家族の肖像
【Part1 過去の肖像】
『一緒にご飯食べるんだよね』
なーんて天使より可愛らしい笑顔に誘われて、オレが連れて行かれた食卓は
……はっきり言って地獄だった。
黒羽 高。
オレ、冬馬涼一にはショタ趣味がないので助かっているが、その類いの嗜好を持つ野郎だったら、即座に理性吹っ飛ばして押し倒したくなるくらい、綺麗で魅力的な少年だ。
なのに本人には、まったく自覚がない。
自分がどれだけクリームたっぷりかけた極上のショートケーキみたいに見えるか解っていないらしい。
(もっとも小学生でそんな事自覚しているガキは、芸能人じゃないなら気持ち悪いだけだが)
どちらかというと人見知りが激しくて、知らない人は避けて通るような性格だから、自分からホイホイ誘拐魔についていくことはなさそうだが、それでも力ずくならいつ攫われても不思議ではない。
子供にまったく興味のない(むしろどちらかというと嫌いだ)オレでさえ、コウに親しげに笑いかけられたり、触られたりすると、何だか妙な気分になることがあるのだから。
というわけで、黒羽志帆との約束もあるし、そういう事態に陥らないように、オレはこっそり黒羽 高にボディガードをつけていたりするのだが、まあそういう事情は今はどうでもいい。
とにかく、言いたいことは。
あのおそろしく魅力的な笑顔で誘われたら、大体は逆らえないって事だ。
もっとも、一緒に夕飯を、という事態に興味もあった。
黒羽志帆が執着する『温かい家庭の団らん』とやら混じって、家族を演じるのも面白そうだと思ったのだ。
しかし……しかしだ。
オレは食卓を前に固まっていた。
自分を演じることに絶対の自信を持っていたオレが、今、舞台の真ん中で突っ立っている。
なんたる不様。敗北の二文字は、オレには似合わない。
だが、オレは恐る恐る、まわりを見回してしまう。
もしかしてこれは…拷問なのだろうか。
志帆先生の、嫌がらせ…だったりするだろうか。
まさか、オレにだけ毒を盛っているとか?
ぐるぐる疑ってみたが、…どうやらそうではないらしい。
テーブルいっぱいに置かれた皿の上の『正体不明のぐちゃぐちゃな物体』は、すべて黒羽志帆の、『心のこもった手料理』らしかった。
ええとその…。
つまり、有り体に言ってしまえば、彼女は
ものすごく『料理が下手』だったのだ。
おそるおそる器に箸を付けてみる。
みそ汁の中の、まっ茶っ茶な塊は、多分ワカメだよな。
雑巾の切れ端って事はあるまい。
だが一口飲んだ瞬間、もしかしてこれは飲む物ではなかったかもしれない、と真剣に考えてしまった。
吐き出さずになんとか呑み込んだが、目尻に涙が浮かんでしまう。
味噌の味は、確かにするのだが。
この、甘いんだかしょっぱいんだか、酸っぱいんだか、グチャグチャ混じっているような奇妙な味はなんなんだ。
絶対砂糖入っているし。
オレは味噌汁は作ったことないが、砂糖って入れるものなのか?
それにワカメの味噌汁に、脂が浮いてるって何故だよ。
涙目のまま辺りを見回すと、黒羽志帆はしらっとした顔で、目を伏せて黙々と食べていたし、陸先生にいたっては、平気で笑いながら黒く焦げた謎の物体を口に運んでいる。
信じられない。
本気で泣くぞ、オレは。
なあ、これ喰わなくちゃダメか?
夕食の席で、楽しく笑える話題を提供するだけに専念しちゃいけないだろうか。
「涼一、お腹痛いの?」
だが、隣から可愛らしい声がオレを地獄に突き落とす。
いやその。
今は痛くないんだけど、これ喰ったら痛くなるかもなぁ…。
という複雑な感情を顔に浮かべるという高度なことをやってみるが、もちろん子供のコウには通じなかった。
オレの腹具合を心配するように、表情が暗くなる。
たちまち黒羽志帆が、ジロリとオレを睨んだ。
ああああ…。
家族の団らんを壊さないこと。
いいですよ、そんな事は簡単だ。
ニッコリ笑って、あなたの城を護りましょう。
オレは気軽に約束した。
そうさ、普通ならそんなこと、容易い筈なんだ。
志帆の陰鬱な目の光が、オレの身体を刺す。
解った、解りましたよ。
あんたの世界は壊しません。そういう約束だ。
夕食の席に参加するなら、出されたものは食わなくちゃダメって事だよな。
ああ、解っているとも。
ただ、あと数秒、オレに時間をくれ。
地獄に飛び込む覚悟を決めるからな。
オレはたっぷり三秒唇を噛みしめ、それから目の前の謎の物体を、ひたすら口の中に押し込む作業を開始した。
無になれ。ひたすら無になるんだ。
これは食事ではない。修行だ。
心頭を滅却すれば、火も涼しいそうだぞ。
それでも唇の端が引きつっていたのは、見なかったことにしておいて欲しい。
オレは未成年で、きっとまだまだ修行不足なのだ……。
そして結局……腹はこわさなかったのだが。
あれ以来、機会を見つけては、コウがニッコリ笑って、オレを地獄の一丁目に誘いに来るようになったのだった。
「なあコウ、コウの好きな食べ物はなんだ?」
「松梅屋のエビフライ!」
即座に答えが返ってきたが、それはファミレスのメニューだ。
「あ、スーパーイトウで売ってる鶏の唐揚げも好きだよ。あとね、かもめ亭のシチューも。それから……」
コウは嬉しそうに色々あげたが、オレはため息と共に首を横に振った。
「そうじゃなくて。コウは毎日志帆先生のご飯を食べてるだろう? うちで作る料理だよ」
好き嫌い調査をやっているわけではない。
黒羽志帆の作る、あの破壊的な料理の中に、少しくらいマシなものがあるのかどうか聞いておきたかったのだ。
「お母さんが作ってくれるごはん…」
たっぷり3分、コウは考え込んで、それからポツリと言った。
「チキンラーメン」
「それはお湯を入れるだけだろっ!!」
間髪容れずに突っ込みを入れてしまったが、つまりそうか。
コウもけっして、あの母親の料理を美味いと思って食べているわけではないらしい。
それで思いつく唯一まともな料理がチキンラーメンだというなら、何もかも絶望的だって事だ。
あああ……。
心の底からため息が出た。
オレはどうしたらいいんだろう。
ニッコリ笑って嘘をつくのは得意なのに。
今はただ泣けてくる。
まずい飯が、これほど効果的な拷問になるなんて思いもよらなかった。
家族の団らんに上手く交じり、手料理だけは遠慮する、なんて事が出来るだろうか。
「どうしたの涼一?」
可愛らしい顔が、ガックリ下を向いたオレを覗き込む。
「……コウ、よければさ」
「うん」
「夕飯がチキンラーメンだった時だけ、オレを誘ってくれないかな?」
コウの顔には『?』マークが幾つも飛んでいた。
ああ……。
世界が家族の広さしか存在しない小学生には、オレの苦悩は解らないよな。
「チキンラーメンが好きなんですって?」
黒羽志帆が後ろからいきなり声をかけてきた。
オレはギョッとして振り返る。目線の下に、唇を噛みしめた女が立っていた。
「…志帆先生。えーっと…」
この女、本当に影が薄い。彼女の論文に感じる、あのすごい存在感を考えると嘘のようだ。学生時代のあだ名は「幽霊」に違いないと確信した。
いや、もしかして、あだ名なんて付けられたことはないかも…。
「先生なんて、しらじらしく呼ばなくていい」
「そうは言っても、誰が聞いているか解りませんから。特別に親しいなんて誰かに誤解されたら、先生だってイヤでしょう?」
驚いたことは押し隠して、オレはニッコリ笑ってみせる。
志帆は不愉快そうに、ジロリと睨んだ。
「…で? コウがあなたはチキンラーメンが好きなんだと言っていたけど、本当なの?」
「はい、上に卵を乗せていただけるともっと」
冬馬グループの御曹司がインスタント食品などを食べるのか、と問われれば、もちろん食べる。
いくら御曹司でも皇室ではないし、だいたいオレは浮世離れした存在になる気はなかった。
クラスメイトとつきあおうと思ったら、コンビニにも寄るし、ジャンクフードだって食べなくてはならない。
もちろんチキンラーメンも、きっちり試食済みだった。
「そう…」
志帆は目を細めて下を向いた。
待て。ちょっと待てよ。
今の質問は、どうやらオレに対するイヤミとかではなかったらしい。
この女、なにか真剣に真面目に考え込んでやがる。
おっそろしく嫌な予感が身体中に走った。
「ええと…その、志帆先生?」
「あなたを夕食に呼ぶのは不本意だけど、でも高が呼びたいみたいだから。時々はチキンラーメンにしないといけないのね」
「えーっと…。別にオレは呼ばなくてもいいですよ〜……って、聞いてますか?」
「おやつ程度ならいいけど、夕食をチキンラーメンにすると栄養がかたよるわね。野菜は入れなくちゃ。タンパク質は卵でいいけど、あと足りないのは何かしら。カルシウム?」
「ちょっ…ちょっと志帆先生、何考えて」
「カルシウムだと牛乳かしら、やっぱり」
「待ってください! その流れだとチキンラーメンに牛乳を入れたりするつもりなんですか?」
志帆はうるさそうに、ジロリと睨んだ。
「いけない?」
「た、多分」
「じゃあ何を入れるべき? 煮干し? ビタミンCは何で補えばいいかしら。Cが多い食物はキウイとか、ゴーヤも多いって聞くけど」
「ちょっ…ちょっと待ってください! ストーップ!」
オレは思いっきり黒羽志帆の暴走を止めた。
黒羽志帆の、この世のものとは思えない料理の秘密が、だんだん見えてきた気がする。
「志帆先生、別に一日に必要な栄養素を、全部チキンラーメンにぶち込む必要はないんですよっ?」
志帆は眉の間に縦じわを寄せて、オレを睨みつけた。
やっぱり、やっぱりそうなのか?
今まで栄養素だけ考えて、食材の取り合わせとか、味とかまったく考えてこなかったのか?
「チキンラーメンはチキンラーメンで、卵だけ乗せて一品。ね? それで炭水化物とタンパク質。カルシウムはラーメンとは別に取ればいいじゃないですか」
「別…って?」
その疑っているような顔はなんなんだ。
この家ではどうだか知らないが、世間一般的にはオレの意見の方が絶対まともな筈だ。
冬馬一族の全財産を賭けてもいいね。間違いない。
「えーと、ラーメンと一緒に牛乳を飲むってのもなんだから…そうだ、デザート。デザートにヨーグルトを食べたらいい。ドレッシングにしてサラダにかけることもできますよ。うん。ヨーグルトなら乳酸菌だから、牛乳と違ってお腹も壊さない」
「……ビタミンCは?」
「だからサラダですよ。ゴーヤをサラダにしたらいかがですか? ヨーグルトソースと合うかどうかはちょっと解らないけど。あっ、キウイだったら合いますね。キウイをサラダに入れてヨーグルトドレッシングをかけましょう。
他にも緑黄色野菜を取り混ぜれば、ビタミン類はだいたいOK」
「ミネラル類は…」
「鉄分ならほうれん草をラーメンに入れるんです。うどんじゃないけど、ラーメンにも合うでしょう。ビタミンAも豊富ですしね。ついでに椎茸も入れましょう。ビタミンDがありますし、カルシウムの吸収を助けるそうですよ。他にもヨーグルトドレッシングにハチミツを混ぜれば、ミネラル補充になります」
とにかく食えるものだ。まともに口に入る食べ物。
オレは必死で、技術家庭科の知識を頭の中から引っ張り出した。
学校のテストどころの騒ぎではない。大げさではなく生きるか死ぬかの問題なのだ。
これほど真剣に食べ物について語ろうとしたことがあっただろうか。
気がついたら黒羽志帆は、見た事もないほど真剣な表情で、オレの説明を聞いていた。
メモを取る様子は一切ないが、彼女の記憶能力は常人のそれではない。
どれだけオレが長々と喋っても、すべてを頭の中に叩き込むことができるだろう。
彼女は真面目な顔をして、解ったと頷いた。
「あなたに礼など言いたくはないけれど、アドバイスは役に立った。ありがとう。今晩はチキンラーメンだから、食べていって」
そういうと彼女はくるりと踵を返して、主婦の城であるキッチンに向かった。
信じられないことだが黒羽志帆自身から夕食のお誘いを受けてしまった。
え〜…と、もしかして。
今晩は少しはまともな食事にありつけるって…ことかな?
オレは今、自分の見通しが不二家のイチゴショートケーキより甘かったことを思い知らされていた。
すみません。ごめんなさい。オレが間違っていました。
これ…全部食べなくちゃいけませんか?
涙目になりそうなんですけど。
お湯を注げば出来るはずのチキンラーメンは、目の前で訳の解らない物体に成り果てていた。
たぶん加減も考えずに煮込んだのだろう。
限界までぶよぶよに膨れあがった麺の残骸に、卵のカスの様なものが浮かんでいる。
スープは極端に薄く、妙な味がついている。
恐る恐る麺をすすると、口の中で何かがじゃりっと崩れた。
卵の殻が入り込んでいたらしい。多分そうだ。そう思っておきたい。
うんまあ、カルシウムが補給できるかもしれないよな。なんて思いながら、もうどうでもよくなったオレは、そのまま異物を飲み下す。
そしてもう一つ、テーブルに置かれた『サラダのようなもの』
オレにはどう見ても『生ゴミのようなもの』にしか見えなかったのだけれど。
でもそれは間違いなく、オレが昼間指導した、ヨーグルトソースかけサラダ
(の筈)だった。
水を切らないベシャベシャの生野菜に、どう切ったのかぐずぐずと崩れたキウイ。その上に水っぽい白いソースがかかっている。
水っぽいだけならまあいいのだが、ところどころに何やら塊というかダマの様なものが出来ていて、それが野菜にべったりと貼りついている。
一口食べたコウがおかしな顔をして固まったので、オレは助けを求めて黒羽陸の顔を見つめた。
しかし陸はオレと視線を合わそうとはしなかった。
そして信じられないことに彼は、黙々と生ゴミを口に運んでいる。
オレには聖者にしか見えなかった。
いや…どちらかというと殉教者だろうか?
まあその、見た目はともかく、ゴミと違って一応衛生面の管理はされているはずだ。
はずなんだが。しかし、でも…だが……。
たとえ衛生面がきっちりしていたとしても、目は生ゴミだと認識してしまっている。そういう時、精神的な面で腹をこわすなんて事も、あったりするのではないだろうか。
だが神に祈っても(祈るつもりなど微塵もないが)目の前の料理は腹の中に入れない限り消えてはくれない。
陸が目を合わせないのは、自分が起こした事は自分で始末しろと、そういう事だよな。
オレは涙の滲んだ目をぎゅっと閉じて、ゆっくり口を開いた……。
黒羽志帆が主婦業なるものに、恐ろしく真剣に取り組んでいる事だけは確かだ。
特に食事には手を抜くつもりなど無いらしい。
しかしあの女には。
ぜんっぜん、これっぽっちも、ホンのひとかけらさえも。
主婦の才能がねえええっ!!
あんたは超のつく天才科学者かもしれないが、こと主婦業に関しては、壊滅的に才能が無い!
残念ながら人には、向き不向きな事があるんだ。
理不尽だろうが何だろうが、努力しなくても最初から上手くできてしまうこともあれば、どんなに頑張っても殆ど上達しない事柄もある。
それはな、もう仕方ねえんだよっ。
だいたい努力や愛情で全部が上手くいくなら、オレはとっくに不老不死の身体になっている。
オレ自身にはその方面の才能がないと解っているから、手を尽くして能力を持っている人間を捜し続けたのだ。
だから黒羽志帆も、家事は他の人間を捜したほうがいい。
なっ、そうしよう。そうしてくれ。
いや、お願いだから、そうしてやってください…。
痛む腹を押さえながら、オレは心の中で懇願のポーズをとった。
しかしもちろん、そんなお願いを黒羽志帆が聞き入れる筈はなかった。
なぜなら人生には、もう一つの理不尽な事実があるからだ。
人間、才能ある事を好きになるとは限らない、という事実。
いや、黒羽志帆は研究が好きだ。
才能があって好きにもなる。この二つが揃えば、能力は開花し成功する。
だからこそ彼女は天才科学者なのだ。
しかし世の中には才能があっても、別にそれが好きではない人間もいる。
そういうヤツは素質はあるが、残念ながら適当にしかその才能は伸びない。
二つがきっちり揃うことは、実は難しいのだ。
いやその…何が言いたいのかというと。
つまり、その逆も、たくさんあるって事。
才能は全然無いのだが、でも「好き」で続けたい。
多分まったくその道では能力は伸ばせないのだが、それでも好きなのだ。
好きだから、どれだけヘタレでもやり続けたい。
あるんだよ、理不尽だけどそういう事が。
黒羽志帆の「主婦」は、そういうものだった。
どれだけ止められても、お願いされても、彼女が他の人に家事を任せることなど無いだろう。
オレは授業以外で料理など作ったことはないが、それでも確実に今すぐ黒羽志帆の100倍は美味しいものを作れる自信がある。
それくらい彼女の才能は、壊滅的に無かった。
しかしこの先どれだけ機会があっても、彼女が「家庭の主婦」の牙城「キッチン」を手放す事はないだろう。
そしてオレはこれからも、夕食へ招待され続けるのだ。
だとしたら、そう。
オレがやるべき事はたった一つだった。
「先生っ。しょっぱくなったからと言って、砂糖を足すってのはどういう事なんですか」
しかも計量カップに、何も考えずに砂糖も醤油も、どばどば入れる。
挙句に
「どうして酢をっ」
「…健康に、いいから」
「そういう問題じゃないでしょうがっ」
味噌汁が酸っぱかった理由が、今わかったぞ。
「高の身体の事を考えて…」
うん。愛情があるのは解った。しかし愛で料理が旨くなるわけではない。
愛は最後の仕上げにちょっぴりあるってのが定位置なんだよ。
そう、オレはあれ以来、マンツーマンで黒羽志帆の料理指導をしていた。
志帆が家事を、絶対他人に任せないのだから、この方法をとるしかない。
もちろんオレだって料理は素人だから、現在勉強のまっ最中だ。
しかしオレは器用だから、このまま勉強を続ければ、近いうちにそこそこのレストランのシェフくらい勤まってしまうかもしれない。
それくらい情熱を傾けて、料理の勉強をしていた。
(オレが勉強しているのは主に家庭料理だから、レストランは無理か…)
志帆は大変熱心な生徒だった。学ぶことにも慣れていた。
だが、まったく上達はしなかった。
うん…。
どれだけ記憶力がよくても、情熱に溢れていても、実践の才能が伴わなければ、レシピの料理はけっして再現されない。
理論と実践は違うのだと、心の底から納得したよ。
というわけで、それこそ手取り足取り、ロボットをリモートコントロールするように、1から10まで全部オレが指示して彼女の手を動かし……ている筈なのに
どーしてあんたはまたそこで、酢を入れようとしているんだよっ。
どーしてもどこかに入れたいなら、酢の物をつくれっ!
オレは痛んだ頭を抱え込む。
なあ、あんた。研究している時は、そんなに不器用じゃないんだろう?
天才科学者だもんな。
なのにどうして料理に関しては、そこまで壊滅的なんだ?
「えー? 志帆は実験の時もあんな感じだよー」
と、後に陸にそんな事を言われた。
「ひらめきと思いつきで、すごいことをやっちゃうんだな。僕にはまったく真似が出来ないよ」
「料理にもそれを期待しているんですか? もしかして…」
ニッコリ笑って陸は首を横に振った。
「ううん、実験や研究は才能があるから。カッチリ組み合わさるんだよね。でも料理は永久にダメだろうねえ」
オレはため息をついて部屋を出て行こうとした。
しかし後ろから腕を、がっちり陸に掴まれた。
「駄目だよ、涼一くん」
「り、陸先生?」
「僕も高も期待しているんだから。ね? せめて君がいる時くらいは、少しはまともな料理を食べさせてくれよ」
「陸先生…あの料理、平気なワケじゃなかったんです…ね?」
陸は『笑顔』を顔に貼り付けたまま、ゆっくりと頷いた。
絶対逃がさないよ〜、という微笑みだった。
【Part2 現在の肖像】
お昼時、黒羽が何か包みを抱えて、困った様に突っ立っていた。
「どうしたの? コウ。それなに?」
何だろうと覗き込んだ白鳥香澄は、おおっと、いう顔になる。
「おにぎりじゃん。しかも手作り。どうしたのさ、それ」
「交通課の人達に、もらったんだが…」
「弁当の差し入れか〜。相変わらずモテてるね、コウ。ふうん、おにぎりってのが珍しくていいんじゃない? オレだって手作りのは久しぶり。コンビニのおにぎりとは、やっぱり違うよな」
うんうん、なんて頷いてしまう。
きっと女の子達、豪華なお弁当より、こういう家庭の味風なのが心惹くかと思って差し入れしたんだぜ。
コウってば家庭ってものに弱いから、きっと感動して……ん?
してないな。
ていうか、みょーな顔してるぞ。一体なんだ?
「おにぎりは、母親が作ってくれた」
「うん、ふつうお母さんが作るよな」
「おにぎりだけは絶対に譲らなかったんだ」
「譲るって、誰に?」
その質問には黒羽は答えなかった。
かわりに白鳥の顔を真剣な表情で覗き込む。
うっ、そんなにアップで覗き込まれたら、キスしたくなっちゃうじゃん。
「香澄は、おにぎりは好きか?」
「えええ? 具によるかなあ。でも腹が減ってりゃどんな具でも美味いと思うよ」
「じゃあ、僕の舌が変なのか」
「ええっと、コウのお母さんが作ったおにぎりって、不味かったの?」
黒羽はためらいながら頷く。
「おにぎりは…黒くて」
「うん。海苔使ってるものは黒いよな」
海苔の代わりに味噌塗ってあるのも美味いよな、なんて白鳥は思う。
「丸くて」
「ふうん、コウのお母さんのおにぎりは、丸形かあ」
「変な味がして」
「へ…変な味?」
「食べると必ずお腹を壊した」
「ちょっと待てーーっ!」
「もしかして保存食品だから、ああいう味なのか?」
「…それ、マジで言ってんの? コウ…」
コウのお母さんって、もしかしたら料理下手だったんじゃ…
ていうか、必ず腹をこわすとなると、下手とかそういうレベルではなかったかもしれない。
「じゃあええと、コウのご家庭の料理って…そんなにいいもんでもなかった?」
やっぱりコウは何も答えなかった。
一応オレはそっと差し入れのおにぎりを指さして言ってみる。
「そのおにぎりは、きっと美味しいと…思うよ。多分」
「じゃあ香澄、一緒に食べよう」
コウはもらったおにぎりを半分に割ってオレに渡した。
中身は焼きたらこだ。
へへへ。
別にコウが作ったワケじゃないけど、一つのおにぎりを二つに割って食べるのって、ちょっといい感じだよな。
なんとなくほんわかした気分になって、白鳥はおにぎりを頬張った。
「大丈夫か香澄?」
完全にベッドにダウンした白鳥を、黒羽が心配そうに覗き込む。
「ええーっと…コウ、仕事は?」
「パートナーがこれだから。とりあえず休みをもらった」
あのおにぎりを食べたあと、白鳥は思いっきりお腹を壊したのだった。
食中毒とまでは言わないが、腹痛と下痢がおさまらない。
「コウは…平気なの?」
ううっ…また腹が痛くなってきたぜ。
「…大丈夫みたいだな」
馴れてるのかな? などと物騒なことを呟きながら、コウはお腹に優しいスープを持ってきてくれた。
インスタントスープだったけど、オレは美味しくいただいた。
コウがクスリと笑う。
「懐かしいな」
おおっ、珍しい顔を見てしまった。コウの思い出し笑いだよ。
「何が?」
「母親の手料理を食べると、時々誰かが腹をこわすんだ。僕の時もあるし、父親だった時もあるし、母親自身だったことも…」
「どういう家だよ」
「で、そういう時には、絶対に手料理は作らない。インスタントですませる。そうでもなければどこかに食べに行く。それがすごく楽しみだった」
黒羽は懐かしそうに笑うと、からになったスープのカップを受け取って、白鳥の唇に軽くキスをした。
「だから治ったら、一緒にどこかに食事に行こう。松梅屋のエビフライはおすすめだ」
こんな事が懐かしいなんて、コウの家族はどうかしてるよ。
でもオレ、今その家族の一員に入ったって事かな?
なんて思いながら、クスクス笑うコウの背中を、ちょっぴり幸せ気分で見つめた。
だが次の瞬間、また腹の中がぐるぐるしはじめる。
白鳥は半泣きになりながら、女の子や母親の手料理にあまり幻想は抱かないことにしよう、と思った。
END
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