ヒドゥン・ゲーム



「むかつく!」
脱いだジャケットを床にたたきつけて怒鳴る。
「あの下品な野郎。何様だと思ってんだ。たかが小役人のくせしやがって。絶対ツブしてやる!」
白鳥香澄は目が点になった。
さっきまでにこやかに笑って談笑していたのだ。それがホテルの部屋に入った途端これ。
吃驚するほど綺麗な顔で怒鳴り散らされると、妙な迫力がある。
美形の男は黒羽で見慣れているというものの、この、くるくる表情の変わる男は黒羽とまったく違う。黒羽は『むかつく』なんて言わないし、こんな風に怒鳴ったりもしない。
「まあまあ。小物なんだから、おまえが相手にする程のこともないだろ」
社長秘書だという大柄な男が、ジャケットを拾い上げながら言う。
秘書ってずいぶん態度がでかいものなんだな。民間企業で働いたことなんかないから、よくわからないけど、社長に対して『おまえ』呼ばわりで良いんだろうか。
「あいつ、俺の尻に触ったんだぞ。それで、今晩お相手願えますか、とか言いやがって」
「なに!」
秘書の形相が変わる。
「ゆるせん! 一発殴ってやる」
今にも飛び出していきそうな秘書を、今度は社長が押さえる。
「だから、きっちり借りは返してやるからって。今ここでもめてどうすんだよ。まったくおまえって」
なんだかこの二人はただの社長と秘書じゃないらしい、と白鳥にも見当がついてきた。
黒羽は、と見るとドアの近くで黙って立っている。二人の動向には興味が無さそうだ。

アンダーで初めて大きな会議が開かれることになったのが発端だ。
アンダーにとっては、初めてサミットが来た小国のような騒ぎだった。
複数のVIPの警護なんか、マトモにやったためしがない。しかも礼典、式典の類にはおよそ縁のなかった場所だ。
上層部はパニックだったが、とりあえず下っ端はいわれたことをするだけだ。
白鳥と黒羽に与えられた命令は、千代田物産社長の警護だった。
民間人に護衛を付けるなんて特例だったが、千代田物産といえば砂城でこそ新参者で名前は知られてなかったが、日本有数の企業、冬馬グループと張り合う世界的にも有名なコングロマリットだったし、その社長は下手な政治家よりはるかに重要人物だった。もちろん自前のボディガードも引き連れて来ていたが、警察としても警護しないわけにはいかない。
まして、西署に社長を名指しで「殺害する」などという脅迫状が届いたときては、なおのことだ。例え悪戯だとしても、ことは警察の体面に関わる。

社長、というからてっきりおっさんだと思った。
写真を見せられて、驚いた。何処の芸能人だ? 歳は40近いというけれど、とてもそんなふうには見えない。いいとこ27.8。スーツを着ていても女みたいだ。
実際に目の前でみると、写真以上だった。背丈も程々だし、華奢だけど写真で見る程女っぽくはない。それでも、にっこり笑って挨拶するだけで、誰もがため息を吐いた。話しかける声も優しげで、およそ社長というイメージからはほど遠い。
コウだって、あんな風に笑えば同じくらい魅力的だろうに。でも良いか。コウが笑うのはオレの前でだけだ。
これで恐ろしく有能だっていうんだから、天は二物も三物も与えるんだな、と思わざるをえない。そういうとこも、ちょっとコウに似てる。
だけどこの社長はコウと違って自分の魅力を120パーセント活用してるみたいだった。
今まで怒っていたかと思ったら、白鳥を振り返って、にっこり笑った。
「ごめん。驚いた? みっともないとこ見せちゃったね。今日から3日間よろしく、白鳥香澄君。そちらの、黒羽高君も」
いきなりフルネームで呼びかけられて白鳥は驚いた。こういう人種はガードなんか『壁だ』くらいにしか認識してないものだと思ってた。それと同時に、なるほど有能な企業人というのはこういうものか、とも思った。この人にこういわれたら、たいていの人間は張り切っちゃうだろうな。ホンの一言でやる気を出させるなら、安いものだ。

「よ、よろしくお願いします。香坂さん」
ちょっと、声が震えちゃったよ。
この人についての資料は、一通り読ませられた。千代田物産がどんな事業をやっていて、どれだけ影響力を持っているか。この人にもしものことがあったら、困るのは社員だけじゃないこと。
「まあ、座って。この中まではそうそう不審人物も入ってこないだろ」
このイベントのために用意されたホテルだ。もちろん厳重な警備が敷かれている。
そう言って白鳥に椅子を勧めながら、秘書の男を見上げる。
「なあ、柳、俺、杏仁豆腐が食いたい」
「はあ? なんだよいきなり。ルームサービス頼むか?」
「やだ。セブンイレブンのがいい」
「おまえなー」
「買ってきてくれよ。ねえ、ここにもあるよね、セブンイレブン」
後半は白鳥に向けた質問だ。
「ありますけど」
「ほーら。なあ、いいだろー」
これが40にもなる男のセリフだろうか。白鳥はちょっとくらくらする。
「ちっ、わがまま大王」
秘書は渋々部屋を出る。
「あ、コーヒー牛乳もな」
黒羽は秘書に付いて一緒に出ていった。

一応建物は警備されているし、出かけたのは秘書で社長ではない。逆だったら二人で付いていくところだが、二人を二人でガードしている以上、妥当な選択だった。それに秘書の方は身のこなしに隙がない。かなりの訓練を積んだ男だろう。たぶん社長のボディガードも兼ねているのだ。素手だったら、白鳥など絶対敵いそうもない。それでも黒羽が付いていったのは、形式上のことだ。警察は、お役所なのだ。

「ふふ。邪魔者は追っ払った、と」
え?
いきなり至近距離に近づかれて、思わず仰け反った。
ほのかなコロンの香り。きっと高いものなんだろう。社長の清楚なイメージによく似合っている。もちろん特注の品だけれど、そこまでは白鳥にはわからない。
「君たちって、恋人同士なんだろ」
げっっ
なにを言い出すかと思ったら。
「そ、そういうあなたたちこそ」
「柳のこと? そうだよ。あれは俺の愛人。いい男だろ」
胸を張って言われてしまった。もしもし? そりゃ日本で同性愛は法律に触れるような事じゃないけど、でも、やっぱりスキャンダルじゃないのかな。いつのまに一流企業の社長が、ホモですって、堂々と言えるような世の中になったんだろうか。
「もちろん内緒だよ」
くすくす笑って。
この人って、変だ。きれーな顔はコウと似ているような気もするけど、中身は全然似ていない。人を振り回すのを楽しんでいるみたいだ。

「だからね。俺達のことは内緒。君たちのことも。こっちの部屋でなにをしても良いよ。バスルームも2つあるから」
「き、勤務中にそんな事しません」
「へえ、そう? 警察署のトイレでやったりしない?」
ぐっっ
「アハハ。図星だ」
なんてヤツだ。
「可愛いなあ、君。でも、あっちのおっきい子がネコだろ」
白鳥は目を白黒させる。なんでそんな事まで知ってるんだ。
「うふふ。千代田物産の情報網は警察以上だよ。けど最後のは俺のカン」

オレ達のこと、調べさせたんだろうか。でも何故? オレ達が警備に付くって決まったから? 警察の人間も信用しないのかな。まあ、この人たちくらい大物になればありそうなことではあるけど。
「なんで君たちのこと調べたかって、知りたい?」
テレパシーかよ!
「ま、それは後にしてあいつらが戻ってこないうちにいいことしよう」
そのまま顔が近づいて、
キス。
げ〜〜〜〜〜〜〜〜っ
ウソ、嘘だろ。
そりゃオレはコウとヤッてるけど、でもでも基本的にはホモじゃないぞ。
なっ、何考えてんだよこの人〜〜っ!
固まっている白鳥をよそに、社長は白鳥の首に腕を絡め、深く口づけてくる。いつの間にかしっかり白鳥の膝の上に座っている。
背丈は自分と同じくらいだけど、ずいぶん華奢だ。思わず背中を抱き締めて、白鳥は思った。ただ比べる対象が黒羽なのだから、たいていの人間は華奢に感じることには気づいていない。
キス、上手いな、この人。
げげげっ、と思ったくせに、なんとなくキスの上手さに引きずられる。
コウも上手いけど、こんな風に誘うようなやり方はしない。
社長の脚が、白鳥の反応してしまったモノに擦りつけられた。
ぎゃーーーーっ
ちょっと待て。だ、だめだよ。そんなことしちゃ。
思わず逃げようとするが、絡みついた腕が外れない。
「大丈夫だよ。あいつら、まだ帰ってこないから」
そういう問題じゃなくて、オレはコウ以外の男となんか…いや、反応しているのはその…っ…

「誰が帰らないって?」
いきなりドアが開いてドスドスと足音も荒く秘書の男が入ってきた。もちろん黒羽も続いている。
「ちぇっ、早すぎるぞ。いいとこだったのに」
「おまえなあ、かわいそうだろーが。若者をからかっちゃ」
慌てて立ち上がろうとする白鳥だが、まだ首にはしっかり社長の腕が絡みついていて、動けない。
黒羽は一言も口をきかないが、たぶん怒ってる。その証拠に白鳥と目を合わせようとしない。
「ほら、放してやれって」
秘書が社長を引き剥がしてくれて、ようやく自由になる。
情けない。すっかり手玉に取られてしまった。綺麗な男は見慣れてるはずなのに。それでもこの社長に比べたら、コウなんか天使みたいなもんだ。
「また後で、続きやろうねえ」
悪びれもせず、にこにこと笑いかける。恋人の前だっていうのに。
嫌だよオレはもう。
思いながら、不覚にも頬が赤くなっているのが解る。

ヤルならコウとしたいよ。
…って、仕事だからコウとは出来ないけどさ。

「どうだった?」
「ああ、さすがよく出来てる。建物から300メートル離れても全くクリアだったぜ。そっちの坊やの声も全部拾ってた」
坊やって、なんだよ。かちんと来る。にしても?
「これ」
白鳥の疑問に社長が応える。高そうなネクタイを裏返して結び目の辺りに付けられた小さなピンのようなものを外した。
「うちで開発した盗聴器。まだ試作品なんだけど。使う?」放って寄こす。
「受信機はこっち」秘書に擦り寄って耳の側から短いワイヤーのようなものを取り上げる。
「こら、葵。なに勝手なこと言ってんだ。開発部に怒られるぞ」
「まあまあ。これはねえ。こう掛けると」
言いながら白鳥の耳にワイヤーを引っかけた。また近寄られて、思わず身体を引こうとしたのに間に合わなかった。なんだかこの人には妙な支配力がある。
「耳の後の骨から直接音を伝えるんだって。よく聞こえるだろ。もともと補聴器として開発したものなんだ。それでね」
そう言って社長は唇の端を釣り上げて笑った。…怖い。
 「この素材は、『使役品』なんだよ」

 

 

「『穴』を見に行きたい」
きっぱりした口調で、白鳥を見据えて社長は言った。さっきまでのふざけた調子は微塵もない。そうか。こっちが本当の(かどうかわからないけど、少なくとも仕事用の)顔なんだな。
否、とは言わせない迫力。
「だめです」
即座に言い放ったのは、黒羽だ。
「あ、そう」
あっさりした返事。白鳥は一瞬、肩すかしを食わされたような気がした。だが。
「ならいい。君たちには頼まない。誰か他のガイドを雇おう。柳」
そうでしょうとも。
頼まない、とか言ってるけど、最初っから頼む気なんかないじゃないか。
どっちにしたって、自分たちが付いていかないわけにはいかない。
だとしたら、余分のガイドなんかいない方がましに決まっている。いざという時に護る人数が多くなるのはありがたくない。
白鳥は秘かにため息を落とし、黒羽は感情を殺した目で社長を睨んでいた。

くすくす。
葵の思い出し笑い。
全く、性格悪いんだから。
「かわいーよなあ、あのちっこい方の刑事」
「別にちっこかねーだろ。おまえと同じくらいの背丈だし、おまえよかたくましいぞ」
「イメージだよ。比較の問題。もう一人はすげーでかかったじゃん。きれーな顔してんのに、でかい男だよなあ。写真じゃいまいちわかんなかったよ」
「そうだな。も少し楚々とした感じかと思ってたな。顔は綺麗だけどなんかおっかない男だぜ」
「『レフトハンドショットガン』、イケてるネーミング。きれーな顔にデカい身体、とっつきにくい性格に派手なペットネーム。なにもかもアンバランスな男だよな」
何か葵のコンプレックスを刺激するものがあるんだろうか。やけにこだわる。
きっと背が高いとか強そうだとか、その辺りに拘っているんだぜ。
こいつ『男らしさ』にコンプレックスがあるからな。無いものを求めたって仕方ないと思うが。
だが少々ご機嫌をとることにする。
「その点、おまえはバランスいいよ」
柳は葵を抱き締める。肉の薄いしなやかな身体、小さな尻。キスしながら思う存分撫で回す。
「きれーな顔に華奢な身体、可愛い名前に底意地の悪い性格」
葵の目を見つめながら言う。
「ふん」
葵は顎を反らし、挑発するように笑う。
「それからとびきり淫乱な身体、だろ」
「それはあちらさんも同じみたいだけどな」
柳も笑って、ゆっくり葵の服を脱がせた。


白鳥と黒羽は別々のソファに座っている。
とりあえずアンダーで一番ましなホテルをリフォームした部屋だ。これも、関連会社のホテルが買い取って改築したという話だ。たった3日泊まるために、わざわざホテルまで用意するのかと、呆れる。もちろん、泊まっているのは社長たちだけではなかったのだが。
家具やテキスタイルは高級で趣味のいいものに変えられていたが、建物自体の安普請はいかんともしがたい。壁も薄いし、部屋自体も決して広くない。
そもそもアンダーは一年を通じて同じくらいの気温だったし、大きな音を立てる車や航空機の類が行き交うこともない。気温と騒音に対する備えが必要ないとなれば、必然的に壁は薄くなる。

ただ、今現在壁の薄さは白鳥にとって大問題だった。(黒羽がどう思っているのかは、よくわからない)
問題なのは隣の部屋から洩れてくるあられもない喘ぎ声だ。
まだ昼間だぞ。その上壁の薄さを考えても、相当デカい声だよな。なるほど。だからこの角部屋を指定したのか。なにもかも計算尽くだ。用意がいいったら。
あの社長が、ベッドで秘書に抱かれている姿が嫌でも目に浮かぶ。
ちくしょう。
こっちは仕事だってのに。
コウが目の前にいるってのに、仕事中だ。
恋人がパートナーだっていうのは、いいのか悪いのか。せめてここにコウがいなければ、心の中で楽しむことも出来るんだろうけど。本人を目の前にしてはそれも難しい。
その上コウはさっきから明らかに不機嫌だ。
他の男といちゃついているところを見られちゃあ、白鳥も言い訳出来ない。そんなつもりはなかったんだ、なんて言ってみたって白々しいだけだ。
気まずい。
そのおおもとを作ってくれた疫病神は隣の部屋でお楽しみ、ときては、情けなくて黒羽の顔が見られない。

「香澄」
いきなり呼ばれて、白鳥は飛び上がりそうになった。
「これは全部あの人の計画だと思うか?」
「全部?」
「僕たちを警護に付けさせたこと」
「ええ?」
そんな事、出来るんだろうか。
「アンダーに会議を誘致する、それに参加する、ぼくたちが彼らの担当になるよう手を回す。ついでに西署に強迫状でも送っておけば完璧」
「な、なんのために?」
「さっき言ってたじゃないか。『穴』に行くためだよ」
「えええ? それだけのためにこんな回りくどいことを? まさか」
「いかにもあの人のやりそうなことじゃないか」
そういわれれば、そうかも。あの社長には、世界征服のために幼稚園バスをバスジャックする悪役みたいなところが確かにある。怖いのは、それで本当に世界征服しちゃいそうなことだ。
「うーん」白鳥は唸る。「確かに」

 

 


「危ないところに行くからには、最高のガードを雇わなくちゃ」
 分厚い書類を投げて寄こしながら、葵は笑って言う。
「こんな面倒なコトするくらいなら、行かなきゃいいじゃないか。わざわざおまえが出向く必要が、どこにある」
渋い顔で柳は言い返す。
「だって、見てみたいんだよ。この世ならぬ場所をさ」
「まったく。千代田物産の最高責任者としての自覚は何処にあるんだよ」
「そんな事、問題じゃない。人生で一番大事なのは、『なんのために生きてるか』ってことだろ。だから見たいものがあれば何処までだって見に行くんだよ、俺は」
「はいはいはい。おまえのわがままは聞き慣れたよ」
「ほら、かっこいいだろ、この子。『レフトハンドショットガン』」
「だってこれ、警官じゃないか」
「絶対この子が良い。海里も言ってた。射撃の天才で、抜群に優秀だって」
「ちっ」
海里って、あの篁(たかむら)の跡取りか。篁は喰えない一族だが、香坂とは昔からつき合いがある。そしてそこのガキと葵は身体の関係抜きに、妙に仲がいいのだ。
そしてそいつが少し前から砂城に来ている事だけは知っていた。で、さっそく利用して砂城の情報を入れてくれたって訳か。
まったく余計なことを。
舌打ちして、それでも柳は考えを巡らせた。
まあいい。どうやって警官をガードに雇うか。これはちょっと面白いゲームだ。政治と経済のパワーゲーム。とにかく名目さえあれば良いんだよな。相手はお役所なんだから。

 

 


こういうタイプは好きじゃない。
黒羽は思う。あまり他人に関心を持たない彼にしてはむしろ珍しいことだった。
これは仕事だ。
自分たちに仕事を選ぶ事は出来ない。与えられた任務を、出来る限り完璧にこなすこと。それが全てだ。好きとか嫌いとか、そういう感情に左右されるべきものじゃない。
それでも。
黒羽はこの社長に対して不快な思いを抱くことを止められないでいた。
勿論、香澄を翻弄して楽しんでいたのも不愉快だ。でも、本当の理由はもっと別にある。

彼は、なんとなく冬馬涼一に似ているのだ。
もちろん、見た目は何処も似ていない。
冬馬も容姿の整った男だったけれど、こんなふうに性別不明な綺麗さじゃなくもっと男らしかった。声も言動もこの人はずいぶん女っぽい、というかひ弱な感じがする。そういうところは全然違う。
だのになぜかこの社長は冬馬を思い出させる。
世の中が何でも自分の思い通りになると思っている、そんな傲慢さ。しかもそれが単なる傲慢でなく実力に裏打ちされているが故に、余計始末が悪い。
目的のためには手段を選ばない。
自分の持つ権力とか影響力とかを十二分に把握し、行使する。そのやり方。

冬馬涼一は犯罪者だった。この社長はどうだろうか。たぶん、それはないだろう。自ら手を下して人を殺せば犯罪だが、例えば彼によって経済的に追いつめられた者が自殺したとしても、その原因を作った者は犯罪者ではない。道義的責任はさておき、法に触れる行為がなければそれを犯罪とは呼ばないのだ。
冬馬は、発覚しなければ犯罪ではないと思っていた。この社長はそんな危ない橋は渡らないだろう。どんなに悪辣なやり方をしようとも、法を犯すことさえなければ善良な市民だ。それが法治国家の原点なのだから。おそらくそうやって法に守られながら行動することを選ぶタイプだ。考え方によっては、冬馬以上にたちが悪い。
それでも、彼が善良な市民であり、ただの市民以上の扱いを要するVIPであるかぎり自分たちには彼を護る義務がある。
それが自分たちの「仕事」なのだから。
黒羽がもっと素直な男だったらため息を吐いていただろうが、彼はただわずかばかり目をすがめて、前を歩く華奢な後ろ姿を睨みつけただけだった。



中規模の『穴』を選んだ。
大したものが出なかったので、あまり拡げられることがなかった穴だ。地層の変動も少ない。まだ細々とサルベージは行われているが、有用なものが出るかどうか、望み薄だ。
『穴』のサルベージは、宝石の採掘に似ている。当たればデカいが、滅多にいいものは出ない。
しかもジャンクに襲われる危険と隣り合わせだ。
運が良ければ大金を手にできるが、悪ければ化け物に喰われる。
およそ割の良い仕事とは言いかねる。
それでも不法サルベージをやる者までいるのは、『使役品』によって得られる利益が莫大だからだ。実際、砂城の経済は『使役品』から上がる利益で成り立っており、アンダーに住む人々は多かれ少なかれそれに関わって生活している。
この『穴』では、今まで大したものは出ていないが、代わりにジャンクも出現していない。
『お客』を案内するには手頃な場所だ。 

客人は別に文句を言うこともなく黒羽に案内されるまま『穴』を降りた。
「ビデオで見たのと、大分違うな」
細い階段を下りながらぽつりと社長が言った。
白鳥は、びっくりした。『穴』を撮したビデオなんか、外にあったのか。一瞬そう思ってから、この人たちは特別なんだと思い直した。
自分は、長い間黒羽のことを想ってた。砂城のこと、アンダーのことも、知りたいと思っていた。でも、外で手に入る情報は、自分が子供だったことを差し引いても本当にわずかなものだったのだ。
『穴』のこと、ジャンクのことなど、およそ知られていることではない。
だけどそれなりの立場にある人間が知ろうと思えば、それは可能なことなのだ。なんといってもここは日本国内であり、特殊な地域であるとはいえ、基本的には日本の法律の下にあるのだから。
「そうだな。あれはもっと規模の大きな採掘現場だったんだろう」
「でもこっちの方がおもしろそうだ」
笑いを含んで言う社長の言葉に、白鳥はなぜかゾッとした。首筋が泡立つような感覚。ちりちりと胸の奥に生じた不安。
彼らをここに連れてきたのは、失敗だったんじゃないだろうか。
先に立って歩く黒羽は、どう思っているのだろう。

階段を下りきり、横穴にはいる。
きちんと整備された『穴』は、照明に照らされて不安の陰はない。そこで働く人も、これは日常の風景だと主張しているかのようだ。
「ふーん。思ったより明るいね。お化けが出そうな感じじゃない」
「出たら困る」
軽口をやりとりする二人。
『お化け』が何を指しているのかは、明らかだ。冗談にするようなことじゃないのに。

「もういいでしょう」
さっさと引き上げよう、と黒羽が促す。
それがいい。こんなところは、早く出たい。
「もう少し。こっちはどうなってるのかな」
白鳥の焦りをよそに、社長は奥の縦穴を覗き込む。
「やめなさい」
黒羽がその腕を掴んだ時、ぐらり、と視界が歪んだ。
『地震!?』
黒羽以外の三人は、一様にそう思った。彼らは頻繁に地面の揺れる土地で生まれ育ったからだ。
だが、砂城に地震はない。
砂城は日本であって日本ではない。
隔絶された場所。
真に、言葉どおりの意味でここは日本ではなく、地球ですらない。
地上に現れた異質なる場所へのゲート、人の理解を超えた空間だった。

 

 

身体がねじれるような不快感。
足下をすくわれて空に放り出された、と感じたのに、自分は確かに地面に立っている。その、違和感。
起きた時と同じく、唐突にその感じはやんだ。
黒羽は反射的に銃を抜き、葵を後に庇っていた。葵はその黒羽の腕に縋り、ようやく立っている状態だ。
「何、が起きたんだ?」
「分からない。こんなことは初めてだ」
油断なく辺りを見回す。
周囲の景色は一変していた。

そこは、明るい照明に照らされて作業員が働いていた場所ではなかった。
かろうじて辺りが見える程度の灯りはある。
「ここは? どこだ?」
黒羽の腕に身体を寄せながら、葵は辺りを見回した。
「おそらく、試掘のために掘られたまま使われていない坑道だろう」
考え込みながらゆっくりと黒羽が答える。低く小さい声。相変わらず、構えられたままの銃。
「戻れるか」
「わからない」
葵は携帯を取り出す。圏外の表示。やはりだめか。
「無線は?」
「繋がらない」
完全に孤立している。
黒羽はあらゆる可能性を考える。だがこの状況で、できることはただ少しでも明るい方へ行くことくらいしかない。
その間にも危険を知らせるシグナルが頭の隅に点滅している。ここは、危険だ。

「離れないで」
さっき起きたことは、ただの落盤や地滑りではない。
地層の変動。
砂城が特殊な空間であることの証の現象だ。
それに巻き込まれた経験のある者は殆どいない。何故なら、それに遭遇した者は、まず、生きて戻っては来なかったからだ。
時折新しく開けた『穴』や古い坑道から行方不明者の遺体が見つかることがある。それらは『変動』に巻き込まれた者たちだと考えられていた。
大抵はジャンクに喰われ、もしくは餓死か窒息死したものだった。
黒羽はそれを知っている。自分たちが助かることは難しいだろう。ついてない。それとも、これは大当たりなのか。
わざわざ『外』からやって来て、滅多にない現象を引き当てる。この男は疫病神か。最初に感じた通りに。
せめてもの救いはここが全く新しい場所ではないらしいことだった。人の手が加わった跡があるからには、何処かに繋がっている可能性もゼロではない。しかもわずかながら灯りもある。暗闇でないことは非常なる幸運だったと言ってもいい。

香澄たちはどうしただろうか。
彼らがこの変動に巻き込まれていなければいいのだけれど。
葵は黙って黒羽に付き従ってくる。
『外』の人間にしては、状況をよく理解しているようだ。なによりパニックを起こして騒いだりする人物でなかったことは幸いだった。
少しでも明るい方へ。
ここに出口があるとしたら、間違いなくそちらだ。

ざわりと悪寒を感じた瞬間、背後で小さな悲鳴があがった。
振り返った黒羽が目にしたのは、倒れ込む葵の脚に食らいついた猫ほどのジャンクだ。
とっさに蹴り飛ばす。
宙を舞ったジャンクに向けて銃弾を撃ち込む。このサイズならば一発で粉砕来るはずだ。
狙いどおり、ジャンクはバラバラに砕け散った。
葵の足下には、ジャンクの這い出てきた暗い穴が開いている。さっきまでは確かになかった。直径15センチあまりの小さな穴だ。だがその奥は底知れぬ闇に続いている。
黒羽は緊張する。ここは、そんなに地層の薄い場所なのか。いつ、どこからジャンクが這い出てくるか分からない。いや、こちらがそこへ落ち込むかも。
「立てるか」
「手を貸して」
よろよろと立ち上がろうとする葵を、黒羽は担ぎ上げた。この方が速い。
黒羽は、灯りに向けてひたすら歩いた。

かなり明るい場所へ出た。ちょうど広間のようになっていて、横穴がいくつか、下への縦穴と、上へ続く梯子がある。だが梯子はかなり古びて所々腐り落ちている。二人分の体重を、支えきれるだろうか。
ともあれ、この人の様子を見なければ。死んでるんじゃないだろうな。
ぐったりと黒羽に身体を預けたままの葵を地面に降ろす。
葵は息を吐いて辺りを見回した。
どうやら死んではいなかったらしい。少しほっとする。疫病神でも嫌な男でも、護るべき人を死なせるわけにはいかない。
かがみ込んで脚の傷を見る。
ざっくりとズボンの裾が裂けて血が靴を濡らしている。かなりの出血だ。急いで傷の上を縛る。

葵は壁に背を凭れ、上方を仰いだ。
「登れない」
ぽつりと呟く。
「え?」
「俺は、あれは登れない」
梯子のことを言っているのだと、ようやく気づいた。
「君が登って、助けを呼んできてくれ」
それが現実的な提案ではないことを、この男も分かっている。一人で残されたら、彼には身を守るすべがない。そのうえあれを登ったからといって、ここから出られるという確証もない。
「それはできない」
「そうか」
笑いをこらえたような声で言って、葵は俯いた。
肩で息をしている。傷が痛むのだろうか。最悪の可能性に、黒羽は恐怖する。
一人でここに取り残される。護るべきものもなく、たった一人で。

「彼、恋人なんだろう」
突然言われた言葉が、しばらく理解出来なかった。ああ、香澄のことを言っているのか。何故いきなりそんな話題が出る?
「少しくらい話してもいいよな。気を紛らわせてないと、ちょっと辛い」
話し声、息、血の臭い、全てがジャンクを引き寄せる要素となる。人を喰う化け物。『穴』の底からやってくる悪夢。それを知っての言葉なのだろう。

「君はパートナーと必ず恋仲になるんだな。彼が好きなのか? それともセックスが好きなのか」
銀縁メガネの奥で、わずかに瞳が細められる。
「そんな、嫌な顔しなくたって」
葵が笑う。
嫌な顔? そんな顔していただろうか。普段表情がないと誰からも言われるのに。
「君は分かりやすいなあ」
そんな事を言われたのも、初めてだ。

「綺麗な顔」
葵はゆっくりと黒羽の頬に手を伸ばした。細い指が頬を撫でる。
「綺麗で、強くて、クールな男? ふふ」
黒羽はじっと葵の顔を見つめる。きれい、と言われることは慣れている。でも、こんな綺麗な男から言われるのは、妙な気がする。黒羽は初めて白鳥の気持ちが少し分かったような気がした。
「全部、嘘だろう」
葵は黒羽に口づける。

この人は何故そんな事を言うのだろう。押し寄せる不安。
急に自分が頼りない子供になったような気がする。
両親を助けられなかった自分。
冬馬涼一に引きずられるまま『穴』を出るしかなかった自分。

 乾いて、小さく震えている葵の唇。熱い舌。

冬馬の言うままになんでもした。
一人で取り残されることが怖かったから。

 今も怖い。
 ここに一人で置いていかれることが。

 黒羽は葵を抱き締めた。縋り付くように

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