incident14前編−3


移動すら人任せだと暇だよな、と思いながら、海里は会場を見回した。
会場といっても、松本が迷ったおかげで、この辺りはバックヤードに近い。
狭い廊下に天井。白い壁にところどころあるドア。
これらのドアは、開けるとどこに繋がっているのだろう。
スタッフオンリーと書いてあるから、倉庫とか休憩室とか事務所とか、そういう所なんだろうな、とは思うけれど…。
とりとめもなくそんなことを思いながら、廊下の側道を眺めると、薄暗い奥にトイレのマークが見えた。
「あ、おっちゃん」
「なんだい?」
「トイレ寄っていい? あの奥にマークが」
「トイレっ? もちろん寄りましょう、寄りましょう!」
「ちょっと待て。なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「え〜? だって海里、一人じゃトイレ、大変だろう? だから僕が手伝ってあげようと思って」
「手伝うって…。このホモオヤジ。何を考えてるんだっ」
「大きい方? 小さい方? 小さい方なら立つとき肩を貸して、ついでにアレも支えてあげるぅ〜♪」
「小便だけど、個室はいる! 個室に入って一人でするっ!」
「介助の一環なんだから、恥ずかしがらなくていいのに〜」
「うるせえっ! 下心付きのくせしやがって、何が介助かっ」

ホモはトイレから出て行け!
と叫びながらドアを閉め、便座に腰を下ろす。
途端に盛大にため息が出た。
「まだホールに入ってもいないのに疲れてどうするよ」
海里は座って用を足しながら、自分が出来ることと出来ないことを頭の中で整理してみる事にした。

とりあえず映画祭の写真を撮る。
これは上手くいけば、どこかのメディアに売り込めるかもしれないという、オレの表向きの行動目的だ。
表というからには裏もある。
しかし裏の目的は、表ほどはっきりしたものではなかった。
7年も前に死んだとされている、冬馬涼一。
しかし彼は生きている、と黒羽さんは言った。
いや、生きている、じゃないな。
はっきり言われた訳じゃないけど、冬馬涼一は「アレ」になっているに違いない。

『一度死んで、再び戻ってきた者』

生き返ってきた死者には、ゾンビとか、色々名前はあるのだけれど、でもどうにもそれらの言葉のイメージには『アレ』は当てはまらない。
やはり、『戻ってきた者』なのだ。
リビングデッドは、生ける屍だ。
だが、奴らは「死んだことに気がついてない」者のように見えた。
どことなく異質な雰囲気を放ちながら、それでも生者と同じように歩き、考え、行動する。
奴らを造っているのが冬馬涼一だと、黒羽さんは言っていた。
その冬馬涼一を追う。
死人を追うことが出来るのかどうか解らないけれど。
『戻ってきた者』と、オレの足を奪いかけた、あの事件の真相に出来るだけ近づく。
「ずいぶん抽象的な目的だぜ」
海里は再びため息をついた。
「やっぱりアレかな。具体的な方法としては写真撮りまくるしかないのかな。冬馬一族とその周辺辺りを」
呟きながら、ぼんやりと思った。

翔子はもう来ているのだろうか。
どうしても糸口が掴めない時は、翔子に声をかけるしかないのだろうか。

つい、ため息をついてしまう原因は、ここにもあった。
家出中の身としては、篁一族との接触は出来るだけ避けたい。
「でも…。翔子は冬馬との直接的なつながりがあるわけだろ? 翔子との接触はオレしかできない。だったら目的のために、どれだけ嫌でも、使える手は使っておくべきなんじゃないのか?」

しばらく考えたが、決心は付かなかった。
あー、もう、と海里は子供のようなうめき声を出した。
「いいや、出たとこ勝負だ。その場になってから行動しよう。頭で考えるんじゃなくて、身体の反応に忠実になってやる。咄嗟に自分の身体が動いた方に進む!」
どことなく頼りない決意を吐きながら、海里は便座から身体を起こした。
その瞬間だった。
海里はぐらりと眩暈のようなものを感じた。

「あ…れっ?」
眩暈のような平衡感覚の乱れは、ほんの微かなもので、錯覚かと思えるほど一瞬で消えた。
しかし今度は、なんとなく耳の奥がざわざわとし始めた。
「なんだ? 何の音?」
思わず目を瞑って耳をすます。
かさかさと細かく裂いた紙の間を何かが抜けてくるような、さくさくと土を崩していくような、狭い場所でもぞりと何かが身を捻ったような。
形容しがたい、音にならないような音が、聞こえるような気がした。
「…ヘンだな。ちゃんとした音か? それともオレの耳鳴りか?」
いや……。
壁の向こう、それともトイレの下の方からなのか。
微かな振動が途切れながら唸っていく。
同時にトイレの芳香剤なのか、ひどく変わった香りが鼻の奥をくすぐる。
海里の身体にぞくぞくと寒気が走った。

「き…気持ちワリイ。何か変だ、ここ。気のせいかもしれねえけど。おっちゃん、おっちゃーん!」
個室の鍵を開けて、大声で松本を呼ぶ。
「はいはい?」
何も感じていないらしい日常をまとった呑気な声に、海里は一瞬ホッと息を吐く。
だが、何かに急かされているような焦りは変わらなかった。
一刻も早くここから出たい。
「車椅子、こっち。早くここ出るから」
「どーしたの?」
「いや、えーと。なんとなく気持ち悪いって言うか…」
「あらっ、大丈夫? もう少しトイレにいて、吐けるようなら吐いていく?」
「いやっ…、そうじゃなくて。説明しにくいから。とにかくここ、ここ出ようぜっ」
松本は首を捻ったが、大嫌いなオカマ言葉をやめろとも言わない海里に何かを感じたらしく、それ以上無駄口をたたくことなく海里を車椅子に乗せた。

無言のままトイレのドアを抜け、比較的広めの廊下まで車椅子を押し出してから初めて松本は口を開いた。
「どうしたんだい? 海里くん」
「……説明、出来ねえ」
「君の身体の調子? それとも何かあったのか?」
「なんか、変な音が聞こえたんだよ。いや、聞こえたような気がしたって言うか…。気のせいだったのかもしれないんだけど…、ああ、もう。解んねえって言ったら解んねえんだって。ただ、気持ち悪いんだよっ」
松本はしばらくじっと海里の顔を見つめた後、ぽつんと口を開いた。
「君のカンを信じよう」
「……えっ?」
「廊下の奥にいたお巡りさんに、一応声をかけてくる。待ってて」
「あっ…。ちょっとおっちゃん。おい。お巡りさんにって、オレの何かの気のせいかもしれないぜ」
海里は怒鳴ったが、松本はさっさと廊下の奥に消えていった。
一人きりで誰もいない白い廊下に、ぽつんと取り残される。
途端に再び、ぞくりと寒気が身体を走った。

いったいどうしちゃったんだろう。
悪寒は、レンタル屋であの身体の冷たい男にぶつかった瞬間に、どことなく似ていた。

 

 

大ホールではオープニングセレモニーが始まっていた。
始まりの音楽こそは派手だったが、主催の挨拶、要人のスピーチなど、退屈なパートが続く。
しかしこれが終わったら、外では花火が上がり、中ではパーティが始まる。
そして、今回出品された様々な映画作品が、砂城の街のあちこちで上映される予定だった。
初回上映時には役者の挨拶やパフォーマンスが行われ、街中が色鮮やかなお祭りの雰囲気に包まれるだろう。
「映画賞の発表は、祭の最後だったよな」
白鳥は確認するように口の中で呟いた。
映画祭は4日間続く。芸能人など上からの大物が集うのは、今日のオープニングセレモニーと、3日後のKISHIMA映画賞の授賞式、この二回。
今日を無事乗り切れば、仕事の半分は終わったと同じだろう。
中日の祭には、上から来た砂城を知らない一般のお客さんたちが、縦穴などに近づくのを阻止したり、酔っぱらいを保護したり。そんな仕事がメインになる。

「早く終わって欲しいぜ…」
白鳥はひっそりとため息をついた。
パーティは好きだが、今は他の特殊班のメンバーと一緒に、会場の端の方で警備をしていたかった。
こんなタキシードなんかを着ていなかったら、本当は皆と一緒にいた筈なのだ。
指揮だって、そっちの方がやりやすいよな。と思う。
指揮官はホールにいて、他のメンバーはホールから離れた会場の隅っこにいるなんて、そんな変則なこと、普通はしない。
しかし黒羽を一人にするわけにもいかなかった。
「パーティが始まって、出入り口がフリーになったら、一度ここを出て、ホール以外を回ってみよう」
気持ちが解ったのか、黒羽がそっと囁いた。白鳥は驚いた顔をして上を見る。
「オレ、独り言とか言った?」
「どうして」
「いや…コウ、オレの心、読んでるみたいに当てるからさ」
「以心伝心だ。パートナーだからな」
「ウソだろ…。普段はそんなに鋭くないじゃん」
黒羽はうっすらと微笑んだ。

そう、今は確かに特別だ。
感覚は鋭く尖り、香澄の心臓の鼓動まで聞こえてくるようだった。
どこに汗をかいているのか、吐く息の速さまで感じられる。
鋭くなった感覚が伝える膨大な情報を、脳は混乱することなく処理していく。
まるでホール全てが自分の身体の一部のようだった。
意識が香澄と重なり、心地よい緊張に震える。
高島が3つ先のテーブルで貧乏揺すりをしていることも解る。
今このパーティ会場に異物が入ってきたら、どんな小さいものでも関知できるような気がした。
「いないな…」
フッと呟く。
あの男、篁 洋平がホールにはいなかった。
大物として振る舞える、こういう華やかな場には絶対いると思っていたが、何故か今はいない。
一緒に入ってきた篁 翔子は、高島の隣に座っていた。
どういうことだろう?

……そういえば、冬馬の関係者もいない。

二つの符号が揃うと、妙に冷たいものが背中を落ちていく感じだった。

気がつくと白鳥が、無線機に向かって低い声で何かを喋っていた。
「どうした? 香澄」
「ん…篠原さんから連絡。トイレ見てくるって」
「トイレ? 不審者でもいたか」
「いや…そうじゃなくて。イマイチ要領を得ないんだけど、トイレに入った客から、なんかおかしいから調べてくれって言われたらしい」
再び白鳥は無線機に口を寄せる。
「解った。何かあったらすぐに連絡をよろしく。それと一人じゃなくて、誰かと一緒に調べてくれ」
無線を切った後、白鳥は黒羽を見上げた。
「オレも行くべきかな」
「それは香澄が判断しないと」
「そっか…そうだよな。ん、次の連絡があったら行ってみる。何もないなら、まあ行かなくてもいいかもしれないけど、とりあえずパーティが始まったら一度ホールを出て行こうかなって思ってたし」

話しているうちに、ホールの扉が開放されたのが解った。
外の騒めきと花火が上がる派手な音も聞こえる。同時にオーケストラが音楽を奏で始めた。
固まっていた人々がほぐれて、ホールの空気が大きく動いていく。
「あ…言ってるウチに始まったよ、パーティ」
「行くのか?」
「もう少し、連絡を待つ。今すぐだとパーティ参加の一般客が入ってきて混雑しているから」
わかった、と黒羽が頷いた、その時だった。
大きな足音と共に、高島の銅鑼声が響いてきた。
「やあ、黒羽くん。そこにいたかっ。紹介したい人がいるんだよう〜」
「げっ! あのおっさん、映画監督に挨拶は、もういいのかよ」
白鳥は思わず愚痴を漏らしたが、次の瞬間、息を詰めて高島が連れてきた少女を凝視してしまった。

「篁 翔子……」

うっそだろ。いきなりこの映画祭の目玉女優と、こんな近くで?
もちろん高島は彼女に白鳥を紹介したいわけではない。目的は黒羽だった。
篁 翔子はチラリと白鳥を一瞥した後、黒羽に向かって頭を下げた。
「はじめまして」
名前は知っているが映画は観たことがない。だから声を聞くのは初めてだった。
穏やかで落ち着いた、心地よい声。
そう思った瞬間、白鳥はフッと気がついた。
篁 翔子は、黒羽の顔に見とれなかった。
いや、一瞬確かに目は瞠ったのだが、次に大抵の女性がそうするように、その美貌に心を奪われる表情はしなかったのだ。
頬を赤らめることも臆することもしない。他の誰にでも同じ態度を取るのだろうと思われる、穏やかな微笑みを浮かべていた。
へえええ……さすがは女王様ってところだろうか。白鳥は妙なところで感心した。
そりゃまあ、いくらコウが綺麗でも、全ての女が必ず惚れるって訳ではないだろうさ。
でも、ここまで堂々と渡り合ってるのも珍しいよな。
オレなんか何度もコウと寝てるのに、いまだに突然近くで顔見たりすると、ドキドキしちゃうのになあ…。

微笑む篁 翔子に、黒羽も優雅に頭を下げた。
それは信じられないくらい美しい一幅の絵のようだったが、間に入った高島の声が、なにもかもぶち壊していた。

「なーっ、翔子ちゃん。彼なら翔子ちゃんのお相手にピッタリじゃないか? こんな美男美女の組み合わせ、今まで無かったよっ。翔子ちゃんと黒羽くんで並ぶと、いくらでもいい映画が撮れそうだ。創作意欲、刺激されまくりだよっ」
黒羽を役者にしようという魂胆が、透けて見えるどころか丸見えになっている。
「ねっ、黒羽くんもそう思わないかい? こんな美少女見ちゃったら、お相手したいとか、少しくらい思うだろ?」
残念でした。少しも思わないよな〜、コウはゲイで、オレのだもん。
完全に無視された形で隣に立つ白鳥は、心の中でほくそ笑んだ。
「新人の役者さんなんですか?」
篁 翔子は軽く首を傾げるようにして黒羽の瞳をまっすぐ覗き込んだ。
「いえ、違います」
「でも、それ」
翔子の視線は、黒羽のショットガンに落とされる。
「それは映画の小道具じゃないんですか?」
「いいえ」
黒羽は緩やかに首を振った。
「…もしかして…本物?」
「僕は警官です。本日、警備を担当しています」
翔子は初めて少し驚いたように軽く唇を開いた。

「じゃあそれ……人が殺せるのね?」

可愛らしい唇から、まったくそぐわない不穏な言葉が漏れる。
しかし黒羽は冷徹とも思える感情に欠けた声で、当たり前のように答えた。
「ええ、そうです」
「あなた、人を殺したこと、あるの?」
「はい」
一瞬のためらいもなくなされた肯定の言葉に、翔子は特に驚いた様子も見せず、印象的な大きい瞳で、ただ黒羽を見上げた。
視線を合わせた二人の奇妙な雰囲気に、高島と白鳥は呑まれたように口をつぐむ。
しかし、わずかな沈黙の後、翔子は再びニッコリと笑い、黒羽に手を差しだした。
「踊っていただけませんか?」
「あっ、いいねえ。美男美女のダンス。俺、見たいなあ」
高島が呪縛を解かれたように息を吐き出し、はしゃいだ声をあげた。

「ダ……ダンスっ!?」
白鳥は自分が誘われたわけでもないのに、キョドキョドと不審な態度を取ってしまった。
辺りを見回すと、オーケストラはワルツを奏でており、ホールには何組も踊っている男女がいる。
その様子は、どうやら外に設置してあるオーロラビジョンに映し出されているらしく、MASKのメンバーが大写しになるたびに、外では歓声が沸き上がっていた。
「コウ、ダンスだって」
「ああ」
「ああじゃなくて。どうするんだよっ。オレなんか、ダンスって言ったらフォークダンスくらいしかしたこと無いぞ。マイムマイムとか、コロブチカとか、オクラホマミキサーとか」
おかしな具合に狼狽する白鳥を無視して、黒羽は翔子の手をスッと取った。
「僕でよかったら」
「えっ? コ、コウ?」
黒羽は一瞬だけ顔を白鳥に寄せる。
「踊りながら、ぐるっと会場を見回してみる。やっぱり空気が変だ」
「変?」
白鳥の顔に緊張が走った。
「色々と気になるだけだから。香澄は香澄の仕事をしろ」

黒羽はそう言うなり、恐ろしく慣れた仕草で翔子をリードして踊り始めた。
本格的なワルツのステップ。
ホルスターもまったく邪魔にならないらしく、美しいターンの軌跡を描く。
おかげで本来は異物である腰のショットガンが、逆に黒羽を引き立てていた。
「うわ…コウの奴、踊れるんだ。ああいうのもアレか? 昔覚えさせられたのか?」
ブツブツ呟いていると、下の方から声が聞こえた。
「あんたは、ダンスできないの?」
声の方を見ると、そこには車椅子に座った若い男がいて、いやに挑戦的な瞳で白鳥を見上げていた。
「あ…ええ。はい。こういうパーティダンスはちょっと」
誰だろう、と思う。知っている顔だろうか? 見覚えがあるような無いような。
いや、ちゃんと知り合った人なら覚えているよな。だとしたら、どこかですれ違ったとか、その程度の関係か?
それにしては、馴れ馴れしい話し方をする。
「あなたは出来るんですか?」
「あー…。パーティとか出慣れてるから。今は足悪いから踊れないけどね」
男はそう言って、鼻で笑った。何となく白鳥はムッとする。
なんだろ。バカにされているような気がする。
いや…というより、一方的に敵意を向けられているような……。

「黒羽さん、綺麗だよね」
男はぼんやりと、踊っている黒羽を見つめた。
なんだ、どっちかというとコウの知りあいか? 白鳥は記憶を探りながら首を捻る。
「ここにいる芸能人の、誰よりも綺麗だ。顔だけじゃなくて、身体も動作も、滲み出る雰囲気も全部。あんたもそう思うだろ?」
「まあその…そうですね」
男の態度は気にくわなかったが、彼が言った内容には賛成なので、白鳥は頷いた。
確かにこればかりは彼の言うとおりだった。
篁 翔子と黒羽が踊り始めた瞬間、すべての耳目が二人に集まったような雰囲気になっている。
映画で言うなら、彼ら二人が主役で、周りで踊る芸能人達は、その額縁だ。
MASKをメインに追っていたカメラも、全てをぶっちぎって二人を追い始めていた。
当然、二人の姿は外の大型ディスプレイにも映し出され、会場内にも外の広場にも、感嘆のため息と、それと同時に疑問の囁きが満ちていく。
翔子は有名人だからともかく、相手の男は誰だ、という疑問だ。
一度見たら忘れられそうもない美貌なのに、誰も知らない。
あっという間に、話題のメインは翔子ではなく黒羽に集中していった。



高島はその様子を満足そうに眺め、にやにやと下品な笑いを浮かべた。
「思ったより派手なデビューになったねえ」
「はあ?」
「だって、話題性抜群じゃないか。いきなり映画祭の目玉女優の翔子ちゃんと踊ってさ。
しかも見てみなよ。篁 翔子と踊ってる男、という付属物の括りになってないよ。逆に、あの男の方こそ誰だって囁かれてる。
さっきまで誰も知らなかったのに、今は彼、話題の中心だ。一瞬で皆の視線も興味も攫っていく。やっぱり俺の目に狂いはなかったね。彼はスターだ。ただの芸能人じゃなくて、スターだよ」
そのスターがいま気にしているのは、ダンスじゃなくて、この会場の安全だけどな。
白鳥は心の中でこっそり反論した。
コウは心底警察官さ。オレの正義の味方だ。
残念ながらその辺が解らない高島の目は、節穴だと思う。

「海里、ごめんね遅くなって」
突然白鳥の耳元で、男の声が弾けた。
振り返ると、先ほどの車椅子の男に、中年の男が食べ物の皿と飲み物を持ってきたところだった。
かいり……? 珍しい名前だ。やっぱりどこかで聞いたような…。
「これ食べられる? お寿司は好きよね」
「ああ…うん。おっちゃん。遅かったな」
「食べ物取りに行ってる間に、真ん中でダンス始まっちゃって。大きく迂廻してきたからね」
「嘘つけ。黒羽さんに見とれてたんだろ」
「あ〜、バレちゃった。もちろんそれもあるけどさ。テレビでしか見た事ない芸能人がすぐそこ歩いて行くんだよ。そりゃー足も遅くなるって」
二人ともコウを知ってる。ということは砂城西署の管轄の人間なのだろうか。
視線を再び黒羽に向けながら、なんとなく二人の会話を聞いていた白鳥は、中年男の次の言葉に勢いよく振り返った。

「にしても海里、気持ち悪いのは治った? いきなりトイレでわめくからビックリしちゃったよ。一応あのお巡りさん、様子を見に行ってくれるって」
「あの、すみません」
白鳥は二人の会話に強引に割り込んだ。
「トイレに何か不審なものがあると警官に言ったのは、あなたたちですか?」
「えっ? ああ、そうだけど」
中年男は驚いたように白鳥を見つめ、それから奇妙な仕草で、まあ、と口を押さえた。
「なんです?」
「あなた黒羽さんの…あ、すみません。いいわ、そんなこと。ええ、そうですけど。やっぱりトイレに何かあったんですか?」
「いえ、まだ連絡待ちですけど。何があったんですか?」
「何がって、見たのは僕じゃなくて、海里の方だから。ほら、説明しなさいよ海里」
車椅子の男は、面倒くさそうな視線を中年男に向けた後、チッと舌打ちして口を開いた。

「何もないです」
「え〜っ? だって大きな声で、ここは変だ、早く出たいって喚いたじゃない」
「うっさいなあ、おっちゃん。オレの気のせいかもしれないって言ったじゃないか」
「気のせいでもいいので、何があったか教えていただけませんか? 今そこに向かっているのは、私の部下なので」
聞くまで解放されないと悟ったらしい男は、渋々という感じで話し始めた。
「……音がした」
「音。どんな音です? 機械音とか」
「やだ、爆弾!?」
「違げーよ、おっちゃん。もっとこう…なんてーのかな。生物的な音だよ。いや、聞こえたってのも違うかな。下で何か蠢いたみたいな。うーん。蜂がブーンって来るときの、音が聞こえなくて振動だけ感じるみたいな。紙の上を細かい雨がバラバラ降ってくるような。耳鳴りみたいな…。
上手く説明できねえよ。でも…」
言いかけて一瞬、男は黙った。瞳の中に暗い光が走る。
「でも……。すげえ気持ち悪かった。変な臭いもしたし。ぞくぞくした。あそこにいちゃいけないって。そんな感じ」

生物的な音、で、白鳥と中年男は、思わず視線を合わせた。
そして変な臭いのところでは、白鳥だけが反応した。
そういえばコウも、ここに入った瞬間、何か臭わないかと言っていた。

「あの…。僕、怖い想像しちゃったんですけど」
中年男が不安そうな視線を、白鳥に向けてきた。
「私も調べてきますから。まだ何も解ってませんし。確定するまで何も言わないでいただけると助かります」
「ええまあ…。解ってますけど」
「なに? おっちゃん、何の話してるんだよ」
おっちゃんと呼ばれた中年男が何を言いたいか、白鳥には見当がついた。
車椅子の若い男は、間違いなく砂城に来て日が浅いか、映画祭を見に来た外からの客だろう。
砂城にある程度長く住んでいれば、誰でも思い浮かべる。
下から聞こえる音。生物的な…なにか。
それが連想させる恐ろしいものは、ジャンクだ。
しかし、出来上ったばかりの真っ白な建物に、そのおぞましい存在は、まったくそぐわなかった。

「コウ…」
白鳥は無線機に口を寄せて、低くパートナーの名を呼んだ。

 

 

「トイレに何があるって?」
「何があるか、これから見に行くんですよ」
のんびりした高田の問いに、篠原は苦笑混じりで答えた。
高田は、そりゃそーだ、と呟き、大きくあくびをする。
「まったくよー、オレの立ってるとこ、誰も通らないぜ。退屈っつーか、眠くなっちゃったよ」
「何もないっていい事じゃないですか」
「まーな。初めて指揮する警部補殿には、部下が暇なくらいがちょーどいいよな」
「白鳥さん、結構サマになってきたけど」
「お、年下に敬語か?」
「だって上司じゃないですか。オレより2階級も上ですよ」
「お前も殉職したら、今すぐ警部補殿だぜ」
「やめてください。縁起でもない」

無駄口をたたきながら、それでもトイレが近づいてくると、二人とも唇を引き締めた。
「男性用トイレだよな」
「調べてくれって言ってきたの、オカマっぽかったですけどね」
「じゃ、女子トイレか?」
「違うでしょ。話し方はオカマっぽかったけど、ちゃんとスーツ着てましたよ。あれで婦人用に入ったら悲鳴あがりますよ」
男性用トイレの外側から、篠原が一度声をかける。
「どなたか入っていらっしゃいますか?」
返事はなかった。人が入っている気配も感じない。
それでも二人は腰の銃を抜き、警戒しながら中に入っていった。

「誰もいませんね」
「なんて言ったんだ? そのオカマ」
「連れが、トイレが変だって言ってる。ちょっと見てきてくれないか、です」
「変って、どの辺がだよ」
「それは…言ってなかったけど」
「ちゃんと聞いとけよ」
「ああ、変な音がするとか何とか」
「てきとーだなぁ。変な音と言っても、色々だ。もし爆弾だったりしたら、オレ達大変だぞぉ」
軽口を叩きながら二人はしばらく男性用トイレを見て回ったが、特に怪しいものはなかった。もちろん変な音もしない。
「白鳥警部補に、異常なしって報告入れますね」
篠原が肩の無線機に口を寄せる。しかし高田はそれを手で制し、反対側へあごをしゃくった。
「一応、ご婦人用トイレも見ておこうぜ」
「あ…そっちの方がいいですかね」
「こっちも声をかけないとな。痴漢と間違われないように念入りにな」
高田は、わざとのんびりした間の抜けた声で、婦人用トイレ内に呼びかけた。
「けいさつでーす。不審物の検査をしたいんですけどー、どなたか入ってますかー」
耳をすますが、誰からの返事も聞こえてこない。

「もうオープニングセレモニー始まってますからね。普通は誰もいないですよね」
言いながらゆっくりと中に入る。
男性用と違って、パウダールームの部分だけ造りが複雑になっている。
個室の数も多いので、男性用トイレのように一目では見渡せなかった。
二人は奥の方まで入っていく。
「こっちも…特に何も無さそうだなあ」
「一応、個室内、全部見ますね」
「お前、女子トイレ見たいだけなんじゃないの?」
「怒りますよ、高田さん……」


苦笑しながら奥のトイレのドア影をのぞいた篠原は、そこでぶつりと言葉を切って、立ちすくんだ。
「どうした、篠原」
「高田…さん」
「誰かいたのか? それとも何かあったか」
「ダメです……。来ないでください」
篠原の顔は、真っ白になっていた。
こめかみに汗が浮かび、膝が微かに震える。
彼はゆっくりと銃を持った腕をあげて、トイレの中の何かに照準をつけた。
「篠原……おいっ! まさかっ」
歯を食いしばった篠原の視線の先には、奇妙にぬめる、一本の巨大な針のようなものがあった。
女性用便座を貫き、1メートルほど上まで、細いタケノコかドリルのように、にょっきりと立ち上がっている。
それは静かに、だが確実にズルズルと上へと伸び続けていた。

先端だ……。
篠原は真っ白になった頭で思う。
これはただの先端だ。この下には、もっと巨大な本体が隠れている。

異界から地を貫き侵入してきた、恐ろしくおぞましい銀色の死の針。

次の瞬間、婦人用トイレに何発もの銃声が鳴り響いた。

to be continued

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