正義の味方intermission3

黄昏の国


 マンションの廊下で、彼とすれ違った。
向こうはこちらにはまったく注意を払わず、まっすぐ前だけを見て通り過ぎる。
自分も振り向いたりはしない。
だがすれ違った瞬間、有栖川(ありすがわ)は口元に笑いのようなものを微かに浮かべた。

…そうか、あれが黒羽 高(くろはね こう)か。

確かに綺麗な子だ。
皮一枚の美しさに、自分は興味はないが、それでもあれだけ綺麗なら、それなりの価値があるというものだろう。
少なくとも、一般にアピールする、という価値が。
なにせ世の中の殆どの人間は、『見た目』を重視する。
大切なのは中身だ、などと口では唱えてみても、最初に判断するのは、表面がどう見えるか、だ。
だいたい中身なんて見えないからな。
有栖川は口の端で笑う。
だから、そういう人間達に自分の実験をアピールするためには、見た目の良さというものは、大切だった。
よく解らないけれど、素晴らしいものに見える。そんな『薄皮』

そう、何にでもそれなりの価値はある。
肝心なのはその価値に気付く事だ。

あの子は冬馬のマンションに何をしに行くつもりなのだろう。
冬馬涼一(とうまりょういち)は、もうあの部屋にはいない。
今は僕の手の中にいる。
黒羽夫妻の研究も、彼らの残したフロッピーとノートも、全てここにある。
自分の手の中に。
それは、とても素敵で面白い玩具。
全部僕が手に入れて、好きなように遊ぶ。

 

 

 冬馬涼一と最初にどこで出会ったのか、もう覚えてはいない。
どうでもいい事は全て記憶から消す事にしている。
余分なものが無くなれば、そこに開いた空間に、僕は自由に新しい書き込みをする事が出来る。
だから古いもの、いらなくなったモノはどんどん消去する。
それは気分のいい作業だった。
出来るなら自分自身のパーソナルな記憶も消して、空白にしてしまいたい。
だが、人を構成しているものは、そういう『古い記憶』を消し去る事を、簡単には許してくれないらしい。
だから子供の頃の些末な記憶は、まるでこびりついたカスのように、いつまでも自分の中に沈んでいた。



今でもぼんやりと覚えている。
何故か昼も夜も好きじゃなかった、そんな子供の頃。
日が落ちた後、暗くなるまでのほんの僅かな瞬間。
幽界が開く逢魔が時。
ぼんやりとした境目の時間。
そんなものが好きだった。

生命維持装置を体中につけ、延命措置をとらされているもの。
それは、自分の祖父だったのか、父だったのか。
多分忘れてもいい事だったのだろう。
姿は今でもくっきりと頭に浮かぶが、それが父なのか祖父なのかは、いっこうに思い出せなかった。
どちらでもいい。
自分がどんな生まれなのかなんて、追求したくない。
もしかしたら、両方だったのかもしれない。
体中からチューブが伸びたその姿は、とても人間とは思えなかった。
かつて話した事があるのかすらも定かではないが、その口は何も語らない。
食物を摂る事も出来ない。
瞳も開かず、本当なら呼吸さえも自力で出来ない。

これは『生きている』のだろうか?
それとも『死んでいる』のだろうか?
子供の僕は、その事だけに非常に興味があったように思う。

これは『境目』だ。

彼はいま、境目の住人なのだ。
彼がどういう状態にあり、何を夢見ているのか、誰にも解らない。

「明日、死んでしまうかもしれない」
そんな大人達の言葉を聞いて、なんとなくわくわくした事も覚えている。
もしも『これ』が、今にも死んでしまうと言うなら、その瞬間を見逃したくなかった。

どこまでが生なのだろう。
どこからが死だろう。
その瞬間が来るというなら、僕は見たい。
どこまでが生で、どこからが死なのかこの目で確かめたい。
僕はそれを強烈に望んだ。
だから病室から出る時は、いつでも名残惜しかった。
出来るならずっとここにいて、その瞬間を見逃さないようにしていたい。
もしも自分が去ってしまった夜のうちに、ひっそりとそれが訪れたら…。
そう思うといても立ってもいられない気持ちになったものだった。



だが、実際の臨終の場というのは、思ったよりつまらないものだった。
生命維持装置が引き抜かれ、呼吸と心臓が止まる。
医師が死亡を宣言する。
そんな、単なる儀式だった。
死の瞬間が見られると思ったのに、それは人が勝手に自分の判断で決めるものだった。
医者が死んだと言った。
だから今からが、死なのだ。

そんなものだったのか。
失望感が胸をえぐる。
だって、まだきっと体の細胞は生きてる。
心臓が止まって、呼吸をしなくなったと言っても、今の状態は、機械があった時と少しも変わらないじゃないか。
喋らないし、食べない。多分思考もしていない。
その状態から、単純に心臓が止まった時が死だなんて。
やはり納得できなかった。
心臓だって、細胞の一つだろう。他の細胞が生きているのなら、まだその個体は生きているのではないのか。

その瞬間解った。
死は、人にとって『儀式』なのだ。
とりあえず決めて、先に進むものなのだ。
だから…。死は面白くない。生も面白くない。
夜も昼も好きじゃない。
面白いのは『狭間』だ。
どこまでも曖昧な境目を歩いていく。
どちらにも落ちないように。
それが一番面白い。
この出来事が、今の僕を作ったわけではないだろう。
だがそれでも、切り離せない一部なのは確かだ。
ずるずると引きずって、歩いていくのも、きっと悪くはないだろう。

 

 

 ぴくりとも動かない冬馬の体を撫でる。
どう見ても死体だ。
ひんやりと冷たい体。脈をうつ事のない血管。
しかし不思議な事に、肌だけは生きているかのような張りを持って、なめらかに輝いている。
リビングデッド。生きている死体。
死と生の狭間に存在するもの。
この遊び場を提供してくれた冬馬には感謝している。
そして彼の体は、いま一番楽しい玩具だった。
一つしかないからメスで切り刻む事は慎重に避けているけれど、本当は開けてしまいたい。
しかし金の卵を産むガチョウは切り裂いてしまったら、ただの肉の塊に過ぎない事も知っている。
だから大切に、大切に、今はとっておこう。

冬馬は生きているのだろうか。
それとも死んでいるのだろうか。
今は死んでいるように見える。
休眠時間に入っているからだ。
だがこれが過ぎれば、彼は歩き、しゃべり、呼吸のようなものもする。(生存を維持するためのものではなく、喋るための空気の摂取らしい)
彼は狭間の住人なのだ。
何故彼は狭間に居続ける事が出来るのだろう。
ジャンクは生きていないと言われるが、それならば何故生き物のように動くのだろう。
そして、冬馬もジャンクも、何故生きているものを摂取する事が必要なのか。

解らない。
まだ解らない事だらけだった。
まあ、それが楽しいんだけどね。
有栖川は冬馬を見下ろして、にっこり笑った。
すぐに終わってしまう遊びなど、つまらないさ。



「永遠に生きたくはないか?」
冬馬はそう言って鮮やかに笑った。
どこだか記憶に残っていない場所で、彼は最初にいきなりそう問いかけてきた。
確か自己紹介すらもしていなかった筈だ。
「あなたの、不老不死に関する論文読んだよ。面白かったなあ。あなたは不老不死になりたい?」
「いえ、全然」
そう答えると、冬馬は爆笑した。
「じゃあ何で研究しているんだ?」
「面白いからです」
ああ、そうか。そう言って、もう一度冬馬は笑った。
「それはいい。うん、面白い事。それは一番大事だな」

力を手に入れたい訳じゃない。
長生きをしたいか、と問われれば首を傾げるだろう。
もっとも長く生きれば、余分に遊んでいられる。
そう言う意味において、早く死にたいとは思わなかった。

「だけど、大抵の人間は、ずっと生きていたいんだ。不老不死に興味のない奴なんていないさ。生きていたいんだよ。生存する事に意味も意義も本当はない。ただ、生きていたいんだ。それが生物の欲。欲望に意味なんて無い」
冬馬はベラベラと喋り続ける。
自分が生存し続ける事。
その欲を持っていないと、生物は己を維持する事が出来ない。
人だって例外ではない。
自分。自分だけが。自分一人が永遠に存在していたい。
自己愛の塊。
だが人は、そんな風に自分だけが大切なくせに、そのくせ一人でいる事に耐えられない不完全な生き物だ。
だから、冬馬。君も誰かが欲しいんだろう?
だから君は聞くんだ。

不老不死に、興味はないかと。

面白いね。
ジャンクはたった一体きりの存在で、同じものは決していない。
なのに、君と同じ存在を、君は作りたいんだ。
生き続けて、増える事。
それは君の、生物部分の欲なんだろう。
だったら、死者の部分に欲はあるのかな。

僕は知りたい。
僕は見たい。
それが僕の唯一絶対の欲望のような気がする。
別に長く生きたくはない。
増える事も望まない。
ただ知りたい。
生とは何か、死とは何か。
狭間には何が存在するのか。


生と死の明解な区別はどこにあるのだろう。
話して動く冬馬涼一は、生命維持装置に囲まれた『あの男』より、ずっと生きている。
きっと誰もがそう思うだろう。
心臓は止まっているのに。
呼吸をしていないのに。
彼は話し、動き、思考し、セックスすらもする。
だったら彼はいつ死んだんだ?
誰も彼にそれを宣言していないから、だから彼は動き続ける事が出来るのか。

『あの男』だって、体中の細胞が死に絶えてしまうその前に、細胞の一部をどこかに移して死なないように生き続けさせたら。
体の一部だけでも生き続けるのなら、それが完全な死と言えるだろうか。
どうせあの男の脳は、とっくに動かなくなっていた。
だったらあの時、もう巨大な細胞の塊だったんじゃないか。
巨大な塊が、ただ小さくなっただけ。
同じだ。思考しない、けれど生きている細胞の塊。

いや、しかし。
有栖川は、ふと笑った。
細胞の塊にも、もしかしたら記憶があるかもしれない。
それが完全に無いと言い切れるほど、人はまだ自分の体の事を知ってはいない。
命の秘密は、まだ人の手の中に入っていない。
その秘密のほんの隅っこに、やっと指先が届いた程度に過ぎない。
それも掴もうとすると、あざ笑うように逃げられてしまう程度のものなのだ。
でなければ、原因すらわからない難病が、これほど多くの人間を蝕んでいるわけはないだろう。
『あの男』の体は、チューブで覆われたりはしなかった事だろう。

 

 

冬馬の体をもう一度眺め、時間を計る。
今まで何体も実験を繰り返したが、結局形を保っているのは冬馬だけだった。
最初から拒否反応を示して死んでしまったり、全然効果のないものもいる。
一時は成功したように見えても、長くて一週間で、やはり崩れてしまう。
冬馬だけが特殊だったと言う事もありえるが、何かが足りないような気もする。
もっとも冬馬とて、完全な成功とは言い切れない。
ただ長く保っているというだけだ。

僕自身としては、本当はこのまま楽しく遊んでいたい。
出来るならヒントも見たくない。
けれど残念ながら、この遊びには膨大な金がかかる。
だからその為に、時々は成果を見せなくてはならない。
僕のために喜んで金を出してくれるような、何か見栄えの良い成果を。


あの子…。
黒羽 高の綺麗な顔が頭に浮かぶ。
冬馬が執着している男。
何故彼が思い浮かぶのだろう。
有栖川は、もう一度手元のノートとフロッピーを見つめた。
黒羽夫妻の残したものは、もうこれと、それからあの子供しかいない。
黒羽 高とすれ違ったあの瞬間を自分が忘れないのは、無意識のうちにその記憶が必要だと、どこかで思っているからに違いなかった。
でなければ記憶など、とっくに捨て去っている。
さて、それは一体なんだろう。
自分は黒羽 高について、何が引っ掛かっているというのだろう。

現在実験は、少々行き詰まっている。
何が足りなくて何が必要なのか、じっくりと考え直してみる段階に入っていた。
自分の頭の中に沈んでいる雑多な澱。
それをより分けて、宝石を見逃していないか捜してみるのだ。
それはそれで楽しい作業だった。

純粋なひらめきなどありえない。
無知な者に、本当に新しい考えは浮かばない。
ひらめきの全ては自分の頭の中に溜まったものから生じる。
だから自分が覚えている事は、必要な事なのだ。
黒羽 高の顔も、チューブだらけの男の姿も、黄昏の国をどこまでも歩いてみたいと思った子供の頃の自分も…。

彼が欲しいな。
有栖川は薄く笑った。
冬馬が執着している、あの綺麗な青年が。
研究のミッシングリンクを埋めるものではないかもしれない。
だがそれでも、何かのキィのような気がする。
黒羽の、残された最後の資料。
フロッピーとノートでは埋まらなかった何かを、彼の体が、彼の記憶が、もしかしたら持っているかもしれない。
彼がもしも手に入ったなら、楽しい玩具が増えるだろう。

冬馬が目を覚ましたら、無心してみようか。
あの子が欲しい。
手に入れてくれたら、きっと楽しく遊べる。
きっと、ずっと…。




知りたい。
僕は知りたい。
それは人に与えられた罰だ。
知恵の実を食した時、人間に与えられた罰なのだ。
人の持つ欲の中で、もっとも業(ごう)に近いもの。
たとえ毒でも、未知のものに手を出さずにはいられない。
人に与えられた『知りたい』という衝動。

知りたい。黄昏の国の秘密を。
生と死の狭間に、ぼんやりと立ち上がる陽炎のような国を。
まだ人の手には届かない、どこまでも遠い夢を、僕は見たい。

夜も昼も好きじゃない。
揺れ動く曖昧な境目を、僕は歩いていく。
どちらにも落ちないように、どこまでも歩いていく。
生と死の、その真ん中で、踊るように歩き続ける。

END

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