incident10−3


「何? あの辻ってヤロウ」
いきなり響いた声に、黒羽は少し驚いて顔を上げる。
廊下の角から、白鳥がゆっくりと姿を現した。
「香澄、来ていたのか」
「うんまあね、そろそろ面会も終わるかなって。ついでに話も聞いちゃったよ」
「話って…」
「ああ、綺麗な顔を見せて貰ってありがとう、辺りからかな。立ち聞きするつもりはなかったけどさ。でも出られないじゃん、あの雰囲気じゃ」
白鳥は小さく首を振ると肩をすくめ、それからハアッとため息をついた。
「だけどさあ…。あの辻って刑事、どうしてコウの事をあんなに目の敵にするんだ? 綺麗な男が嫌いな訳? いや、今のは冗談だけど」

「辻さんの家は警察一家で」
「へ?」
「親戚も家族も、みんな警察に勤めているんだ。それで、…彼の弟が、短い間だったけれど、僕の臨時のパートナーだった」
「へえ、特殊班にいたんだ。先輩じゃん。それで?」
「最初に組んだミッションで、彼は死んだ」
白鳥は一瞬息をのむ。
「パートナーだったのに、守りきれなかった」
「そそ…そんなことコウだけの責任じゃないだろう? そいつだって子供じゃなくて、立派な大人で警官だったんだから」
「そうだな、そうかもしれない…でも」
黒羽は何かを思い出すように目を細め、遠いどこかに視線を彷徨さまよわせた。

「僕が行く場所で、人が死ぬことが多いのも事実なんだ」


黒羽には、海里の無力感がよく解った。
今迄自分がしてきた選択。
何かある度にどちらに行かなくてはならないか、自分の前に現れる分かれ道。
その度に、いつでも自分はその時に思いつく限りの最善の道を選んできたと思う。
後悔も、苦しみもある。
けれど、その時はその道を選ばざるを得なかった。
間違った道を選んだこともあったけれど、選んだ事実は変えられない。
自分が今苦しんでいるのも、自分の選択のせいなのだ。
だから苦しいのは当たり前で、後悔することではないのだ。

だが、それでもいつでも思う。
なんて無力なのだろう。
どうしてこの手はこれほど小さいのだろう。
どんなに手を伸ばしてみても、それでも取りこぼしてしまうものがある。
仕方ない。
香澄の言う通りだ。
僕が全ての命を救える訳がない。
けれど、それでも。
自分の中に流れる無力感を吹き払うことは出来なかった。

少しうなだれた黒羽の姿を、白鳥はしばらくの間黙って見つめていた。
しずかな沈黙が廊下に流れる。
突き当たりの窓から見える空は、次第に夕方の色を濃くしつつあり、薄暗い廊下に燈っていた明かりが、くっきりと際立ちはじめる。
白鳥は一つため息をついた。
それから黒羽に近寄り、肩に手をかける。
黒羽が微かに顔をこちらに向けた。

すぐ近くで見る、メガネの奥の長い睫毛。
形の良い唇…。

白鳥は少し伸び上がり、耳元に口を付けるようにして、低く囁いた。

「コウ、セックスしよう」


 お互いの服を脱がせあい、ベッドに横たわる。
白鳥はただ目の前の快楽を追うように、黒羽の口の中を舌で探り続ける。
ムードがある訳でもない、目に付いたという理由だけで選んだラブホテルに、二人は入った。
いつも、ただセックスが出来れば良かったので、特に選んで場所を決めた事はない。
しかし今日は、海里を見つけたあの日に使ったホテルは、なんとなく避けた。

「あぁ…あ…」
声は無意識のうちに唇から流れ出す。
セックスの時にどうすれば男が喜ぶのか、黒羽は良く知っていた。
しかし戦略的にそれを使ったことは殆ど無い。
男を悦ばせるような行為は、身体に染みつき、意識しなくても表に現れてくる。
時にはまったくコントロールが利かなかった。

自分は娼婦ですらないのだ、と思う。
娼婦ならそういった行為は全て計算尽くでやるだろう。
商売なのだから。
見返りに応じた、相手が求めるサービスを提供する。
しかし、僕はなんだ?
節操も見境もない。

『どうしようもない淫乱め』

いつか冬馬に言われた言葉が、頭の隅を過ぎる。
その通りだ。
僕は…。
娼婦ですら…ない。

香澄の手と唇が中心に触れる。
身体はびくりと跳ね上がった。
舌が柔らかく欲望の亢りを舐め回し、黒羽の身体を熱くさせる。
香澄、早く…。
唇が動くが、香澄は動きを封じるように押さえつけ、ひたすら黒羽の身体を愛撫し続けた。
彼の身体に触れようと伸ばした手も遮られ、ただ感じることだけを要求される。
「あ…香澄っ。ああっ」

あの日、ホテルレオニスの廃墟で彼に抱かれた時から、香澄は少し強引なセックスをするようになった。
今までの何となく遠慮がちな、それでいて若く性急なセックスも心地よかった。
しかしこんな風に、相手に任せて引っ張られて行くようなセックス。
それは確かに黒羽の好みだった。
「もっと、身体、開いて…」
香澄が囁く。
黒羽はうっとりとそれを聞いた。

どうされてもいい、と思う。
乱暴に扱われてもいい。

しかし香澄は、けっしてそんな事はしなかった。
強引に見えても、僕を傷つけないように優しく挿入ってくる。
香澄のそれは熱く、自分の身体を押し開いて中に入ってきた。
「ああ…はっ…」
香澄が動き始める。
ベッドが音をたてて轢んだ。

優しい香澄。
熱く、激しく、綺麗な香澄。
君に犯されるのが好きだ。
こうやって抱き合って、香澄のものを中に入れて、感じることが好きだ。
香澄の息が荒くなり、汗が身体に落ちてくる。
何度も突き上げられて、熱が身体に溜まり、頭の中が白くなってくる。
僕はゲイである自分を、どこかで嫌悪している。
自分がこのようなのは、何かの罰であるような気さえしていた。
それでも、そのくせ僕は、こうやって男に抱かれ、貫かれることが好きなのだ。
男のものを受け入れて声をあげてよがる。
何度も犯されて、自分も頂点に達する。
もっと乱暴にしてくれてもよかった。
きっとそれが相応しい。

「あ…あああっ」
香澄の下で僕は射精する。
快楽が背中をゾクゾクと駆け抜ける。
ぐったりと力が抜けかけたが、香澄は足を抱え上げ、更に奥深くに挿入ってきた。
激しく何度も打ち付けられる。
「あっ、あっ、香澄…いい…」
息が弾み、自然とねだるように腰が動いた。

一瞬だけ…。
香澄にだぶって、辻の弟の顔が浮かんで消えた。
妙に恥ずかしそうな、はにかんだ笑顔。
静かで印象の薄い男だった。
おずおずと、優しい手で自分を抱いた。
辻はその事を知っていたのだろうか?
彼が僕と寝たことを。
だから、あんな風に言うのか。

香澄が上から覆い被さり、キスを求めてきた。
噛みつくような情熱的なキスに、意識が現実に戻る。
「コ…ウっ…」
小さく名前を呼んで、香澄が自分の中で達するのを感じる。
「香澄…」
「コウ…。ダメ、だよ。オレの…事だけ見て」
汗で濡れた香澄の顔が、すぐ近くにあった。
荒い呼吸と鼓動を感じる。
「うん…香澄…」

君のことだけ見ていよう。
今この瞬間、君がここにいることが、僕は嬉しい。


そう、あれが最後のチャンスだったのだ。
過去の話をした時、香澄があの時の少年だと解った時、僕は本当はすぐにでも逃げ出したかった。
子供。僕の中の綺麗な子供。
それを僕自身が穢してしまったような気がしたから。
でもしてしまったことは取り返しが付かない。
僕は最初から香澄とセックスをする可能性を考えていたのだから。
僕は自分とパートナーになった男と、必ず寝ていたのだから。
いつか望んで香澄と寝てしまうことなんて、分かり切っていたことだった。
だから今度は、香澄はあの少年じゃないと、そう思おうとした。
そう思いこもうとして、更に僕はセックスをした。
だがもちろん、そんなことは不可能だと解っていた。
僕の周りには死が取りまいている。
そして僕自身も、いつでも向こうに行くつもりでいた。
だから…。
だから香澄を僕の周りから遠ざけようと思ったのだ。

ホテルレオニス。
事件はそこから始った。
僕は香澄から離れようと、そしてもう一つ、あることを確かめる為に再びその場所へ足を運んだ。

香澄を殺したくはなかった。
僕の死の影に巻き込みたくなかった。
体温の無い男。
ホテルレオニスにあった焼け焦げ。
今すぐ香澄から離れなくてはならないと思った。
あれが…、彼から離れる最後のチャンスだった。
しかし、結局僕は香澄の前から消える事も出来なかった。
彼は僕を追ってきた。
追って、殴られて。
キスされて、抱かれて。
僕はその全てが嬉しかった。
後ろを振り返えり、彼の姿を見つけた時の驚きと喜び。
彼を愛しているかどうかは解らない。
僕には愛という言葉の意味が解らなかった。
誰かに心を預けてしまうような行為は恐ろしかった。

でも結局僕は、彼を手放す事が出来なかったのだ。
彼を受け入れることが嬉しかった。
体は喜びに震えて、何度も何度も達した。
いて欲しいと願ったのだ。
彼が死ぬかもしれないのに。
それでもエゴイストの僕は願ったのだ。

香澄。香澄…。
どうしよう。
香澄が欲しい。
香澄が好きだ。
どこにも行って欲しくない。
いなくなるなんて事は、考えたくない。


そして…。
僕は、決めなくてはならなかった。
時間は動き始めてしまった。
別れる事が出来ないなら、僕は絶対彼を守らなくてはならない。
遠ざける事により彼を守る事が出来ないのなら、僕は自分の命を引き替えにしても、彼を護らなくてはならない。

僕が香澄の命を助けた。
僕が香澄を近くにいさせた。
僕がセックスを望んだ。
全て自分の選択。

香澄に抱かれたいと思っている。
香澄の熱いモノが身体の中に入ってくると、たまらなくなる。
好き。
好きになるのは怖い。
それでも離したくない。
僕の我が儘。僕の欲望。
だったら僕が守らなくてはならない。

香澄、僕が生きている限り、死なせたりしない。
今迄、誰の命も同じように救いたいと思ってきた。
だがこれからは、最初の手は香澄に差し出されるだろう。
僕は何かあったら、全てをおいても香澄の命を優先させるだろう。

その事でどんな非難を浴びることがあっても、僕は後悔しない。
僕はしなくてはならないのだから。
彼を手放すことが出来ないのなら、僕は絶対に彼を護らなくてはならない。
引き替えに…僕が死んでも。


涼一、君からも護ってみせるよ。
僕の時間は、まだ涼一に握られているような気がするけれど。
涼一に会って、全てを終わらせよう。
ずっとそればかり考えてきたよ。
でももう、黙って死ぬ事も、ただ涼一に殺される事も出来なくなった。

自分がどうしたいのかは、やはりよく解らない。
でも香澄を護る。
この手も、この身体も、命も、全て香澄を護る為に消費しよう。

時間は動き始めてしまった。
僕は決めなくてはならず、そして今度も選択した。
引き返すことの出来ないみちを…。

 

 

「海里〜、あのさぁ〜」
そ〜っとという感じで、病室に松本が入ってきた。
「何だよ、おっちゃん」
咄嗟に手に持っていた名刺を布団の中に隠してしまう。
いや、別にナイショにすることもないんだけど、なんとなくな。
「黒羽さんと何かあった?」
「何かって…なに期待してんだよ」
「だって、二人っきりになりたいとか言ったじゃないか」
海里はため息をついた。
「おっちゃんなあ、自分がホモだからって、全部の男がそういう関係になるとか、考えない方がいいぞ。そりゃあ黒羽さんはとんでもない美形だけどな。
でもオレはホモは嫌いだし、あの人は男、解った?」
「そっかー」
でもねえ、と呟きながら、おっちゃんは花で綺麗に飾られた花瓶を窓際の棚の上に置いた。
「でも、なんだよ?」
「ああいや、海里にゲイのケがないのは個人の性癖だから、どうでもいいんだけどさ、あっちはどうかな?」
「どういう、意味だ?」
オレはつい乗りだして聞こうとしてしまった。
何故かはもちろん解らないのだが、何となく胸の奥がざわざわしたのだ。

「花瓶の水取り替えに行ってさ、ちょっと見ちゃったんだよね。向こうの、廊下の奥で」
「な…何を」
「たいしたシーンじゃないんだけど、雰囲気がねえ。こう何て言うか…。
多分同僚の刑事だろうな。さっき一緒に入ってきたオジさんとは違う人。もっとずーっと若い子だった。結構可愛い顔してたよ」
「その男がなに?」
なんとなくぶすったれた顔になってしまう。
「すごく親しげに肩に手をかけちゃったりしてさ。顔を覗き込んで、何か耳に囁いてた」
「仕事の事じゃねえのか? 同僚なら親しくても当たり前だろ」
「いや、そういう感じじゃなかったなあ。あの親密さ。まるで恋人同士みたいに…」
松本は一つ大きく頷いた。
「うん、多分間違いないね。ゲイの勘がこうビビッと告げてる。あの二人絶対デキてる」
「バカか!」
海里は思わず怒鳴って、布団を頭の上まで引きずり上げた。

「海里くん、何怒ってんだい?」
「怒ってねえ!」
「怒鳴ってるじゃないか」
「そんなの、おっちゃんの勝手な想像だろ。それ以上言うなよ」
「あ、ああ…。うん、解ったよ。海里、あまり興奮しない方がいい」
「してねえって!」
「足に、あまり刺激を与えない方が、いいから…」
松本の言葉に、海里はいきなり黙り込んだ。
耳が痛くなるような沈黙が束の間流れる。


「海里…海里くん」
松本の声が柔らかく響いた。
海里は布団を被ったまま沈黙を続ける。
「海里くん。よく、頑張ったね」
盛り上がった布団の塊は、微かに震える。
「なん…だよ、その言い方」
「ああ、いや。海里は正しい選択をしたんだ。あんたカメラマンになるんだろ? だからあちこち歩いて、大きな特ダネをものにしなきゃ。
そして僕に100回寿司を奢ってくれるくらい金持ちにならなくちゃね」
松本は優しく微笑む。
「ああ…」
擦れたような声が、布団に中から聞こえた。
「同じ事…言うんだな」
「…えっ?」
「おっちゃん、おっちゃんさあ。オレ、カメラ持ってたんだよね」
「何だい?」
「中古でさあ。いいカメラ買ったの、オレ。36回払いなんだけど。それを…バカだろ? あの夜も首からさげてたんだよ」
「あの夜って…」
松本は言いかけて黙る。

「エロビデオ返しに行くだけなのに、カメラなんて下げてったんだよ。まだまだ足元にも寄れないけどさ、でも、少しでも夢に近づきたくて。
それ…に。もしかしたら…どこかで特ダネに出会えるかもしれないだろ? ち、チャンスはいつ来るか…わ、解らないからな…」
「そうだね、そうだよね、海里くん。僕もそう思うよ」
「思うだろ? 思う…よな。なのに…オレ。シャッター一つも切れなかった。こんな、すごい事件にでっくわしたのになあ。間が…悪いったらねえよ」
声には涙が混じっていたが、次第にそれは力を持った声に変わっていく。
「カメラ、ダメになっちゃったよな。絶対。だけど、オレは生きてる」
「海里?」
「おっちゃん、オレ、強くなりたい…。今度こそ。こんな思いはしたくない」
身体は布団で隠れていたが、海里の声からは恐ろしいほどの決意がにじみ出していた。

「なあ、あいつ…誰だ? 寄りかかった男。身体が冷たかった。まるで死人のように。オレの足をダメにしたものは、何だ? 医者もハッキリとは説明してくれなかった。
なあ、何かある。絶対何かあるだろう? オレはそれを知りたい」
「海里、でもあの刑事が…」
言いかけた松本の言葉を、海里の声が力強く遮った。
「あいつが言ったのは、オレがあの事件の被害者であることをけっして明かすな、だ。事件を追いかけるな、じゃないぜ」
松本はその声の強さに圧倒される。

「オレは、絶対にこの事件を追いかける。カメラは死んだけど、オレは生きてるんだ。だから足が治ったら、この足が動くようになったら、必ず追う。追いかける。そして本当は何が起こったのかを全て暴露あばいて、この目に焼き付けてやるんだ」


強くなる。
毅くなりたい。
そして今度こそ、誰にもオレが見た真実を曲げさせたりしない。
最初の真実は、あの人が覚えてくれているだけでいい。
だけど今度あの人に会う時は、一人できっちり立っていたかった。
大人の男になって、あの人の前にもう一度立ちたかった。

海里は今、自分の前に一つの道が、ハッキリと広がっていくのを感じていた。

 

 

「コウ、ねえ」
ベッドの中にうつ伏せながら、白鳥は隣に横たわる黒羽の身体に手を伸ばす。
ほんの僅かだったが、黒羽の身体が、一瞬びくりと引かれた。
だが白鳥はそのまま伸び上がるように顔を近づけると、黒羽の唇を奪う。
一度重ねられてしまえば、その抵抗が嘘だったかのように、黒羽の体は応えてきた。

もう、何度目のキスだろう。
いつからオレはキスの回数を数えることをやめたのだろうか。
コウとのキスの味。
熱い身体。
何度行為を重ねても、もっと触れたい。

コウ、ホテルレオニスのあの時も、こんな風に身をすくませたね。
まだ何かが怖いのか?

でもあれ以来、コウはオレから逃げなくなった。
もちろんオレは逃げることを赦すつもりはない。
でも、あの時ふたたび二人で廃墟から降りて、そして抱き合った時、確かにオレは、コウの何かを連れ戻したのだった。
ほんの、一部かもしれないけれど。
それでもコウの何かが、オレの傍に寄り添っているのが解った。

「ずっと、聞こうと思っていたんだ」
「香澄、なに?」
コウの声は驚くほど甘い。
もっと呼んで欲しかった。
「うん…。なあコウ。どうしてコウはあの時、ホテルレオニスに行ったんだ?」
コウの瞳に、暗い穴が広がるのが解った。
だがオレは、聞いておかなくてはならなかった。
「仕事で、二人で凶器を探しに行ったことがあっただろう? 裏付け捜査でさ。その時オレ、あのホテルのあちこちに焼けこげのような跡を見つけたんだ。
もちろんあそこは火事の現場だから焼け焦げだらけさ。でもそれとは違った、新しい跡。
あの時は誰かどこかのバカが、花火でもして遊んだんだろうって思ってた。
でもコウ、もう一度コウがあそこに行ったのは、オレから離れる為だけじゃないんだろう? コウは、意味のないことなんかしない」
白鳥は黒羽の昏い瞳の中を覗き込んだ。
「なあ、何かを確かめに行ったんだろう?」
黒羽は黙ったまま白鳥を見つめ返す。

「だって、冬馬涼一があそこにいたんだから」

冬馬の名前に、黒羽の身体がびくりと震えた。
白鳥の手が震えを静めるように、背中を優しく撫でる。


「香澄は…本当に鋭いな」
暫くしてから、やっと黒羽の唇が開いた。
「最初からそう思っていた。香澄は僕の気付かない多くのことを見ている」
「コウ…」
黒羽はゆっくりと頷いた。
「ああ、僕はあの時確かにもう一度、ホテルレオニスの焼けこげの跡を確認しに行った。何カ所もあったよ。間違いなくあそこで実験していたんだ」
「今回の爆弾?」
「多分。同じ様なものを」
「冬馬涼一が関わっているのか?」
「ああ、きっと」
「じゃあ!」
大きな声を出しかけた白鳥の身体を、今度は黒羽が押さえた。

「香澄、冬馬が何をやろうとしているのかは、解らないんだ」
「でもコウ」
「彼に繋がる証拠は、何一つ無い。それに香澄、きっとこの事件はそれほど時間がたたないうちに収束する」
「どういう事?」
「犯人も見つかる。きっと複数犯と断定されるだろうが、一人はビデオ店に入っていった男。もう一人も、多分死体で見つかる」
「コウ…何を知ってるんだ?」
黒羽の唇が、薄く微笑んだ。
「何も知らない。でも僕には解る。僕は冬馬涼一という男を、よく知っているんだ」
黒羽は自分が護るべき男の顔をまっすぐに見つめた。

「この事件は間違いなく冬馬が何か関わっている。でもね香澄。実際に起きた事件をいくら遡っても、けっして冬馬には行き着かないだろう。
なぜならこの事件自体には、冬馬の意志も意図も関わっていないからだ。
犯人は自分だけが持つ動機で動き、自分がやりたい事をやりたいようにやっているだけだ。
冬馬の望んでいる事は、間違いなくその行動の一部でちゃんと行われているだろう。
だが事件自体はそれぞれの個人の動機と欲望で動いている。
きっかけは冬馬だったとしても、事件は実行犯だけのものだ」
「じゃあ、でも…。直接の犯人は…見つかるって事だよね」
「もちろん。彼らは色々と証拠を残しているからな。警察だって必死だ。
レオニスに気付くのも時間の問題だし、気付かなくても追う手は幾らでもある。
だから見つかるよ。誰も文句を言わないような犯人が。多分死体となって」
「それは、間違いなく爆破犯人ではあるんだね?」
ああ、と黒羽は頷いた。
「本物の犯人が、一番犯人らしいからね」

冬馬は嘘つきだが、嘘の使い方も知っていた。
まったく違う人間を犯人に仕立て上げるのは限界があるし、手間もかかる。
だからこれから見つかる人間は、間違いなく爆破事件の直接犯人である事だけは間違いないのだった。

「彼はいつでも、見た目が綺麗に整っていればいいんだと言っていた。そうすれば人は納得し、満足するのだと。
いま爆弾の中に何が入っていたのかは伏せられている。このまま知られないで犯人が捕まることを、上は望んでいるだろう。
しかしこれ以上事件が続くようなら、そうそう情報を押さえ続ける事は出来ない。
だから間もなく終わるだろうと、僕は思っているんだ。
今終われば、誰も不自然さを追求しない。実行犯がどこから特化済みの使役品を手に入れたのかなどと言う事は、犯人が解った時点で全て無かったものとして処理されるだろう」
「誰もが満足する、結末?」
「そうだ」
「オレは、しないね」
「香澄…」
黒羽は腕を伸ばし、白鳥の身体を抱きしめた。
白鳥は一瞬驚いたような顔をしたが、笑って黒羽の身体を抱きしめ返した。
「温かいよ、香澄」
「うん、コウ」

温かい。
抱き合うと温かい、人の身体。
この身体に、けっして傷一つつけない。


「僕は冬馬を追ってきた。ずっとね。個人のやる事には限界があるし、冬馬の力は大きい。
彼は色々と企むけれどね、意味のない遊びも仕掛けたりするんだ。
目的のある事も、単純な遊びも、どちらも彼は真剣にやる。区別は全くつかない。だから彼が今何をやろうとしているのかも、よく解らないんだ。
でも冬馬の望みは知っている」
「それは、なに?」
黒羽は言葉を選びながら、ゆっくり口を開いた。

「自分が存在し続ける事だ。永遠に。ずっと」

「そんな事…できるのか?」
白鳥の眉がひそめられ、黒羽は首を振った。
「解らない。僕は自分の両親が何を研究していたのかも、よく知らないんだ」
「体温の無い男が、その…そういった存在なのか?」
「それも解らない。冬馬が今どういう状態になっているのかも、全然解らないんだ」
「…どうやったら、冬馬が追えるだろう?」
「そんな事やめろと言っても、ダメか?」
白鳥は大きく頷く。
「そりゃ当然だよ。だってコウが追い続けるんだろう? オレはね、あの男は嫌いだ。コウを泣かせたからな」
「香澄…」
黒羽は一瞬泣き笑いのような表情をした。

「香澄なら、僕が見落とした事を見つける事が出来るかもしれないな」
「コウ」
「冬馬を追うのは難しい。表に出てくる事件の一つ一つから、冬馬が考えている事を想像し、推理しようとしてもムダだ。
彼は人をそそのかすのが上手いんだ。自分は動くことなく人を使う。その人間の持っている欲望を引き出し、自分の為に利用する。
彼の言葉に大抵の人間は踊らされる。なぜなら心地よい夢を見せてくれるからだ」
そこで言葉を切って、黒羽はうつむいた。

僕も見ていた。
自分を認めて愛してくれる、たった一人の人が冬馬であるという夢を。
自分に価値を与えてくれるのは、彼だけなのだと思いこんでいた。
彼が人殺しだと解っても。
両親さえも手にかけたのだと知っても。
それでも僕の心は彼の近くにあった。
そうだ、僕だって所詮は薄汚い人殺しにすぎないのだから。


「コウ、どうしたのさ」
香澄が心配そうな声をかけてくる。
香澄…。
僕は汚い人殺しだけど、でもその力を全て使って君を護るよ。
それで贖罪が出来る訳ではないが、でも君を護る為にしたことなら、きっと後悔しないだろう。
黒羽は何かを振り払うように首を振った。
「いいや、何でもない」
黒羽は続けた。


「一つ一つの事件だけを見ても、実行犯の動機と欲望しか見えてこない。
多少彼らの行動が冬馬が目ざす目的からずれようと、事件がエスカレートしようと、誤差の範囲である限り、冬馬は放っておくからだ。
だが、冬馬はやりすぎを許さない。ある時点を越えたら始末しに来る。
綺麗で見栄えの良い結末をつける為に」
「冬馬が出てきたところを捉まえるのか?」
黒羽は首を振った。
「彼自身が出てくるかどうかは解らない。彼の使いが始末をつけに来るだけかもしれない。
それに、もし冬馬自身が出てくる事があったとしても、彼にとって都合が悪くなる瞬間がいつなのか、こちらには解らない」
白鳥はうーん、と唸った。

「よく解らなくなってきた。コウの言い方だけ聞いてると、何もかも手詰まりみたいに思えるぞ。どーすればいいわけ?」
「だから、終わる瞬間を、香澄がよく見るんだ」
「えええ? ど、どういう事?」
黒羽は微かに笑う。
「事件が始まる瞬間は、僕たちには解らない。どこまでが冬馬の差し出した事で、どこからが犯人自身の欲望なのか、区別をつける事が難しいからだ」
「うん。だから、事件自体を見てもしょうがないって、コウは言うわけだよな」
「ああ」
黒羽は頷く。

「だが、終わる瞬間は違う。
終わらせるのは100パーセント冬馬の都合だからだ」

白鳥の瞳が大きく開いた。
「そこには絶対に冬馬の意図が、何らかの形で現れてくる。意味のない遊びもあるだろう。だが、共通点も見つかるかもしれない。香澄ならもしかして…」
「オレが、何か見つけられるかもしれないって、コウは期待してる訳?」
「僕は冬馬に近すぎる…」
黒羽の瞳は、妙に悲しい光に満たされていた。
「コウ」

睫毛が伏せられ、黒羽の唇が白鳥のそれに重なる。
甘くて、微かに苦い味。

「香澄は鋭い。僕はずっとそう思ってきた」
「コウ…」
「大丈夫。一緒にやろう」

冬馬と本当に対峙した時、自分がどう行動するのか、黒羽にはまったく予想が付かなかった。
あまりにも長く、彼の近くにいすぎた。
彼の影響力は恐ろしく強く自分の中に残っている。
会ったら殺して貰おう。
そうでなければ、今度こそ失敗することなく彼に向かって引き金を引く。
そう思っていた時は、単純だった。
どちらを選んでも、僕は彼のもとに行く事になるのだから。

だが、今からしようとしている事は違う。
香澄は冬馬を『敵』として追いつめていくつもりなのだ。
なぜなら彼は

「正義の味方」

なのだから。

『お兄さん、正義の味方?』
記憶の中で、過去の少年が問いかける。
ああ…そうだよ。
僕は答えた。
そうしたら彼は、微笑ったんだ。
きっと誰でも一目で彼が好きになってしまうような、そんな笑顔だった。
耀いた瞳。伸びやかな少年の声。
今でもくっきりと鮮やかに甦る、切なくなるほど綺麗な記憶。
あの少年が香澄なら。
僕は、再び彼を護ろう。
僕は違う。
あの時だって僕は正義の味方などではなかった。

あの時も、今でも。
まっすぐに前を見て、光の中に立っているのは香澄なのだ。


僕には出来るのだろうか?
『敵』として涼一を追いつめるなどと言う事が。
解らない。
まったく解らなかった。
けれど、それでも香澄の命は必ず護る。

大丈夫。
大丈夫だ。
冬馬を殺す事が出来なくても、香澄を護る為に自分を差し出す事は出来るだろう。

「コウさあ…」
「なに?」
香澄が目の前で、じっとこちらを見ていた。
「いつかオレが言おうと思ってたのにさ。大丈夫だって言葉。ちぇっ…」
口の中でぶつぶつと呟く。
「え? よく聞こえない?」
「いや、何でもない」
香澄はニッコリ笑って黒羽を抱きしめた。
「コウ、好きだよ」
キスが頬に、瞼の上に、唇に散らされる。
抱きしめた手が、柔らかく髪を撫でる。
黒羽の身体は、白鳥に抱きしめられた所から熱くなっていった。

自分には、あとどれだけ時間が残されているのだろう。
出来るだけ長い間、この熱さを感じ続けていたかった。
「香澄…」
耳元で彼の名前を呼ぶ。

再び黒羽の唇からは、吐息が漏れはじめた。



 一ヶ月後、砂城西地区の外れにある、古いアパートが爆発した。
取り壊し寸前のアパートだった為、住民は殆ど住んでいなかった。
しかし、中から男の焼死体が発見された。
焼け残った部屋からは、多くの爆発物や、薬品が発見され、男はこれらを扱っているうちに誤って爆発させ、死亡したものと思われた。
警察はこの男を連続爆破事件の犯人として、被疑者死亡のまま書類送検。
また、この男の同居人である弟は、現在行方不明になっており、ビデオ店爆破等、共犯の可能性ありとして、現在も捜査が続けられている。

END


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