強い男
ふわり、と世界が回った。
一瞬無重力空間に投げ出されたような、重力の移動。
恐ろしく綺麗に投げ飛ばされたのだ。
受け身の形だけは本能的にとったが、次の瞬間、俺の身体は畳に叩きつけられていた。
天井が目にはいる。
それから無表情に俺を見下ろしている、信じられないくらい綺麗な男の顔が見えた。
たった今、俺を投げ飛ばした男。
黒羽 高。
白い貌に、黒い髪。
額には汗ひとつかいていない。
すげー……。
心の中で、俺は口を開きっぱなしだった。
人形じゃないかと思うくらい綺麗な男。
男の顔なんて興味が無い俺でさえ、一瞬ポカンと見つめてしまった。
なのにその男は、綺麗と同時に信じられないくらい強かった。
俺、彼の身体に触ったか?
まともに組み合った覚えがないうちに、何度も身体は回され、俺は不様に床に寝ころぶ。
立っていられない。
立って組み付きに行った瞬間に、俺は床の上だった。
西署から凶悪犯罪対策なんとかで、誰か講師が来るのだという話は、確かにぼんやりと聞いた覚えがある。
俺はまったく興味がなかったのだが、相棒の馬渡浩介(まわたりこうすけ)から盛大にため息をつかれた。
「あのな日比野。地域課と生活安全課の巡査は積極的に講義を受けることって、そう言われていただろう?」
「そうだったか?」
馬渡は、あーあと唸って天井を向く。
なんだよ、今お前が言ったのを聞いたわけから、別に仕事に支障はないだろ?
「講義なんて話、つまらなそうだから、ちょっと忘れていただけだよ」
「あのな…。お前は講義を受けろ、絶対。講師はあの黒羽 高(くろはねこう)だ」
「黒羽 高って、えーと、聞いたことはあるけど…」
「西署の黒羽巡査部長だよ。有名だろ」
「ああ、うん。名前は知ってるかなぁ」
ぼんやりした返事をしていたら、馬渡は肩をすくめて書類書きに戻っていった。
馬渡は気が短い。
こっちがぼんやりしてると、さっさと話を切り上げて自分の世界に帰ってしまう。
本人は判断が速いんだとか言ってるが、俺は見切りが早すぎるんじゃないだろうかと思うときもある。
時にはもう少し食い下がるしつこさとかが、警察官には重要だったりしないか?
なーんて、ちょっとブツブツ思ったりもするが。
まあいいや。
黒羽 高がどんなヤツだか知らないが、俺には関係ないしな。
だが、関係ないなんて思っていられたのは少しの間だけだった。
なぜなら、ただでさえいつもうるさい女どもが、黒羽なんとかが来る情報が流れた瞬間から、キャーキャー黄色い声をあげるスピーカーと化したからだ。
「黒羽さんだって。黒羽さんが来るって〜っ」
「黒羽さん、一度遠くから見たことあるけど、本気でめちゃくちゃ綺麗よ〜。すぐ近くに一週間もいるなんて夢みたい」
「ね、ね。カメラ用意しちゃダメかな」
「携帯で撮れば?」
「女性警察官も講義受けていいのよね。柔道とかで手取り足取り教えてもらえるかも〜」
「メアド交換してもらえるかなあ」
「おい、お前ら、不真面目すぎないか?」
もちろん最後のひと言は俺だ。
俺はこういう、キャーキャーミーハーな態度が大嫌いなのだ。
ただでさえ女どもの高い声は、耳にキンキン響いて頭が痛くなるってのに。
更にメアド交換だあー? 警察を合コン会場にする気か?
「誰が来るのかさえも知らなかった日比野くんに、不真面目がどうとか言われたくないよね」
「そうそう、それに私たち日比野くんと違って、講義自体は真面目に受ける気あるもの。日比野くんなんか、サボる気満々でしょ?」
「なっ、畜生。馬渡だな、バラしたの」
女どもは一斉にドッと笑った。
畜生、口の勝負で女に勝てるわけがない。
「だいたい日比野くん、強い人マニアでしょう? どうして黒羽さんのこと知らないのよ。勉強不足だと思うな」
「う、うるさいなー。聞き覚えくらいはあるよ。けど本当に強いのか? どこか嘘くさいよな」
「えー、どうして」
「どうしてって、お前らだってさっきからそいつの顔のことしか言ってないじゃねえか。キレイキレイって。馬鹿のひとつ覚えみたいに」
「うわ、馬鹿にバカって言われた」
「だって本当に綺麗なんだもの。本当のことなんだからいくら言ってもかまわないでしょ?」
「警察官じゃなくて、アイドルみたいじゃねえか」
「なに言ってんの。黒羽さんはその辺の芸能人なんかよりずーっと綺麗よっ!」
俺はガックリ脱力した。
ちっ。今までの人生で女と価値観が合ったためしがない。
結局俺はキレて、そんな顔ばっかり褒められるような男が強いわけないだろう、とぶちあげてしまった。
もちろん実際のところは、やり合ってみなくては解らないわけだが。
だが男に対する女どもの評価は、大体においてアテにはならない。
たとえば馬渡なんかは、あいつらによると、頭がよくて冷静で慎重で
『日比野くんとは正反対ね』
だそうなのだが、俺に言わせれば馬渡はかなり熱い男だし、けっこう短気だ。
馬渡は女の前でカッコつけが上手いだけなのだ。
俺なんかつい本音でやり合ってしまうから、腹が立つことにあいつらにいじられ放題だ。
…いや、俺のことはどうでもいいんだって。
とにかく女が言う前評判はアテにはならないって話だ。
そしていよいよ実際に黒羽 高が南署にやってきたわけだが。
早足で歩く背の高い男の姿を見て、俺はマジに口を開けた。
いやあ確かに、顔に関してだけは、女どもの噂は正しかったと思う。
というか、それ以上だった。
隣で馬渡が妙に顔を赤くしているのが気持ち悪いけど、まあしょうがない。
こんな男が街を歩いていたら、俺だって絶対見ちゃうからな。
これだけ綺麗なら確かに、男女関係なく、ちょっとくらい見とれてしまっても仕方がないだろう。
しかし。俺はあらためて思う。
男の価値は顔じゃない。
何と言っても、男は強くなくては。
俺は心を引き締めて、黒羽 高の身体を上から下まで睨みつけた。
すると黒羽 高が、フッとこちらに気付いた。
俺は思わずドキリとする。
しかし視線が合ったのは一瞬だった。
ヤツは取り澄ました感じの無表情で、俺なんか目の端にも捉える価値がないとばかりに、さっさと通り過ぎていく。
俺はムッとした。
もちろん意図的に無視されたわけじゃないのは解ってる。
でもな、なんつーかその。気取りやがって、って感じなんだよな。
こういうスカした男が強かったためしはない。
大体、肌だって真っ白じゃねえか。
眼鏡もエリート風でいけ好かない。
オレは黒羽 高の後ろ姿に鼻を鳴らした。
確かに身体がでかいから、戦闘には有利だろう。
普通に警察官やってたら、身体がなまってるって事もないとは思うし、あれだけ印象的ならハッタリもききそうだ。
でもな。俺が求めているのは実戦だ。
世の中には、使うためじゃなく見せるためだけに綺麗な筋肉をつけているヤツだっている。
見た目じゃ解らねえ。やっぱ実際にやり合ってみないとな。
黒羽 高がどれだけ強いか、俺が試してやるぜ。
化けの皮があるなら、さっさと剥がして、講師だかなんだか知らないが追い返してやる。
なんて考えていたら、部長から肩をポンポン叩かれてしまった。
「まあ、がんばってこい」
とか何とかあちこちからも言われたが、一体なんの事やら。
俺は思いっきり顔をしかめたが、みな苦笑いするばかりで、何も答えてくれなかった。
そして結局、その答えのすべてが、柔道場で投げ飛ばされているこの瞬間に解った。
強い。
信じられないくらい、強い。
よく解らないが、比較しても意味がないくらい、実力レベルに差があるだろう。
俺は畳の上で、ポカンとしていた。
みんな解ってたんだ。俺がこんな風に投げ飛ばされる結果が。
だから笑ったのか。
でも何で知ってるんだ。
そして、オレはどうして知らなかった?
こんなに強い人がいるって事を。
ケンカもやったし、格闘技とかも色々囓ったし、強い人もたくさん知ってる。
でも、これだけ鮮やかに強い男なんて、今までいなかった。
いや、俺が知らなかっただけだ。
黒羽 高は年上なんだから、俺が生まれたときはもう砂城にいたんだよ。
じゃあどうして、俺は23年間も知らなかったんだ?
畜生。
人生、損しちゃったじゃねえかよーっ!!
柔道の稽古が終わった後、気がついたら俺は唾を飛ばしながら、黒羽 高がいかにすごいか、馬渡にぶちあげていた。
「いやもう、黒羽さん、すげーよ」
「だから最初っから強いって言ってただろ?」
「そんなんじゃなくて、まじすげーよ」
「解った解った。投げ飛ばされた自分は肌で強さを感じましたって言いたいんだろ? オレだって近くで見てたよ。お前まったく歯が立たなかったな」
「おう、俺だって黒帯なのにな。なんだよあの人。俺、触れないうちに投げられちゃったぞ。あんなんありかよ」
「嬉しそうだな……日比野」
「一回も触れない。って、そんな事もあるんだなあ…。ていうか、なんで馬渡、黒羽さんがそんなに強いって知ってるんだよ」
「有名だろう? 実績だって逮捕術大会の記録でも見れば解る」
「でも記録なんて単なる数字じゃねえか。強さのアテになんかなるかよ」
「そういって何も見ない、知らないまま来たから今日負けたんだろ。お前は」
「……うっ。うう〜ん」
「記録をただの数字って言うけどな、強い人は本当に強いの。お前は参加したことないから記録が数字の羅列にしか見えないんだろ? 一回でも参加してみろ。実感わくから。
ちなみに黒羽さんは、4年連続逮捕術大会チャンピオンだ。部門別でも三冠王。全国には出てないから砂城の大会だけだけどな。射撃は出ると誰も勝てないから、最近は大会に出てないらしい」
「馬渡は参加したことあるのか?」
「警棒VS警棒の団体戦だけ。黒羽さんは個人戦専門だから、やりあったことはないよ」
「なるほどなっ。うん。数字は知られてはいるが、実際にやり合った人は少ないってわけだ」
「…日比野、何が言いたい?」
「いや、だからチャンスだと思ってさ」
「なんの…」
「馬渡が言うところの、数字を実感できるチャンスだろ? おーし決めた。俺は一週間、あの人の弟子になるっ!」
「で、弟子?」
馬渡はポカンと口を開けて眼をキョロキョロさせた。
「おう。黒羽 高につきまとってだな、あの人の強さを出来る限り自分のものにするぜっ」
「つきまと……。そういうの、弟子って言うのか」
ストーカー? とか無礼なことを呟きながら馬渡は首を捻っていたが、もうこの件に関しては生活安全部長にも許可を取ってある。
そう、決心したら俺は早いのだ。
強い存在は、いつだって俺の中で最優先事項だった。
女どもは『手のひら返したように』とか言って笑ったが、ふん。
俺はな、強くなる為に邪魔になるような、馬鹿なプライドはないんだよ。
だいたい手のひら返した訳じゃねーや。
ちゃんと一本筋が通ってるだろ?
俺は強い男が好き。
勝負を挑むまでは本当に黒羽 高が強いかどうかなんて解らない。
だから勝負した。
勝負して黒羽 高が強いことが解った。
だから俺はそれを認めた。
見ろ、すげえ男らしく正々堂々としているじゃねえか。
どうしてこんなに「強い」ということにこだわるのか、それは自分でも解らなかった。
ただ、男だったら一度くらいは「強いもの」に憧れたことがあるはずだ。
自分自身が強い存在になりたいと、そうも思ったことがあるはずだ。
これはもう、男の本能といってもいいんじゃないかと思う。
女が綺麗とか可愛いとかに憧れるのと、きっと一緒だ。
どれだけ憧れても、望んだみながすべてそうなれるわけではない所も似ている。
俺は人一倍「強く」なりたかった。
小さい頃からでかい奴にケンカをふっかける事の出来る度胸が自慢だったし、ほとんどの場合、相手のほうが先に泣き出したものだった。
俺は強い。
そしてもっと強くなる。
ずっとずっと、途切れることなくそう思い続けてきた。
もっとも成長して行くにつれて、自分の欠点も解ってきた。
俺の身体は小さい。
すごいチビというわけではないが、大人になった今も身長は170センチに届いていない。
スポーツの世界では大抵そうなのだが、身体が小さいことは不利だった。
そこで強くなることをあきらめるヤツもいるわけだが、俺はやっぱり強いことにこだわり続けた。
バカバカしいと言えばそうなのかもしれないが、形から入るってのもありだと思って、肌を浅黒く焼くこともした。
砂城で生まれた人間は、皆一様に肌が白い。
理由は学校で習った。
太陽の光にあたらないから、なんだそうだ。
もっとも砂城には日光浴センターなんかがあって、思い出したようにブームになったりするから、誰も彼もが真っ白な肌というわけではない。
それでも常に肌を焼いて、出来るだけ外にも出かけるようにしている俺は、砂城では目立つくらい黒いと思う。
自分も砂城生まれだから、本当は肌は白い。
しかし俺は白い肌というのが、弱さの象徴のように見えて嫌いだった。
だってただでさえ背が低いんだぜ。
なまっちろい肌なんかしてたら、余計弱そうじゃないか。
有名な格闘家で、真っ白な肌のヤツなんていないしな。
もちろん見た目だけじゃないぜ。
日々の鍛錬は欠かさないし、背が低い不利を補うために身体に筋肉をつける事に専念した。
だからまあ、確かに自己満足ではあるのだけれど。
日焼けした肌とたくましい身体も手に入れて、かなり満足していた。
そう、確かに欠点はあるさ。
でも、まだまだ強くなりたい。身長は無理だが、強くなるために足りない部分があるなら、どんな努力だってしたかった。
そんなに強い事が好きなら、プロの格闘家にはならないのか?
と聞かれたこともある。
でも俺は警察官になった。
理由はそれほどはっきりと答えられない。
ただ、そうだな。
俺は多分、なんというか。
もっとこう、リアルな戦いが欲しかったんだ。
プロの格闘家は強いとは思うけれど、でも基本はエンターティメントだと思う。
もちろんカッコイイとは思うぜ。
好きなプロレス選手とか、ボクサーとかたくさんいるからな。
でも俺は、本当の、実戦の手応えが欲しかった。
そうなると道は少なくなってくる。
喧嘩を売って歩くチンピラになるのなんか、まっぴらゴメンだし。
そうしたら、目の前にあるのは「警察官」という仕事だった。
格闘技の世界なら確かに摩くことが出来るはずの、強くなるための純粋なスキル。
そういったものは、確かに得られないかもしれない。
でも、俺が強いということが「強い」以外の形となる仕事。
うーん。
自分で言っててよく解らなくなってきたが、要するにあれか。
リアルでヒーローになりたいって事か?
そう思うとガキっぽくて恥ずかしいが、まあいいや。
とにかく俺は強くなりたいんだ。そして実戦で自分を試したいんだよ。
だから俺は、黒羽 高に投げ飛ばされても、まったく悔しくなかった。
むしろ実戦で鍛えた、本当に強い人に会えた悦びのほうが大きかった。
もっと先に行くためには、具体的な目標があった方がいい。
そして目標にするなら、やっぱり近くに行かなくちゃな。
というわけで俺は一週間、黒羽 高の補佐をする役目を買って出たのだった。
「歓迎会?」
上からジロリと睨まれる。
眼鏡越しに綺麗な顔でこんな風に見下ろされると、かなりの迫力だ。
「いかない」
黒羽さんの口からは、最小限の言葉しか出なかった。
時にはぶっきらぼうを通り越してる気がする。
でも、う〜ん。格好いいぜ。
男はこんな風に、無口でストイックでなくちゃな。
歓迎会とかにヘラヘラ出るようじゃ、やっぱりイケナイのだ。
「でも、黒羽さんの歓迎会なんですけど」
一応言っておく。
もちろん黒羽 高は、まったく表情を動かさず、素っ気なくこう言った。
「僕は単なる講師だし、歓迎会というものに出たこともないので。申し訳ないが苦手だと断わってください。ただの飲み会にして、僕抜きで楽しんでくれると嬉しい」
黒羽さんの補佐をすると言って一日中ひっついているうちに、結構不思議な雰囲気の人だよな、と思うようになった。
女どもは俺から黒羽さんの情報をゲットしようと色々聞いてくるのだが、正直言って俺は、まだ黒羽さんの印象を掴みきれないでいた。
見た目はまあ、これだけは女どもの言葉を否定できない。
ものすごく綺麗だ。
世の中には綺麗な男を表現するのに「女みたいな…」って言葉があるが、黒羽さんには当てはまらない。
かといって、男らしい綺麗さってのも違う気がする。
男らしい美しさって、『精悍な』とか『凛々しい』ってイメージがするもんな。肌なんかも浅黒くてさ。
黒羽さんはそうじゃない。
なにせ最初にフン、と思った部分だが、肌は真っ白だ。
でもって銀縁眼鏡だ。
言葉だけ羅列すると、エリートサラリーマンみたいな印象だな。
頭よさそうなイヤミな言葉が口から出てきそうだ。
もちろん本当の黒羽さんはまったく違う。
そうだなー。
黒羽さんって、男とか女とかの性別をどこかで超えちゃったような綺麗さだよな。
一度見たら、絶対忘れられない。
でもってこれだけ綺麗なのに、更に超強いわけだ。
射撃の実技はまだ見た事ないけど、天才って呼ばれてるんだろ?
格闘系は、これは身体で実感した。
俺とは強さのレベルが違う。
色々な人と組み合ったが、ここまでキッパリ上だと思えた人はいない。
今のところ崩せる隙がまったく見つからない。
綺麗で超強くて、無表情で言葉が少ない。
となれば、なんというか。
偉そうって言うか、尊大な感じがしないか?
普通そういう印象だよな。
まあ確かにちょっと近寄って黙っている黒羽さんを見るだけだったら、その印象も遠からずって気もするけど。
尊大と言うより近寄りがたい、の方が強いけど、でもなんて言うのか、雰囲気って言うか。
背が高いせいもあるだろうけど、威圧感みたいなものも感じるしな。
けれどその……。
この辺りが、俺が黒羽さんって不思議な人だよな、と思うところなんだけど。
近くにいて積極的に関わっていくと、どんどんイメージが変わってくるんだ。
朝稽古にも嫌な顔せずにつき合ってくれるし、質問にも丁寧に答えてくれる。
『いかない』と素っ気なく答えた後、『僕抜きで楽しんでもらえると嬉しい』と付け加える。
不思議だが、ぶっきらぼうな割に粗雑じゃない。
あれだけ強いのに全然偉そうじゃない。
俺の名前もくん付けだし(最初のうちなんて、さんづけだった)ところどころ丁寧語が入るせいか、印象が柔らかい。
でも、この柔らかさとか偉そうじゃない感じとかに惑わされていると、いきなりグサッと一発喰らったりする。
「訓練は、何のためにする?」
いきなりそう聞かれたときは、ドキリとした。
だって、訓練なんてするのは当たり前だと思っていたからだ。
でも黒羽さんは、俺がやっている当たり前の行為に、ひとつひとつ意味をつけていった。
「えっ……。そりゃあ、強くなるためかな…」
こちらを見つめる黒羽さんの瞳には、強い光が宿っている。
う〜ん…。
別に変な意味じゃないんだけど、こんな風に綺麗な顔でまっすぐ見つめられると、かーなーり、ドギマギする。
俺は女じゃないけど、でもその。実際問題としてこれだけ綺麗な人が目の前にいたら、やっぱり平常心じゃいられないと思うぜ。
しかもその大きな目で、突然視線を合わせたりするもんだから、さっきだって勝手に身体がビクッと飛び上がってしまった。
頬が熱くなっているのが解る。
いかんいかん。
この調子じゃ、ミーハーな女どもや、黒羽さん見て赤くなってた馬渡のヤツを笑えない。
心の中で、自分の頬をびしびしと叩いた。
でもアレだよな。
綺麗っていうのも、ここまでいったら武器になるかもしれないよな。
もちろん黒羽さんは、そんな俺の少々たるんだ気分を吹き飛ばすようなひと言を放った。
「訓練をするのは、死なないためだ」
「し、死ぬ…?」
いきなり死という言葉が出てきて、俺はとまどった。
いや、もちろん理屈では解るけど。でもいきなり死ぬとか言われても…。
黒羽さんは続けて低い声で呟いた。
「誰のためでもない。目的も単純だ。ただ自分自身が死なないために訓練はある」
その言葉は、ひどく重く、実感を持って響いた。
黒羽さんはそのまま唇を閉じた。
その沈黙は、けっして侵してはいけない、黒羽さんの深い部分から出ている様に思えた。
的に向かって、何千回も引き金を絞る。
毎日同じ型を反復訓練する。
そのすべてが死なないため…。
ふっと、ほんの少しだけだが解った気がした。
黒羽さんは、強い事を偉いとか上だって思っていないんだ。
黒羽さんがここまで強くなってきたのは、何度も死ぬような目をくぐり抜けて、それでも生き残ってきたから。ただそれだけ。
死なないために頑張ってきて、そしていま生きている。
だから強いんだ。
実戦か……。
俺の身体は、勝手に震えた。
「黒羽さんさ、誰か知り合いが死んだのかな?」
昼間は一日中黒羽さんにひっついている俺だが、寮に戻れば馬渡と相部屋になる。
そういうわけで俺は、今日の黒羽さんがいかに凄かったか、馬渡に報告するのが日課のようになっていた。
もっとも馬渡は、昇進試験を受けるらしく、ずっと勉強しているのだが。
「んー…。まあそりゃ、西署で一番過激な部署にいる人だし。そういう経験があっても不思議じゃないと思うけど?」
「誰か、親しい人を亡くしてるって事か? マジで?」
「マジかどうか知らないよ。ていうか、どうしてオレに聞く。お前はずっと黒羽巡査部長と一緒にいるんだから、本人に直接聞けばいいじゃないか」
「あー…。そりゃーそうなんだけどさ」
俺はふーっとため息をついた。
「今日、風呂に誘ったんだよね。風呂場なら聞けるかと思ってさあ。ほら、男のつきあいは裸のつきあいからって言うじゃないか」
「……言うか?」
馬渡は眉をひそめて首を捻った。
「で、誘ってさ、背中流したんだよ。流しながら喋れば自然だろ? ところがさあ、あの人背中にでっかい瑕があるんだよ」
「キズ? あ、もしかしてホテルレオニスの事件の?」
「うん、そう。あんなに跡残るんだから、もとは相当でかいキズだったと思うぜ。そうしたらもう、聞けなくなっちゃってさ。
びっくりしたよ。知識では知ってた筈なんだけどさ、実際にキズ見ちゃうと、えらく生々しくてさ」
「ふうーん…」
「ふうんって、それだけかよ。黒羽さんって、言葉だけじゃないんだぜ。ただ強いってだけでもない。本物の修羅場をくぐってきた人なんだ。ちゃんと実戦もともなった歴戦の強者の近くに、俺って、いるんだなーって思ったよ」
「でも、そんなに近くにいても、結局聞けなかったんだろ?」
「そりゃそーさ。あのキズ見て聞けるかよ。親しい人を亡くした事がありますか? なんてさ。
そりゃお前は遠くから見てるだけだからよく分かんないかもしれないけどさ。黒羽さんって、なんて言うか。雰囲気があるんだよ。そういうこと軽々しく聞けない雰囲気?
なんつーか、気圧されるっていうか、そんな存在感。きっとあれが実戦を知ってる男の重さってヤツだよ」
俺はうんうん、と頷く。
するとなぜか馬渡は、うんざりしたような顔になった。
机にペンを置いて顔を上げる。
「日比野、あのな。お前が黒羽巡査部長に惚れてることは、よーく解った。けどな、オレはお前のノロケを長々聞いているほど暇じゃないんだ」
「のの、ノロケって何のことだよっ」
馬渡のヤツは、はーっと息を吐くと、思いっきりイヤミな仕草で、手をヒラヒラと振った。
「お前がニヤつきながら毎日喋っている話、ノロケ以外の何だというんだ。実戦実戦言ってるけど、お前が喋っていることと言ったら、黒羽さんのああいう言葉が格好良かった。こういう行動に痺れたって。そんな話ばかりだ。聞いてるだけで恥ずかしい」
「恥ずかしいだって!?」
「恥ずかしいさ。女子高生が好きな人の噂話をしているみたいじゃないか」
「てっ、てめー、馬渡っ!」
俺は座布団を蹴って立ちあがった。
俺の話があの女どもの話と大差ないだって?
馬渡は立ちあがった俺を見て鼻で笑った。
「日比野。お前が実戦とやらに憧れているのはオレも知ってる。そしてオレ自身は今のところお前の目標にはなれない。警官としてのキャリアはお前より長いが、お前が望むような実戦とやらをオレは経験していないからな」
「…っ。そ、そんなこと、俺言ってないだろ?」
「だからお前が黒羽巡査部長のところで何かを勉強したいなら、それは別に構わない。お前はちゃんと講義を受けた方がいいとオレも思う。
でもなんだ? 日比野、お前。黒羽さんに感心する為にそばにいるのか?
オレはな、何かひとつでも彼から学ぶために近くにいるんだと思ってたよ」
俺の顔は絶対真っ赤になっていたと思う。
怒りとかもあったんだけど、恥ずかしさとか、理不尽さとか、プライドとか。
とにかく色々、何やら複雑な感情が一気にどーっと頭の中に押し寄せて、身動きが取れない状態になってしまった。
立ったまま、ただぶるぶる震える。
「だからお前には、黒羽さんに何かを聞く資格なんてない」
馬渡はそう言い放つと、くるりと背を向けた。
もう一度ペンを取り、机の上の問題集に向かう。
俺は何も言えなかった。
どうしてここまで言われなくちゃいけないんだ、という怒りが、唇から何か罵りの言葉を吐き出そうとしていたが、心のどこかでは解っていた。
馬渡の言っていることは、ひどい言い方だが、でも俺の痛いところを的確に突いている。
解ってる。俺自身が今の俺に価値がないって、そう思っていること。
だって俺は何もかも足りない。
今はまだ強くもないし、実戦とか言ってるけど、そんな経験も積んでない。
もちろん馬渡だって俺と似たようなものだけど、でも昇進試験に向けて毎日勉強している。
俺と来たら、強い人の近くにいて、ただすげーすげーって言ってるだけだ。
畜生……。
今すぐ強くなりたい。
誰よりも誰よりも強くなりたい。
コンプレックスと、飢餓に似た渇望が、一瞬俺の心を激しく焼き尽くす。
今すぐどこの誰よりも強くなれるなら、悪魔に魂売ったっていい!
……けど。
もちろん俺はなれなかった。
何分そこに突っ立っていても、ただ唇を噛んで涙目でいるだけの惨めな俺のままだった。
解っている。
今すぐなんて無理に決まってる。
そんな都合のいい天使や悪魔が、目の前に現れるはずはないんだ。
ちっくしょう。
馬渡がチラリとこちらを見るのが解った。
絶対、俺が鼻をすすったからだ。
言いすぎたと思っているのかもしれない。
でも俺は、正論を言われて更に言った相手に慰めてもらうような惨めな真似だけはしたくなかった。
だから捨て台詞を吐く事にした。
それも、馬渡のヤツがあきれて頭真っ白になるような捨て台詞だ。
「日比野、あのさ……」
「うるせえ畜生。言いたい放題言いやがって。もうお前になんか、黒羽さんのチンポの大きさは教えてやらねえっ!」
馬渡の目は、予想通りまん丸に見開いた。
ざまあみろ。
ケンカを瞬時に小学生レベルに落とす事だけは、俺は得意なのだった。
黒羽さんから何かを学ぶ。
そう思っても、俺は学ぶこと自体があまり上手くなかった。
けど、ただ一週間まとわりついてただけでした、と評されるのは不愉快だ。
とりあえず、今日の朝稽古から頑張るぞ。
しかしそう決心していつもの様に黒羽さんを迎えに行ったら、今日は稽古はやめると言われてしまった。
うっ……。
いつもの俺なら気にしないが、なにせ昨日の馬渡とのやり取りがアレだったもんで、ちょっと追い打ちをかけられた気分になる。
今日からとか今からとか考えてるから、俺はダメなんだよ。
今まで何日も一緒にいただろ。
それを思い出してみるんだよ。
と自分を奮い立たせてみたが、残念ながら俺は記憶力も悪かった。
ガックリ……。
まわりの女どもからは
『日比野くんでも元気がないことなんてあるんだ。雪でも降るかな』
『悪いものでも食べたでしょう』
とか言われてしまった。
畜生、うるさい奴らだ。黒羽さんの情報を俺が教えないもんで、嫌味言って憂さばらししてやがる。
だいたい今日はクリスマスなんだから、夜になったら雪くらい降る。
と、そこまで考えてフッと気がついた。
そうか、今日はクリスマスだったか。
別にキリスト教徒じゃない俺には関係ないイベントだけど。
でも、小さい頃サンタクロースは信じてた。
今はもちろん信じてないけど。
でも少しだけ思う。
今すぐ強くしてくれなんて虫のいいことは言わない。
でもほんの少しだけでいいから、強くなるためのチャンスが欲しい。
ほんのちょっとでも、俺って結構やるじゃんって、そう思える瞬間が、今日あったらいいのに…。
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