香澄と柳の場合



 「何があったんだ?」
ぐらりと来て、それから…。白鳥は頭を振った。
知覚が一瞬途切れた気がする。しかし見回したそこは、さっきと変わらぬ穴の風景だった。
変わらない? いや…。
「葵! あおいーっ!」
社長の秘書が怒鳴り続けている。彼はいきなり白鳥のほうを振り向くと、大股で近づいてきた。
「おいっ!」
胸ぐらを捕まれ、体が引き上げられる。
「何が起きた? どうなった! 葵はどこだ!」
「どこ? どこって、いないんですか?」
「いないから聞いてんだ、畜生!」
秘書は白鳥の耳元で怒鳴ると、そのまま手を離した。白鳥はどさりと地面に尻餅をつく。
いない。確かにいない。どこにも。コウも。

いきなり背中に冷たいものが走った。
こういう時の自分のカンは大抵正しい。だいたい最初から、何かを感じていた。穴に入り、あの社長の後ろ姿を見た時に感じた不安。あれはこの事を暗示していたのか。
考えろ。白鳥は唇を噛んだ。オレだって勉強したはずだぞ。ジャンクにやられそうになって、病院で退屈して、あん時いろいろ調べたはずだろ?


思いあたることは一つだけあった。

『地層の変動』

空間が、オレにはよく解らなかったけど、捻れて移動してしまうってヤツだ。
滅多にないって聞いたけど、もうそれしか考えられない。
見回すと、確かにさっきまであった筈の、社長が覗き込んでいた奥の縦穴が無くなっていた。
どうしよう。どうすればいい? 

「あおいーっ!」
例の秘書がまだ怒鳴り続けている。
くっそう、ばかでかい声。耳に響くじゃんかよ。
「葵ーっ!」
行動を起こさなきゃならない。コウはここにいない。オレ…。オレが…。
「葵! どこにいる。聞こえたら返事をしろ」
「うっせえ! おっさん、ちょっと黙ってろ!」
言い放ってから、白鳥は手で口を塞いだ。
いっけねえ、怒鳴っちゃったよ。しかもおっさんだって。オレも相当カリカリきてんな。落ち着け、こういう時は、まず落ち着かなくちゃ。
しかし秘書は、恐ろしい形相で白鳥のほうに再び近づいてきた。
「探せ! 何してるんだ、お前」
なんだとう? 白鳥はムッとしかけたが、この人は外の人なんだ、と思い直す。
外の人。畜生、オレだってそうだったじゃん。
ちょっと前まで、それはすごく腹立たしい言葉だった。だけど今は…。ああ、もうそんな事に構ってるヒマか!



「闇雲に探したってダメですよ。まず今の状況を確かめなくちゃ」
白鳥が言いかけた時、作業員の何人かがバラバラとこちらに駆けよってきた。
「大丈夫か?」
「変動だろう?」
「変動? なんてこった。ここじゃそんなもの無かったのに。だいたいもっと深い所じゃないと、そんなに起きるもんじゃないだろう?」
彼らは口々に何か言い合う。
秘書は真っ青な顔になって今度はサルベージダイバー達を振り返った。
「変動って、なんです? 人が一人消えたんだ」
二人だよ! 白鳥は思わず心の中で突っ込みを入れた。
まあそうだろうぜ。あんたにとって大事な人は、たった一人だ。だけどオレにはそうじゃない。

ふたりだ。
オレが護るべき人と、それから、たった一人の、オレのパートナー。コウ。

二人を捜し出して、助けなくてはならない。
白鳥はダイバー達に何か聞いている秘書を横目で見あげ、心の中で舌打ちをした。
チッ、違うな。三人だ。このおっさん秘書もオレの管轄だ。
だんだん落ち着いてきた。そう、ここはオレが何とかしなきゃならないんだ。
一つ大きく息をつく。
コウは大丈夫。コウは任された仕事は必ず成し遂げる。だから、だから…。
オレは信じて、オレの仕事をすればいいんだ。

「還ってこないかもしれない?」
秘書のバカでかい声が響き渡った。ダイバー達は気まずそうに、お互いの顔を見合わせる。
「ああ、いや、その…。可能性の話だよなあ」
「だけど、今まで変動に巻き込まれて、生きて還ってきた人が少ないのは確かだろう」
「バカ、お前なんて事を…」
「オレ、聞いたことあるよ。誰もいないはずの土壁の奥からさ、爪でひっかく音が聞こえるんだ。だけどそれは幽霊なんだ。変動に巻き込まれて閉じこめられた人達の幽霊が、それでも助けを求めて、土壁をひっかいているんだって」



ダイバー達は無神経に、ぼそぼそと何か囁き続けた。秘書の顔にはすでに青筋が何本も立っている。
次の瞬間、いきなり彼は穴の奥に向かって歩き始めた。
「あっ! おい、じゃねえ。ええっとー。どこ行くんですか?」
白鳥は彼の肩に手をかけたが、ものすごい勢いで振り払われた。
「捜す!」
「捜すって一人じゃ…」
「一人でも捜す! 待ってなんかいられるか。葵。だから反対したんだ。こんな所に来るなんて。あいつがオレの前からいなくなるなんて。そんな事は…」
後半の言葉はほとんど独り言のように呟かれる。
まずい。まずいよ。このおっさんを一人で行動させて、また民間人を危険に晒すわけにはいかない。今こいつはオレの管轄なんだから、オレが何とかしなくちゃ。

「待ってくださいってば」
「うるさい!」
「落ち着いて、あなたが一人で勝手に動いたって…」
白鳥は右腕の一閃ではじき飛ばされた。
ふたたび地面にどさりと尻餅をつく。
くっそー…! でかい野郎め。オレをなめんなよ。
言って駄目なら腕ずくだ。
白鳥は地面から跳ね起きた。



「いいかげんにしやがれ、おっさん。税金払ってんなら、オレに仕事をさせろ!」
白鳥は秘書の後ろから組み付く。何か体術の心得があるらしい秘書は、そのまま白鳥の体を担ぎ上げ、軽々と地面に投げつけた。
だが白鳥も、だてに黒羽と組んでいたわけではない。
コウの投げのほうがするどいぜ!
受け身をとって地を転がると、向きを変えてそのまま彼の懐に飛び込んだ。
でかい奴は懐が開くのさ。
なんとも都合のいいことに、彼はほとんど黒羽とリーチが一緒だった。腕が伸びて、奥襟を取りに来る。
そう来ると思ったぜ。上背があると奥襟を取りたくなるんだよな。コウもそうする。だけどこれは柔道の試合じゃない。
白鳥は軸足を地面に叩きつけ、腰を回転させて右腕を前に突きだした。
ボディーブロー。ボクシングのパンチが見事に秘書の腹に決まる。
腰を入れて体重乗っけたから、いくらこのおっさんが頑丈でも、かなりキツイはずだぜ。ましてや裸拳だからな。
案の定秘書はうめいてよろけたが、次の瞬間、手刀が上から降ってきた。
「げっ」
背中を一撃されて白鳥は地面に転がる。
痛てええーっ。おっさんまだそんな力あるのかよ。

白鳥はすばやく起きあがると、腰の当たりに手をやった。
事件の犯人なんかじゃないけど、こうなったら警棒を使うしかないかもしれない。
たとえたたきのめして怪我をさせたとしても、一人で穴の中を歩き回らせるなんて事はさせない。
もっともこのおっさん相手にどこまで渡り合えるかは解らない。
ま、やるだけやってみるさ。後でコウの前で恥ずかしくない程度にはな。
二人は睨み合い、つかの間緊張が走った。



最初に均衡を破ったのは、秘書のほうだった。
「なにか…、方法があるのか?」
「え?」
「葵を探し出す方法が、何かあるのか」
押し殺したような声。白鳥はゆっくり言葉を選んだ。
「応援を呼ぶ。警察と、警備員と。出来るだけ多く」
「それで、見つかるのか?」
見つかる。
そう言ってしまいたかった。一般人を安心させるのも自分の仕事だ。
だがこの男になまじのごまかしは利きそうになかった。
嘘は言わない方が良い。
「解らない、だけど…」
白鳥は大きく一つ息を吸い込んだ。

「だけど、信じろ。オレじゃない。コウを信じろ。あんたの社長は一人で消えたんじゃない。コウが一緒だ。コウが一緒なら絶対大丈夫だ。あんたの社長は絶対死んだりしない!」
そうさ。コウはすごいんだ。あんたが知らなくても、オレは知ってる。
落ちてくる瓦礫から、炎の中から、ジャンクの牙から、いつでもオレを助け出した。
だから、こんな穴くらい大丈夫。
誰か護る人がいるならば、コウは絶対にその人を護って還ってくる。絶対に。

「お前の相棒を、信じろって?」
白鳥は大きく頷いた。
「ああ。コウが言ってたよ。あんた達がオレ達を、いや、コウをわざわざボディガードに選んだんだって。ホントかどうか、オレにはわかんないけど。
でも、もしそれが本当の話なら、信じろ! 
目は間違ってねえよ。あんたらが選んだ相手は最高だ。
あんたたち経営者なんだろ? だったら自分が選んだ下請けは信じろよ!」
秘書は目を細め、それからゆっくりと構えを解いた。緊張が彼の体から抜けていく。
「わかった。お前の言うとおりにしよう。俺は、税金を払っているからな…」




白鳥はホッとして、振り向き、ダイバー達に指示を出した。
秘書を待たせて穴の入り口近くまで戻り、そこから警察にも応援を要請する。
電話の向こうの声は、ほとんどひっくり返りそうになっていた。
ま、そりゃそうだよな。これで社長が見つからなかったら、オレ、どうなっちゃうんだろう。
ううん、まあそれは後だ。大丈夫、コウがいるんだから。
離れてたって、一人じゃない。それがパートナーってもんなんだ。

もう一度地下へ降りていくと、憔悴した顔の秘書が地面に座り込んでいた。
ああ、あんたはいま独りなのか。そう思う。いいスーツが台無しだぜ。
「応援を呼んだ。すぐ来るって。だからあんたは…」
外に。そう言いかけたが、じろりと睨まれて白鳥は口をつぐんだ。
だめだ。出ていきそうもない。まあ、そうだよな。あの社長、このおっさんの恋人なんだもんな。心配なんだろう。ものすごく。しかも隣にいたのに守れなかったんだから、その気持ちはよく解る。
…恋人。オレとコウだって、そうなんだけど…。


白鳥が近づくと、秘書はすらりと立ち上がった。
「指示を出せよ、坊や。俺はどうすればいい?」
「そうだな、じゃ、まず装備の確認だ、おっさん」
おっさんと呼ばれて、彼はじろりと白鳥を見おろした。
「おっさん、おっさんと連発するな。口の悪いガキだ」
「だっておっさんじゃないか。オレと20も歳違うだろ?」
「…18だ」
憮然と口の中で呟く。ううん、ちょっとだけいい気味だぜ。人のことさんざん坊や扱いするからだ。
「あんたがオレの事を坊やって呼ぶのをやめたら、オレもやめるよ」
話しながら二人は再び現場近くまで戻る。
迷ったら現場にもどれだ。鉄則だよな。


ダイバー達はすでに全員外に出され、その場には誰もいない。完全に二人きりになってから、白鳥は振り返った。
「そんで、おっさん、銃持ってんだろ」
秘書は軽く舌打ちをする。
「まだそう呼ぶか。わかったよ。それじゃ取引だ」
「取引? おっさん警官相手に取引持ちかけようっての? そりゃまずいよ。オレ警官になった時、宣誓してるもん。不偏不党かつ公正中立に警察職務の遂行にあたるって。
だからダメ。オレは個人取引はしない」
白鳥が腰に手をあててそう宣言すると、初めて秘書の顔に笑いのようなものが浮かんだ。
「おかしな坊やだな。けどまあ、正論か。だけどもったいない事したな。今まで俺と取り引きして損をしたヤツなんて、一人もいないんだぞ。まあいい。取引は無しだ。得もないし損もない。これでいいか、白鳥警部補?」
からかってやがる。やなやつ。だけどだいぶ落ち着いてきたらしい。
そうさ、少しは余裕が無くちゃ。でないと見えるものも見逃すかもしれない。

「じゃあ、ええと…柳さん?」
あっぶねえ、名前忘れるとこだった。柳さんでいいんだよな。どーも、あの綺麗な社長に比べると、印象が薄くて困る。
まあ、あっちが特別なんだろうけど。
コウほどじゃないが、目立ちすぎる人間が世の中にはいるって事だ。それにオレは、キス、もしちゃったしな。
「これから二人で行動する。横穴、縦穴、とりあえずあの近くに開いている穴を全て捜そう。応援はすぐ来る。だけどそれまでに、オレ達二人だけで、少しでも捜してみる。いい?」
柳は黙って頷いた。
「絶対離ればなれにならない。これだけは守ってくれ。解ってるよな。ここはお化けが出るんだって事」
「ああ、解ってる。お前が腰のものを使ってまで俺を止めようとしたのは、その為だろ?」
警棒使おうとしたの、バレてやがる。

「まあね、だからさ、銃出してよ。持ってないとか言わないでくれよ。ここは許可さえ取れば民間人でも銃が持てる。あんたみたいな人がここまで来て、銃を持ってないなんて、そんな筈無いんだから」
柳は何も言わずジャケットの下に手を入れると銃を取りだし、グリップを白鳥に向けた。
「葵が、嫌いなんでな。持ってない事になってる。だが、あいつが危ない目に遭うのは、これが初めてじゃないからな」
柳は微かに笑う。思ったより危ない男だ。
「グロック17。いいの持ってんじゃん。よかった。オレのと同じ9ミリ弾だ。45口径だったらどうしようかと思ってたよ。これさ、弾をこっちと入れ替えてくれ。ジャンク用だ」
柳はおとなしく弾丸を受け取ると、銃からマガジンを取り出して弾を入れ替える。
それを見ながら白鳥は大きく頷き、そして言った。

「大丈夫。絶対見つかる。オレは運がいいんだ」
柳が口の中でこっそり、変な坊やだ、と呟いたが、その言葉は聞かないことにしてやった。

 

 

明かりを灯し、まずは横穴からのぞいていく。
縦穴は後だ。下に行くほどジャンクが出る確率が高い。応援を待ってからの方がいい。
だけど、いざとなったら下にも行かなくてはならないだろう。
すぐ隣で真剣な顔をして、柳も穴の中をのぞく。
言われたとおり、自分から離れないでいてくれるのはありがたい。
すごく心配だろうに…。
オレはコウの実力を信じてる。そりゃ、不安がないといったら嘘になるけど、でもオレはコウをよく知ってる。
この人はコウを信じると言ったけど、でも、それでもきっと、オレの何倍も心配だろう。

「ねえ」
「ああ?」
「何か話そう。話してれば向こうに声が聞こえることもあるかも…」
「ああ」
肯定とも否定ともつかない返事を柳は返した。
「あの人、何度も危険な目にあってんの? えらい社長だから?」
「あってるな。一度や二度じゃない。今度だって俺は止めた」
「でも、止めきれなかった?」
「ああ、守るつもりだったからな。でもいつもこうだ。あいつは注意を怠り、酷い目に会う。そのくせちっとも懲りない」
「大変なんだ…。秘書って仕事も」
柳は急に振り返って白鳥を見た。

「お前が言うか? あの怖い相棒のパートナーのくせに」
怖い? なんか前にも似たようなこと誰かに言われた気が…。
「別に怖くないよ、コウは」
「そうかな、俺はそうは思わない」
柳の口も、なんとなく滑りがよくなってきた。
見つかるあてのないものを、ただ黙って捜し続けるのは、かなりのプレッシャーだ。やはり彼も何か話していないと不安なのかもしれない。
「男の恋人を持つことにかけちゃ、俺のほうがお前よりずっと先輩だ。だから大人しく忠告を聞いておけ。あいつは怖いぞ」
白鳥は上目遣いに柳を見上げた。
明かりはあるが、それでも横穴は暗い。
彼がどんな表情をしているのかは、よく解らなかった。
くっそう。コウと同じくらいの高さがありやがる。
オレももう少しでいいから背が高かったらな。

「あいつとつき合うなら、覚悟が必要だな」
「覚悟って…」
「俺が銃を持っているような覚悟さ。まあここじゃ銃なんて当たり前だろうから、よく解らないかもしれないが。だけど、そうだな…」
柳は黙って、少しだけ辺りの音に耳を澄ます。
しかし静かな暗闇は何も応えてくれなかった。
静けさは、奇妙に耳に痛い。


「そうだな、あいつは多分、俺とかお前とかとは、少しだけ違う世界に住んでいるんだ。砂城のアンダーに住んでいるとか、そういう事じゃない。俺にはなんとなく解る。そういうヤツも見てきた」
「なんの話だよ?」
「人殺しの話さ。あいつ、人を殺してるだろう? たぶん、何人も」
白鳥は唇をきつく結んだ。
「そういう顔をしてる。俺も内緒だが、葵を守るために、色々やった。だから、先輩としてお前に忠告してやるよ」
何をやったんだか、おっさん。いいのかよ。オレは警官だぜ。
だけど、まあいいか。ここは『穴』の中なんだから。
常識なんて、通用しない。

「あいつの世界を、出来るだけお前に引き寄せろ。そして、まあ、お前も少しはあいつの世界に歩み寄るんだな」
「よく…解らないよ」
「怖い目にあったら解るさ。きっとその時は、俺の言ったことを思い出す」

白鳥は柳の顔を黙って見上げた。
この人は、パートナー以外のコウのことを、何か解っているんだろうか。
オレが解らない、コウのことを。
パートナーじゃなくて、恋人の、コウのことを…。
急に、独りになった気がした。
コウが今いない。その事がいきなり胸に迫ってくる。
離れていても一人じゃない。それがパートナーという事だ。
パートナーだと思ってた時は、オレは独りじゃなかったのに…。

白鳥は無性に黒羽の顔を見たくなった。
コウに逢いたい。逢って抱きしめたい。
畜生。いなくなってから30分とたってないのに、何だってんだ、オレ。いつも隣に一緒にいるくせに。いつも、顔見てんのに。
…解ってる。時々コウは、ひどく遠い。そうさ、ベッドにいる時だって。

オレは今、穴の中で座り込んでた時のおっさんと、きっと同じ顔をしている。
『独り』になった顔。そんな、気がした。


「ねえ、柳さん、オレ聞きたい事あったんだ」
「なんだ?」
「さっきの話、柳さん否定しなかっただろ。コウをボディガードにわざわざ選んだって話。オレは半信半疑だったんだけど。それじゃホントのことなのか?」
柳は黙って歩き続ける。
「コウは言ってたよ。穴に来るためだって。その為に会議をここで開かせたとか。そんな回りくどいこと、っていうか、手の込んだことするなんて、本当なのか?」
「俺が言うと思うか?」
言わないだろうな。白鳥は黙る。
「…半分だけな」
「えっ?」
「半分だけ本当だ」
「は、半分で充分だよ」
白鳥は、がっくりと膝を落としそうになった。
まったく金持ちの考えてることは訳が判らない。
穴に来たいなら、ただ視察とか、観光とか(そう言えばアンダーのツアーって、復活したのだろうか?)いろいろ方法はあるはずじゃないか。
穴に何を求めているのか知らないけど、よりによってなんつう金のかかることを…。

「あとの半分は、お前の相棒に会うためだよ」
「………」
今度の言葉は、白鳥にはよく解らなかった。
何? 何言ってんだ、この人。 なんの話…。
「たぶんな。俺は葵の考えていることが全部判る訳じゃない。だけどあいつが黒羽高に会いたがっていたのは事実だ。穴に来るためだけだったら、こんな回りくどいことはしない。
あいつをボディガードに雇って、穴にも来る。その為の他の方法なんて、お前考えつくか?」
柳の声はなんとなく楽しそうだった。きっとその方法は彼が考えたのだろう。
「なん…で?」
「俺が知るか。葵がお前の相棒に入れ込んでる理由なんて」
ほんの少し吐き出すように言う。
「や、柳さん、コウが嫌いなんだ」
こんな話を聞いた後に、我ながら馬鹿なことを聞いていると思う。
だけどたとえ半分の理由だって、一介の公務員に会う為に、こんなバカみたいに金のかかる事をするなんて。
そんなかっとんだ話、ちょっと外さなきゃ、ついていけない。

柳は顔を押さえて、おまえなあ…と呟いた。
「好きか嫌いかなんて、わかるわけないだろ? よろしくお付き合いした訳じゃあるまいし。なに言ってるんだ」
「だ、だって、あの社長はコウが好きなんでしょ?」
柳はじろりと睨んだ。
「だってあんたがいま言ったんじゃん。社長がコウに入れ込んでるって」

「…お前が案外勘がいいことを忘れてたよ」
押し殺したような声。
うへえ、怖い。オレってばもしかして、なんか地雷踏んだ?

「俺には葵の考えは、本当の所はよく解らない。ただの好奇心だけでも、葵はやりたいと思ったことをやる。そして、それが無駄だったことはないのさ。
お前の相棒が最高なら、俺の葵も一流だ。だから葵があいつに会いたいと思ったのなら、それにはきっと意味がある。今じゃなくても、いつかきっと意味が出てくる。
それが何なのか、究極には葵にしか解らない」
柳はそう言うと、最後の横穴から本道へと滑り出た。



目に入る限りの横穴は全て確認を終える。あとは縦穴だけだった。
今のところジャンクは出てこない。だけど下に行くとなると、それほど多くの幸運は望めないだろう。
コウ。もしもコウ達が下に行ったのなら、見つかるまでの時間は、出来るだけ早いほうがいい。
「どうするんだ? 全部見たぞ」
柳が白鳥の指示を仰ぐ。
決断しなければならなかった。下に降りるか、応援を待つか。
助けは、早いほうがいい。どちらが早いのか、今の判断では解らなかった。

しかし白鳥は言った。
「下へ行こう」
大丈夫。オレは運がいいんだ、いつだって。
そうだ。今はそう思っているんだ。
オレのためにも、このおっさんのためにも。
絶望を胸に抱くことだけは、やってはいけない。

『正義の味方』になりたいのなら。




その時上の方から、ざわざわと物音が聞こえた。
人の声、人の足音。
静かな穴に、いきなり多くの人の影が差しはじめる。
「白鳥警部補、そこにいますか?」
上川さんの声じゃん、じゃあパートナーの高田さんもいるな?
「います、いまーす、こっち、こっち。これから縦穴に探しに降りようと思ってたんですようーっ」
「了解。装備は完了しているので、指示をお願いします」
仲間の声がこれほど心強いとは、思ってもみなかった。
白鳥は息をついた。

オレってば、そうとう気負ってたんだな。全部一人でやんなくちゃって思ってた。
だけど、いいよな。仲間が助けに来てくれるって。
本当のところ、オレは組織って、嫌いじゃない。
助けてくれる誰かが絶対いて、その人達と組んで大きな作戦をこなす。
窮屈だって思うこともあるけど、時には自分の腕がとても大きくなったように感じる時もある。
それは一人じゃ、絶対に持つ事が出来ない、特別の力なんだ。

 

 

白鳥の指示で、ありとあらゆる縦穴にはしごが降ろされ、警備の体制が整えられる。
そして穴の中には次々と、警備と救助のエキスパート達が降りていった。
白鳥は振り返った。
「柳さん、オレ達も行こうか」
「ああ、どこからだ?」
「空いてるとこからだよ。だって他の所は他の人達がやってくれる。そっちは信じて任せればいいんだ。だから、オレ達はオレ達の仕事をしよう」
「ああ、わかった」
柳は微かに笑みのようなものを口元に浮かべた。
「なんか、お前が運がいいって話、信じたくなってきたよ」
「信じてくれよ。絶対大丈夫だから。さ、動こうぜ。下に降りる時は気をつけてくれよ、柳さん。一応オレが援護するけど」
「坊やの援護なんかいらん、と言いたい所だが、まあ期待してるよ。それなりにな」
「それなりって何だよ…」

その時ふと柳が怪訝そうな顔をして首をひねった。
「柳さん?」
「おい、黙れ。もしかして…」
言われた瞬間、耳に驚くほど鮮明な声が聞こえてきた。

『香澄、聞こえるか』
「えっ、ええっ、コウッ!?」
コウだ。コウの声だ。心臓がドキリとはね上がる。だけど、なんで、いったい?
「バカ、ウチの盗聴器だ。お前あれ、葵から渡されて、そのまんまだろう。どこに発信機付けてる。ネクタイか?」
柳はいきなり白鳥のネクタイに向かって怒鳴りつけた。
「葵っ、いるのか、そこにっ」
なんつーでかい声。鼓膜やぶれる。
「うるせえ、おっさん」
「葵っ」
「うるせえって!」

怒鳴りながら泣きそうになる。
コウ。コウの声。心配した。オレ、本当はすっごく心配してたんだ。
信じてた。コウのことは。
だけど、それでも、すごくすごく、心配だったよ。
だって『地層の変動』は、どこにとばされるか判らない何も解明されていない現象だ。すがれるのは、本当にただ『運の良さ』だけだったんだから。
柳に邪魔されながら、白鳥は場所の確認をとり、救助のための指示を出し直す。


下に降りる用意を調えていると、柳が言った。
「間に合うか?」
白鳥は応える。
「間に合わせるさ。あんた達を守るのが、オレの仕事だもん」
「そうか。じゃ、頼む、坊や」
「オッケー、おっさん」
白鳥はロープを手に巻き付け、するりと穴に降りていった。

いま行くからな、コウ。
いますぐ行く。そんで、助けてやる。
オレ達、もう一度会って、もう一度二人になろうよ。

 

 


とんでもない騒動が終わって、病院だのホテルだの、バタバタ行き来した後に、ホテルの廊下で白鳥は、危うく柳とぶつかりそうになった。
「おう」
柳の手には飲み物のパックが握られている。
「あんたの社長、夜のパーティーに出るんだって? あきれた」
白鳥はじろじろと柳を見上げながら皮肉っぽく言う。
しかし柳は笑って受け流した。
「それが、俺達の仕事だからな」
「ああ、そっか。なるほどね。で、なにさ、それ」
「コーヒー牛乳。あの、わがまま大王。これじゃなきゃ嫌だって言いやがるんだ。いま飲む、すぐ飲むってうるさい、まったく」
「そう言いながら、嬉しそうだけど?」
「お前こそ、嬉しそうだろ?」
お互い様か。思わず笑う。

「俺は、あのじゃじゃ馬のそばについて、何とかするのが仕事なのさ。まあ、確かに大変だが、これも運命ってヤツだ。俺はきっと、いい運にあたったんだ」
柳は頷いて白い歯を見せる。
そうやって笑うと、なんだかすごくいいヤツに見えた。
「だから、まあ、お前もガンバレよ。お前の相棒も一筋縄じゃいきそうにないからな。高性能すぎる銃は、メンテナンスが大変だ。せいぜい暴発させないように気をつけろ。
お前があいつのホルスターになって、あいつをしっかり中に納めておくんだな。
おっと、ベッドではおまえ達、反対だったっけか? お前が拳銃で、あいつがホルスターか?」
柳は大声で笑い出した。
下品だぞ、おっさん。おやじギャグってやつかよ、あきれる。
しかし白鳥も、つい一緒に笑い出してしまった。

「いい運だといいな、お前の運命も」
「知ってるだろ、おっさん」
白鳥は笑いながら応えた。

「オレはね、運がいいんだ」

END

そして、黒羽と香澄