炎の記憶 −桜庭−
「えええ…と。結局そういう関係になっちゃったと。そういう事かな?」
桜庭は言葉を選びながら白鳥を見つめる。
「プ、プライベートッスから」
白鳥の言葉は途中で詰った。
別に報告を受けたわけではないのだが(セックスしました、なんていう報告を誰がするというのだ)彼、白鳥香澄は大変正直者だった。
なんて言うのか、態度や言葉の端々で、それが解る。
まあ、白鳥くんはもともと明るいし、少々浮かれていても誰からも不審には思われないとは思う。そもそも黒羽くんのパートナーになったというだけで、彼は最初から浮かれていたのだから。
しかし、自分のように多少なりとも突っ込んだ事情を知っている者には、態度でバレバレだった。
「いやぁ。別にどうでもなんでもいいよ。プライベートに何をしようと個人の自由だしね。それにまあ、キミは黒羽くんのことが好きだったみたいだし、黒羽くんのほうは…その」
「冬馬って奴とヤッてたんですかっ!!」
プライベートだとか言ったくせに、ものすごくストレートな質問だ。
「それこそプライベートだから、知らないわよ」
「でも!」
「処女だとか、そういう事に拘るタイプ?」
即座にブンブンと首が横に振られる。
「違うけど」
「じゃあ元カレのことなんか追求しない。お付き合いの初歩でしょうが」
「こういう場合も、も…もと彼…って言うのか」
白鳥は呆然と口を開いて、ブツブツと呟いた。少なくとも、元カノじゃないと思うけど。冬馬涼一は男だし。
「あなただって昔つきあってた彼女のことを、あれこれ相手に探られたら嫌でしょ?」
「それは、そうスね。あれ、いや、そういう話だったか…な?」
白鳥は首を傾げたが、なんとなく納得したらしく、それ以上訊いてはこなかった。
桜庭は少しだけホッとした。
冬馬涼一については、あまり追求されたくない。
過去の傷が痛むのだ。
桜庭は彼があまり好きではなかった。いや、むしろ積極的に嫌いだったといってもいい。
男性社会である警察内で、彼の評価は非常に高かった。たかが巡査部長だったにも拘らず、誰もが彼を褒め、一目置いた。
後から特殊班に入ってきた年下の彼が、たちまち班の中で頭角を現し、上司の信頼厚いリーダーになっていく様は、目を瞠るものがあった。
男社会を男が渡っていくのはなんと楽なのだろうと、嫉妬したこともある。
しかし、彼が冬馬グループの御曹司だから特別視されていただけだろう、と言いきるのは不当な評価だという事も解っていた。
彼が優秀な警官だったことは確かだ。
知識も技能も、誰よりも優れていたし、人の歓心と注目を集める魅力、そう、それも一種の才能なのだろう、を持っていた。
だが桜庭は常に、彼に妙な胡散臭さを感じていた。
どこか地に足がついていない。
夢の中の少年。
ネバーランドのピーターパンのような陽気さ。
楽しく遊ぶならともかく、彼と生活を共にするのはごめんこうむりたいと、そう思わせる空気が彼にはまとわりついていた。
もっとも趣味嗜好は人それぞれだ。
自分が嫌いだからと言って、彼を低く評価するのは、それも不当な事だろう。
逆に黒羽 高は、桜庭のお気に入りだった。
冬馬涼一と同じく、少々浮世離れしたところはあったが(言うまでもなく容貌は飛び抜けていたわけだが)何より彼は真面目で誠実だった。
その真面目さと不器用な部分が祟って、人間関係は不得意だったらしいが、まるでサーフィンをするように表面上を美しく渡っていく冬馬よりも、黒羽の不器用さが、桜庭にはずっと好ましく思えた。
この二人がどういう関係だったか。
実際の所、当時の自分は、男社会で自分が生きていく事だけに必死で、あまり他人に意識が向いていなかったような気がする。
結婚をして子供が産まれた時点で、特殊班を出ることも仄めかされていたので、なおさらだった。
二人が特別に親しいことはもちろん解っていた。
黒羽は冬馬が、自分のパートナーとして強引に地域課から引っ張ってきたのだ、という話も聞いた。
普通なら人事でもない単なる兵隊の意見が通るはずはない。
しかしその兵隊が冬馬だ、というだけで、噂は真実みを帯びて囁かれた。
単なる噂か事実なのか、それは解らない。
しかし冬馬涼一と黒羽 高の関係は、かなり特殊で親密だったということだけは、誰の目にもあきらかだった。
若い男だったら、ましてや男ばかりの集団の中では(自分のようにたった一人混じっただけの女などは、集団の中では単なる異物に等しい)性的な話が語られるのは当たり前の、一種レクリエーションのようなものだった。いちいち眉を顰めてなどいられない。
男達はしょっちゅう、どこの女が具合がよかっただの、誰をコマしたのと、ウソ半分欲望半分自慢半分の話を始める。
しかし黒羽 高は、まったくそういった話題に加わることはなかった。
恐ろしく巧妙に性的なことを隠していた。
いや、隠していると言うより、むしろ無いものであるかのようにも見える。
彼は隠そうと思って物事を隠し続けられるほど器用ではないから、おそらくセックスに関して、彼はそれを切り離した所で処理しているのだろうと思われた。
男に対しても女に対しても黒羽の人間関係は非常に希薄だったから、彼の性癖も、よくは解らない。
誰とも親しく話をしないから、セックスの話など出てくる隙もない。
それに彼は本当にどこか突き抜けた美形だったから、一見生臭いものを想像しにくい所もあった。
だけどその。
冬馬涼一とは、あったんだろうな、と思う。
確認をとったわけではないけれど、二人がそういう関係であっただろう事は、今考えると明白だ。
どんなに黒羽 高が浮世離れしているように見えても、若い男なら生臭いものと無縁などという事はありえない。
黒羽は常に女の注目を浴び、遠巻きではあったが女に取り囲まれていたので、男達は特に不自然さを感じなかったようだが、あれだけ女が回りにちらつきながら生臭い噂がまったく立たない。
そういえば自分は、黒羽はゲイなのではないかと、一度くらいはそんな事を思った様な気がする。
だが、単純にゲイだという考えも、黒羽に当てはめるにはしっくり来なかった。
黒羽は表面上あまりにも、クールで清潔すぎたのだ。
冬馬涼一は黒羽とは逆に、男でも女でも、誰とでもセックス位する、という印象があった。
それはそれで余りいいイメージは持たなかったけれど、黒羽高の、誰にも性行為を気取らせない態度にも、奇妙な不健全さを感じた。
黒羽は殆ど、冬馬涼一に「所属」していた。
幼い頃から兄の様な存在だったと、そう聞いてはいた。
だが違う。
兄とか、仲間とか、先輩とか、友人ではない。
黒羽は時に、冬馬涼一の「私物」の様にも見えた。
セックスは、彼の所にあったに違いない。
黒羽が単純なゲイで、他の男とも寝ていたというなら、まだいい。
だが、彼は冬馬以外の誰とも親しい関係を持たなかった。
黒羽 高のセックスの全ては、冬馬涼一の所にあったのだろう。
他にいっさい吹き出さない、あの不健全なクールさは、それ以外に説明がつかなかった。
二人がどんなセックスをしていたのかはもちろん解らないが、首に指の跡のような痣を見た記憶もある。
対等な恋人同士の関係だったとは考えにくかった。
それでも黒羽がそれをよしとするなら、他人の嗜好に口を出す権利は誰にもない。(もっとも黒羽がよしとしていたとも、実は思えないのだが)
しかし黒羽が冬馬に依存していることだけは、なんとなく桜庭にも解っていた。
黒羽には、確かに冬馬が必要だったのだろう。
いっそ不健全なほどに。
黒羽に好意を持っていた桜庭としては、それがいいことだとは思えなかった。
しかしどうにも出来なかった。
自分は自分自身に起きる日々の細々としたことで手一杯だったのだ。
だれも自分を責めないことは解っている。
誰が私を責められるだろう。
だが、それでも過去の傷は、ひっそりと痛んだ。
冬馬涼一が死んだと聞いた時、呆然とした。
とても死ぬような男には思えなかったのだ。
だが災害も事故も人を選ばない。人間はいつ死ぬか解らない。誰も特別ではありえないのだ。
冬馬涼一が嫌いだった。
けれど、死んでいいと思ったわけではない。
自分はバックアップだった。
現場に突入していく彼らの手助けをしなくてはならなかったのだ。
なのに、何もできなかった。
手をこまねいて、みすみす彼らを死に追いやった。
自分はある種の罪悪感を、冬馬涼一に抱いている。
助けたくなかったわけではないのだ。見殺しにする意思など、微塵もなかった。
自分一人でどうにかできるような事件じゃなかったのも確かだ。
しかし結果としてそうなった時、自分はほんの少しでも、こう思って罪悪感を慰めなかったか。
生き残ったのが 黒羽 高 の方でよかったと。
黒羽がしばらくの間壊れかけていたことが、なおさら自分の傷を深くつついている。
身体は元に戻っても、心は帰ってきていないように思えた。
もともとあまり話さない子だったが、事件の後、更に言葉が少なくなった。
彼の誠実さが変わらなかったのは唯一の救いだったが、生還後の彼には不安定な凄みのようなものが浮き沈みしているように感じられた。
どこか投げ出したような、自暴自棄な狂気。
そのくせ何かを追い求めているような、奇妙に冷静な意志の光。
こんな言葉を聞いたことがある。
『人が行動を起こす理由は二つ。それは希望と絶望だ』
黒羽 高の行動原理は、なんとなくその言葉を桜庭に思い起こさせた。
そして更に、もう一つ気掛かりなこと。
気のせいであってくれればいいと思う。
しかし黒羽を意識せざるを得ない桜庭は、何度もその気配を感じて、やりきれない気分になった。
黒羽 高は冬馬涼一が生きていると、信じている。
そんな気がする。
たぶんまともに質問をすれば、そうは答えないだろう。
冬馬涼一は死んだと、黒羽も言うに違いない。
だが、彼の心はたぶんそれを認めていない。
現に彼の行動は、冬馬涼一がまだどこかで生きているかのように、振る舞われる事が何度もあった。
彼を捜しているのだ。
桜庭は、それが辛かった。
自分が殺したわけでも死を願ったわけでもないが、たった一人生き残った黒羽が、死者の世界に囚われている。
それがどこか自分のせいのような気もしたのだ。
黒羽 高には幸せになって欲しいと思っている。
その為には冬馬涼一が死んだことは悪くなかった。
心の底で、確かにそう思うことを、止めることが出来ない。
全てに失敗したあの事件で、生き残ったのは彼しかいない。
私自身の失敗と後悔を修復するために、彼に幸せになって欲しいと願うのは、勝手なエゴなのかもしれない。
けれど、それでも。
冬馬涼一の幽霊に、黒羽 高を奪われたくない。
なのに、どうすることもできないでいた。
あれ程深く食い込んだ冬馬の存在を、黒羽から無理矢理もぎ取ることは、桜庭には出来そうもなかった。
彼はもう死んだのよ。
口に出してそういえば、黒羽からきょとんとした返事を貰うような気がする。
そうでなければ、完全に空白な沈黙を。
硬く白い顔で、ただ
『知っていますよ』
そう言われそうな気がしていた。
不思議なことに彼にとって、冬馬が生きていると思うことは希望ではないようだった。
彼は絶望を胸に歩いているのだ。
それともある筈のない希望を抱いていること自体が、あの苦しい表情になっているのだろうか。
解らない。
もちろん彼は普通に生活を行い、支障なく仕事を優秀にこなしている。
任務を与えられれば、黒羽は一時それに完全に集中した。
だから、桜庭はひたすら黒羽に仕事を与えた。
彼の空白を埋めるために自分が出来る事は、ただそれだけだった。
自分の班に仕事がなければ他所に派遣し、何度か臨時のパートナーとも組ませ、可能な限り、自分も彼のパートナーの代理を務めた。
そして、より仕事に没頭させるため、彼に正式なパートナーを与えようと、人員補充も何度も上に提出した。
しかし、黒羽がゲイである限り、女である自分には絶対に解消できない事があった。
黒羽 高が持つある種の潔癖さ、ストイックさは、冬馬涼一とのセックスによって、不健全な形ではあったかもしれないが、なんとかバランスを保っていた。
しかし今、冬馬涼一と切り離されて、彼のセックスは浮遊してしまっている。
今でも彼はひどくクールで、清潔に見える。
まるで性欲など存在しないかのように振る舞っている。
たぶん彼は、恐ろしく危うい方法で、どこか切り離した所で、その衝動を、ただ処理しているのだろう。
だがそれは、何処までも不自然だった。
無いもののように振る舞っていても、前は厳然として冬馬という存在がいた。
今は違う。
セックスすることも、生きることの一部だ。それだけを完全に切り離したら、どこかに歪みがでてくるだろう。
そんな時にやってきたのが、白鳥香澄だった。
何度も請求した人員補充が突然認められたのだ。
外から来たという事で、異色の特別人事異動だった。
砂城は外からの志願者は、積極的に即時に、殆ど無条件で引き受ける。
向こうが心変わりをしないうちに、ということなのだろう。
そういう訳で、ちょうど欠員補充を請求していたここに、白鳥香澄はあっと言う間に突っ込まれる形となった。
望んでいたのは正式なパートナーだったので、砂城に慣れていない彼は、黒羽の相棒としては確かに少々不安な所があった。
しかし逆に黒羽への先入観も持っていないだろう。それはそれで、好都合のように思われた。
ついでに黒羽に彼の面倒を見させるのだ。余計な仕事を黒羽は引き受けることになる。それも桜庭の望むところだった。
誰かに任せてしまいたかった。
その気持ちがなかったとは言えない。
予想と違って白鳥は何故か黒羽のことを知っているようだったが、それでも白鳥は他の男達とは、最初からかなり違っていた。
彼が黒羽のことを殴った時は、さすがにギョッとしたが、今まで誰も出来なかったことを易々とやってのけた彼を、私はたちまち気に入った。
新しい風。生き生きと生命力に溢れた若者。
何か変わるかもしれない。
もちろんいくら黒羽のパートナーだと言っても、彼に黒羽のセックスを押しつけるわけにはいかない。
でも、彼が黒羽の近くにいるだけで、悪くないような気がした。
彼の明るさが、その生命力が、黒羽の目を死者から逸らしてくれるかもしれない。
もちろん、すぐに冬馬涼一の幽霊を追い出すことは出来ないだろう。
しかし白鳥の面倒を見たり、パートナーとしてやっていくために、黒羽は今まで以上に忙しく様々なことを抱え込むことになるだろう。
幽霊はしょせん幽霊だ。
生きている者の存在感にはかなわない。
後は時間が解決してくれることを望んだ。
その為なら、なんでもやるつもりだった。
しかし、更に驚いたことに、白鳥香澄は黒羽と関係を持ったらしい。
最初はまさかと思ったけれど、確かに白鳥はどう見ても黒羽のことが大好きだったし、その好意が性的な方向に向かっても、白鳥がホモフォビアじゃない限り、ありえると思ってはいた。
まあ、そうはいっても『ありえる』と『ある』では天と地ほども違う。
黒羽は素晴らしく綺麗な男だが、簡単に性的な関係に突入していけるほど気やすい男ではない。
ましてや白鳥はゲイには見えなかった。
だが奇妙に浮かれている姿と、言葉を濁すくせにこちらに黒羽のことを色々聞いてこようとする態度に引っ掛かって、ためしに言ってみた。
『結局そういう関係になっちゃったと。そういう事かな?』
『プ、プライベートッスから』
ハッタリをかましたつもりだったが、あっさりゲロした。
白鳥くん、君ねえ…。
本人には言わないが、刑事としては失格だ。
だけどそうか。
ふうん、白鳥くんとね。と思う。
なんていうか、彼とヤッていると思うと、妙に健全な気がするのは何故だろう。
そういう関係になれって言った訳じゃなかったけれど(それとも、唆したことになるのかなあ…)黒羽高にとって、彼とセックスすることは、悪くないような気がした。
身体も心も引き受けろ…か。
白鳥が黒羽に好意を抱いているのをいいことに、彼に徹底的に関わる事を誓約させる為だけの言葉だったのだが。
言葉通り、本当に引き受けてくれるとは思わなかった。
そして、気がついたら白鳥香澄は、今まで誰も出来なかったことをしていた。
黒羽の顔に、時々笑みが浮かぶようになったことが、嬉しくて不思議な気分だ。
誰とも親しい関係を築けなかった黒羽が、ぎこちなくでも彼と交流を持とうとしている。
もしもセックスも彼の所に帰ってくるのならば、黒羽 高を取り戻せるかもしれなかった。
白鳥香澄が冬馬の幽霊を、本当に追い払ってくれるかもしれない。
そんな期待が、桜庭の心を軽くした。