僕を呼ぶ声 −voice−2


南署のスケジュールは、黒羽にとって比較的のんびりしたものだった。
その上、署員はみな黒羽に大変暖かかった。
いや、確かに遠巻きにされている感じは、西署と似たようなものだ。
馴れ馴れしく話しかけてくる人間がいるわけではない。
しかし西署だったら、もしもこんな他所から来た若僧が、講師でございという顔をしていたら、間違いなく冷やかな視線を浴びるだろう。
他所から来た人間が、人の縄張りで何をしてやがる、という視線だ。
基本的に警察という組織は縄張り意識が強い上、他の署はライバルにあたる。
上から派遣された職員でさえうさん臭い目で見られるのが普通だ。
ましてや同列のライバル署から来た講師なんて、面白くないと思われるのが当然だろう。

黒羽はもちろん、素っ気なく扱われることを覚悟していた。
自分だって、よそ者なんかに仕事を引っかき回されるのはごめんだと思うからだ。
最初は香澄でさえ邪魔だと、そう思ったのだ。
お客様なんて、仕事の邪魔だと。

初日に歓迎会という名の飲み会に誘われた時も、いつも通り素っ気なく断わった。
酒がほとんど飲めないし、行っても話題が見つからない。
酒を注がれるのも、注ぎに行くのも極端に苦手だ。
行っても白けた雰囲気になるのなら、最初から行かない方がずっといい。
なのに、南署の黒羽を迎える雰囲気は、だいたいにおいて好意的だった。
どこかしら、家庭的とも言える空気が流れている。
規模が極端に小さい分署ならそういう雰囲気にもなるようだが、南署だって西よりは小さいが、それほど小規模というわけではない。
なのに何だろう。よそ者は入ってくるな、という身内の閉鎖的な空気がない。
もっともお客様として扱われているから、親切なのかもしれないのだが。

「これはその…。居心地がいいということなのだろうか?」
初めて味わう雰囲気に、黒羽はよく解らなくなって首を捻る。
西署にいる時の方が、自分に対する風当たりは遙かにキツイ。
特殊班内は身内だから、そういうこともないが、別の部署の人間は、あからさまに黒羽に向かって、反感や敵愾心のような視線をぶつけてくる人間もいる。
その空気を日常のものとしていた黒羽は、南署の歓迎ムードにかなり戸惑っていた。

「えーと、あの辺が繁華街ですね。ゲーセンもたくさんあるので、子供が集まってきます。時々見回りをするんですけど、あ、一緒に一回りしてみますか?」
隣で日比野が、香澄に似た声で、香澄のようにマシンガントークをかます。
お客様扱いで暖かい雰囲気なのかと思っていた部分もあったのだが、黒羽はいま日比野と共に、仕事に参加していた。
いいのだろうか、と思う。
視察じゃあるまいし、慣れていない他の署の人間を参加させることに、誰も異存はなかったのだろうか。

日比野が所属している生活安全課は、名前の通り基本は地域の生活の安全を守るための部署だ。
仕事の内容は地域課とかぶる部分が多いが、少年非行、風俗関係、最近では悪徳商法の取締り、ストーカーやDV事件に関しても取り扱う。
細々とした幅の広い仕事が多い所は、基本的になんでも屋である特殊班と近い部分があった。

繁華街では、あちこちに子供がたむろっていた。
子供といっても中学生や高校生達だから、みな身体だけは大きい。
日比野は快活に、彼らに声をかけていく。どうやら子供たちにとって、日比野は、おなじみの顔のようだった。
「日比野さん、また柔道教えてよ」
「おう、いいぞ。署に来いよ。柔道教室やってるからさ」
「ええ〜、教室とか、かったるい」
「そんな事言ってると強くなれねえぞ」
馴れ合いにならない程度の適当にうち解けた態度で、子供たちは楽しそうに日比野と言葉を交わす。
こんな所も香澄と似ているんだな、と黒羽は思った。
香澄も誰とでもすぐに親しく話しはじめる。自分には無い才能だ。

「今日は馬渡まわたりさんは一緒じゃないの?」
子供たちは見知らぬ黒羽に警戒して、声をかけては来ない。
だが、気にはなるようで、チラチラとこちらを窺っていた。
「あー、しばらく俺はこの人と一緒」
「誰? ねえねえ、誰?」
話題をふられたことで、話しかけてもいいと子供たちは判断したらしい。
物怖じしない少女達が先に、黒羽に質問してきた。
西地区ではポスターなどで有名な黒羽の顔だが、この辺りではどうやら知られていないらしかった。
「警官じゃないよね。じゃあ何かしたの? 捕まったの?」
「バッカ。この人は俺よりえらい警官だぞ。なに失礼な事言ってんだ」
日比野が慌てて少女達の無遠慮な言葉をさえぎる。
だが黒羽は思わず笑ってしまった。
笑いかけられた少女は、パアッと頬をバラ色に染める。

「すげー。すっげー綺麗。うっそだあ。こんな綺麗な人が警察のわけないじゃん」
「顔と職業は関係ないの。それよりお前ら、今日は敦はいないのか?」
「あっちゃんは、そろそろ街は卒業だよう」
「そっか、どっかに就職すんのか? 一度挨拶に来いって言っておけよ」
「ねえ、これからあんたも、この辺回るの?」
「あんたじゃなくて、黒羽さんだ。ちゃんとした言葉遣いを覚えないと、ちゃんとした仕事につけねえぞ、お前ら」
「日比野さんだって、お前らとか言ってるじゃないか」
黒羽は黙って笑いながら、彼らの会話を音楽のように聞いた。
少女達は黒羽のまわりを囲んで、携帯で写真を撮り始める。

署内で感じた友好的な雰囲気が、ここにも流れていた。
もちろんここがパラダイスだというわけではない。どんな場所にも悪いことや酷いことは存在する。
この穏やかさは今だけのものかもしれない。
それでも黒羽は心地よい気分を味わった。
ここは、いいところだった。



「それでですね、黒羽さん。奥に行くともう少し…なんだ、大人の地域なんですけどね。その辺りまでもガキ共が入り込んで来るのが困るんですよね。
ウリとかやらかす奴らが、さっきの中にも何人もいるんで。
女の子は子供でも苦手ですよ。ちゃんと化粧してやがるしさあ。
敦って髪の赤い男がこのへん仕切ってたんで、今日はそいつに釘刺しておこうと思ったんだけど。…なんです? 楽しそうですね」
「ああ、いや。君は子供に人気があるんだな」
「人気なんか無いですよ。注意して歩く大人が、子供に人気あるわけ無いでしょ?」
「いつもはパートナーと一緒に回るのか? ええと、馬渡?」
「ああそう。馬渡。珍しい名前でしょう。幼なじみなんですよ。そいつが俺に警察官になろうって言って。で、そのまま」
「同期でパートナーなのか。大抵は、ある程度は経験を積んだ人間と新人を組ませることが多いが」
「馬渡の方が俺より年上です。幼なじみって言っても、まあ先輩ですね。黒羽さんのパートナーはどんな方ですか?」
「ああ、そうだな。君に、少し似ているかもしれない」
「ええっ、本当ですか? 嬉しいなあ。その人も強いんですか? 黒羽さん」

ずいぶんと長い間、自分にはパートナーと呼べる人間がいなかった。
パートナーがいるのが当たり前の砂城で、ずっと独りで立っていた。
その事を寂しいと思ったことも、悲しいと思ったこともない。
けれど香澄。
今ここに、君がいたら良かったのに。
ここはいいところだけれど。
でも、君がいたら良かったのに……。

 

 

風呂に行きましょう、と日比野に誘われた。
南署の独身寮にも各部屋に風呂があるから、この誘いは大浴場のものだ。
「なんたって、男のつきあいは裸からですよっ」
楽しそうに日比野は言うと、黒羽に石鹸やタオル一式が入った洗面器を押しつけた。
そういえば自分も、最初に香澄を風呂に誘った。
日比野のように男のつきあいは裸から、と思ったわけではなかったが、大浴場のルールは最初に教えておいた方がいいと思ったからだ。
ほんの少し前のことなのに、懐かしく思い出す。
今回は立場が逆ではあるのだが。
「こっち、こっちですよー、黒羽さん」
日比野が大きく腕を振って名前を呼んだ。

それにしても…。
僕は、事あるごとに香澄のことばかり思い浮かべるな。

どうしてだろう、と思う。
まだたった3日離れただけだ。
何日か離ればなれで仕事に就くことも、別に初めてではない。
多分、ここに来る前に香澄に怒られたことが、ひっかかっているのだろうとは思う。
自分は単なるセックスの相手だろう、となじられたことにも、まだ答えが出せないでいる。
だが、なにより日比野の声だった。
外見はまったく似ていないのに、声は恐ろしく似ている。
よく聞けば違うと解るのだが、とっさに呼びかけられたりすると、香澄と一緒にいると一瞬錯覚してしまうくらい、よく似ていた。

大浴場には、誰もいなかった。
西署のものより狭いが、造りは似たようなものらしい。
慣れた動作で黒羽が身体を洗い始めると、日比野がスポンジを手に近寄ってきた。

「黒羽さん、背中流しますよ」
「えっ!? いいよ」
「なに言ってんすか。流させてくださいよ。男のつきあいは裸のつきあいからですよっ」
「それは…さっきも聞いたが…」
黒羽は意味なくドギマギした。
男と裸でつきあったことなど何度もある。
もちろん彼が言っていることがそういう意味ではないことは解ってはいるのだが、黒羽にはどうも、その辺りの線引きが難しかった。
「されたこと無いから、いいよ」
「えっ!? 背中を誰かに流してもらったこと無いんですか?」
正確に言うと、香澄にラブホテルで全身を洗われたことならあった。
しかしあれは性行為の延長線上だろうから、彼が意味するところの『背中を流してもらった』には入らないだろう。
だいたい洗った後は、もう一回セックスする流れになっているのだ。
いくら洗ってもらっても、再びシャワーを浴びなくてはならない。

「そっかー。背中流してもらったこと無いんだ。じゃー、俺が最初か。光栄だなあ」
日比野は返事を待たずに、さっさと背中に回りこんだ。
黒羽は赤面する。
なにを風呂場で香澄としたことなど思い出しているんだ。
「うわあ…」
だが日比野の声が、何とか黒羽を現実に引き戻した。
「これ、あの…」
「ああ、傷か」
黒羽の背中には、大きく引きつれたような傷跡がある。
自分では見えないから、どんな感じなのかはよく解らない。
昔寝た男の一人は、翼をもぎ取ったような形に見えると、妙に詩的なことを言っていた。
「ホテルレオニスの火災の時に、怪我をしたんだ」

香澄と出会った事件。
冬馬に棄てられて、世界を失ったと思った事件。

「そっか! あれかあ。俺、まだ中学生でしたよ。でも覚えてます。大事件だったから。でかい火事でしたよね。テロリストが火をつけたんでしたっけ」
黒羽は口を開かなかった。
だが日比野はまったく気にすることなく喋り続ける。
「そっか。そうだよな。黒羽 高って言ったら、あの時の英雄じゃないか。強くて当たり前だって。すげーなー、すげーよなー」
日比野は勝手に喋って勝手にうんうんと頷き、黒羽の背中をスポンジで擦り始めた。
「名前だけはもちろん知っていたんですよ。黒羽さん有名人だし。でもほら、名前と実物って、そうそう結びつかないじゃないですか。実感がわかないって言うか。それにね、うちの署のあのうるさい女どもが、黒羽さんのことキレーだキレーだって、もうそればっかり」
黒羽の返事がまったく無くても、日比野は気にする様子もなく、一人でどんどん喋り続ける。
「そりゃ黒羽さんは本当に綺麗ですけどね。でもそんなの男の価値とは違うじゃないですか。男はやっぱり、強くなくっちゃ。
綺麗としか言われない男なんて、男じゃねえよって。ああ、すみません。今は思ってませんよ。でも、思ってたんですよ、最初は。でも、黒羽さんは男ですねえ。うん。立派な男だ。ねえ、黒羽さん」

「……あ、ああ」
男には間違いないな、と思いつつ、黒羽はやっと声を出す。
黒羽に対して、これだけポンポン話しかける男も滅多にいない。
大抵の人間は、反応の薄さに興をそがれて、だんだん口数が減っていく。
なのにこの男は、黒羽の返事があってもなくてもかまわないようだった。
香澄もよく喋るが、日比野よりずっとこちらの反応を気にかけるタイプだ。
無神経で図太い。
なるほど。
婦警たちが言っていた言葉に、今さらながら黒羽は頷いた。



「ねえ、黒羽さん。結構立派なモノを持ってますもんね」
「……えっ?」
何を持っているって?
「いや、だから。でかくて立派っすよ」
何が…と言いかけた後に、彼の視線の先に気が付いた。
彼は脚の間を覗き込んでいる。つまり大きいとは、ペニスのことに違いない。
「ええ…ええと」
ペニスのことを何か言われる。
黒羽にとってそれは、性行為を仄めかされているということだった。

誘っているのか?
まさか彼は、僕とセックスしたいのか?

困惑して、そっと後ろの男の顔を窺ったが、彼は口笛を吹きながら黒羽の背中を洗っていた。
違う。どう考えてもそれは違う。
自分がいくら鈍感でも、彼が誘っていない事くらい解る。
じゃあ何故いきなりペニスの話を?
黒羽はすっかり混乱がかかってしまった。
男は普通に、ペニスの大きさの話をしあうものなのだろうか。
自分も男なのに、その辺りがサッパリ解らない。
後ろを覗くと、彼の脚の間も見えてしまう。
黒羽はすばやく目を逸らした。
いくら自分がゲイでも、風呂場でいちいち裸に反応していたらやっていられない。
誰にでも欲情するわけではないし。
しかし性行為を仄めかされているのかと、一瞬でも考えてしまった後では、意識してしまうのも無理はなかった。
しかも、日比野は声が香澄に似ている。
このまま顔が見えないまま背中を流されていて、もしもペニスの話なんか続けられたら、まずいことにもなりかねなかった。

意識するな。と言い聞かせる。
彼は香澄ではない。誘ってもいない。

……だが。
香澄ではない、と頭の中で名前を連呼したのがまずかった。
逆にますます香澄を思い出してしまう。
しばらく彼に触っていない。最後にセックスしたのは二週間も前のことで。そのせいか解らないが、夢まで見てしまった。
香澄に触ってもらう夢。
香澄の手。香澄の唇。香澄の髪……。
そして香澄の……。
だめだ。何を考えているんだろう。香澄とは風呂場でセックスしたことだってあるんだ。お願いだから…。

「黒羽さん?」

香澄によく似た声で、名前が呼ばれた。
初めて風呂場でセックスした頃、香澄はまだ自分の事を黒羽さんと呼んでいた。
僕が誘って、彼は後ろから僕を……。


黒羽はいきなりすっくと立ちあがり、すたすたとシャワーブースに向かって歩き出した。
洗う対象を失って、後ろで日比野がずっこける。
「ありゃっ。どうしたんです。黒羽さん?」
「いや、いいから」
前に回られたら困る。非常に困るんだ。
これ以上その声で、僕の名前を呼ばないでくれ。

 

 

その夜ふたたび、香澄の夢を見た。
夢の中で香澄は裸だった。
どこかで夢だと半分解っているような、そんな類の夢で、あまりにもあからさまな自分の欲望に、情けなくなる。
それでも自分は香澄に手を伸ばした。夢でも彼に触りたかった。
しかし香澄は、少し首を傾げて不思議そうな表情をする。

『別にいいじゃん。エッチするだけの相手は、オレの他にもいるだろ?』

どこに? 香澄。

『他のヤツとすればいいじゃん』

他の人なんて、知らない。誰もいない。
香澄…………。

香澄は、遠く小さくなっていった。
もう彼の声は聞こえず、僕の声も届かなかった。



ふっと瞼が開くと、そこは知らない天井だった。
いや、ここは南署の独身寮だ。
夢と現実がふわふわと混じり合って、ほんの少しの間、意識の周辺をただよう。
夢の感覚はすぐに現実に負けて儚く消えたが、黒羽の心の中に、ぽっかりとした空虚が残されていた。

香澄に会いたい、と思う。
会いたい。香澄に、ひどく会いたい。

バカバカしい。まるでホームシックじゃないか。
もう子供ではないし、あとたった二日でまた西署に戻る。

けれど。もしも戻っても、香澄がいなかったら…。
ドキリとする。
そんな筈はない。確かに香澄はかなり怒っていたが、だからといって仕事を放棄するなどということは絶対にない。
しかし、自分は何度も経験してきた。
さっきまで隣にいた人間の命が、スルリと消えてしまう瞬間。
大抵の人は、明日も今日と同じように生きているのが当たり前だと思っているらしい。
けれど、自分は違った。
明日の事なんて解らない。
今日いた人が、明日はいない。
今いた人が、もう二度と還ってこない。

砂城は、そういう場所だった。
特に僕のまわりには、多いような気がした。
だから香澄。きみを護ろうと、そう思ったのに。
いま離れていることが、ひどく理不尽な気がした。

西署における犯罪対策の実例。
さまざまな事件の種類と実際例。特殊班の実績と今までの足跡。
黒羽は会議室の前に立ち、淡々と講義を進めた。
いつものように日比野が迎えに来たが、今日の早朝稽古は断わった。
素っ気ない態度の黒羽に、さすがに鈍感な日比野も軽く首を傾げた。
自分の態度は、間違いなく昨日からおかしなものに映っているだろう。
だから、何か遠慮のようなものをしたのかもしれない。
日比野は深くは追求してこなかった。

目の前のレポートを読み上げながら、黒羽は思う。
今日はこの講義と逮捕術実戦。午後からは射撃の実技指導。
明日の予定は何だったか。
とにかく明日が過ぎれば仕事は終わる。
仕事が終わることを待っているなんて、そんな気持ちは初めてだった。



前から3列目に座っていた理知的な顔立ちの若い男が、いきなりすっと手を上げた。
「なんですか?」
「質問があるんですけど。ええと、特殊班についてです」
講義は途中だったが、黒羽は彼の質問を受け付けることにした。
半分どこかに心を飛ばしながら講義をしている事に、多少の罪悪感があったからかもしれない。
彼は少し考えてから、立ちあがって質問した。
「捜査一係における特殊班の設立動機は、過激になっていく犯罪に対して、一種の示威行為も含んだものと伺いましたが、この認識は正しいですか?」
「そうですね、そういう部分もあるでしょう」
「ではそのやりかたで、実際に犯罪の抑制に効果があったのでしょうか?」
「あったという報告もされています。しかし、極端に犯罪が減ったという報告がないのも事実です。結局、制度にどの程度有効性があったか、効果が目に見えて解るようになるためには、ある程度の時間が必要なのではないでしょうか」
「しかし今のところ、特殊班は西署にしかありません。本当に効果が上がっているのだとしたら、他の署もその方法を取り入れていると思うのですが」
「署によって事情は変わってきます。西署に合った制度が、他の署に合うとは限りません」
「それは、つまり……」
青年は一瞬言葉に詰まったが、ふっと顔を上げて黒羽をまっすぐ見上げた。

「他の署には、あなたがいないから、なのではないですか? 黒羽巡査部長」

男の指摘に、黒羽はスッと眼を細めた。
「西署に特殊班が実績を持って成り立っているのは、黒羽巡査部長がいるから。あなたがいるから特殊班は機能している。だから他の署でやっても意味がない。そういうことなのではないですか」
「僕がひどく特異な存在だと、そう言っているのですか?」
黒羽の冷静な声は、男を少したじろがせたようだった。
だが彼は先を続けた。
「私にはそう思えます。黒羽巡査部長は、一種のスターです。本来警察は組織で動く。スターをあえて作り出そうとしたのが特殊班なのだとしたら、それに関しては確かに成功したのだと言えます。
しかし、あなた以外で特殊班で実績を上げたという人間を私は知りません。だとすると、その組織に意味はあるのですか?」

黒羽は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「組織の中にどんな部署を造るかは、流動的なものです。その場所に必要な部署が造られ、必要が無くなったら解体される。
特殊班が僕で保っているのかどうかは解りません。それは僕がいなくなった時に解るでしょう。僕がいなくなって、もしも形骸化するようなら、その部署は解体される。それだけだと僕は思います。
しかしいま機能しているのなら、それは必要なものなのだと、僕は思う。
必要だと思われて作られた組織も、時流や政策に合わなくなったら消えていく。しかし未来にいらなくなる組織だったとしても、過去が無駄だったわけではない。それに……」
黒羽は言葉を切って、それから何かを思い出すように視線をさまよわせた。

「僕は確かに目立つらしい。それは否定しない。けれど、だからといって特殊班には、僕一人しかいないわけではない。目立つ人間が一人いるから、他の人間はいないのだと、君はそう思っているわけではないのでしょう?」
今度は黒羽が、男の瞳をのぞき込むようにして見つめる。
「ああ…はい。それは」
男は黒羽の視線が眩しいかのように、眼を細めた。
「僕にもパートナーはいるし、彼はとても優秀だ。彼がいなかったら出来ないこともたくさんあった。君はパートナーに対して、そう思った事はないですか?」
「ありますが…しかし」
「しかし?」
「それは今の話と直接は関係がないと思います。特殊班は黒羽巡査部長が中心となって指揮をし、動いているわけですし」
「それは違う」
「…えっ?」

黒羽はかすかに笑った。
「僕のパートナーは僕の上司で特殊班のリーダーです。僕は彼の指示で動くし、彼の作戦に従う。現場における判断は、状況によって個人に任される部分もあるが、それは僕に限らない。
僕は目立つらしい。だから多分まだ誰にも見えないのだろうと思う。しかし彼はきっと光る。そのうち誰にでも見えるくらいに」

ひどく個人的な話になっているな、と黒羽は心の中で苦笑した。
けれど本当に思う。
僕は組織に所属しているように見えるが、気がつくといつも独りで立っている。
僕が目立つとしたら、それはイレギュラーだからなのだ。
本当に組織の中にいて、生きた仕事をするのは、きっと香澄の方だろう。

 

 

午後からの射撃の実技指導には、15人もの講習生が集まった。
講習を受けたいというより、射撃の天才、黒羽 高の実技を一目見たいという気持ちのほうが強かったようだ。
黒羽は南署の射撃場を見渡す。
ここには建物の外にも射撃練習場があった。
署としての規模は小さいが、西より敷地が広いのだ。

「ここは、もとは何の土地だったんだ?」
黒羽の独り言のような問いに、午前の講義で質問をぶつけてきた青年が答えた。
「何かの工場だったようです。使役品関係だとは思いますが。しかしこの辺りは居住区としてはギリギリなので、移転したようですね。建物は取り壊されて射撃場になっていますが、名残りが残ってますよ」
彼が指さした先には、3階建ての小さな廃ビルがあった。
多分そこが工場の事務所だったのだろう。
下の階の窓ガラスは割れ、コンクリートには亀裂が入っている。
全体的に荒廃した雰囲気だが、それでも上階の窓には板がきっちりと打ち付けられ、建物自体はかなりしっかりと立っていた。
「そうか…」
黒羽は少し考えてから、射撃練習をしていた講習生達を呼び集めた。
ほとんどは若い巡査だったが、ポツポツと黒羽より年上と思われる警官も混じっている。
神妙な顔をしている彼らを一瞥して、黒羽は口を開いた。

「これからゲームをしたいと思います」
「ゲーム?」
小さい騒めきがあちこちから漏れる。
「ただの射撃練習なら、みなさん慣れているでしょうから。少し毛色の変わったことをしましょう。
僕が呼ばれたのは凶悪犯罪対策ですから、そうですね、ファイブ・マン・セル(五人一組)で突入実戦をしましょう。僕がテロリストになります」
「テロリストは巡査部長一人ですか?」
質問が飛ぶ。黒羽は頷いた。
「そうです。ゲームですからペイント弾を使用します。ルールは単純。あそこの廃ビルのどこかに僕がひそんでいます。君たちが突入して、僕の動きを封じる形で確保するか、ペイント弾を僕の胴体にあてたら僕の負け。ゲームオーバーです」
「ペイント弾は、胴体にあてなくてはいけないんですか?」
「腕や脚は不可です。かならず身体の中心部分にあててください。つまり、頭から腹までですね」
「どうして腕や脚じゃだめなんですか?」
この質問に、黒羽はスッと笑った。
「腕や脚に銃弾があたっても僕は反撃できるからです。確保できないなら、完全に僕を無力化してください」
「それは、確実に殺せと、そういうことですか」
この質問はさっきの男からだった。彼の質問は、常に真ん中を突いてくる。
黒羽はまっすぐ男に視線を合わせた。

「そうです」

黒羽の言葉に、辺りは一瞬水を打ったように静かになる。
しかしすぐに、一人の男がそれを破った。
「時間制限はあるんですか?」
日比野だ。彼は決して沈黙の重さに負けない。
黒羽は首を振った。
「時間制限は無し。これはゲームですが、実戦の模擬戦でもあります。自由に作戦を立て、どこからでも攻撃してください。
突入班が僕を確保するか無力化させたら、警官の勝ちでゲームオーバー。
反対に僕が全員を確保するか胴体にペイント弾をあてたら僕の勝ちです。ああ、それとこれを人質代わりにしますので」
黒羽は言いながら、人体を模した射撃用のターゲット人形を持ち上げた。
「突入が必要になる立てこもりは、人質がいるのが普通なので。警官側は僕を倒すのと同時に、人質を守ってください。
人質にペイント弾をあてても、君たちの負けです。まあ人形だから、手や足にあてる所まではセーフとしましょう。しかし人形の胴体に当てたら、何人残っていても、そこでゲームオーバーです」

講習生は15人。
彼らは多少もたつきながらも、適当に3つの班に分かれた。
「どこの班がどう突入してきてもかまいません。ゲームオーバーになったら白旗を窓から突き出します。では、僕が建物の中に入ったら即時ゲーム開始なので、よろしく」
「あの、巡査部長」
黒羽が振り返ると、再びあの男が何か挑戦するような瞳で質問した。
「時間制限無しだと、長期戦になった時、大変なんじゃないですか?」
黒羽は答えずに、くるりと背を向けた。
「巡査部長」
「ならないよ」
「えっ?」
「長期戦にはならない。すぐに片がつく」

後ろで彼がどんな顔をしているのかは解らなかった。
しかし、火がついたことだけは確かだろう。
彼が手強い相手になることを、黒羽は望んだ。
   

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