| 雨が降る都市 
  雨が降っていた。地下に広がる都市「砂城(さじょう)」にも、時々は雨が降った。
 雨を降らせる利点は、窓からそれを見上げる白鳥香澄(しらとり かすみ)には、よく解らなかった。
 きっと空気中の水分が何たらとか、単純に気分の問題なのだとか、清掃の意味合いもあるのだとか、何か、とにかく色々とあるのだろう。
 しかし、どんな理由かは知らなかったが、地下に降る雨、というのは、それなりに『おつ』な光景だった。
 「雨降らせる時は、いちおう空曇らせるんだねえ?」
 白鳥は後ろでごちゃごちゃ何かをいじっている黒羽に声をかけた。
 「曇る? ああ、こういうの、曇るっていうのか。あまり考えたことがなかったな。暗くなるとは思ってたけど」なるほど。
 生粋のアンダー育ちにとっては、空の柄なんかどうでもいいことなのかもしれない。
 これは、外から来た人達の、感傷なのかも。
 でも、黒羽ほど外に行かないのもどちらかというと珍しい。
 閉鎖都市、といっても別に封鎖されているわけではないし、外に出るためにビザが必要なわけでもない。
 ここだって、日本なのだから。しかも一応東京都内らしい。東京って、広い。
 小笠原まで東京なのと、似てるよな。
 「はい」ぼんやりと雨を見上げながら感傷にふけっていた白鳥に黒羽が傘を差し出す。
 「あ、ども。用意いいね」
 「今日はこの辺り雨の予定になってたから。まだ1時間くらいは降るし」
 そうだった。あまり降らない雨だから、天気予報を見るとか、すっかり頭から抜け落ちていた。予報じゃなくて、予定か。降るといったら、必ず降るのだ。
 「行こう」
 車の後部ドアをバン、と閉めて黒羽が言った。
 
 
 
 「うん」返事を返しながら、白鳥はいきなり黒羽の片袖を引っ張って、自分の傘の中に彼の体を引きずり込んだ。
 ビックリしたように見開かれた瞳が、一瞬顔の近くに落ちる。
 白鳥はすかさず黒羽のメガネを指でつまんで取った。
 そして、そのまんま、キス。
 うーん、成功。やったね、オレ。  頭の中の映像がそのまま形になった充実感で、ちょっと幸せな気分。一度やってみたかったんだよなあ、こういうシチュエーション。傘に隠れてキスってヤツ?
 だってさ、オレとコウは、そりゃあパートナーなんだから、しょっちゅう一緒にはいる。
 だけど、確かにいつも二人ではいるけれど、『二人きり』には滅多になれないんだ。
 仕事中は当然、プライベートの時だって寮だから大抵誰かがいる。(一応部屋は個室だけどさ)
 二人でいるのと、二人きりになれるのとでは、訳が違う。
 今は、二人っきりだ。
 それでも傘に隠れるのが、オレ流の美意識なんだけど。
 コウは少しの間オレのキスに応えていたが、慌てたように体を離した。「香澄、いまは…」
 メガネを外されると、瞳はもう一度焦点を合わせようとする。
 その瞬間不安定に宙をさまよう、どこか心許ないような瞳がそそるんだよねえ…。
 そんなバカなことを思いながら、香澄はメガネを黒羽に差し出す。
 メガネは細かく降り注ぐ雨に濡れて、すっかり役に立たなくなっていた。
 
 
  雨の日に公園に来るなんて、馬鹿だ。
 でもせっかくの休日、黒羽がアンダーを案内してくれるっていうのだから、なるべくならムードのあるところが良いと思ったんだ。雨は予定に入ってなかった。白鳥の予定には。
 まあ、でも雨の公園も悪くない。思わずここが地下だって事を忘れそうになるじゃないか。
 しかも人気がない。
 そりゃそうか。雨の平日真っ昼間に公園を散歩してるやつなんて、かなり物好きかも。
 白鳥はそっと手を伸ばして、黒羽の掌を握った。
 黒羽も白鳥の手を握り返す。
 あっ、ちょっといい感じだ。前はこの手に触るだけで、妙にドキドキしたんだよなあ…、なんて思ってみる。
 もっとも、あの時から何か進展したのかー? とマジに思うと、うーん、と頭をひねったりするのだが。
 まあ、それでも前よりはましさ。オレは若いんだし、時間だっていっぱい…。
 って、何か変じゃない? コウの目つき。「香澄…」
 コウは妙に声をひそめる。
 「いいじゃん、誰もいないし…」
 「誰もいないのは、その…」
 げげげ。オレはその時初めてここがどういう所だか思い出した。
 誰もいないアンダーの公園って、もしかして滅茶苦茶危ないんじゃない?
 アメリカでも一番危ない所は夜の公園だって言うし…。
 今は夜じゃないけどさ。だけど、コウの目つきが妙に緊張していて、ちょっとやな感じだ。
 白鳥は思わず辺りを見回した。
 もしかして、何かいるんだろうか。強盗とか、強姦魔とか、テロリストとか。
 テロリストはないか。こんなところ、爆破しても誰も困らない。それじゃテロの意味がないもんな。
 それにオレたちは男だし、警官だし、今だって銃を携帯してるし、強盗とかも、あまり襲ってきそうにないよな。強盗だって、獲物は選ぶもんだ。
 じゃ、なんだろう。
 もしかして、ジャンクとか!?
 以前ジャンクに襲われた時の腹の傷が疼く。
 でもでも、こんな広いところにいきなりジャンクが出たりするのか?
 白鳥は困惑する。
 「ねえ、コウ、何かいるのか? 危険なものか?」聞いた方が早い。
 「いや、べつに」
 なんだろう。曖昧な返事。
 そういいながらも、黒羽の目は油断なく辺りを見回している。
 心なしか早足だ。
 白鳥の予定では、ゆっくり公園をぶらついた後その奥にある美術館によるはずだった。ちょっとしたカフェがあると聞いたからだ。
 なのに。
 黒羽はしっかりと白鳥の手を握ったままずんずん歩いていく。
 ちょっと、ムードがないんじゃない?危ないものがないなら、もう少しゆっくりしようよ。
 と言おうとした途端、黒羽の足が止まった。
 白鳥の手を握る力が強くなる。
 「なに?」
 一所懸命辺りを見回すが、何もない。
 オレって、そんなに鈍いのか。こんなんじゃいつまでたってもコウのお荷物になるばっかりじゃないだろうか。がっかりしかけた白鳥は、黒羽の目線の先にようやくそれを見つけた。
 「げっ」
 思わず声が出る。
 
 
 
 それ、は…、長さ20センチ、太さ3センチはあろうかという、特大のナメクジだった。
 
 
 
 
 「なになに? なにこれーっ」オレは目を白黒させた。
 自慢じゃないけど、ぬるぬるしたものとか、べとべとしたものとかは大嫌いだ。
 「やっぱりいた…」
 「やっぱりって、これを捜していたわけーっ?」
 「捜していたというか…」
 「なんだよ、はっきり言えよっ」
 もうオレはここから少しでも早く遠ざかりたくて、何だか足踏みしてしまった。
 ちょっと涙目。バカ者、男なら泣くなーっ。
 しかし黒羽はそんな白鳥の様子を解っているのかいないのか、容赦なく言葉を続けた。
 「これは一匹いると、60匹は…」
 ぎゃーっ。  …………。
 
 
 はっ、しまった。一瞬白くなってしまった。そう、気がつくといつのまにか、二人ともこいつらに取り囲まれていたのであった。
 「に、逃げよう。ね、コウ、逃げようって」もう、体裁なんかかまっちゃいられない。
 オレはコウの腕を引いてとにかくそいつの少しでもいなさそうな方へ駆け出そうとした。
 なんなんだよ、こいつらは。
 何喰ってこんなにデカくなったんだよ、アンダーのナメクジ!
 いや、もともと外のとは種類が違うのかもしれない。外国にはすごくでかいヤツがいるって話もあるし。
 ああ、そんな事はどうでもいいから、早く逃げようって!
 なんてじたばたしているうちに、オレたちの足下にもぬらり、と巨大な粘液の線を引いてそいつが。
 「わぁっ」
 えっ。
 悲鳴を上げたのは、オレじゃなかった。
 驚いたオレが見上げると、コウはひきつった顔でそいつを見つめていた。
 「コ、コウ?」コウはあの無表情に近い顔を、驚くほど歪ませてそいつを眺めている。
 解る、解る、嫌いなモノってつい見ちゃうよな…って、え? コウもダメなの? こういうの。
 白鳥はビックリして黒羽の顔を見上げた。
 知らなかったー。これは意外。なんでも出来る強いコウが、こんなモノが苦手だなんて思わなかった。
 それであんなに強く手を握って、ここを通り過ぎようとしたわけ?
 ちょっと可愛い…。なんて呑気にもオレは思う。だけどそうならそうと最初から公園なんかに行くのは嫌だって言ったらいいじゃないか。なんで黙ってオレについてきたんだよ?
 「わああっ」
 コウの悲鳴が響いた次の瞬間、木の上からぼとりとコウの背中にそいつが落ちてきた。
 白鳥はとっさに手を伸ばす。
 げっ、嫌な感触。そんなモノに長く接触なんてしていたくないから、さっさとコウの背中から引きはがし、地面に叩きつける。
 「か、香澄…」
 黒羽は掠れたような声を出して体を半分に折り、上目遣いに白鳥を見上げた。
 うへー、こんな時になんだけど、言っちゃう。
 …超色っぽい。  生粋のアンダーの人間らしく、陽に晒されたことのない白い肌が上気し、薄く朱に染まる。眉はひそめられ、僅かに息を弾ませた口は、何かを誘うように軽く開く。
 更にそれに細かい雨が降り注いで、透明な水滴が体からしたたっている。
 うわー、どうしよう、どうする?これで服なんか脱いでたりしたらさ。いや、その、なんて言うか、その…。
 苦痛に歪む顔ってさ、イクときの顔に似てない?
 似てないって、誰に聞いてんだよ、オレっ。
 
 
 
 
 ああああ。だ、抱き締めたいッ。
 そのまんま押し倒して、えっと、そんな事妄想してる場合じゃない。
 じわじわとナメクジ包囲網が狭まってるんじゃないか?
 アンダーじゃジャンクだけでなくナメクジも人を喰うのか?
 んな、馬鹿な、とは思うけど、オレってアンダーのことは知らないことだらけだから。
 とにかく、逃げよう。
 そう思っても、コウは固まっていて、役に立ちそうにない。
 「コウ!」白鳥は傘を放り出し、やおら黒羽に背を向けた。
 「乗って!」
 「え、ええ、え?」
 さすがに戸惑う黒羽に、背中を押しつける。
 「早く!」
 言う間にも、ナメクジ包囲網はますます迫り、今にも足に登ってきそうだ。
 黒羽はためらいながらも白鳥の首に腕をまわした。
 「しっかり捕まってて」
 白鳥は、全力で黒羽を背に抱え上げ、ナメクジを蹴散らして走り出した。
 一瞬、もしも持ち上がらなかったら、なーんていう恐ろしい想像が頭を巡ったが、力を入れて担ぎ上げると、思ったより楽にコウは背に乗った。よっしゃ、こう見えてもオレは男だ。見た目より力だってある。
 …って、コウだって男なんだけどさっ。
 だけど、なんつーか、オレはすっかり、ねばねばでぬるぬるが嫌いなことを忘れていた。だって、こんな風にコウが動けないんだ。オレが動かなくってどうするってーの。
 何だか男の責任感みたいなモノが、体の底から湧き上がってくる。
 なんとなく、気分いい。やっぱオレは男だ。誰かに守られるんじゃなくて、誰かを守ってあげなくちゃ。
 「か、香澄…」
 コウが背中にしがみつきながら、何かを呟いた。
 このシチュエーション。頼られてるって感じでかなり嬉しい。
 「なに?」
 白鳥は気分良く返事を返したが、黒羽は妙なことを言い出した。
 「さ、サジョウマイマイを、つ、ぶさないよう、に…」
 「はあ?」
 何マイマイだって? 白鳥は走りながら首をかしげた。
 「サジョウマイマイ。特別保護動物に指定されている…。砂城のアンダーにしかいない…」
 このナメクジのことかよっ。マイマイって、カタツムリなのか? これ。
 えっとー、一応ナメクジもマイマイ目だったっけか?
 いや、そんな事より、なに呑気なことを言っているんだ、コウの奴。
 こんだけいたら潰さないでどう走れってーの。
 しかしオレだって本当は踏みたくなんかない。コウのリクエストにお答えして、オレはヤツラの間を縫うように跳びはねて走った。
 もっともただでさえコウを背負っての無理な体勢なもんだから、そんな動作が長続きするはずがない。
 あっという間に息は上がるし足もとはもつれる。
 それでもオレは飛び石を踏み渡るように、何とか包囲網を飛び抜け、更にコウを背負ったまま走り続けた。
 そして次の瞬間、頭から地面にぶち倒れた。
 
 
 
 
 べしゃっ、とかなり情けない音が耳に響く。  うわあああ…、泥まみれ〜。  情けないことこの上ない。言っとくけど、オレは今日はかなりいい服を着てきた。
 そりゃあラフな格好かもしれないけど、これでも一応デートのつもりだったんだ。
 オレの持ってるもんの中でも、デート用にセレクトしてある高い服で上から下まで決めてきた。
 それが、やっぱり上から下まで泥まみれだ。
 ちょっと悲しい気分になってくる。顔も髪も泥だらけ。服も繊維の奥まで泥がしみこんで…。
 『泥汚れはガンコです』
 そんな少々所帯じみたキャッチフレーズが頭をよぎっていく。
 だって洗濯は自分でやるのだ。
 家にいた時は良かったなあ、なんて感傷が白鳥の頭の中を無意味に駆け抜けていった。
 だって母さんが全部やってくれたし。
 警察の寮では全部自分でやらなくちゃなんだよなぁ…。
 砂城に転勤してありがたかったのは、洗濯機が警察学校の寮にあったようなおんぼろ二槽式じゃなくて、全自動だって事だ。(乾燥機付き)
 お金持ち大好き。テクノロジーばんざい。
 …じゃなくて…。何を逃避しているんだオレ。「ちょっ、ちょっとどいて、どいてくれよ。コウ〜」
 「あっ、ああっ。ご、ごめん」
 地面に突っ込んだ白鳥は、まだ背中に黒羽を乗せていた。
 何やら呆然していた黒羽は、呪縛から解かれたように白鳥の背中から飛び降りる。
 「だ、大丈夫か? 香澄」
 白鳥は黒羽の手を握って何とか立ち上がった。
 
 
 
 
 「ごめん、香澄」黒羽はおろおろと謝りながらハンカチで香澄の頬を拭いてくれる。
 そんな事したって体中泥だらけなんだからあんまり意味はない、と思うけどちょっと嬉しい。
 こういうのって、よくあるじゃん、マンガとか、ドラマとか。女の子に、ハンカチで拭いてもらったりするの。へへへ。心の中でシチュエーションにワクワクしている白鳥は、傍目からはこの状況が
 『お兄ちゃんに宥められている子供』
 に見えることは気づいていない。
 もっともギャラリーがいる訳じゃないから、どちらだって同じだが。
 その間にもまだ雨は降り続けていて、傘をなくしてしまった二人はすでにびしょ濡れだ。
 「どうしようか」
 「え?」
 白鳥の問いにまぬけな答えを返す黒羽は、まだナメクジショックから抜けきっていないようだ。
 スッゲー可愛い。ナメクジはヤだったけど、こんなコウを見れたんだから、感謝したいくらいだと思う。
 意外な弱点。ハートマークを10コくらい付けたい。
 オレよりずっと大人で有能な警察官のコウが、あんな表情を見せるなんて。
 あ。まずい。
 「なに? 香澄」「あ、」
 今度は白鳥がうろたえる番だ。
 「ええと、」
 とにかく気を紛らわさなきゃ。こんなとこで勃ててどうする。(←_→)
 「と、とにかくここを出ようよ、また、あれが出るかもしれないし」
 黒羽はぎょっとしたように身体を硬直させて、うんうんと頷いた。
 二人はまた手を握りあって、今度は早足に歩き始めた。白鳥よりだいぶストライドの大きい黒羽は脚も速くて、しかもいつもは白鳥に会わせているのだろうが、今はそんな余裕もないらしい。
 ちょっと歩きづらい上に黒羽の早足に付いて行くのは大変だったけど、一心に前だけ見て歩く黒羽は『やっぱり可愛いなあ』とか思う白鳥だった。
 
 
 
 「コウ」「なに?」
 黒羽はまだ一心不乱に前だけを見つめて歩き続ける。
 「なんでオレについてきたのさ」
 「え? ええ?」
 眉を顰めながらやっと少しだけ黒羽は振り返った。
 「だってあんなに“あれ”が苦手なんだろ? だから最初に早足で通り抜けようとしたんだよな? だったら最初から言えば良かったのに。公園はヤダってさ」
 黒羽は白鳥の手をぐいぐいと引っ張りながら、少しの間黙っていたが、やがてぽつりと言った。
 「だって、香澄が行きたいと言ったから…」「オレが行きたいって言ったから?」
 オレのせいかよー。(ちょっとムッとする)
 「どこでも案内するって言ったし…」
 だからって無理する必要あるか?(水くさいじゃん)
 「…それに…」
 それに? (まだあるのか?)
 「香澄と二人で歩くのは…、きっと楽しいと思った…。そんなふうに誰かと、歩いたこと、なんて…、ない、から…」
 ………………。  オレは目を見開いて、コウの後ろ姿を見つめた。うわー、うわー、うわー……。ちょっと、コウ?
 なに? 何それ。やっぱデート?
 コウもそんなふうに思ってた?
 それとも、そうじゃなくて本当に単純にした事ないから、したかっただけなんだろうか?
 オレは自然と顔がにやけるのを止めることができなかった。でも、それでもオレと一緒に歩きたかったんだよな。
 “あれ”がいるかもしれないと解ってても、オレと来たいって思ったって事だよな?
 なんか、なんつーか…。
 めちゃくちゃ嬉しい。
 コウはやっぱり黙って前を向いたまま歩き続けていたが、オレはその顔を振り向かせたくてたまらなくなった。だって、どんな顔して言ってるんだよ、それ。
 オレよりずっと年上で、射撃の天才のくせに…。
 なんかもう、コウって素直なのかそうじゃないのか全然解らないよな。
 そういう所もアンバランスな感じで、すっごく可愛い。
 
 
 
 またやばくなってきたあそこを必死で宥めながら足を進めていくと、急にコウが振り返った。「あそこ。公園を抜けたところにサッカーとかラグビーの練習場がある」
 「ああ、うん」
 「その敷地内に市営の合宿所がある。そこなら水道もあるし、洗濯もできるし、風呂もある」
 えっ? お風呂があるの?
 白鳥は泥まみれの自分の姿を改めて見下ろした。
 お風呂。それはいいかも。
 もちろん、寮でも一緒に風呂には入るんだけど、やっぱ寮は寮だし。
 他の所って、また格別じゃん。
 
 
 
 何をどうワクワクしたのか、「行こう、行こう」
 白鳥は黒羽の手をますます強く握ってどんどん歩き出した。
 あ、あれかな。あの、赤い屋根。
 結構派手な建物だなあ。
 ま、アンダーの常識は外と違うからっ。
 そこへ向かってまっしぐら、るんるん歩く白鳥に引きずられるように黒羽は歩いていたが、
 「香澄、そっちじゃない」
 「え?」
 そういわれてよく見れば、何かもう公園を出てる気がする。
 「あれれ?」
 目の前に迫る赤い屋根の建物には、『Hotel』の文字が。
 
 
 
 
 ホテル? ホテルって?オレの無意識の願望なのか、なんなのか、その辺はよく解らないが、目の前には確かに、ドーン、とホテルが建っていた。
 普通のホテルだろうか? それとも、とっても派手だから、やっぱりラブホテル?
 オレはかなりぐるぐるした。
 公園の近くに、そんなホテルが建ってていいのか?
 合宿所って学生とかも使ったりするんだろ? その近くにホテル? 普通のホテルならいいかもしんないけど、けどけど、これって…。
 ああっ、そんな近所の主婦か、お巡りさんの発想はやめろっ!白鳥は心の中で自分の頭をぽかぽか叩いた。
 考えてもみろ。どっちのホテルだろうと、ここだったら勃ててもいいんだぞ。
 …って、うわー、オレってー………(T.T)
 白鳥の頭の中には、0.5秒の早さで欲望の思考が渦巻いていった。
 だから最初の予定ではさ、段取りくんのオレとしては、ゆっくり公園でも歩いて美術館に入って、カフェで話してさ、映画を見たり飯食ったりして、そんでいい感じになったら、その後…、だった訳よ。それが、雨の中公園の中を競歩して、ナメクジに囲まれて、ホップ・ステップ・ジャンプ。
 挙げ句の果てに地面に顔から突っ込んで、今や上から下まで泥だらけ。
 気がついたら予定なんて、最初から何もかもめちゃくちゃになってる。
 オレはコウの顔をちらりと見上げた。
 『香澄と二人で歩いたら、きっと楽しいと、思った…』コウの言葉がもう一度頭の中を巡る。
 オレは頭の中で、実はもうすでに何回かコウを押し倒しちゃったんだけど。
 (そんな事男なら誰だって、0.1秒で出来るよなっ。だけど想像の内容は、コウには絶対にナイショだ(-。−;)
 頭の中のオレの欲望はいったん棚に上げておくとして。
 確かに、コウとオレはもう何度も寝てる。
 だからここでホテルに入っちゃったら、それはコウが望んでいた事にはならないんじゃないだろうか…。
 そんな事を少しだけ思った。
 コウは歩きたいって言ったんだ。オレと歩きたいって。誰ともそんな風に歩いた事はないからって…。
 なんかちょっとだけせつなくなる。でも、この泥で、このまま歩くわけには、それもいかなかった。
 
 
 
 「ええとー…、コウ、あのさ」どうしよう、オレ…。
 しかし黒羽は白鳥のためらいを、まったく誤解して受け取ったようだった。
 「ここだと風呂には入れる。だけど洗濯はできるだろうか? でも香澄が入りたいなら入ろう」
 黒羽はものすごくきっぱりと言ったかと思うと、白鳥の手をもう一度握ってどんどんホテルの中に入っていった。
 ちょっとー、こういう所って、そういう風にきっぱりはっきり宣言してから入るもんなんですかーっ?
 
  
 
 
  はっきり言って、外でだってこんなとこ入ったことがない。女の子と付き合ったのは高校生の頃だったし、比較的清いお付き合いだったし。
 エッチだってしなかったとは言わないけど、女の子って、ムードとか大事にするからこういういかにもっていうとこには、来たがらないじゃないか。
 入り口を入ると、部屋の写真のパネルがあって、赤ランプがついてるとこはたぶん使用中なんだな。結構塞がってる。平日の昼間なのに。雨なのに。雨だからかな?
 なーんて、オレがあちこち見回してる間に、コウはためらいもせずに一つのボタンを押した。
 ごとん、と鍵が出てくる。
 「203だ」
 意外と普通の部屋なんだ。真ん中にセミダブルくらいのベッドがあって、テレビとか冷蔵庫とか、ゲーム機とか電子レンジまであったりする。
 オレはもっときんきらした部屋で、天井に鏡とかあって、ベッドが廻ったりしちゃうようなところを想像してたのでちょっと肩透かしだった。
 「香澄、こっち」
 コウが手招きするのは、お風呂らしい。
 お風呂は結構広い。
 オレは泥だらけになった服を脱ぐ。
 「コウ」
 「ん?」
 「あのさ、頼まれてくれないかな」
 「なに?」
 「服、買ってきて欲しいんだけど」
 「あ、」
 「これ、洗っても乾かないだろうしさ。ね?」
 「でも」
 「何でも良いんだ。コウが良いと思うのでいいから。これ、」
 白鳥の差し出した財布を、黒羽はためらいながら受け取った。
 
 
初めてのおつかい 
  公園の向かいにあるデパートに黒羽は入った。再び濡れるはめになってしまったが、まもなく雨も上がるはずだった。
 しかし…、自分も服を買った方がいいような気もする。傘を落として上から下までびしょぬれだし、香澄ほどではないが泥もついている。
 『だけど、これは香澄の金だからな…』
 黒羽は今、思ったより自分が目立っている事に気がついていなかった。
 すっかり乾いた綺麗なデパートに、傘も持たず、靴から水を滴らせて入ってくる男。ただでさえちょっと奇妙な感じなのに、更にそれは思わず振り返って見てしまうような綺麗な男なのだから、後ろにカメラがついていないかどうか、確かめたくなると言うものだ。
 デパートの店員から通りすがりのおばさんまで、皆が彼に視線を送る。
 しかし、事件の現場では僅かな人の気配にも振り向く黒羽だったが、こういう視線にはとことん鈍かった。
 容姿を人に注目される事に慣れていたせいもあるが、黒羽は極端に自分を過小評価する癖があった。
 意図せずに自分が目立つのだ、という事は、誰に何度言われてもよく解らない。
 黒羽は注目を浴びながら、紳士服売り場のコーナーに入っていった。
 
 
 
 
 適当な服を手にとって、はた、とそこで黒羽は考え込む。
 『香澄のサイズが解らない…』  パートナーで、こんなにいつも一緒にいるのに…。黒羽は困惑した。
 仕事以外では、自分が他人に殆ど注意を払っていない事を自覚はしていたが、パートナーの事まで解らないとなると、少々問題があるかもしれない。
 『たぶん間違いなく、香澄が聞いたら怒る…』
 僅かに、まずい、という気持ちが心の中に広がった。
 黒羽は必死になって香澄の体つきを思い出そうとした。
 ええと、背の高さがこれくらいで…。抱きしめた感じが…。腕で輪を作ってみる。
 あれ? もう少し大きかっただろうか?
 首をかしげながら服の前で、ぐるぐると手で大きさをシミュレーションする黒羽は、周りから見るとかなり“変”な人になりつつあった。
 胴回りがこれくらいで、足の長さは、自分が跪くとこの高さなんだから…。ここまで考えて、やっと黒羽は自分の頭の中の映像に赤面した。
 デパートの中で、男性用の洋服売り場で、香澄とのセックスシーンを思い出している自分。
 誰か頭の中をのぞける人がいたら、ひっくり返りそうな状況だ。
 そんな人がいるはずはないのに、思わず黒羽は周囲を見回した。
 
 
 
 とにかくコウが戻ってくるまでに泥だらけの服を洗わなきゃ。家にいた頃は良かったな。どんなに汚してきたって母さんが洗ってくれたもんな。
 ぶちぶち愚痴りながら、一番好いジャケットとズボンをお湯で洗う。大丈夫かな、洗っちゃっても。
 ま、もう遅いか。
 てきとーに洗って風呂の中につっておく。
 それから風呂桶にお湯を張った。
 このスイッチなんだろ。スイッチを押すと、騒がしい音をたててお湯が泡立つ。
 「お、ジャグジーじゃん」
 うへへ。後でコウと一緒に入ろう。
 その前に自分だけちょっと浸かってもいいよな。
 うん、身体洗っとこう。そんで、オレがコウを洗ってあげるんだ。良い考え。
 ぶく。  はっっ、しまった眠っちゃったぜ。危ない危ない。
 警察って激務だもんなあ。
 オレなんか慣れないことばっかしだから、何やっても時間かかるし、書類書くのも苦手だし。
 ここんとこ寝不足だったからなー。
 ちょっと、ベッドに移ろうかな。
 一休みして、英気を養っておかなきゃ。だってこれからあんなことやこーんなことや…
 
 
 
 香澄が気持ちよくベッドで天国に行っていた頃、黒羽はデパートの洋服売り場で固まっていた。
 辺りをぐるりと見回すと、いきなり一人の男とばっちり視線があう。男は黒羽と目があった瞬間に、にっこりと笑った。
 笑われて、たちまち頬に血が上る。
 単に彼は、先ほどまでの黒羽の『変な人』ぶりに注目していただけなのかもしれないが、黒羽にはよく解らない。
 そんな筈はないが、あんな風に目があったとたん笑われると、さっきまで自分が頭に思い浮かべていた映像を、のぞき見られたような気分になる。
 香澄の足の間に跪いて、香澄のモノを口で…。
 だから、思い浮かべるのはやめろ! 黒羽は懸命に別の事を連想しようとしたが、男の微笑で慌てさせられた頭の中は、少々ヒートしてしまったらしかった。
 口に出すのがはばかられるシーンが、芋づる式に頭の中で展開する。
 傍目から見ると、男と目があった瞬間顔を真っ赤にした黒羽の姿は、まるで一目惚れでもしたかのように見えた事だろう。完全に固まってしまった(頭の中は猛烈に動いている)黒羽に、男はなぜか微かに首をかしげながら近づいてきた。
 
 
 
 なぜだ? 何か用か? まさか本当に見えてる訳じゃ…。「どんな服をさがしているんですか?」
 て、店員? 黒羽は小さく息を吐き出した。
 「店員じゃないですよ」
 男は驚いた事に、すぐ黒羽の考えている事を察したようだった。
 そんな奴は滅多にいない。黒羽は微かに目を見開いた。
 「さっきからずっとそこでごそごそしているから、何か迷っているのかと思って」
 「ああ…」
 思わずぶっきらぼうな返事を返してしまう。
 しかし彼はまったくそれを気にした様子はなかった。
 それどころか、男はどんどん黒羽に近づいてくる。
 そして、顔を見上げて楽しそうに言った。
 「あなた、綺麗だなあ…」
 
 
 
 
 他人に近づかれるのは慣れていない。職業柄もあるし、もともと無愛想な性格だ。
 見た目も大きくて威圧感があるから、滅多なことでは近づいてくる者はいない。
 もっとも若い女の子は別だ。一般市民を対象にした行事に駆り出された時など、きゃあきゃあ言いながら黒羽を取り巻くこともないではなかった。
 でもそれはただ客寄せパンダになったというだけで、なるべく穏やかにして黙っていればいいだけの話だった。
 それに女の子は嫌いじゃない。黒羽だって、普通の男だ。
 自分でもゲイだとは思うけど、男なら誰でもいいわけじゃない。
 というか、香澄に会うまで冬馬以外の男を好きだと思ったことはなかったから、特に男が好きかと言われるとそれも怪しい。
 それにひきかえ、女の子はかわいらしくて綺麗だ。
 単純に、良いと思う。
 性的魅力は感じないが、むさ苦しい男よりはよほどいい。
 そんなわけで黒羽は近づいてきた男に対して、どう反応して良いか困った。特に感じが悪い男じゃない。
 でもいきなり『綺麗だ』と迫ってこられても、どう対処したらいいかわからない。
 見も知らぬ男とセックスした経験は、山ほどある。冬馬は黒羽を他の男たちに抱かせてそれを眺めるのが好きだった。
 今思えば、あれは自分の持ちものを他人に見せびらかす行為だったんだろう。
 それで黒羽が傷つくことも、黒羽自身に対して支配力を行使することも、楽しかったに違いない。
 冬馬涼一はそんな男だった。
 だけど冬馬抜きで他の男と付き合ったことなんか、今まで全然なかった。男に近寄られたこともなかったから、こんな風に困ったこともなかった。
 なんでいきなり来るんだ。  それは黒羽自身が、香澄と関わるようになって変わってきたせいでもあるし、なんといっても今は「エッチなシーン」をぐるぐる頭の中に展開していたのだから、端から見たら『色っぽいことこの上ない』状態だったのだ。でもそんな事は、黒羽自身にはさっぱりわからない。
 
 
 
 
 「きっとあなたに似合う服は、たくさんあると思いますよ。何でも似合いそうだ。それだけ背が高くて、スタイルがよければ。顔も綺麗だし」男はくすくす笑う。笑いながら適当なジャケットを一着引き抜いて、いきなり黒羽にあてがった。
 黒羽は思わず体を引く。
 まだ固まっているらしく、口に言葉が上ってこない。
 こういう時、とっさに何でも切り返せる香澄がうらやましかった。
 そう、香澄。香澄を待たせているのだ。こんな男に関わっている暇はない。服を洗ってしまったら、香澄は裸でいなくてはならない。空調は利いているし、風呂もベッドもあるのだから風邪をひく事はないだろうが、それにしても素っ裸のまま香澄を長く待たせておく訳にはいかない。
 早く服を買って帰らなくては。
 「な…、僕は、その…。なんで僕に…」しかし口から出てきたのは、何だか情けない、ぶつ切れの言葉だった。
 男は首をかしげて目を見開く。
 「服を他人に選ばれるのは嫌いですか?」
 「そうじゃなくて…」
 服なんか、どうでもいい。今だって自分の服は適当に選んでいる。ときどき香澄が妙な顔をして自分の服を見る事があるが、もしかしておかしなものを買っているというなら、誰かに適当に選んでもらってもかまわない。
 (注:香澄が妙な顔をして黒羽の服を見るのは、時々彼がとんでもなく高い服を着ているからである。それは昔冬馬からもらったものだったりするのだが、服に無頓着な黒羽は、どこで買ったとか、誰からもらったとか、そういう事はすぱっと忘れていたりする)
 「あなた、とっても目立ってましたよ。まあ、綺麗、というのもあるんだけど。それより、何というか、すごく艶っぽかった。独特な雰囲気だったな。こう、誰かを誘ってる感じ」黒羽はふたたび少しだけフリーズしてしまう。
 艶っぽいって? 誘ってる? 誰の話だ。自分の話か?
 現実逃避をしそうになった頭を、黒羽は必死で引き戻そうとした。
 この男、ゲイなんだろうか。よく解らない。
 ゲイとなんて関わった事がない。香澄は…、きっとゲイじゃないと思うし。
 昔自分を抱いた男たちは、ゲイだったのかもしれないが、彼らと自分との間には、体以外の関係は何もなかった。
 だから、ゲイについてはよく解らない。
 彼らが自分を抱きたい気持ちも解らない。
 香澄は…、どうなのだろう。  実際の所、それもよくは解らなかった。しかし、ゲイかどうかはともかく、こんな事を初対面で言う男が、少々おかしいのは確かだろう。
 男はにっこり笑う。「だから、嫌じゃなかったら、私にあなたの服を選ばせてくださいよ。そうだな、こんな所じゃなくて、もっとセンスのいい服を売っている場所の方がいい。ホントは違う店に行きたいけど、このデパートなら、向こうにブランドの服が…」
 だから?
 その『だから』はどこから繋がっている『だから』だ?
 それに服は自分じゃなくて香澄の…。いや、そんな事より、もっと他に言う事が…。
 黒羽が頭の中の言葉を口に出す前に、男は黒羽の手を取って、ぐいぐいと引きずっていった。
 
 
 
 
 あれよあれよという間に引っ張って行かれて、男が吊された服を物色し始めると、売り場の女の子が目をきらきらさせて寄って来た。「これなんかいかがですか、お客様、背がお高いから、映えますよぅ」
 めちゃめちゃ嬉しそうだ。
 「あの…」
 黒羽はなんとかこの状況を脱したいと思うが、なんと言って断ったらいいのか、さっぱり頭が働かない。
 そもそもさっきの『エッチシーン暴走』以来、フリーズから立ち直っていないのだ。
 困った。香澄が待っているのに。
 今頃裸で困っているだろう。
 裸の香澄の、その姿、ついでにアレを思い描いてしまって、黒羽はますます固まる。
 どうも頭の中にそういう回路が出来上がってしまったらしい。
 そんな事を思ったら今度はとんでもないところが意識されて、恥ずかしさに目眩がする。男の身体は正直だが不便だ。
 「すみません、服はいいです」
 訳のわからないことを言い置いて、黒羽はダッシュした。
 
 
 
 とりあえず人気のない所までダッシュしようと試みる。だがデパートの中で人気のない所と言ったら…。
 黒羽は結局、男性用トイレの中に駆け込んだ。個室に入り、ドアを閉めてほっとする。なんだか、下痢でもしてトイレに駆け込んだみたいだ。
 そう思ったが、勃ってしまいました、より下痢のほうがはるかにましだ。
 ため息をついて便器のふたに腰をかけた。
 トイレ…。ここでも香澄と…。思い出しかけて頭を振る。
 何やっているんだろう、僕は。
 今日は香澄を案内してあげるはずだったのに。全然ダメだ。
 公園で香澄をあんな風に走らせて、泥だらけにして、そのあげく服をまともに買う事も出来ない。
 仕事だけはなんとかちゃんとこなしているが、他の事に関して、本当に自分はまともに何一つ出来はしないんだ。いきなり自己嫌悪の波が押し寄せてきた。これほど感情が動くなんて、久しぶりの事だった。
 香澄が来てから、時々こんな風に落ち着かなくなる。
 それは良い事なのか悪い事なのか解らなかった。
 香澄に聞きたい。そう思った。
 
 
 
 しかし、どうしよう…。いつまでもここにいる訳にもいかないし、出たらあの男がまだいるだろう。捕まったら逃げるのに一苦労しそうだ。しかしどうしても服は手に入れなくてはならない。
 これは、もしかして作戦と一緒か?
 突入して、目的のものをすばやく手に入れて、さっと撤退する。
 そう思えば、やりやすいかもしれない。
 黒羽がそんな事を思いついた時、いきなりトイレの中に大きな声が響いた。
 「大丈夫ですかあ? お腹壊したんですか? そこにいます?」
 あの男の声だ。追ってきたのか!?黒羽はトイレの中で青くなった。
 
 
 
 
 「大丈夫です。もう、かまわないでください」 意を決して声を出す。
 お構いなく、なんて社交辞令は黒羽の辞書になかったから、直截な言葉になった。
 だが、男の方もそのくらいでは引き下がらない。
 「でも、心配ですから。ここで待ってます」
 なにしろ自分に気があると思っているのだ。
 そりゃ、そう思われるだけのことをしてきたから仕方ないのだが、黒羽にしてみればそんなつもりは全くなかったわけで、ただただ情けなくなるばかりだった。
 いつまで我慢比べをしていたって、だめそうだ。
 仕方なくドアを開けてでる。とりあえず、良からぬ現象は治まったし。「良かった。顔色も悪くないようだし」
 「すみません。急いでいるんで、失礼します」
 精一杯当たり障りのない言葉を並べてみる。交番勤務の頃使ったような。
 そのまま男を押しのけてトイレを出ようとしたのに、腕を掴まれてしまった。
 「つれないなあ」
 男の顔が近づく。なんだ、今度はいったい。
 振りはらおうか、黒羽は迷う。
 その困った顔がまたまた妙に魅力的なことには、本人まったく気づいていない。
 「やめろよ」  いきなり、違う声が割って入った。「困ってるじゃんかよ、その人」
 入り口当たりの壁に背をもたせかけて、ポケットに両手を突っ込んだ男がこちらを見ていた。
 
 
 
 
 「なんだ? キミは」「通りすがりの正義の味方」
 そう言うと男はにやりと笑った。
 男、というより少年かもしれない。高校生くらいに見える。ギザギザと短く切った髪がやけにワイルドな感じだ。
 しかし黒羽は彼が急に現れたことより、彼の言葉に一瞬どきりとした。
 正義の味方。香澄…。  香澄も服装によっては高校生くらいに見える。顔のせいかもしれないし、髪型のせいかもしれない。それともあのくるくると変わる陽気な表情のせいだろうか?初めて出逢った時、僕は忘れていたけれど、香澄は本当に子供だった。
 香澄は僕が、自分を正義の味方と言ったのだと言うが、本当は違う。
 僕は本当は…。
 黒羽のそんな感情にお構いなしに、二人は言い争いを始めた。「キミに関係ないだろ?」
 「あんたにだって関係なさそうじゃん、どう見たって嫌がってるだろ、この人」
 「私はねえ、単にこの人の服を選んであげようと…」
 「そっかなー、オレにはムリヤリ迫っているように見えたぜ」
 「そ、そんな事は…」
 見ようによっては、二人して黒羽を取り合っているような状況だ。
 しかも、男性用トイレで…。
 「ホモ? おっさん、ホモな訳? そりゃー、これだけ綺麗な人じゃ、迫ってみたくなるかもなあ。だけど、ムリヤリはよくない。それに、オレ、ホモ嫌い」少年はせせら笑うように、そう言った。
 彼の言葉に、再び黒羽は胸を突かれる。
 香澄とこの少年は、まったく似ていないのに、なぜか香澄にそう言われたような気がしたからだった。
 
 
 
 はっ、と目が覚めた。「あれ?、あれあれ?」
 一瞬、どこにいるのか判らなかった。
 がばっと起き上がって、自分が裸な事に気付く。
 「ああ、そうだっけ。コウは?」辺りを見回したけれど、姿はない。まだ戻っていないらしい。
 時計を見る。
 「えーーーっ。もう、1時間以上経ってんじゃん」
 どうしたんだろう。
 デパートが近くにあるって言ってたのに。そんなに時間がかかるとも思えない。何かあったんだろうか。
 そう思ったら、急に心配になってくる。
 事故とか、何か事件にでも巻き込まれたとか。
 黒羽がどういう人物だったかは、この際白鳥の頭からは抜け落ちている。
 どうしよう。
 捜しに行こうか。でも、行き違うかもしれない。
 あっ、そんなことより何より、服がないんじゃん。どーすんだよ。
 あああ、困った。
 黒羽がトイレで困っていた頃、白鳥はベッドで頭を抱えていた。
 
 
 バスルームにかけておいた服を手で触ってみる。ううう…、触らないでも解る。水、したたってるもんな。
 ドライヤーで乾かしてみるか?
 なんとなく無謀な考えが頭に浮かぶ。
 部屋のほうにとって返したが、何か着られそうなものは残念ながらそこにはなかった。
 ううん…。コウ、一体どうしちゃったんだろう。
 デパートが閉まってたのかな。そんでもって、隣のデパートに行ってみたら、そこも閉まってたとか。で、隣のデパートに行くと、実はそこも閉まってて…。
 バカな想像ばかりが、ぐるぐると頭を巡る。
 ええい、いくら何でもそんなに全部閉まってるわけあるか。
 ここは日本だ。外国だと、バカンス中はお店閉まっちゃうとか、あるって聞いたけどな。
 それじゃ、こんなのはどうだ?  デパート行ったら、強盗が出て、コウが人質とかになっちゃって…。…なるわけねえな。
 腕ねじり上げて、2秒で終いだ。
 だけど、でも、もしもすげえ強盗だったりして、逆にコウがひねられちゃったりしたら…。
 そもそもそんな凄腕の強盗が、どうして銀行ではなく、デパートなんかに行かなければならないのか、という疑問は、この際白鳥の頭の中には浮かばない。
 そうだよな、そういう事だってアリだよな。
 うん、たぶんきっと、あったりするかも…。
 それとも、デパートに行ったらいきなり、『おめでとうございます! あなたが10万人目のお客様です!』
 とか言われちゃったりして、花輪かけられて、可愛い女の子に、ちゅうされちゃったりして、記念品と、ペアでヨーロッパ一周旅行にご招待…。
 ………頭ん中が、シャッターと花輪と強盗でぐるぐるしてきた。
 こんな所で無駄に考えててもしかたないよなー、だけどなー。下半身にシーツを巻き付けて、白鳥はそっと部屋のドアを開けた。
 ううむ、何かこれで出たら、痴話げんかの末、部屋を追い出された情けな男か、首尾良く女を連れ込んだのはいいけど、風呂入っているうちに、服から金から全部盗まれた、援交おやじみたいじゃん。
 ますます情けない想像が、白鳥の頭の中で広がっていった。
 ホント。オレってば、どうすりゃいいわけ?  
 
  
香澄はゲイじゃない。…だろうと思う。多分。だのに何故僕と寝てるんだろう。
 初めて、黒羽はそれを疑問に思った。
 なぜだか、今まで考えたことがなかったのだ。
 馬鹿じゃないのか。自分で呆れる。
 香澄は幾つだっけ。
 確か、二十か二十一かそこら。
 その年の頃、自分はどうしていたか。
  冬馬涼一に夢中だった頃。何もかもが、涼一を中心に廻っていた。
 十八の誕生日に初めてセックスして、それからずっと。
 いや。
 その前からずっと、僕の世界には涼一しかいなかった。
 父と母が死んでからずっと。
 涼一がいなくなって、僕は一人だった。
 パートナーすら決まらなくて。
 今思えば、それも何故だったんだろう。刑事は二人一組のパートナーで動く。ドラマじゃないんだから一匹狼なんて、あり得ない。
 なのに何故、僕には決まったパートナーがいなかったのだろう。涼一がいなくなってからずっと。
 
 
 
 
 「差別意識だな。程度が低いよキミ」男が負けじと言い返す。
 「どっちにしたって、嫌がってる相手に手を出すなんてさいてーヤローだろっ」
 少年も、ムッとしたらしく声が大きくなった。
 自分の世界に入ってしまった黒羽をよそに、二人の男は睨み合った。
 
 
 
どうする、どうする、どうする?白鳥は、それなりに切羽詰まっていた。
 このまま出るか? そういうワケにもいかないだろう? 頭の中で常識ってヤツがえらそうに囁く。
 だいたい二人そろってここを出ていいものなのか。
 自分の財布はコウが握っているわけだし、カードだって全部財布の中に突っ込んである。
 コウはコウで自分の上着を着て出ていっちゃったわけだから、今のオレの手元には、一円の金もないってわけだ。
 金がないのは首がないのと同じ。
 ホント、一歩だって動けやしない。
 ちょっぴりお金のありがたさが身にしみる感じがした。
 しかし、そうこうしているうちに、時間だけはたっていく。
 『どうしよう。コウに何か、本当にあったのだとしたら』
 その頃黒羽は、確かにロクでもない目にあってはいるのだが、もちろん白鳥に想像出来るはずもない。
 だいたいコウって、すっごく綺麗なんだから、誰かに襲われてないとも限らないよな。ううう。そんな事になったら、どうしよう。
 くっそー。もし誰かコウを酷い目に会わせたりとかしたら、絶対そいつをぶん殴りに行く!
 まして、手なんか出しやがったりしたら…。
 白鳥は忘れている。黒羽 高は、綺麗は綺麗だが、同時に怖いと思われていることを。
 もっとも最近はだいぶ印象が柔らかくなっているので、その限りではないかもしれないが。
 しかしそれでも、黒羽に、そのテのことで迫ってくる男が、そんなに多いはずもない。
 だが、とっちらかっている上に自分本位の考えしか頭に浮かばない白鳥の心の中で、黒羽はかなりの所
 『お姫様』と化していた。
 手なんか出しやがったりしたら、絶対コロス!ってーか、それだけじゃ足りないな。どうしてやろう。畜生。
 コウはな、誰にも触らせないんだ。オレだけが触っていいの。
 オレだけがな、あーんな事や、こーんな事も、したっていいんだ。
 コウだって、他の誰にもそんな事許したりはしない。
 他のヤツなんて、絶対ダメだ。
 オレだけなんだ。オレだけ。オレだけに…。
 ……………………………。  そこまで考えて、やっと白鳥は我に返った。  どうして頭の中で、勝手にコウが押し倒されてんだよ。しかも、知らないヤツにさあ…。
 悲しいことに、シーツの下の自分のモノが、反応している。
 もしもーし。
 気持ちは解るけど、オレの分身。そりゃ無いんじゃないの?
 そんな事むなしくひとりで想像してないでさ。
 現実的なことを考えようぜ。
 そう思いながら、ちょっとティッシュのほうを振り向いてしまった白鳥だった。
 だけどなあ。コウを探しに行くっていっても、服無いし、金無いし。場所が場所だけに、誰かに電話してお金を持ってきてもらうって訳にも…。
 その瞬間、白鳥はハッと手を打った。バカじゃん。オレ。電話だよ、電話。
 何でそういう文明の利器を、すらっと忘れているかなあ。
 何も裸で廊下を走って出ることなんか無いんだ。
 上着を引っかけていったんだから、コウだって携帯くらい持って出たはず。
 携帯かけてみりゃいいのさ。
 白鳥は慌てて、その辺に放り出した自分の私物を探った。
 あった、あったー、オレの携帯。これでコウに連絡が取れるぜ。
 
 
 
 睨み合う男たち。それにかまわず自分の考え事に没頭する黒羽。
 しかも場所はデパートの男子トイレ。
 かなり妙な風景だ。
 突然、黒羽のケータイが鳴った。  「あ、ああ、香澄。うん。ちょっと手間取っちゃって。いや、別に。いやいや、大丈夫だから。そんなんじゃなくて。うん。すぐ戻るよ。うん」しどろもどろの言い訳になった。
 黒羽にしてみれば、本来疚しいことがあったわけじゃないが、
 『何か困ったことになってないか、危ない目に遭ってないか』
 とたたみかけるように問われて、なんだかこのまぬけな状況を見透かされたような気がしたのだ。
 こんな場所で男に迫られてるなんて。
 僕はいったい何をしてるんだ。
 「ほらみろ。カノジョが待ってるらしいぜ。おっさんが迫ったって、ムダムダ。かすみちゃん、カワイイ名前じゃん」勝ち誇ったように言う少年に、男が詰まる。
 だが黒羽はというと、いきなり男たち二人を無視して行動を始めた。すたすたとトイレを出ると手近の洋服売り場に直行し、一番大きめの服を買った。
 何故なら黒羽が買ったのは無難なTシャツと、(これはいいとして)ボトムは、ジーンズとはいえスカートだったからだ。
 そこは婦人服売り場だったのだ。  そう、女の服を買うなら、もうあの男にとやかく言われる事はないだろう。良い考えだ。とっさの計算だったが、すでにどこかがぐるりとねじ曲がっていることに、黒羽は気づかない。
 
 
 
 
 レジで金を払って、黒羽はさっさとその場を去ろうとする。どうやら女の服を買ったことで、確かにあの変な男の追撃からは、逃れることが出来たらしかった。
 ホッと胸をなで下ろす。
 しかし向きを変えたところで、さっきの少年と目があった。
 一瞬ぎくりとしたが、考えてみたら彼は自分を助けてくれたのだ。
 何かひと言くらい言わなくては。
 なんとなくそうしないと香澄に怒られるような気がしていた。
 こんな情けない事、香澄にはひと言だって言うつもりはないのに。
 彼が『正義の味方』なんて言ったせいかもしれない。
 
 
 
 黒羽は大股で少年に近寄ると、まっすぐに顔を覗き込んでいった。next「さっきはどうもありがとう。それじゃ」
 言うなりくるりと踵を返す。
 すぐに向こうを向いてしまった黒羽はまったく気付く事はなかったが、いきなり顔を近づけられて、礼を言われた少年の顔は、真っ赤に染まっていた。
 「か、可愛い彼女によろしくなっ」
 かすれた声で、彼はかろうじて後ろ姿に声をかける。
 しかしその時には、もう黒羽の姿はデパートの外へ出ていくところだった。
 少年は頭をかきながら、ぼそぼそと呟いた。
 「まいったなあ…。オレは、ホモじゃねえぞ。ぜ、絶対…違うんだから。第一あの人、彼女いるじゃん…」
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