第三章 「ジャンク」
アンダーに降りて最初に行ったのは、もちろんツテのある場所だった。
はっきり言って、右も左も解らない。
住むところは確保したし、高校も転入手続きをとった。
だが自分は、完全に新参者で素人だった。
ここでは上のルールはあまり意味がない。
ここにはここ独自のルールがある筈だ。
自分がアンダーで上手くやっていくためには、まずはそのルールを知る必要があった。
だが、もちろん使えるコネはある。
それが、冬馬グループの子会社「B&B化学」だった。
B&B化学の研究員達は、皆人のよさそうな笑顔を浮かべて、涼一の訪問を歓迎してくれた。
「いやあ、上の人がこんな所に来てくれるなんて」
それが彼らの第一声だった。
「上の人って…オレは単なる高校生ですよ」
年齢相応の顔をして、少し目を見開いてみせる。
大人に丁寧に扱われて、照れながら戸惑っているイメージの演出だ。
「今に、上の人でしょ?」
接待を仰せつかったらしい研究員は、若い上に気さくな性格だった。
「ナイショですけどね。私達にしてみれば、もう先のないじいさん連中に、今さら研究の事を知ってもらう事にメリットを感じないんですよ」
言いながら含み笑いをする。
「それより、今に偉くなる人にね、理解してもらいたいな。そうしたらホラ、もっと予算とか…」
「河上くん!」
咳払いと共に、厳しい声が飛ぶ。
河上と呼ばれた研究員は、舌を出して首をすくめた。
だが、彼は、まったく応えた様子もなく、こっそりと涼一にウィンクして見せた。
「研究の事は、オレはあまり知らないんです」
涼一はにっこりと微笑んでみせる。
先程厳しい声を飛ばしたここの責任者らしい男は、涼一に微笑みかけられて、顔をほころばせた。
「もちろんそうでしょう。研究員以外の人は、知らなくて当然です。ただ、興味を持ってもらえるだけで嬉しいんですよ。まあ、つまらないかもしれませんけどね」
「いいえ、逆にオレみたいなシロートで、しかも子供の相手をするなんて、邪魔かもしれないと思っていたんです」
「そんな事無いよ」
河上と呼ばれた若い研究員が、慌てて手を振る。
「予算とかも、オレはまだ高校生だから…」
「ごめん、さっきのは冗談だって。ホント、興味持ってもらえるだけで嬉しいんだから」
「河上くん、言葉。もうちょっと何とかならないのか? さっきから失礼だろ、涼一さんに」
「ああ、いいえ。本当にオレはただの高校生ですから。藤堂さんも河上さんも、オレが邪魔だと思ったら、放っておいてください。それに、丁寧語もいりませんよ。何なら呼び捨てでも?」
「そういう訳には…」
語尾を濁らせながらも、藤堂の声は少し嬉しそうだった。
多分彼らは今までずっと、上の者に無視され続けてきたのだろう。
その認識は、ある程度は正しい。
研究員が新しい発見をし、商品の開発を行っているも同然なのに、上の者達は彼らを単なる便利な道具としか思っていないところがあった。
そう、道具は間違いない。
だが同時に彼らは人間だった。
人間を優秀な道具たらしめるためには、彼らを道具扱いにしてはいけない。
道具と違って彼らには目的が必要なのだった。
人は誰だって褒められたいと思っている。
他者に認められ、評価されたいという欲求がある。
予算のような物理的な援助も、目的達成のためには必要だろう。
だが人をよりよく動かすのは、そういったものではなかった。
『意欲』
それが生じた時に、たとえ不自由な中でも、人は進んでいく。
逆に意欲が失われた時、どんな立派な環境も設備も、何もかもが無駄になる。
人は、ただ尻を叩いても動かない。
やりがいのある目標と達成感と評価。
これが上手く繋がれば、喜んで人は働くのだった。
そう、確かにたかが高校生には違いない。
だが自分は間違いなく、冬馬グループの次期当主だった。
もちろんその影響力は、良く心得ている。
そんな少年が親しげに彼らの名前を呼び、研究を見たいと言う。
これが彼らにとってどんな意味を持つのか、涼一には充分解っていた。
物理的には何ももたらさないかもしれない。
だが熱心に耳を傾け、興味を持ち、質問をしてくる。
これが嬉しくない研究者などいない。
ましてや涼一は、どんなに言葉で普通の高校生と言おうが『スペシャル』に間違いはなかった。
彼らは仕事を愛していた。
あとは、ほんの少し認めてあげさえすれば、何の見返りが無くても、彼らは自分の為に動いてくれるだろう。
そう、それこそ喜んで。
素晴らしく優秀な道具として…。
「よろしくお願いします」
涼一は部屋の中の全てを見回して、にっこりと笑い、深く頭を下げた。
ジャンク。
屑。
未知のもの。
異世界から這いずりでてきた悪夢の塊。
何故これほど心惹かれるのか、涼一は自分でもよく解らなかった。
だが興味を引いたのは、あれ達が『けっして死なない』という事だった。
「死なないと言うより、最初から生きていないんだよね」
河上が暗い廊下でこっそりと囁く。
あれから涼一は、時間の許す限り、研究所に入り浸った。
ただ行くだけでなく、もちろん彼らの研究についての勉強も怠らない。
その態度は研究員全員に、非常な好感を持って受け止められた。
気が付くと彼らはすっかり涼一に慣れ、様々なものを気軽に見せてくれるようになっていた。
「ここに入れたってのは、ナイショですよ。涼一くん熱心だから、特別」
「秘密の部屋なんだ?」
河上と涼一は、共犯者の笑みを浮かべながら顔を見合わせる。
そこは薄暗く、ひんやりとした部屋だった。
「もしかして、あれ…」
河上が軽く頷いた。
はやる気持ちを抑えて、隅のほうに並ぶガラスケースに涼一は近づいていく。
息で曇るほどに冷やされたガラスケースの中には、この世のものではない 『あれ』が並んでいた。
「小さい…」
思わず感想が漏れる。
「大きいのは、やっぱりヤバイからね」
「という事は、生きているの? これ…」
河上は役者のように肩をすくめてみせた。
「さっきも言った通り、我々の基準では生きていない。だが、動くかと問われたら、動くよ。解凍してやればね」
「動くのに、生きていないのか…」
「車は動くけど、生物ではない。ビニール袋は風に舞うけれど、生きているからじゃない」
「でも、ジャンクは人を喰う…」
「車だってガソリンを喰うさ。でも、そうだな。特定のものを選択腐食させるような酵素は、確かに生きているんだろうね。そういう風にこれを捉えれば、生きていると見立てる事も出来る。
でもね。これは我々の知っているどんな物質ともかけ離れているんだ。研究者のスタンスとしては、証明されない限り、それは不確定の推論に過ぎない。
という訳で、ジャンクがどれほど動こうと、生命をむさぼり食おうと、生命体として扱えないんですよ」
「まだ何も…解らないのか」
「何もって言われると、情けない気分はするけど。まあ、その通りだね」
涼一は魅了されたように、ガラスの中のジャンクを見つめ続けた。
小さいジャンクが、ケースの中に10体ばかり体を丸める様にして並べられている。
虫に似ていると言われているが、それは他に似たものがないため、敢えてそう呼ばれているだけに過ぎない様に思えた。
なぜならそれは、地球上のどんなものにも似ていなかった。
そして、どれ一つとっても、形が同じものはなかった。
昆虫の幾何学的な美しさは微塵もない。
何に使用されるのか用途も解らない突起物が、狂ったように体から突き出しているもの。
半分だけ動けるように形を作ってはみたが、後は飽きていいかげんに捏ねられてしまった粘土細工のような、溶け崩れた体を持つもの。
これだけは確かに用途を持って造られたのであろう「歯」でさえも、きっちりした形を保っているものは、一つもなかった。
まさに、悪夢を形にしたような『もの』だった。
「一体と、一応数えておきますがね。条件さえ整えば、これらの体は適当に融合したり分離したりするんだ」
涼一は説明を聞きながら、魅入られたようにジャンクを見続ける。
「凄く小さくなってしまえば、ジャンクとして動く事は出来なくなる。だから、殺す事は出来なくても、壊す事は出来るって訳。融合を分離して、小さく小さく役立たずにしてしまう。というわけで、それがB&B社の誇る最大のヒット商品。ジャンク用弾丸」
河上の掌の上には、小さな金属の塊が載っていた。
「この商品たった一つで、ウチは大きくなっていったんです」
涼一は冷たい塊を自分の指でつまんだ。
拳銃にも弾丸にも、触った事がある。
砂城に住む者の、それは特権だった。
「見た目は普通なんだな。でも、アンダーには無くてはならないものか」
「もちろん。でも、これを必要としているのは、アンダーオンリーですからね。需要はけっして途切れないけれど、拡大もしない、という訳です」
「…ふうん」
涼一の瞳が、薄暗がりで微かに光る。
「じゃあ、あれか。ジャンクが外に放たれれば、外の人もこれを使うようになるって事だな」
「………涼一くん。冗談でしょう?」
河上は目を丸くする。
その顔が可笑しくて、涼一は思わず吹き出した。
「そんな事出来る訳が無いじゃないか」
「ああ、驚いた。冗談、もちろん冗談だよね。からかわないでくださいよ。第一そんな事したら死刑確実」
「それにどうやってやるの? 奴らがどこから来るのかも、オレ達は解ってないのに」
「ああ、まったく、本当に…」
2人はひとしきり笑ったあと、再びガラスケースの中にひっそりと眠る、異形の『お客』を眺めた。
「こいつら、どこから…来たんだろう」
涼一は思わず呟く。
ほんの10数年前、突然理由も解らないまま、東京の一部が壊滅した。
数少ない生き残った人の証言によると、まるで巨大な泡が地面から盛り上がって、弾けたように見えたという。
死者の数も、被害総額も計り知れない大惨事。
何が起こったのか、原因すらも誰にも解らない。
そして、大津波に浚われたかのように完全崩壊した、この地に、巨大な地下空洞が発見されたのは、『大変動』から1ヶ月後の事だった。
「どこから来たんでしょうね。今は誰にも解らない」
河上は涼一の言葉に、ゆっくり首を振りながら呟いた。
「壊滅した地の、ずっと底から来るんだろう?」
暗い部屋の中、声も密やかに響く。
ジャンクを保存してあるガラスケースだけが、薄緑色の蛍光色を微かに放っていた。
「下。そう、これらは下から来る。これだけは解っています。でもそこは、私達が知っている『下』ではない」
「異世界って訳?」
「そうとしか、言いようがないだろうね。砂城の地下だけは、下にいくら行っても、けっして地球の中心にたどり着いたりしないんだ。そこは多分、時間も空間も、まったく僕たちとは異なった世界の筈ですよ」
「誰も、確かめた事が無いのか」
「確かめようとした人はね、みんな消えちゃったんですよ。行方不明になった」
涼一は、ぞくりと冷たいものが背中に落ちていくのを感じた。
「彼らはどこへ行ったのか。違う世界へ行ったんだろうか? それとも、違う時間の流れの中に行ってしまったのか。そこはジャンクの世界なのか…。
結局何も解らない。確かめられないんです。ある日突然、坑の中に死体で見つかる事もある。でも殆どの人は行方不明のままです」
「砂城の下は、もう人の土地ではない、という事か」
「そうなんでしょうね。でも、僕たちは住んでいる。この砂城に。人間は、とことん図々しく出来ているらしい」
河上はそう言って、くすりと笑った。
地下から、この世界の秩序以外のものが、じわじわと溢れ出してきている。
その上に人々が、蓋をするように住んでいる。
這い出てくるものは、異形のもの。
「何だかその。思い出した言葉があるよ、河上さん」
「なんです?」
「黄泉平坂」
河上は文学的な事を言うなあ、と言って笑った。
「地獄ですか? 下は黄泉の国?」
「少なくとも、人の行くべき所じゃないんだろう?」
「行って、振り返ったら、もう帰れません」
「じゃあ使役品は、黄泉戸喫かな」
「うわあ、そりゃマズいなあ」
「どうして?」
「だって、黄泉で供された食物は、けっして口にしちゃいけないんですよ」
くすくす笑う。
「口にしたらね、もう帰れないんです」
「じゃあオレ達は、もう死人?」
「さて、どうなんでしょうね?」
この世界以外の秩序。
自分に必要なのは、それだと思った。
常に一方方向に流れ過ぎていく時間。
少しずつ死んでいく細胞群。
『下』は時間も空間も、何もかもがこことは違うルールで動いている。
生死さえも、きっと自分たちの定義とは違うものなのだ。
死者の国。
黄泉の世界には、きっと死の秘密が隠されている筈だった。
この身体は、この世界のルールに従って動いている。
生死を超越したいと思うなら、この世界の秩序に縛られている身体では、多分ダメだ。
目的のためには、自分自身がこの秩序以外のものになる必要があった。
だけど、オレは研究者じゃない。
涼一は自分自身の事をよく解っていた。
ここに今あるものを理解する事は出来ても、新しい発想を思いつく事は出来ないだろう。
行くべき方向は解っても、道を自分で作る事が出来ない。
涼一はその事に、少しばかり苛ついた。
これから道を造れる奴を捜して、育てて、オレのために働かせるのか?
何だかそれは、ひどく遠い道のりのように思われた。
そんな事をしているうちに、オレの持ち時間が終わってしまうのではないだろうか?
だが、今はそれしか思いつかなかった。
道が遠いからと言って、最初の一歩も踏み出さなかったら、永久にどこにもたどり着かない。
どれほど悪路のように見えても、とりあえず歩き出す事が肝心だった。
B&B社にいる、全ての研究員の顔を思い浮かべる。
今の自分に必要なのは、秩序を超越する発想力だ。
涼一は心の中で首を振った。
研究員は、全て優秀だった。
だが、自分が必要としているのは、ほんの一部の人間だけに与えられた、天才の力だった。
これだけは望んでも手に入れる事は出来ないし、逆に恐ろしく愚かな人間が所有している場合もある。
特定の方向だけに肥大し、歪に張り出した畸形の才能。
そんなものを涼一は望んでいた。
残念ながら、B&B社の研究員の中には、該当する人間はいなかった。
そして更に、涼一の望みに不都合な問題点が、一つここにはあった。
「涼一くん。ジャンクの研究は、ここではしてませんよ」
呑気な河上の声に、涼一は目を見開いた。
「ええ? そうなのか。だって、あの時の…」
河上は肩をすくめる。
「この間見せたのは、参考資料。あれを使って何かやっている訳じゃないんです。そりゃウチはジャンク用の弾丸を開発したところだけど、基本的に副産物ですもん、それって」
「副産物…。そうか。使役品の」
「そうそう。ウチは使役品の研究開発がメインなんですよ」
言われてみれば、これほど明解な事はなかった。
自分の目的と、初めてジャンクを見た衝撃に囚われて、頭が働いていなかったらしい。
ここは大学の研究室ではない。
会社付属の研究施設なのだ。
ここで研究開発されている全てのものは、何らかの形で『商品』になりうるものだった。
会社には「利益追求」というはっきりした目的がある。
利益に直接繋がらないような、無駄な研究が許される筈がない。
どれほど涼一にとって魅力的に見えようと、ジャンクは所詮、名前の通り屑だった。
確かに使役品とジャンクは、同じ物質で構成されている。
にもかかわらず、二つはまるでダイヤモンドと墨のように違っていた。
一度ジャンクとして動き始めてしまったものは、どんなに分解しても使役品として加工することは出来ない。
どんな条件で、同じ物質がまるで生き物のように動き出すのか、その秘密はまだ誰も知らなかった。
使役品は、未だ未知の物質であり、それがどういうものなのか、まだ完全には理解されていなかった。
しかし、理解できなくても、使用することは出来る。
それは驚くほど様々なものに変化し、人々の生活の中に入り込んでいった。
もちろん、ジャンクから使役品を作る方法が研究されていないこともない。
だがそれよりも、既にある使役品を掘り出して使用することの方が、何倍も簡単な上、低コストなのだ。
「使役品」をどんなものに使用して、どんな商品を作るか。
使役品から、どれ程素晴らしいものが作れるか。
現在使役品産業に従事している企業の全てが、その為の道を見いだすことに血眼になっていた。
それに乗り遅れる訳にはいかない。
企業の研究は、その為に存在していた。
「クズ」の為に割く時間は無い。
ジャンクに付いての知識は、ここでは手に入らないものなのだった。
「そりゃあもう、研究はしたいよ、僕としてはね」
河上は今に上の人間に怒られるのではないかと思うくらい、涼一の質問につきあってくれた。
「会社が金になる成果を求めているのは解ってますよ。その為の投資な訳だし。かなり恵まれた予算で思いきり研究できるわけだから、文句なんか言ったら、バチが当たる。
でもね、まあ本音を言えばね。会社の金で研究している訳だから、あんまり大きな声じゃ言えないけど、商品なんて、本当は僕にとっては単なる副産物に過ぎないんだよね。
僕が本当にやりたい事はね、使役品という未知の物質を解き明かしたい、って事」
河上は、ここぞとばかりに不満をぶちまけた。
「大体なんだと思っているんだろう、使役品、なんて名前を付けてさ。人が使用するための物質。人に仕える物質。サーブするものだって。あれがなんなのか、まだ本当には誰も解ってないのに。
もしかしたら、未知の国から来たお客さんかもしれないじゃないか。僕たちの基準では生きていない、と言うそれだけで」
「ロマンチストだね、河上さん」
涼一の言葉に、河上は鼻を鳴らす。
「涼一くんは、そう思ったことはない?」
「あれらが単純な資源ではなく、未知の世界からのお客さんだというなら、もしかしたらジャンクの形の方が、本来の彼らの姿かも知れないって事は、思うよ。たとえば使役品は、彼らの排泄物だとか」
「ああ!」
河上は、ぽんと手を打つ。
「そうかもしれないよね。僕たちは彼らの排泄物を、ありがたがって押し頂いているだけなのかもしれない」
「でも、本当は、何も解らない?」
「うん…」
涼一の耳に、ため息が聞こえた。
「未知の世界を、知りたくないか? 涼一くん。宇宙のことでも、ミクロの世界でもいい。解らない事を知りたいと思う。これは、人間の業だよね。解らないなら、無理矢理こじ開けてでも知りたくなる」
「その気分は、よく解るよ」
涼一はくすくすと笑う。
「知りたいという気持ちは、人間の業であり、同時に罪なんだよね」
「罪?」
涼一の言葉に、河上は首を捻った。
「うん、そう。
イブが知恵の木の実を蛇からもらった時から、人に与えられた業と罪。
他の動物は、人のようには思わない。過去を知りたい、未来を知りたい、秘密を知りたい。知らないことを解き明かしたい。知りたくて知りたくて、我慢が出来ない。肥大した畸形の好奇心。
知恵を付けた人を、神はエデンから追放した。そして神の秘密を守るために、永遠に生きる筈だった人は、今は限られた時間しか持っていない」
「…そんな話、聖書にあったっけ? 涼一くん。といっても、僕はキリスト教の話なんか、よく知らないんだけど」
「エデンの話は、旧約聖書だよ、河上さん。いや、最後の辺りは勝手な想像。
好奇心を持つのは、神の世界では罪だった。だから神は罰として人を天国から追い出し、更に彼らが、その肥大した好奇心で神の秘密を解き明かし、自分と同じものになるのを畏れて、神は人から時間も取り上げたんじゃないかってね」
「ロマンチストは、涼一くんなんじゃないか?」
からかうように返す河上に向かって、涼一はニヤリと笑った。
「きっとね、そうだよ。神は嫉妬深く、恐ろしいほど小心者だ。
天に届こうとした塔を打ち壊し、意志の疎通が図れないように、様々な言葉を作って人を混乱させた。
神様は、いったい人の何がそんなに怖いんだと思う?」
神は自分の姿に似せて、人の形を作った。
それは、もう一つの神の誕生の可能性だ。
その可能性に気付いた神は、人を怖れ、彼らを「大人」にしたくなかった。
子供のまま甘やかし、そうでなければ、ペットのように飼おうと試みたのだ。
だが結局、人は蛇の手を取った。
秘密と謎を知り、もう一つの神として、一人で地に立つために。
バカなまま甘やかされてエデンにいるより、罪と業を背負って荒野をさすらうほうがいい。
オレはそう思う。
だいたい「罪」は、その神が勝手に決めたことだ。
限られた命は、神にとっては切り札のようなものだろう。
けれどいつか、人は生死の秘密も解き明かす。
その時がきたら、きっと神と同じ視点を持つことが出来るだろう。
そしてオレは、その瞬間を座して待つつもりはないんだ。
オレが最初の神になる。
砂城はリンゴを差し出している「蛇」だ。
人にその資格と準備があるなら、あとは受け取ればいい。
正しい方法で。
そして今、資格があるのは、自分だった。
神の決めた罪など、供物を受け取った瞬間、無価値なものとなるだろう。
何故ならその時、世界はオレの世界になるからだ。
神の秘密を知ったものは、もう一人の神になる。
今までの秩序から外れた、異世界の異形の神に。
そして…。
涼一は黒羽志帆の論文と出逢った。
秩序を押し破り、世界を犯していくような、畸形の発想。
闇の底から滲み出てくる「モノ」達への橋渡し。
此岸と彼岸の間に佇む女。
見つけた。
見つけた!
オレは運がいい。
涼一は顔を上げて哄笑した。
嬉しくて、飛び上がりそうになった。
とうとう見つけた。
オレの持ち時間は、けっして終わらない。
命の砂が、全て落ちきる前に、オレはその流れを止めて見せよう。
蛇からリンゴを受け取るイブは、この女だと、涼一は確信した。
「ジャンクの研究をしているのは、市の施設ですよ」
そう言って志帆の論文を見せてくれたのは、河上だった。
「英語の論文しかないけど」
大丈夫? という視線に、涼一はにっこり微笑んで見せた。
「河上さん流に言うなら、オレは今に偉い人だろ? 読めるよ」
そういって借りた論文は、涼一を夢中にさせた。
その日涼一は、結果的に学校をサボることになってしまった。
少しだけ、と思って目を通し始めたら、やめる事が出来なくなってしまったのだ。
「何て言うのかな。メチャクチャ面白いミステリー小説を読んでいるような気分かな?」
榊原に奉仕をさせながら、涼一は陽気に笑う。
「もっともお前とセックスしたくなるんだから、ポルノだったかもしれないけどな」
榊原は、ベラベラと気分良く喋る涼一に、まったく返事をすることなく、黙って少年の身体を愛撫し続けた。
小さな主人が(といっても、身体はもうかなり大人のそれに近づいてはいたが)機嫌良く喋る時は、特に返事など求めていないことを、彼はよく知っていたからだ。
「謎。秘密。隠された真実。探偵はそれを解き明かす。秘密のベールを剥いでいく。無理矢理にね。かなりエロチックな感じがしないか?」
返事の代わりに榊原は、涼一の足の間に跪き、すっかり勃ちあがった中心を口に含んだ。
「うっ…、あ…」
軽く顔をのけぞらして、涼一も反応する。
「いい…のかよ。榊原。お前までアンダーに潜っちゃって…」
榊原の舌が執拗に涼一のペニスを舐め回す。
「おやじが…困ってないか?」
その言葉に、初めて榊原は、チラリと上を見上げた。
しかし何も言わないまま、涼一の足を大きく広げ、間に身体を入れてきた。
涼一は嬌声をあげながら、榊原自身を中に受け入れる。
「…あっ、あっ…あ…」
激しく身体を揺すられながら、涼一は大きく声をあげた。
ここ、アンダーのマンションには、二人しかいなかった。
誰にも遠慮することはない。
涼一は何も考えず、ただ快楽の感覚に身を任せた。
「私は…涼一様のものですから」
少年の身体を組み伏せながら、榊原は呟くように言った。
「ここで…、何をなさるつもりでも、私は従います…」
「ああ…。ん…」
涼一の唇が微かに開き、ピンクの舌がチラリと覗く。
榊原は夢中でその唇を塞ぎ、その舌を吸った。
吐息、熱い舌。
白くくねる身体。
きつく自分を締めつける、その部分。
彼の何もかもが、自分を捉えて離さなかった。
一度味を覚えてしまったら、もう絶対に手放すことが出来ない。
恐ろしく魅力的な『毒』
『蛇は、あなたでしょう?』
榊原は思う。
総ての人を誘惑するもの。
背徳と奈落に人を誘う。
彼の声に惑わされない人間はいない。
知っていますか?
龍と蛇は、同じものなのですよ。
皇帝と誘惑者。
どちらの顔も、彼の真実だった。
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