CASCADE

 

 千代田物産社長香坂葵はゴキゲンだった。
先日も利用したアンダーのホテルの一室だ。一人で使うには広すぎるスィートだが、そんなことを気にする社長ではない。
スーツケースから取り出して着たスーツをそこらに投げ散らかしたままソファに埋もれて、ボディガードに買ってこさせたアイスクリームを舐めている。
引き連れてきたボディガードは皆ドアの外に追い出されている。
ただ一人、部屋の中でドアの側に立っているのは、砂城アンダーの警察官である黒羽高だ。
「そんなとこに立ってなくていいから。こっちへ来て座れよ」
アイスのスプーンで招かれても、『はいそうですか』と座るような黒羽ではない。
それくらいは社長だって百も承知だ。
『ホントキレイな子だよな。ああやって立っているだけであれだけサマになる男ってそうはいないよ』
黒羽の横顔を鑑賞しながら安物のアイスを舐める。このスィートに泊まる客には不釣り合いな代物だったが、葵にとっては甘くて冷たければどれでも同じようなものだった。そんなものに余計な金を使うこともない。
今日の予備会談は上々の出来だった。
黒羽を引き連れた葵は、会場で注目の的になった。
もちろん千代田物産はこの会議の主催者でもあり、社長がメインキャストであることは当然のことだったが、それ以上のインパクトを招待客に与えたことは確かだった。
『やっぱりあっちの子を外したのは正解だったな』
葵は内心ほくそ笑む。
白鳥香澄といったっけ。若い方の刑事。幼い、と言った方がいい。
彼も悪くない容貌だが、二人セットになるとすごみが無くなる。
ジャ○ーズ系のバラエティタレントコンビみたいな印象になるのだ。
黒羽は一人でいると怜悧な刃物みたいな奇麗さがある。だけどあの相棒とコンビだと、その魅力は半減だ。
それがなぜかは、葵にはよくわかる。
この一見クールで冷徹に見える男が、実はあの幼くさえ見える相棒に精神的にかなりの部分を依存している。
それもまた、葵にとっては興味深いことではあったが、この際には邪魔以外の何ものでもなかった。

たぶん、自分も同じようなものなのだろうと、葵は思う。
柳に依存していることに関しては、俺はこの子を笑えない。
だからあいつが側にいる時、きっと自分は甘ったれた顔をしている。
柳を置いてきたのは、そういう意味もあったのだ。
この子と俺が二人並ぶと、誰でも目が止まる。ついでにちょっと息も止まる。
俺は根っからの商売人だから、この容姿も商売道具だ。それを活用する方法は120パーセント承知している。だけど、それ故にいささか手垢が付いている印象は否めない。
そこへいくと、この子はあまり人前に出たことが無い分擦れていない。
新鮮でビビッドなその美貌。
しかも一人になったことでこの子からは緊張と警戒と、わずかな不快の念が感じられる。それが彼の怜悧なイメージを増幅させる。
そんな青年と自分が常に同じ視野に入ることで周囲に与える影響を、葵は狙っていた。
余分なことを考えさせず、会議に雑音を挟ませないために、それはかなり有効な手段だ。
今回の会議は、迅速に事を運びたかった。根回しをしている時間もあまり無かったので、少々乱暴ではあるけれど効果的な方法を選択した。
『思った以上にうまくいきそうだぜ』
葵は空になったアイスのカップをゴミ箱の方に放り投げ、最後の一滴を舐め取ってプラスチックのスプーンをテーブルに投げ出した。←四十のおっさんがやっていると思うと…いかがなものか(^_^;

ゴキゲンな葵に比して、黒羽の方はとうてい上機嫌とは言いかねた。
なんだって自分一人が香澄と引き離されて警護を仰せつかったのかが、わからない。
砂城のアンダーでは刑事は二人一組が鉄則だ。常に命の危険と隣り合わせの仕事であるが故に、それは自らの身を守るためにも任務を遂行するためにも、固守しなければならない規則だった。
その規則が、いとも簡単に踏み躙られている。
それだけで気分が悪い。
しかも香澄と引き離されて一人だけこの我が儘な社長のガードをさせられるなんて、最低だ。
この間だって、彼のせいで危うくサルベージ坑の奥でトミーノッカーズになり損ねた。
ジャンク三匹に襲われて命があったなんて、奇跡以外の何ものでもない。
それだってこの男の気まぐれがなければ、遭遇しなくていい危険だった。
それでもあの時は香澄と一緒だった。
しかし今回は一人きりだ。
どうやって手を回したのか。
どうせろくなやり方じゃないだろう。
普段は自分に直接関わりのないことにはほとんど興味を持たない黒羽だったが、今日ばかりはお偉方のやり方に腹が立っていた。

この、何を考えているのかよくわからない男の側にいるのは気詰まりだった。
香澄に会いたい。
たった一日離れていただけなのに、彼が恋しい。
まだ後二日間は香澄の顔を見ることが出来ないのかと思うと、ますます気が重い。
香澄のことなんか考えたら、身体の底が疼くような気がする。
いつもはどちらかというと、香澄の方が積極的だ。行為に対して、というより、気持ちの上で。なんといっても香澄はやりたい盛りの二十才だ。それにやはりどちらかというと香澄の方が黒羽に惚れているのだ。
けれど。
香澄に求められるのは好きだ。
香澄とセックスするのが好きだ。
香澄はいつだって自分を求めてくる。だから、黒羽の方から求めることは、今はあまり無かった。
それなのに、たった一日離れていただけでこんなに香澄を求めている、と黒羽は少々複雑な思いだ。
そんなふうに他人に依存したくないと、常々思ってきたはずなのに。
でも、仕方ない。
セックスが好きなんだから。
そう考えて、黒羽は少し落ち着く。
その気持ちは後に思いがけぬ事態を招くことになるのだが、まだこの時点で黒羽にそれはわからない。

会議の予定は三日間だった。
今回の滞在はそれだけだし、前回と違って他に予定があるわけでもない。
柳が心配したような何事かの企みがあったのではなかったのだ。

とりあえずこの時点では。

 

 

 二日目は会議の本番だった。
丸一日、社長は精力的に会議に出席し、黒羽はそれに付き従った。
ひ弱そうな外見に反して、食事も取らずに会議会議でテンションが少しも落ちない社長のタフさに、黒羽はちょっと感心していた。
餅は餅屋っていうことか、と思う。
退屈でうんざりするような時間だ。もちろん黒羽は会議に参加していたわけではないので、内容に注意を払ってはいない。注意を払っていたのは、もっと別のことだ。
気に入らない男でも黒羽の仕事はこの男を護ることだ。
ここにいる限り、かすり傷一つつけるわけにはいかない。
それに、気に入らない、という印象もやや淡らいできていた。
我が儘で偉そうな男だと思っていたけれど、仕事中はいかにも有能で切れ者なトップエリートに見える。特に今回はあの秘書がいなかったので、たった一人多勢を相手に立ち回る姿はたしかに魅力的だった。
若く見えるし、女っぽいし、見るからに頼りなさげだからよくわからなかったが、この男は冬馬涼一よりも年上だったのだ。
前回の時はひな壇に座ってお飾りのように微笑んでいただけだから、気づかなかった。
あの時はただそういう役回りだったのだろう。
今回、精力的に働く葵を見て、初めて黒羽は彼を好ましいとほんのちょっとだけ思っていた。

黒羽の場合、『自分が何かを好きだ』と思う気持ちにフタをしていたため、自分の好みすらよく自覚していなかったのだが、彼は顔の良い男が好きだったし、実は年上にも弱かった。
早くに両親と死に別れたせいもあるのだろう。
父親とか兄とかを思わせるようなタイプが、弱点だったのだ。
だが、実際には黒羽に対してそういう態度で接してくる男はほとんどいなかった。
黙っていれば黒羽は結構威圧的な雰囲気の男だ。
抜群に整った容姿に、隙のない身のこなし。しかも、一見して何を考えているのかわからないクールな外見で、寡黙。
これでびびらない男はそういない。
男とは、常に自分と相手との力関係を測る生き物だからだ。
黒羽を全く恐れなかった男は、今のところ四人しかいない。
冬馬涼一と、香澄と、海里と、この社長だ。
あの社長秘書の柳という男でさえ、黒羽に対してはわずかに退く。
それが普通の反応だった。


冬馬涼一は、子供の頃から黒羽を知っていた。本当に兄のような存在だった。
香澄と海里は、よく似たタイプだ。まさに、『怖いもの知らず』という表現がぴったり来る。子供っぽさと大人の分別が矛盾せずに同居しているのだ。しかも何故か最初から黒羽のことを『好き』という目で見ている。
社長は、全然そういうタイプではない。
前回は初っぱなから香澄に手を出したり、あえて黒羽を挑発しようとする言動が疳に障ったのだが、今回はそういうこともない。
二人だけで長時間過ごしてみると、年相応の落ち着きもあり、周囲に対するさりげない気配りと強引なまでの行動の絶妙のバランスが鮮やかだった。
『確かに魅力的な人物なのかもしれない』と改めて黒羽は思う。
ずいぶん大きな会社の社長なのだという。警察の上層部に自分の都合をごり押し出来るだけの力があるのだから、相当なものなのだろう。
世俗のこと、まして外の世界のことには疎い黒羽には、千代田物産がどんな会社なのかよくわからなかったが、そのくらいの想像は付いた。
そのやり方は気に入らなかったとはいえ、彼なりの意味があってのことだと思えば(黒羽の顔を利用しているのだなどとは思いもしなかったが)最初ほど嫌でもなくなった。

黒羽の仕事に対して全幅の信頼を置いていることは、態度でわかる。
考えてみればこの前サルベージ坑でジャンクに襲われた時も、後に庇護われて少しも恐れている様子がなかった。パニックに陥ることも黒羽の邪魔をすることもなく、冷静で的確な判断をしてくれたのだった。
信頼されていると思うと、気分がいい。
『父親』というには少々若すぎたが、彼の社会的地位が年の不足を補って、黒羽はなんとなく父親に認めてもらったような気がしたのだ。
今までの上司の誰も、そういうふうに彼に接してはくれなかった。
もちろん彼の能力は誰もが認めていた。
けれど冬馬がいた時はその邪魔によって、いなくなってからは黒羽自身の問題によって、誰もが彼に対して距離を取っていた。
ものすごく有能な部下でありながら、上司たちは皆黒羽をもてあましていたのだ。


有能な部下を使いこなすためには上司自身も有能でなくてはならない、という見本のようなものだ。
だから年上の男に100パーセント認めてもらったのは、初めてと言って良かった。
それは黒羽の自尊心を擽ると共に、そこはかとなく暖かい気持ちで心を満たすものだった。

黒羽の態度が和らいできたのを、葵は敏感に察知した。
あの魅力的な笑顔こそ浮かべないものの、葵が近づくと『不愉快』と大文字で書いたように発せられていたオーラが消えている。
『かわいいよなあ』
葵は心の奥でにんまりする。
一見とっつきにくそうだが、この子の方が相棒の子より与し易いに違いない。
あっちはへらへらしているようでも、内実は柳と同じドリーマーな男だ。
そういうタイプは、思いこみが激しくて扱いにくい。
やはり切り崩すならこの子からだよな。
もちろん今のままでも充分役に立ってはくれるだろう。
黒羽は有能だし、白鳥はしっかりした男だ。どちらも一人では中途半端だが、二人揃えばこれ以上ない手駒だ。
なにしろこの子たちには『冬馬涼一を狩る』という大仕事をやってもらわなくちゃならないんだから。

『冬馬涼一』

その名前を思い浮かべるたび、葵は胸の奥をサンドペーパーで擦られるような嫌な気分になる。
薄気味悪い、あの冷たい手。冷たい目。
そして何より
あの男は多分自分とよく似ているのだ。
これが、自己嫌悪に近いものであることを、葵は承知していた。
自分の最悪の鏡像。
初めて会った時、もしかしたらこうであったかもしれない自分を見せつけられたような気がして、葵は吐き気がした。
幸いなことに――葵自身にとっても、世界にとっても――葵には冬馬が持つ『渇望』のようなものが欠けていた。
何かを『したいからする』というのと、『しなければならないからする』というのとでは、おおいに違う。
葵はずっと、『しなければならないことを最良の方法でする』ことしか考えていなかった。それによって自らを満たすことが目的であったことはなかった。
(まあもちろん『恋愛』はちょっと別物だ。それは完全にプライヴェートなものだし、自分が満たされない恋愛なんて意味不明だ)
だが。
今回は違う。
違う、と葵は明確に意識している。
 


 冬馬涼一。
俺はおまえが嫌いだ。
最初に会った時から、絶対にこの男を生かしてはおけないと思った。
それは俺の、個人的な感情だ。
こんなふうに誰かを憎んだことなど無かった。
憎む、というのはちょっと違うかもしれない。
ただひたすら、排除したい。
おまえがこの世界の何処かにいると思うと、気分が悪い。ゆっくりと眠ることが出来ない。指に刺さった棘のように、ちりちりと痛んで俺を苛だたせる。
だから。
おまえを狩り出して、始末してやる。
おまえに繋がる全てのものを叩き潰す。会社も、研究も、何もかもだ。
この会議だって、そのための布石だ。
 
そして。

葵は相変わらずドアの前を離れようとしない黒羽の横顔をうっとりと眺める。
この子も。

 そう。
冬馬涼一。
おまえの最大の誤算は、この子を殺せなかったことだ。
そのたった一つの失敗が、いつか必ずおまえを破滅に導くだろう。そう遠くない将来に。
そして、
黒羽高。
君の最高の幸運は、白鳥香澄に出会ったことだ。
彼は君の半身。君を導き、君を人として立たせるために、彼が必要だった。
それは多分、俺にとってもこの世界にとっても幸運だった。
君たちがいなかったら、おそらく冬馬涼一との戦いは恐ろしく厳しいものになったろう。俺とあの男がパワーでぶつかり合うことになったら、多大な損害が出るに違いない。
ヤツもいなくなるが、俺も生きていられるかどうかは怪しい。
多くの人を巻き込んで、死者も負傷者も嫌というほど出して、最終的にはこの砂城もアンダーも壊滅して封鎖することになるような、そんな結末を迎えるだろう。

だけどきっと、そんな事にはならない。
ここに君がいて、君には白鳥香澄がいるから。
君たちは、ここでつつましく暮らす人々の生活を護る「正義の味方」だからだ。

俺は冬馬涼一とは違う。
俺は、人々の暮らしを愛しいと思う。
それを守るために働く君たち「正義の味方」を、かっこいいと思う。
それを支えるために、俺は仕事をしている。そう、思っている。(だから聞いたら驚くほどの税金をちゃんと払ってるんだぜ)
俺はあの男と直接対峙して闘う必要がない。
それは葵にとって心底ほっとすることだった。
この闘いにおいて、表に立つことは絶対に嫌だった。出来ればあの男の顔も、二度と見たくない。
あいつだって、俺のことが嫌いだろう。
俺が邪魔だと、思っているはずだ。
俺を始末して千代田物産を乗っ取れば、どんなに気分がいいだろうか、と。
だけど。
あいつの野望は決して叶うことはない。
俺にはこの子がいるから。
今ここで俺を護ってくれているように、君は俺を護ってくれるだろう。

君と、君の恋人が。
俺とこの世界を。
あの最悪な男の手から。


「どうかしましたか」
珍しく黒羽の方から声をかけてきた。
余程ぼうっとした顔で彼を見詰めていたらしい。
「うん」
葵はにっこりして黒羽の側に立った。
「君があんまりキレイだから、見とれてた」
ちょっと困ったような顔で、黒羽が俯く。
ふふ。やっぱりかわいい。
最初の頃に比べたら、随分と表情が柔らかくなった。
綺麗だって言われることなんか、慣れてるだろうに。
それとも俺に言われるのは、ちょっとは特別?
葵は黒羽の手を取る。
ほんの少し、びくっと身体を強張らせて、それでも黒羽はその手を振り払いはしなかった。
葵はその手を握ったまま、ゆっくり身体を寄せていった。
『脅かさないように、そうっと』などと考えながら。
黒羽の胸に頭をもたせかけ、しばらくそのまま聞こえるはずもない胸の鼓動を聞く。

 ドキドキしてるかな?
この子はゲイだっていうから、男とこんなふうに触れ合って平気なはずはない。
まあ、普通の男だったらとっくに俺のことを抱き締めていると思うけど。
こっそりと脚を擦りつける。
黒羽の困惑が、伝わってくるような気がする。
振り払おうかどうしようか、悩んでるだろ。
君が俺に対してほんのちょっと好意を持ち始めてることはわかってる。
そうだな。
何しろあの坑の底で生死を共にした仲なんだから。
よく言うじゃないか。
命の危険にさらされるような体験をした二人に愛が芽生えるって。
さて。
今のとこ、これだけ近寄れただけでも大成果だ。
葵は黒羽の手を放し、一歩下がると
「今日はやっぱりちょっと疲れたな」
と言いながら黒羽に背を向けた。
肩すかしを食わされた態の黒羽は、ますます困惑してただ葵を見詰めている。
その視線を背に感じながら、葵は上衣を脱ぐ。
上衣をソファに放り投げて、いきなりベルトを緩めるとズボンを脱ぎ出した。

さすがに黒羽の目が点になる。
なぜいきなりここでストリップか。
今までこの部屋で服を脱いだりしたことはない。
寝室はちゃんと別にあるし、バスルームもそちらを使っていた。
「脚が痛い」
そう言いながら靴下を脱いで足首辺りをさする。
まだわずかに赤く残っている傷跡。
あれは、この前ジャンクに喰いつかれた後だ。
「医者を呼びましょうか」
感情を殺した声で、黒羽が呼びかけた。
どういう態度に出たらいいのか、わからなかったからだ。
「いや、いい。結構歩いたから、疲れただけだ。薬も持ってるから」
「そうですか」
「薬、取ってきてくれるか? スーツケースの中に入ってる。緑色のフタのヤツだ」
ソファに膝を立てて座り込んだまま葵は言う。黒羽の方を見もしない。

『人を使うことに慣れたもの言いだな』
と、歩き出してから黒羽は思う。命令でもなく、お願いでもなく、要求でもない。
当たり前のことを当たり前に言っているだけ、というようなさりげなさがある。
さりげなく人を従わせてしまうような、影響力があるのだ。

『涼一も、そういう男だった』
苦い記憶が甦る。
その内実を覗きさえしなければ、人当たりがよく有能で、頼りがいのある素晴らしい男…だったのだ。
誰もが彼の言葉に従った。誰もが、瞞されていた。
彼の影響力の支配下にあった時は、その言葉を疑うことは、「罪」だった。

この人は涼一に似ている。
 

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