夜の息2


黒羽は瞳を閉じる。
身体に触れてくる香澄の手の感触だけを感じる。
暖かく、優しく、力強い。
彼の手がどこに触れても、身体は敏感に反応した。
痛みには鈍感なのに、彼の愛撫は僕の身体を蕩けさせる。
身体にかかる彼の体重が、ひどく心地よかった。

香澄の身体が好きだ。
大きな手も、胸も、広い背中も。均整のとれた男の身体。
僕より小さいことを気にしているようだが、僕にはよく解らなかった。
だって、抱きしめる腕は長く、胸は広くて温かい。
僕を抱きしめる腕が、見ただけで欲情するその身体が、僕はこんなに好きなのに。
香澄の方が年下で、僕は彼を護らなくてはならないと、そう思った。
なのに気がつくと、こんな風に香澄によりかかっている。
香澄、君が好きだよ。
寄りかかりすぎないように、彼の心地よさに甘えないように、自分を押さえることが、時々ひどく難しかった。

僕はさっき、別の男を誘惑してきたばかりだ。
もちろん、理由があってのことだが。
しかし、目的が手段を正当化するわけではない。
どんな目的だろうと、それが香澄を守るためだろうと、そんなことは言い訳にすらならない。

結局セックスまで至らなかったから、自分から口を開かなければ、僕が何をしてきたか、香澄には解らないだろう。
でも、そんな身体でセックスを求めたら、香澄に拒否されるのではないだろうか。
根拠のない推測が、チクリと胸を刺す。
キスをして、誘って。こんな風に応じてもらっても。
彼は何も知らないのだから、という思いが頭を過ぎる。

僕はどうして欲しいのだろう。
こんな気分になると解っていて、それでも僕は、篁 海里にあんな風に身体を差し出した。
そう、その瞬間は、別に何も考えることなく。
有益な情報と交換できるなら、セックスするくらい、どうということはなかった。
僕は長い間ずっとそうしてきたのだから。
他に何も持っていないから。
だから、いつか彼から本当に有益な情報が得られるなら。
僕は必ず彼とセックスする。
あまり考えずに彼と寝て、目的のものを手に入れ、身体の欲求も満たす。


篁 海里は、確かに僕に欲望を持っていた。
彼が何を考えているのか、どんなツテを持っているのかはよく解らなかったが、僕と寝たいと思っているのは間違いなさそうだった。
だから、上で他の男達にしたのと同じように誘ってみた。
あっさり彼は落ちた。
すぐに僕の身体に乗って、欲望をむき出しにした。
本当のことを言ってしまうと、僕はそんな風に求められるのが好きだった。
目的は僕の身体だけでいい。
何も考えなくてすむから。
身体で感じるだけでいいから。

こんな気持ちを香澄に見透かされて、誘いを拒否されるのではないかと、バカな妄想をする。
いっそのこと拒否されてしまってもいい。
僕はそれでも、嬉しいような気がする。
香澄を好きになっていく気持ちと、セックスすることが、やっぱり重ならない。
でも、香澄に抱かれると、震えるほど気持ちがいい。

香澄……。
君の足音を聞いていた。
ドアの前で立ち止まって躊躇っている、その息の音も。
罰を待っている犬のように、僕は君を待っていたのかもしれない。
だから、あんなに待っていたくせに、ドアが開けられる瞬間まで、僕は動くこともできなかった。
「コウ、どうしたんだ? 電気もつけないで」
香澄の声に呪縛が解かれたみたいに、僕は立ちあがる。
真っ暗だと香澄は言ったが、僕には香澄の顔はよく見えた。
びっくりするほど……綺麗だった。
どれだけ暗闇でも、香澄の顔を見失うことはないだろう。
彼自身が光なのだから。
もっとよく見たくて、顔を近づける。
近づいたら、もう気持ちを抑えることができなかった。

香澄、キスをしよう。
僕を許してくれなくていいから、僕を抱いて。



他の男を誘惑したのと同じ手で、すぐに香澄を誘う。
誰にでも脚を開く節操のない身体で、彼を受け入れる。
香澄、僕は君が好きなのに、君の望むような誠実さを持つことはできないような気がする。
僕は篁 海里を道具に使おうとしている。
自分の身体を使って。
その行為を香澄が喜ぶとは、とても思えなかった。
それでも…。
香澄と舌を絡ませながら、黒羽の頭の一部は、妙に冷たく乾いていく。
香澄を守るために、彼を利用できるなら、そして身体を使えるなら利用しない手はない。

冬馬涼一と渡り合うのだ。
手段を選んでいたのでは、後れをとる。
彼と戦うなら、後手に回るのは死を意味した。
彼は僕は殺さないだろう。
いや、それは正確ではない。殺すとしたら最後だろう。
彼がその気になったなら、まず香澄を殺す。そして次が僕だ。
だから僕は香澄を守らなくてはならない。
どれだけ香澄が望まないやり方だとしても、使えそうなルートは、すべて開いておきたい。

心の中の銃に、ゆっくりと弾丸を装填する。
冬馬涼一を追いつめていこうと決意した、あの頃の気分が戻ってくる。
もっともあの時は、守るべきものなんて一つもなかった。
自らを壊すための破壊衝動に、ただ身を任せていた。
今はある。目的が。

香澄、君が好きだよ。
君が望むような男にはなれないかもしれない。
君は悲しむかもしれない。
けれど……。

僕はいかなくては。僕が決めた軌に。

 

 

ホテルのベッドに横たわって、僕は大きく声をあげる。
「コウ、いい? 気持ちいい?」
いいよ。すごくいい。
香澄に揺さぶられるたびに、彼の熱さを、もっと身体の奥まで感じたくなる。
「…コウの声、聞きたい」
言葉さえも、香澄の口から囁かれれば、耳の中で快楽に変わる。
香澄の手が僕の中心に伸びて、硬く勃ちあがった欲望を、優しく情熱的に愛撫する。
彼の手の中で僕のモノがビクビクと震え、透明な液体を彼の手に滴らせた。
「コウのここ、感じてる……」
その声だけで、僕はイキそうになる。
「香澄…。かすみ……っ」
脚を絡め、彼にしがみついて、落ちてくる熱い汗を舐めた。

香澄、僕を姦して。
今だけでも、何も解らなくなりたい。
もっと触って。きつく抱きしめて。激しく突き上げて。
彼の肉に支配されてしまいたい。
香澄に抱かれた印を感じたいから。僕の中で何度も達して欲しい。
セックスならば、僕はこんな風に、なんの躊躇いもなく誰かにしがみつくことが出来る。
しがみついて、放さないでと、抱擁をねだることも出来る。

「ああっ……、あっ、ああっ……」
香澄の激しい抽送に、僕はシーツを掴む。
その手の上に、香澄の手がぎゅっと重ねられた。
「コウ、好きだよ」
ひたすら突き上げながら、香澄はささやく。
「好き。大好き。すごく好き」
なんて甘い響きなんだろう。言葉のキスが身体の中に蕩けていく。
「あっ……」
そろそろ限界が近い。
僕は香澄の手をきつく握った。
「コウ」
「もう…ダメ。香澄、イクッ……」
「コウ、オレも、一緒に」
「香澄っ…。かすみ…っ」
彼の名前を呼びながら、頂点に上りつめていく。
快楽が一気に弾け、彼の手と自分の身体に白濁が飛び散った。


「香澄……いい。ああ。かす…み」
何度も名前を呼ぶ。
香澄とセックスして、香澄の身体を感じてイッたのだと、自分に言い聞かせるように。
香澄が背中をふるわせる。
「コウ、オレも、コウ……」
彼の怒張が自分の中で弾けるのを感じた。

「…はあ、ああ。コウ…」
香澄の身体が、どさりと重なってくる。
僕は下から抱きしめ、瞼を閉じて、触覚だけに身を任せた。
上に覆い被さる心地よい香澄の体重。
僕の中を支配する、充実した男の徴。
「香澄、このまま、抜かないで…」

ずっと感じていたい。
できるだけ長い間、僕は彼と身体をつなげていたい。
どうしてセックスは、射精したら終わってしまうのだろう。
ずっとずっとこの快楽の中で、一晩中でも抱き合えたらいいのに。

そんな風に思いながらフッと目を開くと、目の前に香澄の顔があった。
瞳はまっすぐに、こちらを見ている。
「…コウ」
目が合うと、香澄は僕の名を呼んだ。
答える代わりに、キスをする。
……ああ、香澄。
最初から君は僕をまっすぐに見たね。
いつでも真剣に。
一つの嘘もなく。
僕は本当は自分で思うより、遙かに貪欲な男なんだ。

僕はずっと欲しかった。
僕だけを映す瞳。僕の名前だけを呼ぶ唇。

香澄、あの時から君の瞳は眩しかった。
でも、僕が欲しいものは、けっして僕と釣り合わない。
綺麗な瞳も、気持ちいいセックスも、本当は僕にはふさわしくない。



「コウ、コウ、なあ。コウってば」
香澄がひどく戸惑った顔をしていた。
「なに? 香澄…」
身体はまだ、とても気持ちがいい。
このままずっと、今日の香澄を身体に記憶しておければいいのに。
「コウ、あのさ…」
香澄はほんの少し躊躇って、それから口を開いた。

「オレはその。鈍感で不器用だからさ。コウが何考えてるのかは解らない。
でもコウ……。信じてるから」
「…香澄?」
「コウはオレが好きだろう」
戸惑いながら頷く。
「オレもコウが好きだよ。本当に好きだから。今はそれだけ、解っててよ」
「香澄」
「いい? コウ」
香澄の大きな手が髪を撫でる。

「コウがいなくなったんじゃ、意味ないんだからな?」

ぎくりとした。
香澄は何を感じているのだろう。
彼の言葉は、いつでも本質を突く。
僕が香澄の望まないことをするかもしれないと、どこかで感じ取っているのだろうか。

「でないと、絶対放さないからな。抱きしめて、ずーっとキスしてやる」
「香澄……」
「コウの中から、このまま出ていかないからな」
「香澄…。それは少し、嬉しいな」
「えっ? 嬉しいの?」
僕は思わず笑ってしまった。
「だって香澄。こんな風に、ずっと抱きあっていられたらって思ってたから」
「ああもう。現実にそうできるなら、したいよ」
香澄はぎゅっと頭を抱きしめた。
暖かい腕に、僕は唇を寄せる。

「コウ、お願いだから。自分を大切にしてくれよ」
香澄の独り言のような呟きが、小さく小さく、くぐもって耳に届いた。
僕は再び瞼を閉じて、すべての感覚を香澄にあずける。



香澄の言うことは、いつもひどく難しい。
冬馬涼一にすべてを捧げていた時は簡単だった。
何もかもあの男のために判断し、動けばよかったのだから。
いま僕は、香澄のために同じように動こうとしている。
なのに香澄は僕に要求する。
『自分も大切にしろと』

香澄、僕にはとても難しいよ。
僕はまだ、自分に価値があると自分で思うことができないから。
でも君がそう望むなら、できるだけ叶えたい。

だから今はほんの少しだけ。
いま一瞬だけでも、香澄にふさわしい価値があるのだと、自分に言い聞かせよう。
こんな風に抱かれて、気持ちよくなっていいのだと。
彼の『好き』を受け取って、嬉しくなっていよう。

「香澄、気持ちいいよ」
「うん、オレも」

夜の底で二人の息だけが、再び静かに重なり合っていった。

END