第三章「崩壊」


 黒羽は炎の中に立っていた。
再びまた、炎の燃えさかる場所に来ていた。
いつここに来てしまったのか、冬馬に導かれたのか、なんだかよく解らなくなってしまっていた。
何をしに、自分はここに来たのだろう?
テロリストの殲滅と、一般人の保護。
いま考えると、何もかもバカバカしい。
テロリストなんて、いなかった。
いたのは、冬馬涼一だった。
両親を殺し、何もかも計画し、僕をここまで連れてきた。
 
黒羽は、ゆっくりと左手を上げた。
ストックを肩につけ、右手をフォアグリップに添え、両手でしっかりとショットガンをホールドする。
冬馬は怪訝そうな顔で、それを見つめた。
 
一発じゃ、だめかな?
冬馬は優秀だから。
残弾数は4発。こんな時でも、ちゃんと覚えている。
予備を入れ替える時間は無さそうだから、そうしたら、ホルスターの中の銃を使おう。
冬馬を撃って、冬馬が欲しがっていたものを撃って、それから、自分を撃つんだ。
足りなくなったら、その時は炎が代わりをしてくれるだろう。
 
冬馬の向こうに、ゆるやかに影が現れた。
ジャンク。
それが、冬馬の欲しがっていたものか?
冬馬の、創ったものなのか?
それを使って、永遠の命を手に入れるための実験を、これから先も繰り返していくのか?
ジャンクは冬馬を襲わない。
ジャンクは、生きているものしか襲わない。
だから、もう、冬馬は死んでいるんだ。
永遠の、命なんかじゃないよ。
冬馬…。
 
それは、永遠の死だ。
 
銃口をまっすぐ冬馬の体に向けた。
冬馬の眉がひそめられる。
 
だから、僕と行こう。
僕と、終わりにしよう。
僕と一緒に行くと言ってくれたら、もうそれで、全部いいことにするから。
 
「コウ?」
不愉快そうな声。
そうだな、涼一は僕と一緒になんか行かないかもしれない。
でも、それならそれで、彼が僕を殺してくれるのでも、それでもいいかもしれない。
「何してるんだ? コウ。オレと一緒に行くんだろう?」
黒羽は首を振った。
「ジャンクか? こいつが怖いのか? そうだな、確かに今はね。もう少し近づいたら、おまえに気付いて、こいつはおまえに噛みつくだろうからな。だけど、こいつは実験体なんだ。まもなく休眠時間にはいる。そうしたら、ここから出られる。逃げ道は確保してあるんだ。ちゃんとね。だから、その物騒なものを、おろせよ」
再び黒羽は首を振った。
 
「僕と、一緒に行こう。涼一」
「おまえと? なんの話だ」
冷たい声。冬馬の顔が次第に歪んでいった。
「コウ。オレと一緒に来ないって、言うのか?」
黒羽は沈黙する。
「来ないって言うのか? コウ!!」
 
冬馬の体がすばやく動き、黒羽は引き金を絞った。
ショットシェルは冬馬ではなく、ジャンクの体に炸裂する。
ジャンクは衝撃を受けてぐるりと体をのけぞらせた。
「コウ! おまえ、オレのものに!」
右手がすばやくフォアグリップを下げ、引き金が絞られる。
2発目。
これも綺麗にジャンクの体に命中した。
鈍い動きをしていたジャンクは、ぐるりと方向転換をし、炎の向こうに遠ざかりはじめた。
黒羽の手がもう一度動く。
その瞬間、黒羽は何かによってはじき飛ばされた。
冬馬が銃把で黒羽を殴り飛ばしたのだ。
続けて腹に鋭い蹴りが入る。
内臓まで抉られるような、強烈な痛み。
黒羽は体を折って床に崩れた。
「コウ!」
叫びながら冬馬は、倒れた黒羽の体を更に蹴りとばし、床に落ちた右手を踏みにじった。
「コウ! おまえ! おまえは!」
襟を掴んで引きずり上げ、顔を平手で張る。
冬馬の歪んだ顔が、黒羽のすぐ近くに来た。
 
「来い! オレと、来るんだ!」
黒羽は首を振った。
ふたたび顔を張られ、胸ぐらをきつく掴まれる。
「おまえと一緒に来いだ? それは一体なんの冗談だ、コウ」
冬馬は引きつった顔で笑っていた。
「おまえはオレを知ってるだろう? オレは誰とも行かない。おまえがオレと来るんだ。でなければ…」
黒羽も、かすかに笑った。
そうだよ、涼一。でなければ、あんたの手で僕を殺してくれ。
それでもいいよ、涼一。
僕は、涼一のものなのだろう?
だから、涼一、その手で僕を…。涼一。
黒羽はゆるやかに目を瞑った。
 
 
 
しかし、何故かいつまでたっても、黒羽の望んだものはやって来なかった。
腹を貫く銃弾の痛みも、首に絡むはずの長い指の感触も、何も無かった。
逆に、押さえつけられていた襟元が、急に楽になる。
「?」
…涼一?
黒羽が目を開けると、そこには妙に感情の色を失った冬馬涼一の顔があった。
そして彼は、ちらりと黒羽の顔を見おろすと、恐ろしくつまらなそうに言い放った。
 
「ああ、じゃあ、もういいや。面倒くさい」
 
 
黒羽は一瞬ぽかんと口を開けた。
…え?
 
 
「もういいや、もういい。時間がないんだ。おまえは、もう、いらない」
冬馬涼一は黒羽の体から手を放すと、するりと立ち上がった。
 
黒羽は動物がそうするように、首を傾げる。
僕が、いらない?
よく、言っている意味がわからなかった。
いらない?
いらないって、どういう事だろう?
 
黒羽は倒れたまま冬馬の体を見上げた。
しかし、冬馬はもう自分のほうをちらりとも見てはくれなかった。
「りょう…いち?」
冬馬は立ち上がり、銃をホルスターに納める。
「涼一…」
掠れた声は、まるで自分の声ではないかのように、口の中にくぐもって響く。
しかし冬馬は、何も聞こえていないかのように、そのまま黒羽から離れ、白い視界の中に消えていった。
耳の奥で静かな足音が次第に小さく、遠くなっていく。
 
彼は、振り返ることも、しなかった。
 
 
 
 
 
黒羽は目を見開いたまま、床に転がっていた。
やがて、ゆっくりと、そして激しい恐怖感が体の底から突き上げてくる。
 
嘘だ。
嘘だろう?
冬馬が行く。行ってしまう?
こんなにも簡単に、僕をおいて?
驚くほどの喪失感。
体中ががたがたと震える。
嘘、だろう?
こんなにも簡単に、何もかも、失った?
 
頭の中が真っ白になり、涙さえも流れてはこない。
息をすることすらも、一瞬忘れた。
涼一? 待って。
待ってくれよ。
うそ…だよな?
嘘だって言ってくれ。
僕を、こんな風に、棄てていったりなんかしないって。
 
棄てる、という言葉に、また体は震えた。
涼一、どうして?
僕を殺して。殺してくれよ。
なんで、行ってしまうんだ?
もう僕は、涼一のものですらないのか?
壊す価値もない、ただ興味を失って、そして、棄てるのか?
 
黒羽は歯を食いしばりながら、立ち上がった。
左手が無意識にショットガンを捜して床を這う。
しかし起きあがろうと伸ばされた右手は、冬馬に痛めつけられて細かく震え、黒羽の体重を支えきれなかった。
床に肩から叩きつけられる。
右肩と背中に激痛が走った。
黒羽はずるずると、床を這った。
 
ああ、涼一、りょう、いち…。
僕をおいていかないでくれ。
こんな風に、いらないものとして、道の端に捨て去ったり、しないでくれ。
なんでもやる。
なんでも、やるから。
だから…、だからせめて。

あんたの手で、僕を、殺して…。

 

 

 黒羽は体を引きずりながら立ち上がり、そして冬馬の消えた方向へと歩き始めた。
何をやりたいのか、黒羽にはもう解らなくなっていた。
ただ、冬馬においていかれたくなかった。
彼はひたすら前へと、体を引きずっていった。
 
やがて、小さな悲鳴が聞こえた。
女の、声?
この場所で、誰かがまだ取り残されているのか…。
取り残されて…?
何か、忘れているような気がする。
なんだっただろう?
 
吐き気がした。
口の中には血の味が拡がる。
かすれた瞳に、冬馬の姿が映った。
よろよろと、黒羽は左手を上げた。
 
冬馬はそこで、弾けたように笑っていた。
 
 
 
「いいね。いいところにいたよ、君。逃げ遅れたのかい? こんなところにいたら、だめだよ。あれえ? もしかして、誠さんのお嬢さんかな?」
冬馬は廊下の隅に倒れ込んだ女性を、片手で引きずり起こした。
女性は顔をぐしゃぐしゃにしながら立ち上がる。
冬馬は無頓着にその埃で汚れた顔を覗き込んだ。
「やっぱり桐子さんじゃないか。お顔は写真で拝見してますよ。そうか、誠さんたら、オレとお見合いでもさせるつもりだったのか。バッカだなあ」
冬馬はくすくす笑った。
 
「ひと…人殺し」
桐子と呼ばれた女性は、かすれた声を冬馬の腕のなかで絞り出して抗った。
「うん、そう。よく知ってますねえ。ああ、見たのかな? オレがお父さんを殺したところを? だけど、あんたのお父さんだって、オレと似たり寄ったりなんだけどねえ。でも、あの人をお義父さんと呼ぶのは、ちょっといやかな。まあいいや、もういないんだし。でもせめて、ご挨拶くらいはしようかな? 桐子さん、こんにちは。冬馬涼一ですよ。初めまして。そして、さよなら、だな」
言い終わるなり、冬馬は女性の腕を握り、力任せに引きずっていった。
だいぶ動きが鈍くなりつつあった、影に向かって。
彼が何をしようとしているのかを理解した女性は、鋭い悲鳴を上げた。
冬馬はにやにやと笑う。
「ホント、いいところにいたよ。オレのね、かわいこちゃんは、撃たれて調子が悪いんだよね。あんたがちょっと食われてくれると助かるわけ。全部見たあんたの口も封じられるし、一石二鳥だろう?」
廊下に大きくうずくまる影は、女性の気配を感じたのか、ずるりと体を動かした。
 
その瞬間だった。
「涼一!!」
声と同時に轟音が響き渡る。
笑っていた冬馬の足元にシェルが炸裂した。
女性が再び金切り声を上げる。
冬馬涼一が顔を上げると、ショットガンの銃口が揺れながらこちらを狙っていた。
 
そこには、黒羽が立っていた。
口元に血泡を滲ませ、背中は血にまみれ、右腕もずきずきと脈打って熱かったが、それでも彼は、かろうじてそこに立っていた。
左手にショットガンが光る。
右手はその重さを支えるようにフォアグリップに添えられる。
黒羽は薄く笑った。
 
ああ、涼一。
黒羽の心は倒錯した喜びに沸いた。
もう一度、見てくれた。
 
涼一。りょういち。
僕をそうやって見ててくれよ。
その目も、その声も、その体も、何もかも好きだよ。
棄てていったりしないよな?
僕が本気であんたを殺そうとしていると解ったら、あんたはきっと僕を殺してくれるんだろう?
 
震える指でフォアグリップを引くと、空カートが排莢され、次弾が薬室に装填された。
冬馬も開いている方の手でゆるやかにホルスターから銃を引き抜く。
2人はお互いの体に狙いをつけながら、まっすぐに向かい合った。
 
涼一…。
黒羽は息を吐いて、わずかに目を細めた。
そのまま僕を見つめていてくれ。
そして、引き金を引けばいい。
ほんの少し指に力を入れれば、それですべてが終わりだ…。
 
 
 
しかし次の瞬間、冬馬涼一はかすかに顔をしかめると、片腕に抱えた女を黒羽の方に投げ飛ばした。
「!」
女は悲鳴を上げながら黒羽の体にしがみついてくる。
反射で彼女を受け止めようと、黒羽の右手は銃から離れた。
受け止めた反動で上体がぐらりと大きく傾き、構えたショットガンの銃口が天井を仰ぐ。
しまった! 涼一!
 
女の体で射線がさえぎられて、一瞬冬馬の姿が見えなくなる。
黒羽は右手で女の体を自分の後ろに回そうとしたが、もう遅かった。
目の端に映った冬馬は、朱唇をつり上げて笑いながら右腕を伸ばし、不様な体制になった黒羽に向けて、そのまま二度トリガーを引き絞った。
 
 
まるで、悪夢のように、女が口から血を吹き出しながら、くるりと回って、黒羽の体に倒れかかってきた。
頭部と背中に、正確に一発ずつ。
黒羽はそのまま女の体を抱きかかえるようにして、後ろに倒れる。
見開いた目にすべての出来事が、スローモーションのように引き延ばされて映った。
 
笑いながら後ろに下がる冬馬。
その口が何かを呟いているのでさえ、はっきりと見て取れる。
ジャンクの体はもう動いていない。
休眠時間に入ったのだ。
冬馬が行く。
このまま行ってしまう。
 
倒れながら、黒羽は左手一本で冬馬の体に狙いをつけようと試みた。
しかしそのショットガンは、片手で支えるようにはできていなかった。
銃口が大きくぶれ、左手は不様に跳ね上がる。
シェルは発射されたが、それは壁にあばたを作っただけだった。
 
「涼一!」
彼の体は白い煙にゆるやかに隠されていく。
もう、僕を見ていない。
黒羽は悲鳴を上げた。
何もかも、何もかもおいて、こんなに簡単に、彼が行ってしまう。
無意識に、腕を伸ばしたような気がした。
拳は何も掴まずに、空を切った。
叫んだ口に、開いた瞳の中に、女のまき散らす血が入り込んでくる。
黒羽は血を飲み込んで、反射で吐く。
驚くほどゆるやかに時間が流れ、そして唐突に、容赦なく時間の流れは元に戻った。
床に激しく後頭部を打ちつけて、黒羽は倒れた。
血で視界をふさがれたまま、苦痛の呻きを漏らす。
 
そして、仰向けに倒れて、何度も嘔吐した。

 

 

苦い…。
苦いのは、自分の吐いたもののせいなのか、体の上にある彼女の血が流れ込んでくるせいなのか、黒羽には解らなかった。
血で目はふさがれていたが、もうそこに誰もいないことは、黒羽には解っていた。
 
りょう…いち。
りょういち?
嘘でいいよ。
優しい、嘘をくれ。
もうここにいないなんて、そんなことは、無いって、僕にいますぐ言ってくれ…。
 
血でふさがれた瞼を、無理矢理こじ開ける。
かすれた瞳に天井だけが映った。
そこには言葉をくれる、誰の姿もなかった。
 
 
 
ゆるやかに、息を吐く。
おいて、行かれた…。
信じられないほどの、喪失感。
僕はいらない…。
僕の世界のすべてが、たった今僕を棄てて行ってしまった…。
 
 
 
だったら、もう僕も、僕なんていらないだろう。
ふっと、体が軽くなった。
もう呪文は僕を縛らない。
この、体中を浸す痛みが、むしろ今は心地よい。
体の痛みが薄い膜のように、心の痛みの上を鈍く覆っていく。
体がもっと痛く、苦しくなれば、きっとそれしか考えられなくなるだろう。
早く…そう、なりたい。
炎がやってきて、この喪失感も、この空落も、何もかも考えなくてすむようになりたい。
 
自分の体の中には、もう何もないような気がした。
涙さえも、一滴も流れだしてはこなかった。
出ない涙の代わりに、自分の上に倒れかかった女の流す血が、暖かく黒羽の体を濡らしていく。
黒羽は次第に冷たくなっていく女の体を手で抱き寄せた。
 
ああ、ごめん…。
ごめんなさい。
僕は今、あなたのことを思う余裕がどこにもない。
冬馬は僕を殺してくれなかったし、僕も冬馬を殺せなかった。
あなたはきっと、死にたくはなかったんだろうけど、僕はほんの少しだけ、あなたがうらやましい。
でも、僕もこれから死ぬ。
このまま動かなければ、炎がくる。
すごく苦しいだろうけど、それはたぶん最初だけだ。
じきに、何も感じなくなるだろう。
 
疲れた…。
信じることも、好きだと思うことも、世界を失うことに恐怖することも、何もかもに、疲れた。
僕はこれで、終わりになってもいい。
僕が終わりになれば、僕の世界は消える。
あとは、誰か他の人が、残りの時間を生きていくことだろう…。
 
 
 
黒羽はかすれた目を閉じようとした。
しかしその時、ちらりと廊下の向こうに、何か影を見つけた。
ああ…。
黒羽は息を吐いた。
 
子供…。子供だ。
あの子、生きてる…。
 
影は次第に少年の姿をとって、こちらへ近づいてきた。
 
だめだ。だめだよ。
人がこんな風に死んでいく所なんて、見たらだめだ。
そんなものを見るのは僕だけで充分だ。
来たらだめだよ。
確か、だめって、言った筈だろう?
なんでここにいるんだい?
なんで…?
 
黒羽は、急にひどく可笑しくなってきた。
僕には何も言う権利はないな。
だって、僕は君のことを忘れていたんだもの。
ホントに忘れていたんだ。
サイテーだ。
あんなに約束したのに、僕は自分の事だけで何もかも手一杯になってしまった。
君を置き去りにしたまま、ここで勝手に死のうとしていた。
どこまでも、僕はサイテーだ。
 
可笑しくて仕方がなかったのに、黒羽の顔にはなんの表情も浮かんではこなかった。
何もかもが自分から乖離し、つながりが切れてしまったように思えた。
仰向けにひっくり返る黒羽の顔を、少年が覗き込む。
この子の名前は、なんて言ったっけ?
ああ…、まだ名前を聞いてはいなかったか…。
黒羽は彼の瞳をゆるやかに見返した。
 
少年は、奇妙な顔をしていた。
あの、誰でも虜にするような、きらきらした笑顔は、今はそこにはなかった。
代わりにあるのは、どことなく苦しそうな表情だった。
何かを思いつめたように、口の端を引き結んでいる。
 
彼の信頼を、きっと自分は失ったのだ。
そう黒羽は思う。
当たり前だろう。
僕は裏切ったのだから。
彼の手を一度は取っておきながら、それを振り払ったのだから。
もう何も感じないと思っていた心の中に、刺しこまれるような痛みが、一瞬だけ戻ってきた。
せめて彼には、彼の時間を返してやりたい。
自分が死ぬところも、見せたくない。
僕は、もう一度炎の中に戻るとしても、この子は、外に、返してあげなくては…。
 
ぼんやりと見上げる黒羽の隣に、彼はひざまずき、そして手を伸ばしてきた。
小さくて暖かい指が、頬をなでる。
ひどく、気持ちがいい。
彼は、生きてる。生きているんだ…。
 
少年の手は顔をすべり、それから彼は、いきなり黒羽に覆い被さってきた。
頭と首を抱かれて、耳の横に息がかかる。
「ねえ…」
かすれた声で、少年は言った。
「ねえ、帰ろう? 下に、降りようよ…」
 
帰る…。帰る?
どこへ?
僕は、ずいぶんと前に、帰る場所なんて失った。
だけど、君にそういわれると、それはとっても素敵なことに思えるよ…。
帰ろう。一緒に。
なんて、素敵な言葉。
下に、降りよう。
神様が、許してくれるなら。
君だけなら、きっと大丈夫。
僕は、額に印のついた人殺しだから、帰る所なんて、無いんだ。
だから、途中まで君を守って降りよう。
君を守る間くらいは、神様もお目こぼしをくれるかもしれない。
 
黒羽は、ずるずると立ち上がった。
少年の不思議な瞳が、自分を見上げる。
そして、彼は手を伸ばしてきた。
伸ばされたその手を掴もうとして、黒羽は右手の痛みにかすかに顔をしかめる。
あらためて左手を差し出し、少年の手をしっかりと握った。
今度は、離さないように。
次にこの手が離れたときは、きっと僕が死ぬときだ。
そうしたら、一人でも先へ行くんだ。
約束しようよ。
それまでは、2人だけで、こうして手を繋いで逃げよう。
 
いったい自分が何を心の中で思い、どこまでを口に出したのか、黒羽にはよく解らなくなっていた。
ただ、少年が真剣な顔で頷くのが見えた。
彼の、強い光を持つ瞳。
それは、どこまでも綺麗だった。
黒羽は、うっとりとそれを見つめた。


自分と世界とは乖離し、現実感は失われていく。
ただ、覚えているのは、この子の手を離さずに、下まで行くこと。
ただ、ひたすら、ここから逃げること。
少年が、何か言ったような気がした。
自分も、何か答えたような気もする。
いつのまにか、炎の代わりに、何故か冷たい水が顔にあたっていた。
だけど、2人だけで手を繋いで逃げる。
それ以外は、もう考えられない。
 
黒羽は走った。
自分がどこにいるのかも、もう解らなくなっていた。
どこでもかまわなかった。
自分の世界は、とっくに失われたのだから。
ただ暖かい、繋いだこの手だけが、唯一自分を外の世界とつなげていた。
 
だから、その手が離れた瞬間に、黒羽の意識も、闇の中に落ちていった。
黒羽は抗うこともなく、自分からその暗闇に抱かれた。
終わるんだ…。
これで…、やっと、終わる…。
きっと、このまま目は覚めないだろう。
夢の世界にも、僕はいけないよ、涼一。
 
そんな考えが、ちらりと頭をよぎっていった…。

 

 

最初に目に入ったのは、白い天井だった。
薄暗い部屋。腕に刺し込まれた点滴の管。
ベッドの上に、自分は寝ていた。
ホワイトグリーンのカーテンが、窓を覆っている。
 
ここは…、どこだろう?
ぼんやりした頭で、最初に考えたのは、えらく陳腐な事だった。
目が、覚めてしまった。
炎の中に、還ったのではなかったんだっけ?
もう二度と、世界には戻らないはずだったのに、何故か自分の時間は、まだ続いているらしい。
どこまでが、現実だったのか、記憶は曖昧に混濁していた。
 
その時、部屋のドアが開き、白い服を着た女の人が何かを抱えて入ってきた。
そして、黒羽の顔を見ると、驚いたように声を上げて、部屋から出ていった。
黒羽は小さく首を傾げる。
まもなくどたどたと足音が聞こえ、白衣を着た男と、それから知った顔が一人、部屋の中に飛び込んできた。
 
「さくらば…さん?」
自分でもびっくりするほど、弱々しい声が口から出た。
桜庭は目に、光るものを浮かべている。
そして黒羽のすぐ近くに顔を寄せると、何度も頷いた。
「よかった。黒羽くん、本当に、よかったよ…」
「なんで…? あれ? ここは、いったい…」
僕は、どうしたんだろう?
「病院だよ。黒羽くん、何日も意識がなかったんだよ。怪我とか火傷とかは、確かにそれなりにひどかったけど、だけど、それよりも、意識が…。もう、帰ってこないかと、思ってた…」
桜庭は我慢しきれなくなったように、腕を顔に当てた。
「黒羽くんだけだったんだ。突入した中で、生きて降りてきたのは」
「ほかの…みんなは?」
木村さんが死んだことは知ってる。
でも、冬馬は? 
背中にかすかに冷たいものが走った。
桜庭は首を横に振った。
「だれも、降りてこなかった…。一ノ瀬くんも、それから、冬馬くんも、みんな。あたし達、中に入れなかったの。火事の時に作動するはずの、天空のスプリンクラーが何故か働かなくて。下からホースで水を持ってくるのにも、時間がかかってしまった。やっとスプリンクラーが直ったときには、もう、何もかも遅くて…」
 
冬馬は、ずっと時間がないと言っていた。
やっぱりあの火事も、彼が仕組んだことだったのだ。
スプリンクラーの作動を遅らせ、現場を混乱させて、楽しんだのだろう。
「まだ、遺体の身元は全員は確認されていないの。ひどく焼けて損壊してしまったものも多くて…」
「ちょっと…」
医者が横から口を出した。
「いま意識を取り戻したばかりの人に、あんまり刺激の強い話はだめだよ」
ああ、そう、そうね、と桜庭はつぶやき、急にそわそわしだした。
「黒羽くん、とにかくみんなに知らせなきゃ。意識を取り戻したって。みんな、しばらくここに来てたんだよ。今はたまたまあたししかいなかったけど、みんな、気にしてたの。電話、ちょっとしてくるね。ね? 本当に、よかった…」
 
桜庭は早口で言うだけ言うと、さっさと病室を飛び出していった。
医者は、まったく、と言った表情で、その後ろ姿を見送る。
それから、にこやかに黒羽を振り返った。
「意識が戻ったのなら、もう安心ですよ。黒羽さん。後で、検査をしましょうね」
黒羽はかすかに頷く。
なんでこの人は、こんなに嬉しそうなんだろう?
医者は桜庭に負けないくらいそわそわしながら、続けて黒羽に言った。
「黒羽さん、あなた、英雄ですよ。もう少しして元気になったら、きっとマスコミが押し寄せてくる」
「?」
「新聞を持ってこさせましょう。あなたがいなかったら、きっともっと死者は増えていたはずだって、新聞もテレビも大騒ぎなんですから」
「僕が…なに、か?」
驚くほど掠れた弱い声。
自分で話題をふっておきながら、医者は喋らないように、と言って首を振った。
 
「外から来た観光客を、23人も助けたのは、あなたなんだって、騒がれてるんですよ、黒羽さん。最後に取り残された男の子を助けて降りてきたのも、あなたなんでしょう? 大きな火事だったし、えらい政治家だかが死んだって言うんで、ニュースのトップは、ずっとそれ一色で。もう、えらい騒ぎなんです。あなたがこのままずっと意識を失ったままだったら、どうしようかと思いましたよ。だから本当に良かった。本当に、おめでとう」
医者は興奮したようにべらべらとまくし立てると、黒羽の手を握った。
 
手の温かさが、記憶をかすかに甦らせる。
では、あの子供は助かったのだ。
茫然と、黒羽は考えた。
あの、綺麗な笑顔は、消えなかった…。
けれど、僕は炎の中には還れなかった。
最後まで、本当に最後まで、僕は不様なんだな。
 
心の中に、果てしなく暗い穴が、大きくぽっかりと開いていた。
いつでも、ほんの少しでも足をずらしたら、引きずり込まれてしまいそうな、闇のあぎとを持った黒い穴が。
あの場所で、炎の記憶のなかで、唯一世界と自分とを繋いでいた、小さな温かい手は、今はもう無い。
自分から離れて、どこかに行ってしまった。
 
だから…、今は独りだ。
何も自分とは繋がっていない…。
よかった? よかったって、どういう事なんだろう?
何もかも、不様に失敗した。
棄てられて、取り残された。
すべてのものが心の中に開いた暗い穴に落ちてしまって、自分は空っぽになってしまった。
涙さえも、一滴も出ない。
いま、自分はどんな顔をしているのだろう?
もしかして、本当に、なにも無いんじゃないかな…?
 
 
 
黒羽は、いつの間にか医者がテーブルに置いていった新聞を、横目でちらりと見た。
見て、すぐに顔を逸らす。
手に取ろうとは思わない。
何人死んだのかも、何人生き残ったのかも、知りたくはない。
何故なら、きっとその内の何人もの死に関して、自分が手を下しているのだから。
直接的にも、間接的にも。
 
罪を突きつけられることに、黒羽は耐えられなかった。
英雄?
人殺しが、英雄なのか?
 
知っていた…。
知っていたよ。
どこかで冬馬がやっていた罪に、手を貸していたこと。
知らないふりをして、自分をごまかして、彼にしがみついていようとしたこと。
自分はずるくて、自分は汚い…。
両親の死さえも、僕は裏切って、冬馬と共にいようとしたのだ。
どんなに自分が冬馬に属していたのか、いまさら思い知る。
こんな血にまみれた汚い手で、誰にも謝ることすらできない。
黒羽の瞳からは、次第に光が失われていった。
 
冬馬…?
僕は、あんたのものだったのだろう?
何度も僕に、そう誓わせただろう?
だったら、どうして殺さなかった?
 
冬馬…、これは、裏切りだ…。
 
歯を食いしばり、どろりとした黒いものが、心の底からゆっくりとせり上がってくるのを感じる。
 
『おまえのあいてなんか、今まともにしてられるかよ』
消える瞬間、最後の最後に、冬馬の口は、そんな風に動いた。
そう、そうだとも。
僕は、きっと手強い。
あんたに殺されようとして、あんな風に体を投げ出していた時だって、簡単には殺されなかっただろうと思う。
だって、あんたが僕を、そう仕込んだんだもの。
あんたが僕に、そうやって、何もかも教えたんだろう?
人殺しも、セックスも、あんたに、何もかも捧げて、属することも。
 
だから、冬馬…。
だから…。
まだうまく動いてはくれない左手を、震えながら握りしめる。
 
まだ、あんたを追うよ…。
もう、それしか、道が見えない。
追いかけて、捕まえて…。
そして、どうしよう?
この左手で、あんたを、殺す?
 
まるで冬馬がそこにいるように、冷たい炎が体を浸す。
 
 
 
僕は、ゆっくりと死んでいく。
罪は、僕が知っている。
あまりにも僕のすべてが冬馬に近すぎて、あの時あった事を誰にも話すことができない。
それに世界はもう、違う解答に向かって走りはじめていた。
テロリストに襲われた政治家。
内部分裂によって、自滅したテロリスト達。
誰もが納得できる、そんな、冬馬が用意した、美しい解答に向かって。
 
誰にも、言えない。
知っているのは、僕と冬馬の2人だけだ…。
それは、2人だけの、秘密だ。
 
いつか、捕まえる。
つかまえて、そして…。
 
 
 
黒羽の青白い瞼はゆるやかに落ちた。
瞼は二、三度ひくりと動いたが、やがて彼の口からは、穏やかな規則正しい息が漏れ出してきた。
何も考えなくていい優しい暗闇が、ほんの一時だけ、再び彼の上にも訪れたのだった。

END

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