第二章「運命」
「へええ、香澄、見ろよ。けっこう遠くまで見えるぜ」
「低い建物ばっかりだもんな」
昼食後、最上階の展望フロアにツアーの人々は集まり、三々五々散らばっていた。
香澄と武史は二人してフロアにはまった大きなガラスに顔を押しつけて下を覗く。
「たいした高さじゃないじゃん」
聡がいつものごとく茶々を入れた。
「当たり前じゃん。7階だぞ」
「地下なんだから、高くても、もともと低いの」
2人から同時に反撃を食らう。
肩をすくめた聡は後ろを振り返ったが、いきなりにやにや笑って2人をつついた。
「おい、女幹部がいるぞ」
「へ? 乳女か?」
武史と聡は二人して面白そうに、桐子の方へ近づいていった。
「香澄、行かねえのか?」
香澄は首を振って、一人フロアにおかれた椅子に座る。
あんな女のどこが面白いんだ?
乳がでかいだけだろ?
化粧べったりで、ぜんぜん綺麗じゃないし。
そんな事より…。
香澄は上着のポケットから、カードの袋を引っ張り出した。
袋の中から静かに一枚を引き出す。
さっきもう一度見ようとして、見損ねた、次元刑事ブラックの砂城限定カード。
見ているだけで、香澄の顔には笑いがこみ上げてきた。
あんな女なんかより、こっちを見ている方が、断然楽しい。
だいたい悪の組織なんて、そんなに格好良くないしな。
正義の味方の方が、ずっとずっといいに決まっている。
香澄はカードを眺めながら、ちょっとだけブラックと同じポーズをとってみた。
こう、でっかい銃を構えて、引き金を絞る。
反動なんかものともせずに連射して、そして…。
そこまで考えた時だった。
いきなり足元が、ぶるりと揺れた。
地震かと思った次の瞬間、耳を突き破るような、ものすごい音が響きわたった。
壁が揺れ、はめ殺しの窓が大きく軋む。
香澄は床に転がり、本能的にイスの下に逃げ込んだ。
続けてもう二発、何か爆発音のようなものが炸裂する。
香澄は呆然と展望室の奥の方の出口を見つめた。
何か炎のようなものが、ちらりと見えた気がした。
それが、地獄の始まりだった。
ホテルは死に向かって、まっしぐらに落ちていった。
「はあ? 警察? 警察の方が何のご用でしょうか?」
フロントで志村は2人の男を相手に首をひねった。
「ええ、ですから、こちらにね、手配中のテロリストが潜伏しているという情報が入ったんですよ。もっとも、まだ確かにあやふやな情報ではあるんですけどね。それで、何か少しでもおかしな事がこちらに起こっていないかとお尋ねしているんです」
「はあ…。特に何も無いと思いますが」
しかし志村の横にいたフロントクラークは、微かに顔を引きつらせていた。
「し、志村さん」
「何?」
志村はじろりと隣を見る。
「あ、あの、実は…。少し前に、その、変な電話が…」
話を聞いて、志村は危うくその場で男を怒鳴りつけそうになった。
だが、当然フロントで怒鳴り声などあげられる訳がない。
志村はフロントの交代を頼むと、刑事2人と共に、問題の622号室に急行した。
ドアを叩いたが、返事はなかった。
刑事に促されてマスターキーをドアに差し込む。
しかし、志村が記憶しているのは、そこまでだった。
何か目の奥で光ったかと思うと、いきなり轟音が体を吹っ飛ばした。
ホテル内は静寂に保たれなくてはならない。
それが一流ホテルの…。
そんな考えが志村の頭の中でこだまする。
そして、それきり彼は何も解らなくなっていった。
V.I.Pルームの椅子に深々と体を沈めて、田島誠は大きく息を付いた。
「ふん。まあ、悪くないじゃないか。この部屋も。しかし、どうしてアンダーのホテルなんだ? どうせ宿泊料も冬馬家の接待だというなら、スカイのホテルの方が、ずっと格式も上じゃないか」
沢木は田島の斜め後ろに立ったまま答える。
「先生。スカイのホテルでは、今の先生は目立ちすぎます。
先生には、いま色々な疑惑がかけられている事を、どうぞお忘れにならないようになさってください」
田島は少々不愉快そうな顔になって、じろりと沢木を睨みつけた。
沢木はその視線を軽く流したが、第一秘書の神崎は眉間に皺を寄せて沢木をこづいた。
「沢木、先生はお疲れなんだから、あまり余計な事を言わないように」
はい、と沢木は素直に頷いて、微かに顔を逸らした。
田島は鷹揚に頷いてみせたが、ふと不安に駆られたように沢木に尋ねた。
「しかし、なんだな。アレはどうしても持ってこなくてはいけなかったものなのか?」
沢木は手元の予定表を見ながら事務的に答える。
「はい。実物そのものを見せる事が必要であろう、と言うのが、冬馬さまの提案です。今日はプロジェクト後援の皆様がたへの研究中間発表がメインですから、やはりここは、何か目に見えるものがあった方が説得力が増すかと思われます」
沢木はそこで、ちらりと後ろの椅子に座る、50がらみの痩せてメガネをかけた男を振り返った。
「寺井教授。実験体は、もうこちらに搬入されているという事ですが、教授に見ていただかなくても、大丈夫なのでしょうか?」
寺井成次は、テーブルに載っているブランデーをいつの間にか勝手に舐めており、鼻の頭を少し赤くしながら答えた。
「大丈夫だよ。今は休眠時間。アレに関しては、私はプロフェッショナルだよ。ちゃんと解っているんだから」
だが、断言した口調の端は、少々もつれている。
沢木は微かに目を細めたが、そのまま沈黙を保った。
「ところで、桐子はどこへいったんだ?」
「桐子さまなら、その…」
神崎が神経質そうに眉を寄せる。
田島はため息をついて首を振った。
「あいつは、またふらふらしているのか? ここでも男漁りだとか言うんじゃないだろうな? 今日は冬馬くんに会うんだぞ」
「まだ夕方までには時間がございますし、桐子さまも少し羽を伸ばされているだけなのでしょう」
沢木の言葉に、ますます不愉快な顔になった田島は、声を荒げて彼に命令した。
「だめだ。連れ戻してこい。あいつはそんな短い時間にだって、誰かの部屋へ入り込みかねないからな」
…まったく、母親に似たんだな。そう、ぶつぶつと唸る田島に一礼して、沢木は部屋を出ていく。
第一秘書の神崎が、あわてて後を追った。
「お嬢様にも困ったものです。しかし、どちらに似たのかは、私には断定できかねますがね」
言いながら沢木は神崎ににこりと笑う。
「神崎さん、先生のそばについていなくてよろしいんですか? いつもそばにいらっしゃるではありませんか」
「あ…あのね」
神崎は不安そうに沢木を見上げる。
「き、君に何もかも事務的な事や、面倒なやっかいごとを全面的に押しつけているのは、申し訳なく思っているよ」
「申し訳なくなどと、そんなもったいない。ただ、神崎さん。何か先生がわがままを仰って、それがまずい事だった場合には、やはり止めていただきたかったですね」
沢木の声は柔らかかったが、中に鋭い棘が見え隠れしていた。
「お、汚職疑惑の事か?」
「ええ、まあ。他にも色々とね。女性を紹介するなら、もっと確かな人をよろしくお願いしたいですし…」
「きょ、今日のお客様は、その事は?」
「お客様?」
歩きながら話していた沢木は、そこでくるりと振り返った。
神崎も沢木にぶつかりそうになって、慌てて止まる。
「お客様って、どなたの事でしょうか?」
「どなたのって、何を言っているんだ? 沢木くん。今日は研究…、ええと、中間発表とやらの、食事会なのだろう? 君がそう言ったじゃないか」
沢木はにっこりと笑って、軽く首を傾げた。
「お客様なんて、誰もいらっしゃいませんよ」
「誰もって、いったい何を言って…」
神崎は最後まで言い終える事ができなかった。
沢木の手がすばやく動いたと思った次の瞬間、神崎の首には長く細い刃物が深く突き立てられていた。
目を見開いたままぐらりと倒れかかる体を、沢木は軽くすくい取って近くの部屋のドアを開ける。
そして部屋の中に神崎の体を投げ込むと、ドアを閉め、彼の首からナイフを引き抜いた。
たちまち、驚くほど大量の血液が首から噴き出し、高価な絨毯を汚していく。
沢木は流れ出していく神崎の血を眺めて呟いた。
「お客様など、一人もいらっしゃいませんよ。神崎さん。確かにもうじき冬馬さまはいらっしゃいますが。でも、冬馬さまはお客様ではありませんから」
沢木は部屋の入り口近くにしかけてある、モノを見ながら、ひっそりと笑った。
「冬馬さまは、お客様ではなく、今日の主役なんです。そして、私は裏方を任されております。そういう訳で、まだ仕事が残っておりますから、失礼させていただきますよ。主役をお迎えするには、まだもう少し、しなくてはならない事があるんです。
神崎さんの体をここに放っておくのは申し訳ない事だとは思うのですが、浄化の炎で最初に焼かれるという特典で勘弁してください」
沢木は室内の電話をとると、フロントにつないだ。
フロントが出ると、持っていたテープレコーダーを動かす。
『あのね、人が死にますよ…』
テープをそれだけ回して、沢木は受話器を置く。
そして、次の瞬間狂ったように笑い出した。
「みんな、壊れる。私の築いてきたものが、みんな!
だけど、何だって言うんだ? あんな汚いものなんて、私はいらない。
私には理想があった。すばらしい、理想があったんだ」
ねえ、神崎さん? そう言ってげらげらと笑いながら、沢木は神崎の死体を見おろした。
「ねえ? あなたには無かったですか? 政治の世界に、ほんの少しでも関わるものとして、本当に、この国を良くしようと理想に燃えていた時が。あんな田島の腰巾着になる前に、そう思った事はないですか?」
手の中のナイフをきつく握りしめる。
「私にはあった。あったんです。確かに…。
だけど、それに至る道が間違っていたと気付いた時、人生にやり直す時間がどれくらいあるでしょう?
私はね、私にやり直す時間をくれるというなら、悪魔と取り引きしたっていい。そう思っているんです。
だから、いきます。さよなら神崎さん。さよなら、先生。
私は、私の理想を、必ず取り戻す」
沢木はドアから滑り出ると、ノブに Don’t disturb
のカードを下げて歩き出した。
フェアにいこう…。
沢木は呟いた。
一応、ホテルに警告は入れた。
これを気にとめるも、無視するも、そちらしだいだ。
これで何もしないと言うのなら、ホテルは『怠慢』の罪に値するだろう。
怠慢、無為、拱手。これらの罪は重い。他のどの罪よりも…。
何もせず、何も見ず、知っていても動こうとしない。
他のどんな事よりも腐ったにおいを発する、最大の悪徳。
だから、もしこのホテルがそれを選ぶというのなら、ここは炎に焼かれるべきなのだ。
それが、罪相応の、報いだろう。
沢木は笑った。心の底から。
そして歩き始めた。自分のなすべき事をするために。
「今の音はなんだ!?」
いきなり揺さぶられるような衝撃と音が、V.I.Pルームを襲う。
「じ、地震か?」
しかし、続く爆発音で、やっとそうでない事を彼等は知った。
「あの!」
同時にスーツ姿にサングラスのボディガードがひとり、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「なんだ? 何が起きた? 今の音はなんだ?」
田島が怒鳴る。
しかし、ボディガードはその質問には答えず、代わりに別のとんでもない事を口走った。
「あの、実験体が、逃げました!」
「何だって!?」
寺井が赤い顔のまま、椅子を蹴って立ち上がった。
「本当か? どうして? 今は休眠時間の筈だろう?」
「わか、解りません。休眠時間とは、どれくらい続くものなのですか?」
寺井は眉を寄せて考え込んだ。
「え? ええと…。と、とにかく今はその筈なんだ」
「その筈といわれても、実際逃げたんだろう? 状況は? どうなっているんだ?」
田島が苛ついたように口を挟む。
「あの…、たぶん鍵が緩んでいたのだと思います。覚醒した実験体は、あの、なにせ警備のために人が取り囲んでいたもので…」
「誰か、喰われたのか?」
「はい、一人犠牲になりました。その、取り押さえようとはしたのですが、その、どうしていいのか…?」
「殺せ!」
田島が叫んだ。寺井は目を剥く。
「壊す? でも、大切な実験体ですよ」
「じゃあどうする? このままたとえば下にでも降りていって、誰かに見られたり、誰かを食ったりしたら、お終いじゃないか! あんなものを持ってきて、放しただけでも、ここでは極刑相当の罪なんだぞ!」
田島は血走った目で睨むと、寺井の肩をきつく握った。
「あんなもの、またいくらでも造れるだろう? 造れるな? あんたは優秀な研究者なんだろう? あんな虫、いくらでも造れるはずだ! ああ、畜生! どうしてここにきて、俺はこんなに運がないんだ?」
田島は室内を、檻の中の熊のようにうろうろすると、少ない髪を掻きむしった。
「不都合なものは、無い事にしてしまうのが、一番なんだ! それが一番安全なんだ。だから、そうする。研究発表会なんて言ったって、所詮社交辞令のようなもんだ。あんなもの無くたって、何とかなる」
寺井が頷き、ボディガードは慌ててドアへと向かった。
しかしそこには、妙に蒼白い顔をした沢木が立ちふさがっていた。
沢木はゆるやかに口を開く。
「どうも、事件が起きたようです。先生」
「またか!? 何が起きた?」
顔をしかめて、吐き出すように田島が怒鳴る。
「今の音を、聞かれませんでしたか?」
「あ? いや、聞いた。聞いたが、なんだ?」
「爆弾のようです」
「爆弾!!」
部屋の中にいるもの全てが、同時に叫んだ。
沢木は頷く。
「とにかく、状況を調べなくてはなりません。先生と寺井教授は、ここにいてください。どうぞ、ドアをしっかりと閉めて、けっして外には出ないようにお願いします。もしかして、先生を狙うものの仕業かもしれませんし。下手に外には出ない方が安全かと思われます」
自分を狙うものの仕業、という言葉に、田島はぶるりと震えて、おとなしく頷いた。
沢木は辺りをぐるりと見回して、そこにいる5人のボディガードに声をかける。
「実は、桐子さまもまだ見つかっていないのです。申し訳ありませんが、先生のボディガード用に一人だけ残して、後は手伝っていただけませんか? 実験体の捜索と、桐子さまの捜索の二手になりますので、手が足りないのですが」
スーツの男達は、黙って田島の指示を待った。
沢木は続けて言う。
「ここなら大丈夫ですよ、先生。ドアも厚いですし、がっちり閉めてしまえば、一番安全な場所でしょう。それに、こちらは一刻を争う事になると思いますが?」
田島は少し考えてから、しぶしぶ頷いた。
沢木はにっこりと笑う。
「さすが先生です。決断がお早い。では、よろしくお願いいたします」
沢木はボディガードを引き連れて外に出ると、しっかりと扉を閉めた。
そして、それきりそこへ戻る事は無かった。
炎を瞳の中に確認した、と思った瞬間、展望室はパニックから起こる悲鳴に満ちあふれた。
香澄はすばやく椅子の下から体を引き出すと、立ち上がって辺りを見回した。
父親が倒れた母親を起こしている姿が目にはいる。
大丈夫。何が起こったのかよく解らないけど、まだあの火は
中に入ってきてはいない。
どきどきと跳ね上がる心臓を押さえて、香澄は大きく息を吸いこんだ。
両親と兄たちが、自分を見つけて手招きする。
「こっち、香澄、早く、逃げなきゃ」
「何が起きたの?」
「知らないよ、そんな事。だけど、見ただろ? 火事だ」
手をつないで入り口に向かおうとした次の瞬間、白鳥一家は逃げまどう人達の群れに囲まれて、もみくちゃにされた。
香澄のつないだ手が、誰かに押されて引き離される。
「香澄!」
「オレ、大丈夫!」
「とにかく、下まで…」
人の群れに入ってしまって、方向感覚がつかめなくなる。
香澄も、両親も、兄たちも、どちらへ走っているのか、解らなくなっていた。
いいのか? ちゃんと火から遠ざかっているんだろうか?
香澄は必死で人の群れの下に沈むまいと頑張りながら思った。
こういう時、一番怖いのは、人の下に潜り込んでしまって、踏みつけられる事だった。
パニック時に、それで死ぬ人が案外多いと言う事を、香澄はどこかで聞いた事があった。
腕を振り回すと、ほんの僅か人の群れから逃れられる。
ほっと息を付いた。
しかし、突然とんでもない事に気が付いて、香澄は頭からすうっと血が落ちていくのを感じていた。
嘘だろ? どうしよう? どうすればいい?
緊張で喉が貼り付いたようになる。
どうしよう。オレ、どうしよう。
『カードを、展望室に置いてきてしまった』
触る上着のポケットに、あの、カードの堅い感触は無い。
爆発が起きる寸前に、自分はポケットからカードを引き出して、手にかざして眺めていたのだ。
そして、爆発と同時に、椅子の下に潜り、それから先、カードをどうしたのか記憶になかった。
たぶん、そのまま落としたのだ、と思う。
ああ、どうしよう、オレ。
香澄は初めてパニックに陥り、頭を振って震えた。
あのカード。大切な、大切な、オレがずっと欲しかった、やっと手に入れた、オレの正義の味方のカード。
走りながら、辺りを見回す。
家族の姿は、人の群れに隠されて見えなかった。
その瞬間、決心が固まった。
香澄は人の流れに押されないように、注意深く脇へ抜け出すと、いきなり方向転換をして走り出した。
今なら!
今のうちだったら、まだ展望室からそんなに離れていない。
このまま下に降りてしまったら、もう二度とあそこへは戻れないだろう。
ほんのちょっとだ。
ちょっと戻るだけだ。
落ちたところは、だいたい解っているし、ぱっと拾ってから後を追えば、きっと大丈夫だろう。
あんな人の群れの中で、押し流されないようにして走るより、もしかしたら安全かもしれない。
香澄は無理矢理自分にそう言い聞かせながら、走った。
展望室の中に入った瞬間、また近くで爆発音がした。
香澄は慌てて辺りを見回す。
オレ、オレが潜った椅子は…。
炎はすでに、広い展望室の中にぬめり込んできている。
やっべえ、まじい。早くしないと。
しかし、そこにやって来たのは香澄だけではなかった。
バラバラと、何人ものスーツ姿の男が展望室の中に入ってくる。
「?」
香澄はその異様な集団に首をひねった。
悪の組織の下っ端じゃん。何でこんなとこに来てんの?
嫌な予感がして、香澄は柱の影に身をひそめた。
やっぱりなんか変だ。こいつら。
「だから、アレが逃げたんです!」
下っ端の一人が大声で怒鳴っていた。
「ここは危険ですから、桐子さまは先生の所へ、早く帰ってください」
「わかったわよぉ。いけばいいんでしょぉ」
胸の大きな女幹部は眉をひそめて、早足で駆け去っていく。
確かにここは危ない。
ふと後ろを振り向くと、炎が近くまで迫ってきていた。
香澄は舌打ちをする。
こいつらが出て行くのなんて、待ってらんない。
早くしないと、みんなに追いつかなくなっちゃう。
そう思って、柱の影から出ようとした、その時だった。
体の大きな下っ端の一人が、振り向きざま、いきなりこちらに黒い何かを向けた。
黒いものは香澄に向かって火を噴き、同時に驚くほど大きな音と共に、柱に何かがびしりと当たった。
柱の一部が砕けて、破片が頬のすぐ脇を、鋭くすり抜けていく。
え?
香澄は目を見開き、体を一瞬硬直させた。
そして、そのままの体勢で、すとんと床に落ちる。
え? え? いま、何が起こったんだ?
しかし、考える暇もなく、続けてもう二発、頭のすぐ上に何かが撃ち込まれた。
香澄は床に転がると、慌てて近くの椅子の下にすべり込む。
間一髪で、たった今香澄がいた柱に、スーツの男達が銃を片手に、ばらばらと駆けよってきた。
「おい! いたのか?」
「いや、解らない。ただ、何か動いたような気がして!」
「何もいないじゃないか」
「いや、確かにさっき…」
「煙で視界が悪くなっている。確認もせずに撃つと、同士討ちになるぞ」
香澄は椅子の下で目を見開いたまま震えていた。
心臓が、まるで自分の体から飛び出そうとしているかのように、激しく打つ。
銃で、撃った? もしかして、オレ、本気で撃たれた?
オレ、もしかして…死んだかも?
震えながら、おそるおそる自分の体をまさぐってみた。
当然の事ながら、どこも痛くないし、体に穴も開いていない。
しかし、それでも震えは止まらなかった。
砂城では、拳銃を持つ事が許可されている。
知識では知っていた。
だけど、本当に撃たれるなんて…。
ショックで、気がつくと目に涙が滲んでいた。
怖い…。怖い?
よく解らなかった。銃で撃たれるという事が、どういう事なのか、リアルには想像できなかった。
しかしそれでも香澄は、しばらくそこから動けなかった。
『オレ、オレ、どうなっちゃうんだろう?…』
滲んできた涙を袖でこする。
とにかくここから逃げなくてはならない。
わかっている事はそれだけだった。
香澄は窮屈な姿勢のまま、視線を左右にめぐらせる。
しかし椅子の下からでは、男達がこの部屋から出ていったかどうかを完全に確認する事はできなかった。
だがこのままずっとここに隠れていても、炎にやられるのは目に見えている。
香澄はずるずると這いだし、注意深く頭をめぐらすと、入り口に向かってゆっくりと進んだ。
まだ男達は近くをうろうろしているらしく、怒鳴り声のようなものが辺りに響く。
香澄は小さい体をもっと小さく縮めて、何とか廊下にたどり着くと、怒鳴り声と反対方向に走りはじめた。
「なんだ?」
「アレか!?」
煙と埃で霞んだ中に、また銃声が響いた。
「むやみに撃つな!」
誰かが怒号をあげる。
炎のはぜる恐ろしい音が、耳のすぐ近くまで迫っていた。
香澄は目を瞑って、胸を押さえて走り続けた。
怖い。今いったい何が起こっているんだろう?
あいつらは、本当に悪いヤツだったのだろうか?
解らなかった。
しかし、一つだけ確信があった。
たぶん、見つかったらオレは殺される。
なにもかもよく解らないけど、きっとそれだけは確かだ。
逃げなくちゃ。早く、逃げなくちゃ。
しかし、必死で逃げる香澄の耳に、後ろから廊下を走る靴音が聞こえてきた。
足音は複数で、どんどん近づいてくる。
恐怖で心臓が跳ね上がった。
追いかけてきている?
誰か、オレを追いかけてきているのか?
香澄はパニックに陥り、瓦礫に躓いて転んだ。
慌てて顔を上げると、目の前に、半分崩れた下り階段があった。
何を考える暇もなく、香澄はその瓦礫の中に潜り込む。
見えない、見えないように…。
崩れてきたら生き埋めになるかもしれない不安定な隙間に入り込み、できるだけ小さく体を丸めた。
誰にも、見つかりたくない。
香澄はきつく目を瞑った。
自分が見えなくなれば、他の人達もいなくなるとでも言うように。
お願い。見つからせないで。
足音がいくつも、香澄の脇を通り過ぎていった。
香澄は目を瞑りながら、震えた。
今日は、いい日になるはずだったのに…。
歯を食いしばって、ひそかに泣く。
なんでこんな事になっちゃったんだろう?
音をたてないように、誰にも見つからないように、香澄はひっそりと泣いた。
ホテルに存在する巨大なバックスペースに迷い込んで、桐子は混乱していた。
展望室と父親のいるV.I.Pルームは、直接は繋がっていない。
そこに至るためには、階を降りて、もう一度上がり直すか、そうでもなければ従業員用のバックスペースを、長々と通っていく必要があった。
しかしホテルの従業員用通路は、客に解らないように巧みに隠されているものであり、場所によっては殆ど迷路の相を呈していた。
ぐるぐると道自体に引き回されて、桐子は自分のいる場所が解らなくなる。
「ああ、もう、どこに出ろって言うのさ」
男の前で無意識に出る媚びた声とは無縁の、乱暴な言葉が口から滑り出た。
「畜生。全くついてない。だから嫌だったんだ。こんなところに来るのはさ。沢木にお願いされなきゃ、おやじが何を言ったって、来やしなかったのに」
桐子は唇を噛んだ。
沢木…。沢木はどこにいるんだろう? やっぱりおやじの所にいるのだろうか?
そう思うと、早く部屋につきたかった。
沢木が自分なんか相手にしていない事は、なんとなく解っている。
それでも沢木は他の軽蔑を隠さない父親の部下達と違って、桐子に優しく接してくれた。
何を言っても、どんな事をしても、にっこり笑って、はい、と言ってくれた。
桐子は試すように、他の部下達があからさまに顔をしかめるような事も、何度も沢木の前でやって見せた。
しかし、それでも彼は桐子を軽蔑したりはしなかった。
困ったような顔は確かにしたが、それでも声は優しかった。
沢木朋彦…。
彼を思うと、少し胸が痛くなる。
だけど、恋じゃないと思った。
彼と寝たくなんか無い。
自分は彼に許される、子供でいたいのだ、と思う。
あたしは父親を求めているんだ。
父親と言ってしまうには、沢木はずいぶんと若すぎるから、混乱しているけれど、だけど、きっとこれは恋じゃない。
桐子はそれが悲しかった。
母親は家にいた事が無く、父親の事は、気がついたら嫌いだった。
自分のしている事には甘いくせに、人がやった事には容赦が無く、ほんの些細な失敗でも許さない。
成功は他人から奪い取って自分のものとし、失敗は全て周りに押しつけ、逃げる。
その逃げた矛先が、桐子に向けられる事もしばしばだった。
お前が良くないから、おまえがちゃんとしないから。
何度そう言われた事だろう。
そして、何度殴られた事だろう。
もしかして、あの火事もあたしのせいだって、おやじは言うのかなぁ?
言いそうだ。そう思って、桐子は口の中で笑った。
何でもそうやって、人のせいにするといい。
でも、いつまでも続かないよ。
他人は指をさして言うだろう。
あの、とんでもない娘の父親は、政治家の田島誠なのだと。
どうあがいたって、血のつながりは切れやしない。
あたしは、もう、それでいい。
沢木が許してくれるなら、別に父親にどう思われたって、いいんだ。
桐子は運任せで、適当にドアを開ける。
開けて見回すと、そこには煙で霞む長い廊下が続いていた。
V.I.P専用の美しい絨毯を敷き詰めた廊下。
大当たりじゃない。
桐子は笑いながらドアから出て、そろそろと歩き始めた。
曲がり角で、どちらに歩いたらいいのか左右の確認をする。
しかし次の瞬間、桐子は信じられないものを見た。
映画でしか聞いた事がない銃声。
連続した破裂音が耳に響いたかと思うと、あっという間に男が一人、血を噴きあげながら廊下に倒れた。
おやじ!?
桐子はあげかけた悲鳴をかろうじて呑み込んだ。
そこには綺麗な男が一人、重そうなサブマシンガンを片手に立っていた。
彼は恐ろしく冷酷な表情をして、うっすらと笑い、間髪入れず、今度は銃を抜きかけたボディガードに、逆に銃弾を撃ち込んだ。
あっという間に男が2人、ただの物体となって地に転がる。
桐子は見つからないように体を引きながら、がたがたと震えた。
男の動きには、ほんの少しの無駄も、ためらいもない。
まるで命の価値など、彼の頭の中には存在しないかのようだった。
男は綺麗な顔を歪めて、楽しそうに笑い声をたてる。
「オレに銃で勝てるのは、コウくらいだよ。もっともコウはオレの銃でもあるんだから、やっぱりオレが一番かな?」
血で汚れた廊下に、彼の哄笑が冷たく響き渡った。
桐子は口を押さえて、ずるずるともと来た道を下がり、できるだけその場所から遠ざかると、壁にもたれて息を吸った。
おやじ? おやじが、撃たれた?
「し、死んじゃったの?」
言葉にすると、いきなり吐き気がこみ上げてきた。
全身に銃弾を受け、一瞬で血まみれの袋のようになってしまった姿が、目の裏に焼き付いている。
あんなものが自分の父親だとは、信じたくなかった。
どうして? 何が起こっているの?
今のは本当に現実だったの?
その時、廊下に誰かの影が差した。
びくりと体を震わせて、桐子は顔を上げる。
しかし次の瞬間、桐子は影に向かって抱きついていった。
「沢木、沢木!」
桐子は沢木の胸で泣きじゃくった。
「どうかなさいましたか?」
頭の上で、いつもの沢木の低い声が響く。
桐子は安心のあまり、深いため息をついた。
「沢木、あの、あのね…。どうしよう。お、お父様が…」
桐子の声は無意識のうちに、媚びを含んだものへと変化する。
「先生が、どうしたんです?」
「大変なの。こ、殺されちゃったのよ。今見たの。すぐそこで、あたし…」
なんだか、こんな風に言うとバカみたい。
桐子は泣きながら思う。
なんだか、全然本当の事じゃないみたいに聞こえる。
桐子は顔を上げた。
「沢木、嘘じゃないのよ。本当の…」
そう言いかけた瞬間、沢木は腕を伸ばし、いきなり桐子を抱きしめた。
ええ!?
桐子は仰天して、目を見開く。
「沢…木?」
何が起こったのかよく解らなかった。
しかし、それでも習慣で、桐子は自分の腕を沢木の背にまわす。
広くて暖かい背中を手の中に感じた。
途端に桐子は信じられないほど幸せな気分になった。
あたしって、あたしって、なんなんだろう?
たった今、父親が死んだ姿を見たばかりだというのに…。
でも、でも、だって…。
こんなこと、沢木は絶対してくれないだろうと思っていた。
沢木は自分をそういう対象として見ていないのだから。
しかし今、ずっと望んで叶えられなかった暖かい腕の中に、桐子はいる。
どうして突然? 解らない。解らないけど、でも…。
一瞬でもこうしていられるのなら、どんな理由でもかまわなかった。
桐子は沢木の背中をきつく掴んだ。
「桐子さま?」
沢木の静かな声が、耳をくすぐる。
「桐子さま、お可哀想に。私はあなたが嫌いじゃなかった」
「沢木…?」
顔を上げようとする桐子の頭を、沢木は軽く押さえた。
「だめです。だめですよ。私の顔を見ては。本当に、どうして見てしまったんですか?」
沢木の声は、驚くほど柔らかく、優しく響いた。
桐子の胸の中に、突然恐ろしい不安が沸き上がってくる。
いったい、何?
背中にぞくぞくと冷たい感触が走る。
まるで沢木は私が何を見たのか、知っているみたい?
沢木の大きな手が、桐子の首筋をゆるやかに撫でる。
沢木? あなたは私に何をしようとしているの?
桐子は腕のなかで少しだけ力を抜き、それから勢いをつけて上を見あげた。
沢木と、目があった。
2人は至近距離でお互いの瞳の中を覗き込んだ。
そして…。
桐子は悲鳴を上げた。
同時に沢木の腕から逃れるためにもがいた。
「桐子さま。桐子さま?」
沢木の腕は桐子を掴んで放さない。
沢木! 桐子は泣いた。
あんたが許してくれるなら、他の誰もがあたしを指さして笑ってもかまわないと思っていた。
だけど、だけど…。
桐子は首を振る。
沢木は許したりなんか、していなかった。
沢木の瞳の中に桐子が見つけたもの。
…それは、単純な絶望だった。
暗い、どこまでも深い絶望だけが、彼の瞳の中を塗りつぶしていた。
ただの一度も、彼は許した事など無かった。
何もかも、たぶん全ての事を、彼は許した事など無かったのだ。
それに気がついて、桐子は悲鳴を上げた。
「桐子さま」
沢木の甘い息が首筋にかかる。
「桐子さま。どうして見てしまったのです?」
沢木の手が、悪夢のように振り上げられる。
その先には、鈍く光る長い刃が握られていた。
桐子は悲鳴を上げた。
しかし、それは誰にも届かなかった。
無我夢中で腕を振り回し、足を蹴り上げる。
見たくなかった。見たくなんか無かったよ。
どうしてあたしは子供のままでいちゃいけないの?
どうして、そういうものであり続ける事を、誰も許してはくれないのだろう?
気がつくと桐子は腕を血まみれにしながら、廊下をひたすら逃げ続けていた。
寒い。なんだか、とっても寒い。
どこかで、どこかでこんな悪夢は終わりにしなくちゃ。
横になって休んで、夢から覚める事ができるような場所を見つけなくちゃ。
桐子は薄く笑った。
目が覚めたら、嘘だよ、と誰かに言ってもらうのだ。
嘘だよ、みんな夢だよ。
桐子、今日はベッドの中で朝ご飯を食べてもいいよ。
そう言ってもらうんだ。
桐子はぶつぶつと何かを呟きながら、必死で体を引きずっていった。
しかし長い廊下は、どこまでもどこまでも続き、まるで果てがないかのように見えた。
からりという、かすかな物音で、香澄は顔を上げた。
長い間きつく目を閉じていたせいで、視界がぼんやりと霞む。
「だれ…?」
思わず声が喉から出てしまい、慌てて意識をはっきりさせようと頭を振った。
ぼんやりとした瞳に映ったのは、黒くて大きな男の影だった。
彼はいつのまにか、香澄のすぐ近くまで来ていた。
香澄は飛び上がり、悲鳴を上げる。
無意識に体をひねってその場から逃げようと試みたが、体が瓦礫にぶつかって、上手く動いてくれない。
しかも香澄がぶつかった衝撃で、微妙なバランスを保っていた後ろの瓦礫の山が、ぐらぐらと大きく揺れた。
そして次の瞬間、大量の細かい石つぶてと共に、巨大な塊がひとつ、まっすぐ香澄の頭めがけて落ちてきた。
香澄は大きく目を見開く。
その塊は、簡単に香澄の頭を押し潰してしまえるほど、大きく醜い。
死が恐ろしい音と共に瞳の中に迫り、首筋に息を吹きかけていった。
だが、その瞬間、黒い男が動いた。
彼の手が腰の辺りですばやく動いたかと思うと、死の使いの瓦礫は粉々に吹き飛ばされる。
次に彼は、降りそそぐ細かい石の雨の中に、ためらうことなく飛び込み、香澄の体を軽々とすくって、前へと飛び出した。
自分の腕と体で香澄を瓦礫から守るように抱え込み、廊下に転がり出る。
一瞬の、まるで、夢を見ているような出来事だった。
体がふわりと宙を飛び、目の前で世界が反転する。
避けられないと思えた死は、まるで魔法のように、彼の手によって一瞬で払いのけられ、ほんの僅かな痛みすらなく、香澄は完全に守られて、危険から抜け出す事ができたのだった。
…オレ、助かったのか?
廊下に仰向けに倒れながら、まだぼんやりとした頭で思う。
この人が、オレを助けてくれたのか?
なんか、すごかった、気がする。よく解らないけど、とにかく、なんかすごい。
香澄は呆然と、自分を守ってくれた男の顔を見上げた。
そして…。
わあ…。
思わず香澄はため息をついた。
そこには、驚くほど綺麗な男がいた。
男。間違いなく男の顔だ。
だけど、その…。
なんて、きれい…。
香澄は生まれて初めて人の顔に見とれた。
少し細められた黒い瞳。白い肌に、薄く血の色が透ける唇。
どこまでも整った、その玲瓏な顔立ちは、誰の目も惹きつけずにはおかないであろう、魔力のような力を持っていた。
実際香澄は、まったく彼から視線を外す事ができなかった。
バカのように、ぽかんと口を開いて彼を見上げる。
…嘘だろ? 誰だよ、この人。
こんな人が、ホントにいていいわけ?
もちろん、自分をかばって瓦礫に飛び込んだ彼の顔は、埃と煙で黒くうす汚れている。
しかしそんな汚れなど、彼の美しさを少しも損なわせるものではなかった。
むしろ化粧などで繕う事のない、彼の持つ本来の美しさを、より際だたせているように見えた。
瓦礫を吹き飛ばし、全ての死を一瞬で自分の前から消し去ってくれた男。
人の目を奪い、惹きつけて離さない。
この人は、この人って、もしかして…?
香澄の心臓は、再び早く打ち始める。
しかし、今度は恐怖からではなかった。
男は香澄の上で軽く呻くと、小さく息を吐く。
その声にはっとして、香澄は呪縛から解き放たれた。
視線を移すと、彼の背中から微かに血がにじみでているのが見える。
「だ、大丈夫?」
思わず声が出た。
すると男は下を向き、香澄の顔をまっすぐに覗き込んで笑い、そして、こう言った。
「大丈夫だ。何もかも、全部」
その瞬間、香澄の中で世界は変わった。
すごく、怖かった。
炎に追われて、撃たれそうになって、逃げて、泣いた。
世界の何もかもが自分を害し、壊してしまう存在に見えた。
きつい瓦礫の隙間に隠れながら、いっそいなくなってしまえるくらい、自分が小さくなれたらいいのに、と思った。
だけど…。
彼は綺麗だった。
自分の顔をまっすぐに覗き込んで、笑う。
冷たそうにも見える透き通った美貌に、驚くほど暖かい光が一瞬であふれる。
香澄の瞳の中に、かすかに涙が滲んだ。
恐ろしい事も、怖い事も、何もかも、その光に溶けて消えた。
だから、だから…。
きっとそう。
きっとそうだ。
何もかも大丈夫。
あんたがそう言うなら。
あんたが笑って、そんな風に言うのなら。
たとえ世界の全てが炎に包まれていたとしたって、きっと、何もかも全部が大丈夫なんだ。
感情が一気にあふれ出してくる。
よかった…。オレ、待ってた。待ってたよ。
泣きたい。喚きたい。嬉しい。
そして、心の底からの安堵。
すごく怖かった。すごく、怖かったんだ。
だけど、あんたが来て、大丈夫だって言ってくれた。
だから、きっと、そうなんだ。
彼は立ち上がって、優しく香澄を見おろした。
「君を助けに来たんだ。だから、もう心配いらない」
香澄は何度も頷く。
うん、もう心配いらない。
だって、あんたが来てくれたんだもの。
だから、だからさ、聞いていい?
聞いていいかな?
引きつった喉を必死で湿らせ、何とか言葉を紡ぐ。
聞きたかった、たった一言。
「お兄さん、正義の味方?」
あきれられても、仕方ないと思った。
中学生にもなって、こんな事を聞くなんて。
馬鹿な事を言うと、怒られるかもしれない。
そう、思った。
しかし、彼はもう一度鮮やかに微笑んで、香澄の瞳をまっすぐに覗き返した。
黒い瞳の中に、自分の顔が映る。
彼はゆっくりと頷いて、そして、香澄の一番欲しかった言葉をくれた。
「ああ、そうだよ。正義の味方だ。だから君は、安心してていいんだ」
香澄は笑った。
信じられないほど嬉しくて、笑う事しかできなかった。
どうしよう。
どうしたらいい?
心の底から、何かよく解らない感情が、どうしようもなく沸き上がってくる。
何だかわからない。
でも、すごくいい気持ちだった。
会いたかったよ。
オレ、すっごくあんたに会いたかった。
今までは知らなかったけど、オレはあんたに会いたかったんだ。
いま、わかった。
だからもう、絶対に忘れない。
オレ、出会えたんだ。
特別の人。世界にきっと、たった一人の人。
たった一人の、オレの正義の味方。
この人は、なんて綺麗なんだろう…。
香澄は立ち上がって、男の手を握りしめた。
彼も手を握り返す。そして優しく言った。
「降りよう」
うん。
香澄は心の中では頷いていた。
しかし、気がつくと首は横に振られていた。
ほんの僅か、男が怪訝そうな顔を向ける。
香澄の喉からは、勝手に言葉が滑り出していた。
「向こうに、悪いヤツがいる」
「…悪い、ヤツ?」
「うん、奥の展望室でオレを撃ってきたんだ。オレ、あそこに忘れ物しちゃって…」
ふと、家族の事が心配になる。
下に降りられたんだろうか?
オレを捜して、見つからなくて、困っているんじゃないだろうか?
だけど…。
このまま逃げたら、オレが見た事は誰にも伝わらない。
この人は知っているべきなんだ。
だって、正義の味方なんだもの。
香澄の心は固まった。
「事故じゃないんでしょう? あの爆発。だって、あんたが来たんだし」
彼は首を傾げている。少し不思議そうな顔をして。
そんな表情すらも、香澄の心をときめかせた。
この人が、オレの話を聞いている。
「向こうに、人がいるんだ。女の人とかもいた。全部が悪いヤツかどうかは解らないけど、でも…」
どう言っていいのか解らず口ごもっているうちに、彼はほんの少し考えて、すばやく決断した。
「わかった、行こう」
再びしっかりと手が握られる。
香澄は飛び上がるほど嬉しかった。
オレ、一緒に行っていいんだ。
一緒にいけるんだ。
いいよ。オレ、どこへだって行くよ。
あんたが行くところなら、どこへだってついていく。
自分も、特別の存在になるために。
今だけでも、ほんの少しでも、そう思うために。
この人のそばにいるだけで、世界は何もかも変わっていく。
たとえば、炎の地獄だって。
だから、これはきっと、運命なんだ…。
そんな、気がした。
展望室は、炎に呑み込まれていた。
生きている人は、誰もいそうにない。
香澄と彼は頷いて、そこから離れた。
それから彼はキョロキョロと辺りを見回し、少し先にあるドアを開けて、中に入り込む。
入った所は、スタッフ専用の通路らしかった。
香澄はぐるぐると、迷路のようなそこを引き回される。
しかし彼は全く迷ったような様子はなかった。
煙はあちこちから入り込んできていたが、炎はまだここにはやってきてはいないようだった。
なんとなくほっとして、香澄は男の質問に次々と答える。
彼は微笑みながら、しかし真剣に、香澄のつたない説明に耳を傾けてくれた。
「忘れ物は、取り返せた?」
いきなりの質問に、香澄はちょっと苦いものが胸に沸いてくるのを感じた。
すごく欲しかったカード。
手に入れた、と思ったカード。
だけどそれは、あっという間に手の中からすり抜け、灰になってしまった。
大切な、正義の味方のカード。
だが、胸が痛んだのは、ほんの一瞬だった。
オレ、会えたんじゃん。
本物に。本当に求めていた人に。
信じられないくらい綺麗な顔が、黙ってこちらを見ていた。
嬉しさで胸が高鳴る。
カードの中の人は、こんな風にオレを見てなんかくれない。
「いいんだ」
香澄は幸せそうに答えた。
「もうどうでもいいんだ。あんたに会えたんだもん」
そうだよ。なんでいつまでもあんたとか呼んでるんだよ、オレ。
名前、名前を聞かなくちゃ。
「あんたに会えたから、もういい。ねえ、お兄さん、なんて名前?」
彼はまっすぐ前方を見つめて、返事を返した。
「黒羽 高」
綺麗な響きだ。
香澄は口の中で軽く繰り返した。
音を味わうように。
クロハネ コウ…。
どう呼んだらいいのかな?
コウ?
それとも、クロハネさん?
どんな字を書くのだろう。
それも後で、きっと聞こう。
クロハネ コウは、迷うことなく一つのドアを開けた。
出た先は、あきらかにホテルの他の場所と違っていた。
毛足の長い絨毯が廊下に敷き詰められている。
なんか、豪華…。ここもホテルの中なのかな?
2人は絨毯の上を早足で進んだ。
「くろはね こう、か」
香澄はその名前をもう一度確認するように口から出した。
「うん、覚えた。ええと、それで、オレはね…」
自分の名前も言うべきだろうか。
少し迷う。
でも、聞かれてないしな。
オレの名前なんか、どうでもいいような気もする。
だけど…。香澄は軽く首を傾げた。
だけど、たとえばここで、オレとこの人が離れちゃったら、オレは名前を呼べるけど、この人はオレを呼んで探せない。
やっぱ、なんつーか、言った方がいいよな。
「オレは…」
言いかけた時だった。
急にクロハネ コウは前方を見つめて、シッと唇に指を当てた。
香澄はぴたりと黙る。
「誰か、倒れてる」
目を細めるようにして前を見たが、煙で霞んで、香澄にはよく判らなかった。
クロハネ コウは、一つ手前の曲がり角まで香澄を押し戻す。
「ここで、待っているんだ。できるだけ体を低くして。角から顔を出してもいけない。安全かどうか、まず僕が確認してくるから」
香澄が頷くと、クロハネ コウはあっという間に煙の中へ消えてしまった。
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