の瞳には、自分の情けない顔が映っている。
「あそこにいたのは、あなただった。他の人じゃない。誰もが忘れて、あなたがそこにいた事は事実じゃなくなってしまうかもしれない。
それでも、あの時あそこにいたのはあなただし、僕はそれを覚えている」
「黒羽さんが、覚えているのか?」
「…はい」
「オレが忘れるつもりなのに? 意味ない事だぜ。誰にとっても、どうでもいい事なんだ」
黒羽は首を横に振った。
「僕が助けたのはあなただ。僕は忘れない」
「そっか……」
涙が再び熱く目尻を伝って流れ落ちた。
みっともないと思う。
だがそれでも、涙は胸に詰まっていたものを流し去っていくようだった。
「ありがとう」
何に対する礼なのか、海里自身にも、よく解っていなかった。
黒羽がそれを覚えておくことに意味はない。
自分に力が無いことは、変わらない事実なのだから。
しかしそれでも、海里は嬉しかった。
自分自身を誰かに記憶してもらえることが、ただ嬉しかった。
嬉しいから礼を言うのだろう。
何に対しての礼かなどは、関係ないと、そう思った。
黒羽はフッと下を向くと、ポケットから白い紙を取り出す。
そして海里の手の中に、それを握らせた。
「なに?」
「いつでも、連絡を下さい。もしも…何か思い出した事があったなら」
海里が手のなかのものを確認しようとしている間に、黒羽は頭を下げると、部屋から出ていってしまった。
あっ…、と思ったが、海里は引き止めなかった。
手の中には、一枚の白い名刺があった。
「へえ。警察も名刺なんて作るんだ」
思わず呟く。
飾りも素っ気もない、白い紙に黒い字が印刷されているだけのシンプルなデザイン。
黒い髪に、白い顔。
イメージが重なる…。
あの人は、オレを忘れない。
海里は手の中の彼の名前を、何度も何度も読み返した。
「長かったな」
廊下の突き当たりにある喫煙所で、辻がタバコを吹かしていた。
「余計な事は喋ってないな。何を話したんだ?」
「特には。礼を言われただけです」
「へええ。黒羽さん、礼を言われるような事をしたんだ。それともそのお綺麗な顔を見せて貰ってありがとうか?」
辻は自分の言った事が特上のジョークででもあるかのように、声をあげて笑った。
「辻さん」
「自覚しとけよ、黒羽。お前は疫病神だ。お前が行く所では、必ず人が死ぬ。
そして誰が何人死んでも、お前は生きて還ってくる。お前は運がいいからな。他の奴が代わりに死んでくれるんだろうよ」
黒羽は微かに眉をひそめ、下を向いた。
辻は唇の端を歪めて笑う。
「オレはな、運のいい男は大嫌いなんだ。お前も、さっきのガキもだ。
自分がどれだけ運がよかったか、知りもしない。髪を金色に染めて、役にも立たないガキが、ただ運がいいと言うだけで生き残る。」
「辻さん…」
「何だい? 名前を連呼するだけじゃオレに用件は通じないぜ」
黒羽は唇を噛んだが、しかし今度は黙り込まなかった。
「辻さん。何故あそこまでして爆弾の中身を秘密にするんですか?」
「何だって?」
「上から特例措置が出たんでしょう? 確かにあの死に方は特別だ。どうやって被害者が死んだか、何が爆弾内に使われたのか、それは犯人を特定する為の証拠かもしれません。しかし、それだけじゃないですよね。何故です」
辻は上を向いて、ふぅっと煙草の煙を吐いた。
「オレが知るか」
「辻さん」
「オレは下っ端だ。オレがやるべき事は命令された任務を的確にこなす事だ」
黒羽が黙ると、辻はじろりと横目で睨んだ後、ポツリと言った。
「まあ間違いなく、政治的配慮ってヤツだろう」
黒羽はハッとした表情で辻を見る。
だが彼は、黒羽と目を合わせようとはしなかった。
「砂城は使役品産業で食っている。使役品が全てと言ってもいい。
爆弾の中に入れれば、優秀な人殺しの道具にも使えます、なんてクソなCMはうちたくないんだろう?
まあ、他にも細かい人間関係や力関係のバランスとかがあるんだろうが、オレにはわからん」
辻は煙草を吸い殻入れにぎゅっと押しつけて火を消した。
きつい香りが一瞬だけ広がり、すうっと薄れていく。
「もちろんオレは面白くないさ。今度も警察は無能だったと叩かれる。お前もヒーローになり損ねた」
「僕は…」
「だがオレはもういい。オレは出来る仕事をやる。犯人を見つける。裏の事情や上の思惑は知らない。ただ、犯人を捕まえる。
だから欲しいのは実際にあったことだけだ。画策されていることや、余計な推理はいらない」
その声はどこか寂しげに響いて聞こえたが、同時に揺るぎない決意も感じさせた。
黒羽は再び目を伏せて低く返事をする。
「はい、辻さん。解っています」
「いいか?」
どこか遠くを見るような辻の双眸が、再び黒羽に向けられた。
瞳の中に暗い炎が燃える。
「お前は絶対にオレのいる場所に来るな。お前が行く先では人が死ぬ。オレは死神と一緒に仕事をするのはまっぴら御免だ。
今回は仕方無かったが、これ以上この事件に関って欲しくない。出来るならオレの視界に入らないところで別の仕事をしてくれ。そうだな、ポスターのモデルとかがいいかな」
辻はくすくす笑いながら最後のセリフを言うと、そのままくるりと背を向けて廊下の向こうに歩き去っていった。
黒羽は辻の言葉には何も応えず、ただ黙って暗い廊下を見つめ続けた。