第二章 「プロメテウス」


別のもの。
別の世界。
この世界以外の秩序。
狂おしいほどに、自分が求めている『もの』

「そう。しかし人体はそれを再生出来ない。そう考えたら少し理屈が通るんじゃないか?」
「…大胆な、仮説ですね」
「そ、仮説だよ。まだ認められてないし、証明もされてない。一体何をそれは再生しようとしているのかが、まだ解らないんだからね」
「それを陸先生は証明しようとしているんですか?」
「うん。今のところはまったく役に立たない研究だけどね。だから仕事場では主に使役品の体組織再生とその応用をやっているわけだけど。本当は、僕は使役品ではなく、ジャンクがやりたい」
陸の瞳は、少しだけ遠い所を彷徨った。

「使役品のようにね、これほどあらゆるものと親和性が高く、なおかつ自由度の高い物質は、今まで地球上には無かった。どんなものとも混じり合い、色々なものになる。何故こんな特徴があるのだろう。そしてジャンクは何故生物を喰らいに来るのだと思う?」
「解りません、先生」
「そうだね、解らない。まだ。しかし想像する事は出来るだろう。涼一くんは、何を想像する?」
陸の問いに涼一は考え込んだ。


「進化論の一つに、パラサイト仮説というものがある。非常に有名なのは、ウイルス進化説だ。ウイルスが遺伝子をランダムに組み替える、もしくは遺伝子を水平遺伝させる事によって、生物は進化してきたという説だ。これだと膨大なタイムスケールが無くても、ある時突然何かの特徴を生物に付加する事が出来る。
もちろんこの説にも欠陥がある。進化に有利な突然変異ばかり起こるわけではないからね。その辺り少々都合がよすぎて説得力に欠けると言うわけだ。
しかし非常に魅力的な説ではある。どうだろう?」
そこで陸は言葉を切って、唇を舌で湿らせた。

「そして僕は思うわけだ。ウィルスも、生物学的な分類で言うなら、生物ではない。ジャンクと、どこか似てはいないだろうか?」

「陸先生は…、ジャンクがどこか異世界からの遺伝子を運んできたウイルスのようなものだと言いたいわけですか?」
「仮説だよ、あくまで仮説だ」
「どんなものとも融和し、取り入れてしまう特徴と、自由度の高さは、どんな生命体にでも自己を入り込ませるためだと?」
「ジャンクが生命体を求めてくるのも、何か関係性があると思わないか?」
「しかしジャンクは最初のうちは、人の身体には取り込まれない。逆にそこで、何かを再生させようとして、場合によっては人の体を壊す…」

涼一の中で、何かが生まれそうな気がしていた。
証明も何もされない、ただの理論ではあったけれど、そこには確かに涼一の求めるものが存在した。

「ジャンクは何かを生み出し、再生するための媒体である。そして生命体は、その為の畑なのかもしれない…」
涼一は自らに言い聞かせるように呟いた。

「何を生み出そうとしているのだろう」
陸の言葉は夢見るように問いかける。
「何を…」


 気がつくと辺りは薄暗くなっていた。
明かりをつけたほうがいい。
涼一の頭の中に、そんな考えが浮かんだが、それはただの言葉の羅列に過ぎなかった。

アンダーには夕陽というものが無い。
夕焼けを模した朱い色にはなるけれど、空はただゆっくりと暗くなる。
それでも、この地下の世界にも、逢魔が時は存在した。
陸の部屋に積んである、山のような本の隙間に、下げてあるカーテンの影に、ひっそりと陰りが落ちてくる。
お互いの顔も、だんだんと見えなくなってきていた。

光と影との境目の時間。

その雰囲気に、涼一は呑まれつつあった。

そうだ。
闇ではない。
光でもない。
境目にあって、二つを繋ぐもの。
地上ではなく、地下とも言えない。

アンダーとジャンク。
この二つはけっして切り離す事が出来ない。
地上と地下。彼岸と此岸を繋ぐもの…。


「少なくともそれは、異世界からの客人にとって有利なものに違いない」
陸の言葉が薄闇の中を滑る。

偶然か、それとも必然なのか。
この世界の遺伝子に自らを植え付けに来たのか。
自分たちが増えるために。
よりよく増えるために…。
ジャンクはけっして死なない。
その活動の中に、自己死滅という過程が存在しない。
もしも彼らが人の中で生きるとしたら…。

「…たとえば…。新しい、生命体。死の恐れのない生命体ならば、彼らはその中でよりよく増え続ける事が出来る…」


涼一は言った瞬間ハッとした。
それは、自分の欲望ではないか。
自らの中の欲望を、まったく不用意に口に出してしまった。
自分はこの話題に踏み込みすぎているのではないだろうか?

しかし陸は自分の思いに沈みこんでいた。
薄闇の中で、微かにその唇が動いた。
それは一つの単語であり、名前のようにも思われた。
しかし涼一には、呟かれた言葉が何だったのか知る事が出来なかった。
それを問う前に、陸が顔を上げて口を開いたからだ。

「僕はね、人はどこまでそういった事をしても良いのか、時々悩む事があるよ」
「先生?」
陸はにっこり笑った。
「暗いね。明かりをつけた方がいい。目を悪くするし」
「はい」
涼一はすっかり闇の降りた部屋の中で立ちあがり、明かりのスイッチを押した。
たちまち白い光が部屋中に満ち、表面上の闇は全て追い払われる。
陸は眩しそうに目をしばたたいた。

「明るいな。すごく明るい…。そうさ、たとえ罪でも、プロメテウスは人間に『火』を与えた。明かりを欲する者がいたら、それは与えられるべきなんだ。
苦しんでいる人がいたら、たとえ罪だろうと、僕も火を盗みに行くだろう」
陸はまだ、ほんの少しだけ違う世界にいるように思えた。

「なあ涼一くん。火によって助けられた命が罪だなんて、誰も言わないよな」
「言いませんよ。少なくとも、オレは言いません」
陸は微かに微笑んだ。
「そうか…。生まれた命に罪はない。僕はそう思っているよ」

何を陸が言いたいのか、涼一にはよく解らなかった。
それは陸の非常に個人的な事なのだろうと思われた。
「命って何なのだろうな」
「それは、オレも知りたいです。命は生まれて、どうして死に向かって墜落していくのか」
そして、それを止める手段はないのか。
志帆は、あの女は、陸が言う理屈だけでなく、多分方法まで手に入れているに違いない。
胸の中に、確信めいたものが生まれていた。




 ジャンクを身体に植え付けた場合、量が多ければ、身体組織は破壊されていく。それは陸の話してくれた理論で考えれば、今の人の身体ではジャンクが再生しようとしているものが再生出来ないからだ。
ではもしも、それが可能な身体を手に入れたとしたら、ジャンクは人の身体に何を再生しようと言うのだろう?

それはもちろん、誰にも想像出来なかった。
この世界のものでさえ、生物の設計図を無視した狂ったシロモノを造ってしまう事などしょっちゅうなのだ。
ましてや異世界のものが、何を人の中に創り上げようとしているのかなど、想像がつく筈もない。
しかし、使役品はジャンクと違い、元の人の身体をそのまま再生する手助けをする。元の人の身体のままなので、ジャンクのような不死性は望めない。
だったら、もしもその二つを上手く融合させる事が出来るとしたらどうだろう。

ジャンクに壊されることなく、無限の時間を持つ「人の身体」を創り出す事が出来ないだろうか?

人の身体を変化させるべきか。
ジャンクの方を変化させるべきなのか。
それともその二つを、同時に引き寄せる事が可能か。


 志帆はジャンクを根本的に消滅させる方法を模索していた。
B&B化学の最初のヒット商品『ジャンク用銃弾ブレット』の様に、ジャンクを行動不能なまでに細かく分解するのではない。
ジャンクの構造を、根本的に変えてしまえないかという研究だった。
出来るのなら使役品に。
そうでなくても、動かないものに。

ジャンク用銃弾は、確かに通常の銃弾よりも、遙かに破壊効果は高かった。
それでも、たった一発銃弾をぶち込めばお終い、というものではない。
ジャンクの身体に、出来るだけ多く、出来るだけ広範囲にばらまく必要があった。
完全に行動不能にするまでに、時間がかかるし、射撃の腕前も要求される。
しかし、もしもジャンクを動かなくする事が出来れば、人はその場からただ逃げるだけでいい。
完全な処理は、後で専門家に任せればいいのだ。

ジャンクを変化させる技術。
まだ確かに研究は未完成で、実用化にはほど遠い。
しかしそれでも、志帆は他の人間がまったく考えつく事の出来ない理論を、その頭の中に造り出しつつあった。
志帆の持つノウハウを手に入れる事が出来れば、人の身体の中に取り込む事の出来るジャンク、もしくは人の身体をジャンクに近づける様に変化させる事も、出来るかもしれなかった。

問題はそれを、どう手に入れて、いかに使うかだった。
志帆ごと手に入れる方法がベストだったが、彼女は何故か最初から自分をどこか遠ざけている所があった。


「志帆先生は、あまり市の研究所の方には来ないんだな」
「そうなの?」
コウは冷蔵庫の中から、今日許されている分だけのおやつをきっちりと取り出すと、キッチンのテーブルに持っていった。
「涼一も、食べる?」

どう見ても市販の単純なプリンだ。
涼一は子供の頃から、こういった大量生産ものがあまり好きではなかった。
だが、にっこり笑って答える。
「じゃあ、一口もらおうかな」
「うん」
コウは嬉しそうにプリンをスプーンで取り分けると、こちらに差し出す。
涼一はひな鳥よろしく口を開けると、スプーンの中身を舐めとった。
舌が麻痺しそうなしつこい甘さが、口の中に広がっていく。
「うん、おいしい」
「もっと食べる?」
「いや、コウ食べろよ。おやつなくなっちゃうぞ」
コウは行儀よく椅子に座ると、甘いプリンを更に甘いジュースと共に食べ始めた。
見ているだけで、口中がべたべたしてきそうだ。
さすがに涼一は少々うんざりした。

本当に子供だな。
魅力的な子供だし、捕まえておく必要はあるけれど、やはりまともに相手をしていると、なんだか嫌になる時がある。
これだけ綺麗で魅力的なんだから、もっと大人だったらセックスの対象にしてもいい。
話も通じるし、いくらだって使いようがあるのに。
こんな子供では憂さ晴らしの道具にもならない。

自分よりもあからさまに下の存在に対して、力を誇示する趣味は涼一にはなかった。
そんな行為で優越感を得るほど、落ちぶれるつもりはない、と思う。
もっとこの子が大人になれば。
間違いなく今よりずっと魅力的に、そして使える存在になるだろう。
オレが欲しいと思ったその時こそ、征服する価値がある。


「お母さんはね…」
「ああ、うん、何?」
適当に相づちを打つ。
「いつも地下室にいるよ」
「………ええ!?」
子供の口から飛び出たいきなりの核心の言葉に、涼一は思わず振り返った。
きょとんとした表情でスプーンを口にくわえたコウと目が合う。
「お母さんがどこにいるか知りたいんじゃないの? 涼一」
「…あ、ああ、そうだけど」
「お母さんなら地下室だよ」
「地下室って…。そんなもの砂城にはないだろう?」
「あるよ。僕時々行くもん。あんまり来るなって言われているんだけど。でも、用事がある時は行かなきゃダメだし。電話、通じないから」

アンダーの更に下、『ディープ』と呼ばれる地下孔は、2層も潜ればもう電話の類は一切通じなくなる。
では、本当に志帆は地下に潜っているのだろうか?
地下室を造って、そこで研究をしているのか?
だがそれは、禁じられた行為の筈だった。

「場所は知ってるのか? コウ」
コウは黙って頷く。
「だから、時々行くんだけど…。どうしたの? 涼一」
「いや、別に秘密じゃないなら、教えてくれよ、コウ」
「いいよ。じゃあ僕も一緒に行く。学校のプリント渡さなきゃいけないから」
コウは食べ終わった食器を流しに突っ込んで、椅子から立ちあがった。

 

 

 居住区域から離れてすぐに、その場所はあった。
砂城では地下を掘る事は基本的に禁止されている。
どうやらここは、自然に出来たサルベージ孔を利用した施設だと思われた。
アンダーでは決して見られない、地面から下へと続く階段。
ドアは厚い金属で出来ており、更に二重になっていた。
研究所を守るためではない。
何かの時にジャンクを外に出さないためのものだと言うことは、容易に想像がついた。
「お母さぁん」
コウが部屋の中を見回して母親を呼び、首を捻る。
「いないのかな。変だな。じゃあここじゃないのかな?」

アンダーから下は、深く潜れば潜るほど普通の空間ではなくなる。
その証拠の一つとして、時々起こる『地層の変動』があった。
地球の地層にも起こる、ゆっくりした流れではない。
それは一瞬で起こり、一瞬で終わる。
もちろんそう度々起きるものではない。
しかし今まであった穴が無くなったり、ある時突然下に続く穴が出来たりする事は、アンダーの市民なら誰でも知っていた。
故に、サルベージ坑の正確な数と位置は、市の専門の機関しか把握していない。
もちろんそこも、穴の細かい状況について、全部判っている訳ではなかった。

ここは多分、最初は使役品採掘用のサルベージ坑だったのだろう。
しかし変動によって、突然下へ続く穴が塞がれてしまった。
そういった坑道は、さっさと見捨てられるのが常だ。
何故なら自然にふさがった穴は、同じ場所を人の手で新たに掘っても、使役品が出る確率が少ないからだ。
まるで蜜をもって獲物を誘う罠のように、アンダーの地面はぽっかりと口を開ける。
それはやはり、異世界の風景に違いなかった。

見捨てられた坑道は、人々から忘れ去られたまま放置される事が多かった。
だがたとえ放置されていても、そこがまだ市の管轄下にある事は間違いない。
私的に占有する事は、許されてはいない筈だった。
「お母さん?」
薄暗く広い空間に、コウの声が反響することなく吸い込まれていく。
「放置された坑道か…」
涼一は頑丈な金属の扉を指で叩いた。

「だったらこれは、なんの為の用心だ?」


その時微かに声が聞こえた。
顔を上げると、その声の主に向かって、コウが走り寄って行くのが見えた。
「こんにちは、志帆先生。こちらにいらしたんですか」
涼一は志帆の硬い顔に向かって、とびきりの笑顔を見せた。

「コウ、あまり来ないでって言ったでしょう?」
見た目志帆は、世間で連想する所の母親らしくはまったく見えない。
それでもコウを前にした時の仕草は、母親そのものだった。
「お母さん、なかなか帰ってこないから。涼一が心配してたんだよ、ね?」
コウは涼一を振り返る。
涼一は黙って志帆を見つめ続け、志帆もまたその視線を受け止めて見返した。
「学校のプリントがあるんだ。お母さんに絶対見せなさいって、先生が…だから…その」
黙って涼一を見つめる志帆に対するコウの言葉が、少々言い訳めいてきた。
2人の沈黙に、おかしなものを感じたのだろう。

最初に言葉を発したのは涼一の方だった。
「こちらも、お手伝いしますよ、志帆先生」
「陸の世話だけしてくれないかな」
志帆はそれだけ言って、また黙った。
「陸先生からは、今日はお休みをいただきました。でも、できたら勉強したくて。志帆先生のしている事もお手伝いさせていただければ嬉しいんですが」
「あなたには感謝してるけど」
志帆はコウの体を自分の方に抱き寄せると、ぶっきらぼうに言葉を継いだ。
「コウを遊園地にも連れていってくれたとか」
「うん、すごく楽しかったよ」
自分の名前を耳にして、コウが嬉しそうに口を挟んだ。
「そう、よかったね」
志帆は下を向いて、微かに微笑む。

「じゃあプリントは受け取ったから、コウは先に帰って」
「え…でも…」
コウがチラリと涼一を見上げる。
「大丈夫だよ、コウ。志帆先生は別に怒っているわけじゃないんだ」
「ホントに?」
「本当だから、先に帰って、コウ。あと少ししたら、私も夕ご飯を作りに帰るから」
志帆がコウの背中を押す。
だがコウはほんの少しだけ抵抗した。
大きな瞳を開いて、母親の顔を見上げる。

「…涼一も、一緒に?」
「コウ」
「一緒に、ご飯食べるよね。…どこにも、いかないよね」
志帆はこれ以上ないくらい優しい表情で、コウに笑いかけた。
「じゃあ、みんなで一緒にご飯を食べましょう」
「う…うん」
コウは嬉しそうに頷くと、一度だけ振り返り、それからドアを開けて出ていった。



「オレも一緒にご飯ですか? 家庭料理は久しぶりだな」
涼一の快活な声に、志帆は目を伏せて答える。
「あの子が、あんな風に何かを欲しいと言うなんて、珍しい事だから」
「ずいぶんと、可愛がってるんですね」
「私の、子供だもの」
「にしては、結構放っておいてありませんか? えらく寂しいみたいですよ。
オレは今や子守までしているありさまだ」
「そうやってコウの信頼を勝ち取って、あなたはここへ来たのでしょう?」
「…一体、何を警戒しているんです。志帆先生」
薄暗がりの中で涼一の瞳が光り、唇が曲げられた。
「オレが何をしたって言うんです。実際何もしてやしない。そうでしょう?」
自分の身体で、外への出口方向を完全に塞ぎながら、涼一は一歩踏み出した。
志帆が唇を震わせて、僅かに後ろへ下がる。
「陸先生の車椅子を押し、資料を整理し、片づけと留守番をし、あのたいそう可愛い子供の子守をしている。
ね? それしかしていない。しかも大変真面目に、とても真っ当に仕事をこなしてますよ。一体あなたは、何が気に入らないって言うんですか?」

涼一の身体から、うっすらと危険なものが立ちあがってくる。
声は陽気で快活に響き、顔には魅力的な笑いを浮かべてはいたが、しかしその仮面の下からは、隠しようのない獣の顔が浮かび上がってきていた。
「最初から、あなたはオレの何かを警戒していた。オレだって、あなたから見れば子供でしょうに」
言いながら涼一は、意識的にかぶっていた仮面をチラリと外した。
口元の笑いは凍り付き、瞳には冷たい炎が燃える。
志帆は気圧されたように一歩下がって、唇を噛んだ。

「子供…。子供だった時が、あなたにはあるの?」
「ありますよ。今だってオレは子供だ。何の力もないですよ。そりゃあ男ですから、あなたをここで押さえつけるとか、暴力的な事は出来るでしょう。
でも、社会的には何の力も保証もない。大人の庇護を、まだ必要としている子供ですよ」
「あなたを庇護する力は、恐ろしく強い」
「もちろんその通りです。それは仕方がない。生まれついたものに対して、オレが責任をとるいわれは存在しない。コウがあなたの子供じゃなかったら、オレは仲良くなんかならなかった。それと同じです。
オレが冬馬の家に生まれついたのも、コウがあなたの子供に生まれた事も、どちらも単純な運だ」
「…コウの話は…しないで。関係…ない」
「オッケー、いいですよ。あの子は本当に可愛いですね。あなた方の最高傑作でしょう? 陸先生もあなたも、割と顔はイケてる方だと思いますが、あれだけ綺麗な子供を作るのには、何か魔法が必要じゃありませんでしたか?
いや、失礼」

「あの子に、手は出さないで!」
志帆が悲鳴のような声をあげる。

いい声だ…。
いま涼一は楽しんでいた。
どこまでもお堅い、鉄のような女。
感情を引きずり出せれば、この女をこじ開ける事が出来る。
こじ開けたら、何があるんだろう。
どんな大事なものがこの女には詰まっているのか。
引き替えに、何を差し出してくるだろう?


「あの子が喜ぶ事しか、オレはやってませんよ。見たでしょう? あの子はオレが大好きだ。オレがいなくなったら、泣くだろうなあ。
オレに一緒に連れていってくれって、言うかもしれませんね。そうしたら、オレはあの子が喜ぶ事をしてやりたいから、断り切れないかもしれないなあ…」
志帆の表情が、薄暗がりの中、はっきりと強張ったのが見て取れた。
涼一は爆笑する。
「冗談。冗談ですよ。志帆先生。ねえ、そんな事したら未成年者略取じゃないですか。オレがどうしてそんな下手を打つと思っているんですか」
「ただ言うだけでも…、内容によっては、それは凶器になる。解ってて言ってるんでしょう、涼一くん」
「いいえ、誤解ですよ。あなたがどう感じているか知りませんけどね。オレは不様な事は嫌いなんです」

「やろうと思えば何でも出来る筈のあなたが、どうして陸の車椅子なんかを押しに来たの?」
「それがあなたのお気に召さない所ですか。オレのバック? 冬馬の名前?」
「冬馬の名前を持つ者が、見返り無しで何もする筈はないでしょう」
「よくご存じで。冬馬に何かされましたか? 妙に実感こもってますね。大人の事情は知らないので、申し訳ない。
でもね、志帆先生。何でも出来る人間などいませんよ。特に男には確実に出来ない事がある。それは生命を生み出す事です」
志帆の顔が一瞬また、硬く強張った。
「殺すのは簡単だ。人は死ぬように出来てますからね。オレだっていつかは死ぬ。何でも出来るとあなたは言うが、冬馬だって出来ない事はあるんです」

「何が言いたいのか解らないけど…」
「あなたのお手伝いがしたいと思っているんです」
「私は何もいらない」
「そうでしょうか? ではここで何をなさっているんです?」
「ここの使用に関しては、許可を得ています。あなたが考えているほど、私は愚かではない」
涼一は首を振った。
「志帆先生。オレはあなたを愚かだなんて考えた事はないですよ。むしろ、そうだな。尊敬している。それと、少々の同族意識もね」
「あなたと一緒にされたく…」

「そうでしょうか? きっとオレとあなたは似たような事を考えている筈です。えらく魅力的でしょ? ここは。穴蔵は。異世界への入り口は」
志帆はぎくりと身体を引いた。


「今なんて…」
「入り口です。異世界への入り口。下へ続く道」
涼一は部屋の奥を目を細めて見つめた。
「続いているんでしょう? ここは。さっき中に入ってきた時、あなたはここにいなかった。まあ、奥にも部屋はあるようですが、それにしても気配すら感じなかった。
そして、この扉。ここが廃坑なら、ジャンクは出ない。ではこの扉はなんの為にあるんです?」

涼一は当たり前の事を言わせるな、という風に、肩をすくめて見せた。
「推理ゲームにもなりゃしない。扉には二つの要素が存在する。
開ける事と閉める事。そして、閉める『意味』は、更に二つあるんです。
一つは、外敵を中に侵入させない為に扉を閉める。
もう一つはね、中のモノを閉じこめる為に閉めるんです。
どちらですか? 両方ですか? 外に怖れるものがあるなら、コウが自由に出入り出来る筈はないですね。では残るは一つ。中のものを閉じこめる為に使うんですよ。これは」
志帆は唇を噛んで、それでも涼一を睨みつけた。

「…あなたは、きっと言わない」
「そうですね。オレが言わなければ、この坑道は2人だけの秘密だ。ああ、陸先生はご存じか」
志帆は小さく首を振った。
「そうですか。では、本当に2人だけの秘密だ。ここがどこに繋がっているのか。言ってしまったらせっかくの入り口が市に取られてしまう。そんなの嫌でしょう。オレだって嫌だな。
だからさ、志帆先生」
涼一の声は、半分揶揄するような響きから、一瞬で冷たい氷へと変化した。

「取り引きをしよう。もうくだらないやり取りはお終いにしたい。
取り引きなのだから、見返りは当然要求する。ただしこちらも相応のものを支払う。残念ながら、そちらに選択権はない。何故無いのかは、あなたがよく知っている筈だ」

志帆は口の端を歪めて笑った。
「やっと…。子供のフリはやめたのね。あなたには似合わなかったよ」
「そうですか? それなりに上手くやってたと思ったんだけどな」
「あなたの言う通り、私達はよく似ている。だから解る。あなたは自分が成したい事のためなら、どんな手段でもとるでしょう。欲しいものがあったら、どんな事をしても手に入れる。本当に、どんな事でも」
「怖いですか?」
「怖い。もちろん怖い。私は自分がそんな時に何をするか知っているもの。
だからあなたがする事も、よく解る。そしてあなたには、それをする為の力もある…」

志帆が自分の前で屈服していくのが解った。
涼一は志帆を見下ろし、穏やかに言った。


「その力をあなたの為に使う事も出来る。どうしてオレが車椅子を押す所から始めたと思っているんです。あなたの場所を壊しに来たわけじゃないんだ」
「本当に?」
「オレは欲しいものがある。あなたは手放したくないものがある。オレ達がぶつかっても得はない。ただあらゆるものが壊れていくだけだ。
オレはオレの使える力で、あなたの持っていたいもの全てをまるごと護る事が出来る。代わりにあなたはオレの欲しいものを差し出すんだ。悪い取り引きじゃない。
あなたはオレと似ている。だから手段が正当なものでなくても構わない筈だ。
護ってくれるものが悪魔しかいなかったら、あなたは躊躇ったりしない」

「何が…欲しいの?」
志帆の声は震えていた。
「あなたです」
「私…?」
「あなたがあなたの能力全てを使って、オレの為に働いてくれる事」
「それだけ…でいいの?」
「あなたの家も、研究も、地下へ続くこの場所も、家族も、あなたが持っているものは何も取りあげたりしない。ただし、あなただけはオレのものになる」
「私自身…だけ」
「あなたの好奇心、あなたの発想力。あなたの持つノウハウ。全てをオレの為に」

「代わりに、何をくれるの?」
志帆の目が焦点を結び、強く貪欲な光が宿り始めた。
「見返りは、なに?」
「あなたが研究出来る最高の環境。制限も限界もない援助を約束します」
「…もちろんこの場所も」
「ええ、この場所も護りましょう」
「陸も、コウも」
「何にも手を出さない。オレが欲しいのはあなただけだ」
「私じゃないでしょう? これからあなたの為に私が生み出す筈の成果でしょう?」
「そうですよ。でも成果を手に入れる為には、あなたが必要だ」
「私が今まで築き上げてきたものには、決して手を出さないと約束して」
「約束します。オレが欲しいのは、これからのあなただけだ」

「そっちばかり約束して。…私からの誓約はいらないの?」
「いりませんね」
涼一はニヤリと笑った。
白い歯が薄闇の中に浮かび上がって見える。

「言葉で誓約されても、何の意味も持たない。約束など破るのは簡単です。
だから、あなたが破れば、オレも破る。それだけです」

志帆はヒステリックに笑った。
「嘘つき同士の約束など、何の保証にもならないって事ね。だからいくらでもあなたは約束する」
涼一は肩をすくめた。
「その代わり、上手く歯車が動いているうちは、約束があろうと無かろうと、関係ないって事ですよ。
オレは欲しいものがあるから取り引きを持ちかけている。いくら言葉に保証がないからと言って、すぐ反古にしたら、オレの損になるだけです。
あなたは全てを失わず、成果に相応しい待遇を手に入れる。オレの為に働くかぎりね」

「けっして、あなたを信じたりしない」
「信頼は必要ないでしょう。オレ達は仲間でも、同士でも、血縁でもない。
『共犯者』なのだから」
涼一は楽しそうに笑った。
「オレはね、知りたいんです。そして手に入れたい。この世界以外の秩序。
この世界以外の生と死。あなたも本当は知りたい筈だ。地の底。向こう側。
他の誰も持っていない秩序と法則を、オレはこの手にしたい」

志帆が黙って奥を振り返った。
涼一もその先に視線を走らす。
これ以上、何も話す事はなかった。
契約は、完了したのだ。


「ジャンクは、『下』にいるんですね」
「ええ」

外に続く扉を完全に閉めて、2人は地に降りていった。
 

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