白鳥は、ホッと息をつく。
「な、なんだったんだよ、黒羽さん。ちょっとおかしかったよ。さっき。こいつ、誰さ? それと、その…、と、冬馬涼一って、誰?」
黒羽は逸らしていた顔を、まっすぐ白鳥のほうに向けた。
ほんの数センチの距離で白鳥と黒羽は向かい合う。
白鳥の鼓動が、一拍大きく跳ね上がった。
黒羽の顔からは、先ほどの狂気じみた色は消えていたが、かわりに何か憔悴したような影が漂っていた。
「正義とは、なんです。白鳥警部補」
かすれた声で、黒羽が息を吐く。
「え?」
「正義とは、なんです」
「正義とは、正義とは、ええーと、正しい義、じゃわかんねーじゃん。ええと…」
「正義とは、法を守ることだ。違いますか?」
黒羽の瞳は、逃げることは許さない、とでも言うように、強い光でまっすぐに白鳥の目を捉えていた。
白鳥は少し口ごもる。
「…う、うん。まあ、その、そうかも…。だけど、ええと、正義って、オレはさ、もっと違うものも含んでるんじゃないかなあ…って。えへへ。よく、わかんないけどさ」
「よくわからないけれど? 法以外の、たとえば個人的な道徳観や、判断や、常識の中にあるものですか?」
「あ、ううーん。上手く言えないや。ただ、たとえばさ、人の心の中には法律より、もっとなんつーか、上? ううん、高いもの、優先するものがあるような気がする訳。そういうものが正義って感じかなあ…」
「では…」
恐ろしく冷ややかな目で黒羽は白鳥を見つめた。
白鳥はギョッとして固まる。
「では、あなたも冬馬涼一と同じだ」
口の中から静かに吐き出すように言う。
「個人的な道徳観、判断を法より上に置く。それはすべての人の権利を保護するべく作られた法を無視し、自らの欲望と、正しいと思いこんだ自分勝手な判断を、至上のものとして世界に押しつけることに等しい」
「く、黒羽さん?」
「彼は、いいと判断する。こいつは殺してもいいのだと。法は自らの下にあるのだから、自らの判断が優先する。殺してもいい人間と、そうでない人間を、彼が勝手に選別する。正しさは彼が決める。彼の正義の中で、法が定めたすべての人への権利は消滅する」
「黒羽さん、オレはそんなこと…」
「同じだ! 何か、より高いものがある、と言い出したら、全部同じだ! 人は間違う。個人の判断は、永久的に正しくは機能しない。それがわかっているからこそ、たとえ不完全でも人は法を作ったんだ。にもかかわらず、人は言うんだ。オレが正しい。オレが正しい。オレが正しい!」
「黒羽さん、やめてよ!」
黒羽の瞳は、確かに白鳥を捉えていたが、その視線は白鳥の目を通して、もっと遠くの違う誰かに向けられているようだった。
「おまえも同じだ! 冬馬涼一。最初からそのつもりで、僕の前に現れたのか。僕を騙し、引き裂いて、棄てた。おまえも同じだ! 自分の作った正義で、いつか誰かを引き裂いて殺す!」
空気を切る鋭い音がして、平手が一閃黒羽の頬に飛んだ。
メガネが吹き飛び、乾いた音をたてて地面に転がる。
頬に指の鮮やかな赤い跡がはしる。
黒羽は虚をつかれたように、目を大きく開いて白鳥を見た。
「あのなあ…、あのなあ…」
白鳥はほとんど泣かんばかりのぐしゃぐしゃした表情で黒羽を見つめ、ぐい、と彼の胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「そいつが誰だか知らないけど、オレはその冬馬涼一とやらじゃねえぞ。いっ…一緒にすんなよ。違うぞ。オレは違う!」
黒羽は無意識のうちに頬を押さえたまま、呆然と白鳥を見つめ続けた。
「そんな誰だか知らないヤツと、このオレが一緒にされてたまるか! 今度言ったら、グーで殴るからな。本気で腰入れて、殴るぞ。バッカやろう。わかった? わかったら返事しろよ!」
黒羽は白鳥に胸ぐらを捕まれたまま、黙って小さく頷いた。
白鳥は大きく息をつき、ゆっくりとつかんでいた手を離した。
それから袖でぐいと顔を拭う。
「もう、まったくもう。なんで二日続けてオレがあんたの顔を殴ったりしてる訳? せっかく綺麗な顔なのに、もったいないじゃん」
「…すみません…でした」
白鳥は、その言葉が聞こえているのか、いないのか、メガネ、あんたのメガネ、と地面をまさぐりはじめた。
…痛い。と思う。
痛くないけれど、痛い。
叩かれたそれ自体は、たいした事はなかった。
だけど…、痛い。
暗闇を見上げると、心の中の闇が、黙って自分を見おろした。
闇は隙さえあれば、自分を喰おうと忍び寄ってくる。
白鳥のたった一発で、その闇が吹き飛んだ事が、黒羽を不思議な気分にさせた。
やがて上の方が明るく、騒がしくなり、どやどやと鑑識の一団が降りてきた。
「やあ、こんなとこがあったのか。暗くて狭いねえ。で、死体はどこだい?」
検死官も一緒に降りてきて、あちこちに据えられた明かりに目を細めながら、首を捻って不思議そうに、地面に座り込んでいる黒羽と白鳥を見た。
「あっ、あった。メガネ。ええと、こっちです。あの、死んだ人間と、生きている人間がいるんですよ。報告の後、もう一人見つかったの。そうですよね、黒羽さん」
白鳥がメガネを渡しながら黒羽に確認をとると、彼は黙って首を横に振った。
「ええ? 死体が二つあるよ。他に、生きている人がまだいるの?」
検死官の声に、白鳥は驚いて振り向いた。
「死体が2体?」
検死官のかがみこんでいる所に白鳥は行き、一緒にそこに横たわるものを見おろした。
そして、ぽかんと口を開けた。
「嘘…。さっきまでこいつ、生きてたよ。そっちの臭いのは死んでたけど、確かに、こいつは、生きてた…」
「だって、これは死んでから三日はたっているよ。どう見ても。死因は、餓死っぽいなあ…。まあ、詳しいことは運んで解剖するけど」
「ウソ…。嘘だあ…」
白鳥は口を開けたまま、呆然と小さく何度も否定の言葉を繰り返した。
しかし、確かに目の前のそれは死んでいた。
そして、検死官の言うとおり、それはだいぶ前に死んだように見えた。
三日前に死んだ者に、昨日の銀行強盗はできない。
結局9人目は完全にいない事になったのだった。
白鳥は椅子に座り、呆けた顔をして、報告書の上でペンをぐるぐる回し続けていた。
「白鳥くん、まだそれ書けないの?」
桜庭がデスクに近寄って、声をかけた。
「はあ…。すんません」
「帰るの遅くなっちゃうよ」
「うーん、でも、寮は近くですから。いざとなったら持ち帰って書こうかなあ…」
白鳥はペンをまわすのをやめると、ふと思いついて桜庭の顔を見上げた。
「ねえ、桜庭さん。冬馬涼一って、誰だか知ってますか?」
桜庭は驚いたように白鳥を見おろした。
それから小さく首を振る。
「誰から聞いたの? その名前」
「黒羽さんが怒鳴ってたんですよ。怖かったー。もう、すげえ迫力。オレ、マジに殺されちゃうのかなって思いましたよ」
「ううーん」
桜庭は唸って、本来黒羽がいるはずの、今は空っぽのデスクの椅子を引き、すぐ隣に腰を下ろした。
「どこまで話したらいいのかなあ。まあ、別に秘密な人じゃないんだけどね。冬馬くんはね、黒羽くんの、前のパートナー」
「!」
「6年前に、公式には殉職したことになっています」
「死んだ…? でも、黒羽さんは、どこにいるって言ってたっすよ」
「黒羽くんが何を考えているかなんて、私は知らないよ。ついでに、2人がどういう関係だったのかとか、プライベートなことも、パス。それは、君が黒羽くんに直接聞いて。でも公式なことなら、全然秘密じゃないよ。冬馬涼一は優秀な刑事だったし、ある意味有名人だった。資料が見たいなら、いくらでも閲覧できるよ」
はあ、と白鳥は気の抜けた返事をした。
桜庭は小さくため息をつき、それから少しばかりいたずらっぽく言った。
「黒羽くんのいる部屋なら知ってるよ」
「へ?」
「なんか、すっきりしないんでしょ?」
「うーん。事情もよく知らないのに、またぶっ叩いちゃったしなぁ」
桜庭はくすくす笑った。
「いやあ、よかったじゃない。黒羽くんに出来ないことが、まずひとつ見つかったでしょ?」
「出来ないこと?」
「彼には、ああいう時に自分で自分を殴ることが出来ません。でしょ?」
「…あのう、それってオレじゃなくても黒羽さん以外の他人なら、誰だってできるのでは?」
桜庭は笑って白鳥の背中を叩いた。
「なーに言ってんの。二日続けて黒羽くんの顔をぶっ叩けるなんて豪傑は、君しかいないよ」
「そ…そうなんスか?」
それから桜庭は椅子を引き、妙に真剣な顔で白鳥に言った。
「あのねえ、白鳥くん。君には覚悟があるかなあ」
「…なんです?」
桜庭はほんの少し目を逸らして、それからもう一度白鳥のほうをまっすぐに向き直した。
「あのねえ、聞きたいんだけど、まあ、見ててわかるけどさ、白鳥くん、黒羽くんのことが好きでしょう?」
「す、好きって…。いやオレはっ。どーいうセリフですかそれって」
「まあまあまあ。言い方はともかくさ。彼のパートナーに、本気でなる気があるかって聞いてんの」
「あ、あるに決まってますよ」
「よし、言ったな。言質取ったからね」
桜庭はニヤリと笑う。
「だったらこれから何が起こっても、覚悟しなさい。黒羽くんのパートナーになるのは、難しいよ」
「ま…まあオレはキャリアも浅いし、黒羽さんのパートナーとしては力不足かもしれないけ…」
「そういうんじゃなくて」
桜庭は首を振った。
「あの子をぶん殴れるのなら、資格は上等。だけど黒羽くんは色々複雑でね。今までもちょっと特別扱いだったのよ」
「はあ」
「砂城の警察がパートナー制だって事は知っているよね。だけど黒羽くんは、冬馬涼一が死んでから6年間一人だった。まあ臨時に私がパートナーって事にはなってたし、一時的に誰かと組んだ事はあるけどね。だけど臨時じゃ駄目。解ってたんだ、私だって。このままじゃ駄目だって事くらいは」
「桜庭さん?」
「パートナーって大事なの。ここ、砂城ではね。自分の命と背中を預ける人間だし。あの子にはそういう人間がいない。護ってくれる人もいないし、護るべき人もいない。それは、どんなに優秀でも、一種の欠陥だと私は思う」
一匹狼。
聞こえはいいが、それは実際には使えないヤツの代名詞だ。
警察は基本的に組織で動く。
窮屈だと思う事もあるけれど、個人でやれる事には限界もある。
人の手は小さい。それがどんなに優秀な人間の手であっても。
より大きな獲物に立ち向かうために、オオカミは群れを作るのだ。
白鳥は小さく頷いた。
「彼にもう一度、群れの一員になって欲しい。私はずっとそう思ってた。私がやろうと思った時もあったけど、残念ながら私はお母さんでね。もう3人も子供がいるのよ」
桜庭は真剣な顔を少し緩めて笑った。
「片手間じゃ、駄目なの。あの子を、黒羽くんを、全部引き受けてくれるようなパートナーが、誰か必要なの」
「ぜんぶ、ですか?」
「うん。普通はパートナーにそこまで求める事なんて、常識的にはないんだけどさ。でも、本当に彼の相棒になろうとしたら、半端な覚悟じゃできない」
「オレに、その覚悟が出来るかって?」
「そんなとこ。黒羽くんはね、あんなに強いけど、でも弱い。そのうち解ると思うけど。今日だってね…。私はあんな優秀ないい子を冬馬涼一の幽霊なんかにかっ攫われたくないの。もったいないでしょ? そんな事になったら新しいポスターも撮れないし」
白鳥は大きく、うんうん、と頷いた。
桜庭はくすりと笑った。
「だからずっと、誰かいないかなあって思ってたんだ。黒羽くんの事が好きで、彼の心も体も、全部まかせられちゃうような誰かをね」
「…か、か、身体? 身体って」
白鳥の声がひっくり返る。桜庭は目をまん丸に見開いた。
「なに赤くなってるの。身体って別に私は…。やだ、もしかして変な事考えたりしてる訳? 白鳥くん、そーいうのアリなの?」
「いやオレッ。いやその。べ、別にっ…」
白鳥はブンブンと手を振る。
桜庭は意味ありげに、ニヤリと口の端を曲げた。
「まあ、そういう意味でとって貰っても別に構わないか。恋愛は自由だし。黒羽くんは、あの通りすごーく綺麗だしねぇ。誰だってそりゃあ少しくらいは…」
「や、やめてくださいよ。もう勘弁してくださいって」
「うん、じゃあ話を戻そう。だから、要するに何を言いたかったかっていうとね。あなたが黒羽くんを全部引き受けてくれるなら、私は全面的に協力しちゃうって事。どお?」
白鳥はまだ心持ち顔を赤らめながら、それでも再び大きく頷いた。
「はいっ、引き受けますっ」
「おお即答したね。全部だよ。大丈夫? 自信ある?」
「うーん、無いです。でもやります。だってオレ、パートナーですから」
桜庭は、ホッとしたように鮮やかに笑った。
「そっか。チャレンジ精神が大切だよね。うん、うん。黒羽くんはねえ、確かに取っつきにくいけど、不誠実な男じゃない。あなたが信じれば、パートナーを裏切ったりはしない」
「はい」
桜庭は大きくひとつ頷いて、それから白鳥に耳打ちした。
「じゃあ一つ情報を教えとくね。今、あの子ここを左に曲がった突き当たりの部屋にいるから」
「桜庭さん?」
「落ち込んだりしたときは、いつもここ。覚えておくといいよ。…黒羽くんを、よろしく」
「はいっ」
白鳥は思わずぐぐっと拳を握りしめた。
じゃあね、と軽く言って桜庭が部屋を出ていく。
白鳥は、自分の握った拳を、少しの間しみじみと見つめた。
うん。とにかくチャレンジ精神が大切だ。
白鳥は椅子を蹴って、教えてもらった部屋に向かって足を踏み出した。
…冷たい。
冷たい感触ばかりが手に残っている。
あの死人に触った時、一気にそれが甦った。
黒羽の前の机には、バラパラに分解されたショットガンがあった。
今日は使用しなかったけれど、それでも分解して手入れをする。
こうしていると、余計なことは何も考えなくてすんだ。
かちりと、小さくドアノブをまわす音がした。
顔を上げると、ドアの隙間から白鳥の顔が覗いているのが見えた。
「なんですか? 白鳥さん」
「あのさ、入ってもいい?」
「もちろん、どうぞ。ここは僕のプライベートルームじゃない」
そういいながら立ち上がり、黒羽は白鳥に椅子を勧めた。
「ああ、ええと…あのさ」
「なんです?」
白鳥はもじもじと体を捻った。
部屋に入るまでは、冬馬とか言う奴のことを聞こうと思っていたんだけど…。
ぼりぼりと頭をかく。
ドアの隙間から、薄暗い部屋の中、ひとつだけ明かりをつけて座っている黒羽の横顔が目に飛び込む。
体の周りに光を受けて一人静かに座っている彼があんまり綺麗で、なんだかどうでもいい気分になってしまった。
まあ、いいか、どうでもいいか。
だってオレはそいつじゃないもん。
そいつのことを聞いたって、何の役にもたたないや。
黒羽は、黙って白鳥の言葉を待っていた。
「あのさ、…うん。あんたの言った事って、やっぱり正しいんじゃないかと、オレも思う」
「?」
黒羽は軽く首をかしげる。
白鳥はひとつ咳払いをした。
「正義は、すべての法の定めるところにあるんだ。少なくとも、警察官なら、そうじゃないといけない。法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、だよね。警察官就任の宣誓の通りだ。
正義には、もっと高いものがあるかもしれないって、確かにまだオレは思っているけど、でも、オレ自身がよく解ってないんだから。だったら、黒羽さんの言っていることが正しい。それが警察官の正義だ。
そうでしょう? 法を守るのが仕事で、それが正義。ねえ、だったらやっぱり、黒羽さんもオレも、正義の味方なんだよ」
黒羽は表情をまったく動かさず、黙って白鳥の口から出る言葉を聞いていた。
「あのさ、それと…」
白鳥は少し口ごもる。
「今日はごめんなさい。ひっぱたいて、怒鳴ってさ。その上、命令とか…」
「ああ…」
黒羽の顔が、心持ち優しくなった。
「あなたが謝ることなんか無いです。僕が悪い。あなたをあいつと同じだと言ってしまった。最低だ。殴られて当然です」
あいつ、のところで黒羽の顔がかすかに歪むのを、白鳥は見逃さなかった。
「それに、命令してくれて、よかった。僕は間違ったことをしないですんだ…」
白鳥は、ゆっくりと黒羽の顔を見上げる。
「ホント? 本当に、命令されて、よかった?」
「ええ」
顔に微笑みは無かった。
しかし、優しい声だった。
「あのさぁ…、その、なんだ。それじゃ、今さ、その、もう一度命令しても、いい?」
黒羽は軽く首を傾げる。
「どうぞ。あなたには権利がある」
「な、なんでも言うこと聞く?」
「僕はあなたに酷いことを言った。ペナルティはあるべきでしょう」
「じゃあさ」
白鳥はひとつ息を吸い込んだ。
「じゃあ、キス、してもいい?」
黒羽は大きく目を見開いた。
うわ…。
心の中で白鳥は慌てふためく。
オレ、その。言っちゃったよ。
だってさっき、外から覗いた時の黒羽さんがすごく綺麗で。何て言うのか、メチャメチャ綺麗で。
だってオレ、昔…。
いや、桜庭さんがあんな事言うから意識…じゃなくて、オレ…。
「ごめ…ええと」
白鳥は真っ赤になって、手をバタバタと振ったが、黒羽は静かに聞き返してきた。
「…それって、命令なんですか? そうは聞こえませんが」
「え、あの。め、命令なんだよ。これがオレの。相手の意見も尊重するの。だから、嫌なら別に…」
「いいですよ」
「えっ?」
今度は白鳥が目を見開く番だった。
「だってオレ…」
男だし、という言葉を喉の奥に呑み込む。
キスをしたかったのはオレの方だ。スルリと、つい口からでちゃったけど。
でも、いいの? いいわけ?
オレ、黒羽さんに、キス、しちゃってもいいのかな。
「言って、みるもんだなぁ…。チャレンジ精神って、やっぱり大切だよ」
なんて呟いたりして。
「怒るかと思ったよ」
「どうして?」
黒羽は微かに首を傾げた。
その仕草はひどく柔らかく、あの突き放すような冷たさは何処にもなかった。
マジに抱きしめたい。
一瞬そんな衝動が白鳥の中に湧き上がる。
「命令でしょう? どうぞ」
柔らかな許諾と、誘い。
白鳥は言われるままに、黒羽の近くに歩を進めたが、それからしばらく黙って突っ立っていた。
「?」
「あのね…」
白鳥は口を尖らせて上を向く。
「オレはあんたの手の甲に、お姫様みたいにキスしたいわけじゃないんだけど? ちょっとかがんでよ。これだから、でかい奴は…」
ぶつぶつとぼやく白鳥に、黒羽は再び目を見開いて、それから微かに笑った。
あっ、と小さく白鳥が声を上げる。
黒羽は黙って、彼のほうに体を傾けた。
暖かい。
人の体は暖かい。
あの時に思い出した死人の冷たさが溶けていくようだった。
久しぶりの、温かい人の体温。
あいつはいつだって冷たかった。
いや、暖かかったこともあったのかもしれないが、もう冷たい体の感触しか覚えてはいない。
白鳥香澄。
彼は不思議だ。
いつのまにかペースに乗せられて、不愉快なはずなのに、何故か悪くない気分になっている。
気が付くと白鳥が舌を差し込んできていたが、黒羽は黙ってそれも受け入れた。
これがペナルティなら、そんなに悪くない。
たとえ一時でも、闇が薄れていく。そんな、気がする。
気のせいでもいい。この身体はあの男ではない。
白鳥香澄も、違うと言った。
彼はあの男の事など知らないけれど。
でも、違うとそう言った。
それなら、いい。
それでいい。
彼は違う。それだけで、今はもういい。
彼の暖かい体温を、僕は信じよう…。
「あのね、この書類、オレは寮に持ち込んで書かなくちゃいけないんじゃないかと思うわけ」
「はあ…」
上機嫌の白鳥に黒羽は返事を返しながら、差し出された紙を見つめた。
「それで?」
「黒羽さんは、もう書いちゃったわけ?」
「書いてしまいましたよ」
「ああ、そう、そうかー。一緒に書こうって、誘おうと思ったのに、優等生はその手が利かないのが難点だよなぁ」
「あの? もしかしてこれを書くのを手伝えと? 解っていると思いますが、報告書は本人の自筆であることが必要ですよ」
「解ってますよぉ。そんなの単なる誘い文句の前フリだって。前フリ。黒羽さん、ナンパしたことないの?」
困惑する黒羽に、白鳥は陽気に続けた。
「ぶっちゃけて言っちゃえば、これを持って寮に帰って、交流を深めたりしない? という誘い文句」
「交流って」
白鳥は、いいからいいから、などといい加減な事をべらべら口にしながら黒羽の手を引っ張った。
昨日も、こんな感じだったような気がする。
「まさか…、あのビデオは無しでしょうね」
「ビデオは無ーし」
「報告書もちゃんと書くんですよね」
「もちろん、ちゃんと書きます。だから、行こう」
「…それも、命令ですか?」
「したいけど、まあ、今はしない。黒羽さんの意志を尊重します」
白鳥は両手を握ったまま、じっと上を見上げた。
初めて会った時も、こうやって手を握られた。
その時は暖かいなんて思わなかった。
何故だろう。
彼に殴られて痛いと思い、今は彼の手を暖かいと感じている。
別に今まで痲痺していた訳でもないのに、まるで感覚が戻ってきたような、そんな不思議な気分。
「いいですよ」
黒羽が応えた瞬間、白鳥の瞳が、また大きく見開かれた。
「なんです?」
「あ、いや、その。黒羽さんってさ、知ってる?」
白鳥はそこで、眩しそうに目を細めた。
「…笑うと、最高に綺麗だ」
何を言われているのかよく解らなくて、黒羽は首を傾げた。
自分が笑っていることに、黒羽はまったく気がついていなかった。
END