abyss−深淵−
幼い頃は知らなかった。
地下室という存在が、砂城では禁じられていた事を。
それが普通あってはならないものだと知ったのは、中学生になってからだったと思う。
両親の地下室は、特別に許可を得ていたらしいが、それでも口に出して堂々と言える事実ではなかった。
幼い頃、当たり前のように何度も地下室に遊びに行っていた。
その部屋がある事は誰にも言ってはならないと両親から厳重に口止めされていたが、特に疑問は持たなかった。
なぜならそこは両親の、主に母親の研究室だったから。
研究を口外してはならない事くらい、子供の自分にも解った。
だから秘密だった。
そこで働く美しい母の横顔も、その地下室のずっと下の方にいる、怖いものの存在も。
両親が殺された記憶と、その後の冬馬と過ごした日々があまりにも強烈すぎて、幼い頃の記憶は薄く霞がかかったように、ぼんやりしたものになっている。
それでも、黒羽は時々フッと思い出した。
どことなく懐かしい暗闇。
真剣な母の背中。
夢中で遊んでいると、気まぐれに出される美味しいお菓子。
そんな些細な事が、ひどく甘い記憶として、黒羽の中に蘇った。
母は常に背の高い人として、自分の中に刻まれていた。
自分がこれほど大きくなったのだから、父親も身長が高かったのかもしれない。しかし彼は、いつも車椅子に座っていた。
だから、自分の目線より高い所に見えるのは、常に母親だった。
彼女の背をいつか追い越し、普通に大人になっていくのだと、なんとなく信じていた。
だが結局、僕は母親の背の高さを越えられなかった。
僕の背が伸びる前に、母親は死んだ。
だから記憶の中の母親は、常に見上げる位置にいる。
その事が、時々無性に切ない。
今だったら、あなたを上から見下ろして、笑って『お母さん』と呼べるのに。
そんな瞬間は、これから先も、僕には決して訪れないのだ。
両親の記憶は、そういった些末な事ばかりだった。
日常のささやかな生活の積み重ね。
どれだけ記憶を探っても、そんなものしか浮かんでこなかった。
父と母は、あの地下室でどんな研究をしていたのだろう。
冬馬が真剣に欲しいと思い、そして奪い取っていったもの。
それは一体どんなものだったのだろう。
自分の中の記憶をいくら探っても、その辺りに関する情報は、まったく思い出す事が出来なかった。
もっとも両親が死んだのは、自分が15になるかならないか。
自営業ならともかく、普通のサラリーマンの家でも、親がどんな仕事をしているか、詳しく知っている子供はまれだ。自分が余りよく知らなかったとしても当たり前の事なのだろうと思う。
だが…。
どんなものだかは知らないが、冬馬は二人を殺してまでも、それが欲しいと思ったのだ。
冬馬が本当に欲しいと思ったら、命を奪う事さえ一瞬たりとも躊躇わない。
迷いもなく彼が両親に手を下したのだろう事は、まるで実際に見たかのように、鮮やかに想像する事が出来た。
あの地下室に、何があったのだろう。
僕は子供だったので、施設に入ってからは、それきり二度とそこへ行く事はなかった。
目の前で両親が死んだ場所だったから、行きたいとも思わなかった。
しかし冬馬に置いて行かれ、死の淵に落ちる事も出来ずに目を覚ました時、初めて再びそこに足を向ける事を思いついた。
自分が何をしたいのか、自分の周りには何があるのか。
世界に冬馬しかいなかった頃は考えもしなかった事だが、初めて冬馬以外の『外』を見回してみるつもりに、僕はなったのだった。
身体がある程度回復したところで、リハビリを兼ねてあちこち歩く。
冬馬のマンションには、予想通り誰もいなかった。
自宅は既に売り払われ、他人の手に渡っている事は知っている。
あの地下の研究室は、その家から少し離れたところにあった。
住宅地域、ギリギリの所にある廃坑。
地下室はその穴を改造して作られたものだった。
殆ど入り口だけの小さな建物のドアを開けると、下に続く階段が見える。
階段を降りて、もう一つドアをくぐれば、そこはいつでも母の背中が見える研究室だった。
母は自分がここに来る事にあまりいい顔はしなかったけれど、来るなとも言わなかった。
黙って本を読んでいると、美味しい菓子がフッと差し出されることがある。その瞬間が、黒羽は大好きだった。
菓子は手作りではなく、店で売られている出来合いのものだったけれど、母親は自分では、そういった菓子の類いを殆ど食べない。
だからあの菓子は、ただ黒羽のためだけに用意されたものだった。
よく笑う陽気な父と違って、母は無口で、いつも厳しく唇を引き結んだ表情をしていた。だから怒られた時は、とても怖かった記憶がある。
しかし今考えると、母はたぶん自分に、ひどく甘かったのだ。
不機嫌そうな顔をしながら、黒羽のお願いには大抵頷いてくれたし、研究室でも仕事の邪魔をしない限り、どんな事をしていても許された。
ただひとつ禁じられた事。
下に行く事を除いて。
砂城のアンダーは地下にある。
そしてアンダーの更に下は、ディープと呼ばれる未知の世界だった。
研究室は言ってみれば、そのディープにあった。
ディープにはジャンクが出る。
砂城では幼い子供でも、その恐ろしさを知っている。
研究所が地下にも拘らず存在を許されていたのは、ディープに関わる研究を両親がしていたからであり、なおかつ地下室が更に下に通じていない廃坑だったからだ。
ジャンクは下から来る。
既に下と繋がっていない浅い廃坑なら、ジャンクが来る心配は、100パーセントとは言いきれないまでも、殆ど無いと言ってよかった。
しかし、にもかかわらず、その地下室には更に『下』があった。
当時は疑問に思わなかった。
しかし今なら解る。
あの研究室は『下』と繋がっていたのだ。
下からはジャンクが来る。だから母は自分が下に行く事を厳重に禁じたのだ。
だとしたら、それは違法だった。
下に繋がる穴を見つけたら、報告する義務がある。厚い扉を何重も作って防御していたとしても、黙っている言い訳にはならなかった。
廃坑が下に通じていた事を知っていて、故意に隠し続けていたのなら、確実に実刑をくらう罪になる。
その事を両親が知らない筈はなかった。
だからきっと…両親は解っていたのだろう。
下に繋がっている事も、隠す事が罪になる事も全部解っていて、それでもそうしたのだろう。
何故そんな事をしたのか。
もう聞く事が出来ない今、本当の理由は永久に解らない。犯罪行為に喜んで荷担するタイプだったとは思えないから、何か訳があったのだろうとは思う。
もっとも二人とも研究バカだったから、探求心が罪に勝ったという可能性はある。
だがひとつだけ、確信できる事があった。
それは冬馬が全面的に協力していただろう事だ。
両親は冬馬に脅されていたのかもしれない。それとも騙されたか、取り引きを持ちかけられたか。想像するしかできない。
だが地下室の件は、完全に不問に付された。
二人は突然下に繋がってしまった穴の底からやって来たジャンクに食われた、可哀想な被害者としてしか扱われなかった。
下に降りた事がないので、地下室の更に下がどうなっていたかは解らない。
だが、前から繋がっていたのか、突然繋がってしまったのか、そんな事は調べればすぐに解る。特に何年も前から下に繋がっていたのなら、誤魔化しようがない筈だ。
なのに、誰もその事に言及しなかった。
間違いなく冬馬が手を回したのだ。
それ以外に整合性のある理由は思いつかない。
しかも、そんな裏工作は『知って』いなければできないだろう。
冬馬が研究を欲しいと思っていたのなら、地下室の事も冬馬が支援し、擁護し、そして隠蔽したのだ。
それがたった一つ確信できる、たぶん真実だった。
記憶をたどって地下研究室があった場所まで行って、思わず絶句する。
何もなかった。
嘘だろう? と思う。
下に繋がっていない廃坑は、そのまま緩い監視のもとに放置されるのが常だった。廃坑が再び下と繋がる事は殆ど無いが、あるとしたら再生ありの縦穴として、厳重に管理監視される筈だった。
なのに、何もない。
もしかしてここに来なかった6年の間に、再び穴が塞がって、そのまま埋め立てられてしまったのかもしれない。
縦穴ができるような場所には建築物も建たない。だから埋められてしまったのなら、放置されたただの空き地になっていても当然と言えば当然だ。
それにしても…。黒羽は辺りを見回す。
痕跡すらも、何もない。
かつての甘い想い出の場所は、殺風景に拡がる平らな土地になっていた。
完全に人の気配が拭い去られたマンション。
建て直しをされて既に違う人が住んでいる家。
今は地面しかない、幼い記憶のよりどころである研究所。
過去に関わった形あるものは、すっぱり消え去っている。
まるで過去なんか、無かったようだ。
そんな風に思ってしまうくらい、何もかも綺麗になくなっていた。
僕の過去は、もう記憶の中にしかない。
個人的なものも施設に入る時に殆ど処分してしまった。
証拠のないあやふやな記憶だけが、僕の過去の全てだ。
だとしたら、それが本当にあった事だと、どうやって証明できるだろう。
その記憶すらも、色々なものと混じり合って、模糊したものになっている。
だとしたら僕に、本当に過去なんてあったのだろうか…?
呆然とそこまで考えて、それから小さく首を振る。
冬馬がいる。
そして、彼が持ち去った研究が。
たった一つ残った、確かな過去との繋がり。
彼を追いかけ、彼が奪っていったものを再び手にするんだ。
そうしたら、全てが終わってもいい。
僕の周りのものは全部持っていかれたのに、僕自身だけ取り残された。
だから僕もそこに行くべきだろう。
冬馬、なんて中途半端な仕事をしたんだ。
これだけ綺麗に全てを拭い去っておきながら、僕だけ始末し損ねていくとは。
僕を殺すといい。
僕は、僕の過去の全てをもう一度手にしてお前を殺す。
そうでないなら何も手に入れられずに、お前に殺されよう。
どちらかだよ、冬馬。
その為だけに、お前を追い続ける。
黒羽の口元が歪み、白い歯がチラリと除く。
遠くから見たら、彼が笑っているかのように思えただろう。
だがその笑いは、無機質な顔にできたひび割れだった。
割れた空洞の下には、暗い深淵がどこまでも拡がっていた。
冬馬を追いかける。
それだけがただ一つの目標だった。
終わらない限り、過去は僕に返ってこない。
そして未来は、炎の中で僕自身が捨てた。
僕のような人殺しに、未来を手にする権利はないのだ。
黒羽はかつて地下室だった更地に背を向けて歩き出した。
土地に関しての書類を閲覧する事は、たぶん無駄だろう。
ここまで綺麗に始末していった人間が、公式の書類を見逃すはずはない。
たくさんあった両親の私物は、一部を除いて殆ど処分された。
もともと市の研究員だったから、研究資料は総て市が引き上げていった筈だ。
研究の一部。たぶんフロッピーとノート。
冬馬が持ち去ったその二つを除いて。
残されたものは『記憶』だ。
僕自身の、曖昧な記憶。これだけは誰も奪っていく事は出来ない。
両親はどんな研究をしていたのだろう。
僕に理解できるだろうか。
理解できないまでも、それがどんなものを目ざしていたのか、欠片だけでも解らないだろうか。
黒羽は瞳を閉じる。
地下の薄暗い研究所。
綺麗な母親と、甘い菓子。
下にいる恐ろしいものに怯えながら、母親がいるのだから大丈夫だと、たったそれだけの理由で安心していられた日々。
下には怖いものがいる…。
怖いもの…。
フッと疑問が湧く。
どうして自分は知っていたのだろう。
あの下に、怖いものがいる事を。
部屋が下に続いている事を。
黒羽は瞳を開けた。
誰にも説明された記憶はない。
その扉の向こうに行ってはいけないと厳重に注意されたが、あれは単なる隣の続き部屋へ行くドアだった。
下に行くなと、言われた覚えはない。
なのにどうして、すんなりと僕は下に行く事を禁じられたと思ったのだろう。
考えてみたら、地下室の更に下があるなんて事を、子供にまともに漏らすはずはなかった。地下室までは構わない。眉をひそめられても、それは許可されたものだったのだから。
でも、更に地下がある事を子供に言ったとは思えない。
なぜなら子供は、どこで不用意にそれを喋るか解らないからだ。
黒羽は懸命に、曖昧になっている記憶を掘り起こした。
母親が言った事は「ドアの向こうに行くな」の筈だ。
地下に行くなでは、無かったはずだ。
ぼんやりと、本当に微かな記憶が、黒羽の頭の中を通り過ぎては、スルリと抜けていく。しっかり捕まえる事はひどく難しい、情景の断片。
『どうして?』
母親の不思議そうな顔。
『向こうに何があるか、解るの』
悲しそうな声と、抱きしめられた感触。
『大丈夫』
頭を冷たい掌と細い指が撫でていく。
『大丈夫だから。何もかもすべて』
『…コウを守るから。何も心配しなくていい』
だから…。
だから安心していていいんだ。
母親の腕の中で、ホッと瞳を閉じる。
怖いものが来ても、こうしている限り大丈夫なのだ。
だから忘れよう。
あの向こうに怖いものがいる事は。
だから忘れよう…。
僕は…考えない…。
「僕は…」
呆然と目を見開き、黒羽は呟いた。
「僕はジャンクが来る事が解る」
黒羽の中に混乱がかすかな渦を巻く。
ぶつりと途切れたように、その事は忘れ、意識されていなかった。
けれど、僕はジャンクの存在を、感じる事ができたのだ。
子供の時ほど敏感ではないが、今だって解る。
当たり前だと思っていた。
ジャンクはあんなに怖いものだから。
だから誰でも、ジャンクが来たら解るのだと、そう思っていた。
もちろん自分も必ず解るわけではない。
恐ろしく鈍くなっている時もあるし、視界に入る寸前まで、まったく気付かない時もある。ジャンクだとは気付かず、ただ嫌な感じがする、そんなぼんやりした感覚だけが胸を過ぎる事もある。
けれど成長するにつれて、それすらも普通、他の人には出来ないのだと、そう思って驚いた事はなかったか?
この記憶は完全に前後が途切れている、断片のワンシーンにすぎない。
しかし…。
母親もきっと、驚いたのだ。
そして、母親も出来なかったのだ。
僕のようには…。
僕のようにジャンクを感じる事は、きっと誰にも出来ない。
ジャンクとは何なのだろう。
両親はジャンクの研究をしていたと、ベッドでそう言ったね、涼一。
けれど市の研究施設に記録されている両親の研究対象は『使役品』だ。
ジャンクじゃない。
もっとも、使役品を研究する上でジャンクの研究は切り離せない。
黒羽陸が一部でジャンクの研究者として名前が通っていた事も確かだった。
けれど、涼一。
あんたは口を滑らせたに違いない。
ベッドの上で、僕を玩具にして遊んで。
きっと気分が良かったのだろう。
僕は涼一の言った事を何でも聞いて、そしてそのまま聞き流していたから。
だから大丈夫だと思ったんだろう?
僕の両親を殺した事も、ひっそりと告白した。
そして間違いなく、口を滑らせたのだ。
『永遠の生』だと、お前は言った。
両親はそういったものを研究していたのだと。
違う。
そんな記録はどこにもない。
それはお前がやらせていたのだろう?
そしてジャンクに関係している事なのだろう?
冬馬涼一。お前は何をやろうとしているのだ。
あの深淵から、何を呼び出した。
徘徊する体温の無い死人達。
あれが永遠に生きる事か。それとも違うのか。
永遠の生。
求めているものは手に入ったのか。
それとも不完全だからこそ、沢山の出来損ないを創り出しているのか。
ジャンクは死なない。
壊されない限り死なない。
言い換えれば永遠に生きるのだと、冷たい身体で僕を抱きながら、お前はそう言った。
ならば壊されたのなら、死ぬと言う事だ、涼一。
涼一。僕には解る。
ジャンクの存在が解る。
どうしてなのか、それは解らない。
両親と研究について、いま思い出せることはこれだけだ。
だが、思い出したからには、そこに何かがあるはずだ。
ジャンクとは何だ。
フロッピーとノートには何が記録されていた?
両親は何から僕を守ろうとしたのだろう。
すべてがまるで、ディープの深淵のように混沌としていた。
ディープで空間がぐにゃりとひっくり返るように、決して出口に行き着けないかもしれない。
でも、ならば混沌の中で出会おう、涼一。
お前はきっと、そちら側にいる。
そして僕は、どこかで繋がっている。
深い深い、底の底と。
覗き込むと
深淵がこちらを、じっと見返すのが解った。
END
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