香澄の災難
「あーあ、いっちゃったよ」
肩を落とし、大げさにため息を吐いて男は言った。
「当たり前だろ。嫌がってたじゃん。あの人」
「そうでもなかったよ。あと一押しだったのになあ。うーん、惜しかった。あんな綺麗な子はそういないよねえ」
「馬鹿みてえ。あんな人がホモのオヤジに引っかかるわけねぇじゃん」
ギザギザ頭の少年が言う。
読者の皆さまはお忘れかもしれないが、デパートに残された二人である。
「一緒に飯でも食わないか」
男はくるっと振り向き、少年に言った。
「はあ？ オレ、ホモの趣味ねえって」
「別に君とどうこうしようなんて考えてないよ。ただ飯食おうって言うだけ。一人じゃつまらないからね。第一君は僕の好みじゃない」
ホモは嫌い、といいながら、『好みじゃない』といわれるとプライドが傷つくのは何故だろう。
「他のヤツを誘え」
ムッとして、きびすを返す。
「いいじゃないか。何か食べたいものない？」
追いすがって続ける男。
なんなんだよ、このオヤジ。
「ピザは？ 寿司はどう？ 美味い店知ってるよ」
寿司…
寿司なんて、もう何ヶ月も食ってない。飯だって実は昨日から食ってない。
腹減った。
マグロ、イカ、甘エビ、タコ…ああああ。何考えてんだよ、オレ！
ホモの誘いに乗ってどうする。
「中トロの良いヤツ出すんだよねえ」
脚が勝手に止まる。
「飯だけだぜ」
口も勝手に言っていた。
「ホント綺麗な子だったよねえ」
まだ言ってら。
「オレの知り合いにさ、すっごい綺麗な人いるんだ。誰でも思わず振り返っちゃうような人」
口に比目魚のエンガワを押し込みながら言う。
「芸能人か何か？」
「ううん。商社の社長」
「へええ。そりゃすごい」
「ホントにすごいんだよ。おっさんだって絶対知ってるような会社だもん」
「もしかして、千代田物産？」
「当たり。さすがホモは詳しいじゃん」
「ホモ関係ないって。商社の社長で綺麗な人っていったら、大抵わかるよ。綺麗な社長と大企業って言ったら、冬馬グループのＢ＆Ｂか、どちらかだろ？ 雑誌とかにも写真載ってるじゃないか。でも、Ｂ＆Ｂの社長は誰でも振り返るって感じの綺麗さじゃないし、商社でもない。そしたら選択肢は一つだろ。へえ、君の知り合いなの。いいねえ。会ってみたいもんだ」
「あんたなんか相手にしないって。だけどオレ、葵さん以外であんな綺麗なヤツ初めて見たよ。目立つことはあの人以上だね。いるとこにはいるもんだ」
「名前で呼ぶほど親しいんだ」
「なんか、親戚だっていう話もあるけど、それはどうだかな。とおーいご先祖が同じだったとか。家系図なんて怪しいから、オレは信じてねえけど。ただ、将来縁戚関係になることはあるかもな。オレは遠慮しとくけど」
「君は…何者なんだい？」
「なにものって…」
ほんの少し口ごもったが、まあいいや、とでもいうように少年は口を開いた。
「オレは篁 海里」
「たかむら？」
男はビックリしたように口を開いた。
かたやこちらは、ご機嫌の香澄。
風呂に入って、黒羽に体を洗ってもらう。
うーん、人に洗ってもらうのって、気持ちいい。天国ー。
さっきまでも天国だったけどなっ。これはまた違う感じ。
「コウ、今度はオレがっ♪」
えへへへへー。洗いっこだ。こういうの、なんとなーく、憧れだったんだよねー。風呂の中で恋人とはしゃぐって、エッチくさくて、こういう関係でーす、でもなきゃ出来ない事だろ？
さっきまであんなに大胆だったくせに、妙に逃げる形になるコウを押さえつけて、体を洗う。
ついでに触っちゃえーっと。
あんまりえっちな声を出されたら、ここで２ラウンド目開始でもいいよなー。
なーんて、勝手に思う。
うーん、楽しい。
寮じゃ『絶対に』できない。
こんな事がゆっくり出来るなんて、ラブホテルも、いいじゃん。
毎日…は無理だけど、時々来たいぜ。
今まで入った事無かったから、そこはかとなく敷居が高かったけど、一度入っちゃえばこっちのもんだ。
これからは、時々コウを誘ってみよっと。
できるだけ西署から遠い所に行かなくちゃな。
プライベートとは言え、一応オレ達『お巡りさん』だし。
知り合いにばったり、なーんてのもゴメンだ。
どの辺のホテルがナイスか、ちょっと調べてみよう。
頭の中の『だんどりくん』が勝手に計画を立て始める。
もっとも今日も、色々楽しい手順を考えてきた割に、最初からそれがとっちらかっている事を、白鳥は忘れている。
段取りくんをきっちり成功させるためには、実は経験値が必要なのだった。
「あー、腹減った、腹減ったー」
白鳥は素っ裸のまま風呂から飛び出すと、黒羽を振り向いた。
「コウ、服どこ？」
「服？」
頭を拭きながら黒羽が軽く首をかしげる。
妙に可愛いしぐさだ。
「だから、オレの服。買ってきたんだよな」
「ああ、それならそこ…」
まで言いかけて、黒羽の頭の中に、いきなり冷風が吹き抜けていった。
香澄の服。そうだ、その筈だったんだ。
だけど、そこにあるのは…。
「なんだーっ！？ 何これーっ！」
白鳥の、悲鳴のような声が響く。
黒羽は思わず目を瞑ってしまった。
「たかむらって、もしかしてあの、篁一族かい？」
「あんまりベラベラ口に出すなよ。嫌なんだよその名字」
「篁家の坊ちゃんが、こんな所にねえ。それで企業の社長とも知り合いね。納得」
「するな勝手に。篁なんて家と血筋だけが自慢のプライドの化け物さ」
「その血を売り物に、あちこちと縁戚結んでいるんだよね。おっと…」
篁海里は、恐ろしく暗い目で、ジロリとこちらを睨んだ。
男は慌てて話題を変える。
「かいりって、どんな字だい」
「海（うみ）の里（さと）、あれだよ、２００海里問題とか、そういうやつ」
「ああ、なるほど。ちょっと変わった名前だね」
「親が付けたんだからオレのせいじゃねえや。ノットとか付けられなかっただけましだぜ」
「篁、海里。響きのいい名前だと思うけど」
「オレはその名前は捨てたいね」
「ボクの名前はねえ…」
「別におっさんの名前なんか聞きたくねえ。これからよろしくするわけでもねえしよ。飯食ったらバイバイだからな」
「そう警戒しなくてもいいのに。ボクは」
「だからいいって。あ、オレみそ汁飲みてえ。シジミのみそ汁」
「あ、シジミのみそ汁ひとつね。君、学生かい？」
「いんや、フリーターってヤツ」
「ふうん。でも、篁一族で社長の知り合いなら就職には困らないよね」
「やなこった。血とかコネとかまっぴらだ。オレは外にでて一人で働くんだ」
「へええ、偉いね。いいじゃないか、うん。若者はそのくらい気概が無くちゃ」
「おっさん、ジジくせえな。幾つだよ」
「３８」
「ウソおッ！」
素頓狂な声に、店中の客が振り向いた。
「ひどいな。幾つくらいだと思ってたんだよ」
「えー。５０くらいかなー」
「そりゃないよ」
がっくり来る。
でも、目を丸くした少年は結構可愛い。
よくよく見れば顔立ちはいいのだ。
さっきの青年の美貌はあからさまに特別製だったけど、この子だって結構いい男だ。
「だって３８っつったら、葵さんと同じくらいじゃん。ウソだろ」
「そーいう人と比べない。君こそ幾つだよ。中卒かい、それとも高校中退かい？」
「馬鹿にすんな。高校くらい卒業してら。大学は中退だけどな」
ほう、大学もいってたのか。
ちょっとイメージ違うな。
白鳥は手の中の服を、茫然と見つめる。
Ｔシャツはいいとして（柄が何やらかわいらしいが）コレはなんだ？
もう一度マジマジとものを見つめる。
どう見てもスカートだ。間違いない。
だけど、一体なんで…？ どういう事さ、コレ？
コウはオレの頼みで服を買いに行ったはずだけど。
なのに、なんでスカート？
「コウ？」
言いながら振り向くと、首を振りながら壁際ギリギリの所まで後退している黒羽の姿が目に入った。
あっ！ 絶対何か隠してやがる。
白鳥は瞬時に確信した。
そういえば、すっかりどうでも良くなっていたけど、帰ってきた時すごく態度が変だったじゃん。
コレがその理由な訳？
それにしたって、どうしてスカートなんか買う羽目になってんだよ。
ましてやオレにこれを着ろってか？
「コウ、説明して！」
「あ…、いや、その。それは」
「どうしてオレの服がスカートなんだよ。何があったんだ。どういう手違いでこうなったわけ？」
畳み掛けるように問われて、黒羽の視線は宙をさまよった。
「だ、だから、その。香澄のサイズが解らなくて…」
「解らなくて、婦人服売り場になんで行ったの？」
「そうじゃなくて、男が、その…。そいつが急に来て服を選ぶって。で、トイレに行ったら追いかけてきて、で、その、そこへ高校生が…」
「…全然解んない」
白鳥は眉をひそめる。その表情に黒羽はまた少し後ろに下がった。
ああああ、怒ってる。絶対怒ってる。
黒羽はどうしていいのか、まったく解らなくなった。
解るのは自分がものすごく『まぬけ』だという事だけだ。
どうしよう、どうすればいいんだろう。
フリーズしてやがる。
白鳥は壁にはりついている黒羽を、憮然と眺めた。
どうやらかなり不測の事態に巻き込まれたらしい。
少なくともそれだけは解った。
男と高校生だって？
何があったんだよ。やっぱり誰かが手ぇ出しやがったのか？
しかし何があったにせよ、極端に口べたな黒羽から、これ以上まともな情報なり言い訳なりは引き出せそうもなかった。
これがホントにあの『レフトハンドショットガン』な訳？
年上で、めちゃくちゃ有能で、射撃の天才で、信じられないくらい綺麗で、誰もが振り返る、オレの憧れ…。
白鳥はつかつかと壁に近づいていった。
黒羽は固まったまま、白鳥を見つめる。
「コウ？」
「ごめん、香澄。僕は…」
「これしかないんだね？」
「え？」
「買ってきた服はこれだけって事だろ？」
「そ、そ、そう…だから」
白鳥は何か言いかける黒羽の口を、自分の唇で強引に塞いだ。
まったくもう、何があったか知らないけど、すっげー莫迦。
コウ、めちゃくちゃまぬけじゃん。
まぬけだとは思うけど、思うけど…、でも…。
ああ、しょうもない、オレ。
まぬけなコウが、可愛いって思う。
たぶんすっげー莫迦なことやったんだ。どんな事か知らないけど。
だけど、こんな風にコウがオレの機嫌を窺うなんて、滅多にある事じゃない。
いや、初めてかも。
実はそれも、ちょっぴり嬉しい。
もしかしなくてもオレって、心狭いのかもしれないよな。
だっていつもオレの上を軽々飛んでいくコウが、手元に降りてきたみたいな気がするんだ。
掴まえて、抱きしめて、オレの手の中で、ぎゅーっと…。
ちょっと待て、オレ！
ぎゅーっとはいいけど、やっぱりスカートは困るだろう。
思う存分黒羽の唇をむさぼってから、やっと白鳥は顔を離した。
「か、香澄…？」
白鳥はまだ憮然とした顔を崩さない。
「解った。アレしかないなら、あれを着てやろうじゃん」
「え？ あれを、着る、のか？」
「着る！ 他に着るもん無い。オレの服はみんなびしょ濡れなんだから。もう着るしかないだろっ」
着てやるとも。ええ、もう開き直りましたよ、オレは。
コウにおつかいを頼んだのはオレだよ。
だから着てやる！
口に出したらオレはそうする。
有言実行。オレは男だ。
何やらドキドキしているらしい黒羽を、白鳥は見上げた。
もうちょっと、そうやってオレのご機嫌を窺わせておくのも、悪くないしな。
白鳥は完全に吹っ切って、買ってきた服を広げた。
おそるおそる黒羽も近くに寄ってくる。
Ｔシャツは、まあ普通だ。なんとか着られそう。
問題はスカートだ。腰が入るかどうかだよな。
あ、一応ゴム入り。はけるかどうか、ちょっとやってみるか？
その時再び白鳥の額に縦皺が寄った。
「聞くけど、コウ」
隣に座り込んだ黒羽を横目で見る。
「あ、ああ？」
「あのさ、…パンツは？」
「………」
今度は２人の間に、冷たい風が吹き抜けていった。
「２３って、君こそ詐欺だ」
「何がだよ。年なんか関係ねぇじゃん。最初っから飯食うだけっていってたろ」
「それにしたって、どう見ても高校生なのに」
「高校生高校生ってうるせえな。そんなに高校生がありがたいかよ。さっきの人は全然高校生には見えなかったぞ」
「ああ、彼。彼は本当に綺麗な子だったねえ。あれは普通の人じゃないな。でもどこかで見たような顔だったんだけど」
「芸能人とかじゃないのか。モデルとかさ」
「それにしちゃウブだったよね。可愛かったなあ。あれだけ綺麗なのに全然擦れてなくて可愛いなんて貴重だよ、ホント」
「スケベホモオヤジ」
「あっ、そういう言い方はないだろ。痴漢したわけじゃないし」
「似たようなものじゃん。あわよくばどっかに連れ込んでやっちゃえとか、思ってたんだろ」
「思ってなかったとは言わないけどさあ」
「あはは。おっさん結構正直だな。そういうとこ、いいぜ」
「おやおや、一寸は風向きが変わってきたかい？」
「だから図々しいっての。さて、腹もいっぱいになったし、もう行くわ、オレ」
「まあまあ、まだいいだろ。君も大人なら、一杯つきあえよ」
酒。
そういや酒も久しく呑んでない。
「冷酒一本ね」
勝手に頼んでる。
ま、いいか。
いつのまにかオヤジのペースに乗せられている海里である。
パンツが無い！
コウはパンツは買ってこなかった。
オレのは洗濯しちゃって、水がボタボタ滴っているというのに。
つーことは、ノーパンか？ ノーパンなのか!?
ノーパンで、スカート!?
………………。
いきなりくらくら来た。
スカートを履くと宣言したものの、ノーパンで、スカート…。
ううっ…。オレの想像を超えすぎてるぜ。
くらくらっ。バッタリ。
って、心の中で倒れてる場合じゃねえっての。
どーするんだよ、オレっ <(T◇T)>
それをやるのはオレなんだぞ！
だけどどうしてそんな事オレがやらなくちゃいけないんだ。
なんでこんな事になっちゃったんだ。
思わず涙目になってしまう。
唇を噛んでコウを睨むと、コウは一瞬首をすくめた。
ううっ。ぐぐっ。可愛い。怒れない…っ。
何でオレ、七つも年上の男に、こんな事思ってるんだ。
ああ、もうぐるぐる。
「畜生、着てやるっ。着るったら、着る！」
オレは顔を逸らして、殆どやけくそで、ノーパンのままスカートを腰に巻いた。
Ｔシャツだって素肌にかぶる。
涙に滲む顔を上げて、目の前の鏡をのぞくと、そこに写っているのは、立派な『変態』だった。
そりゃー、そうだ。
ちょっとくらい顔が可愛いからって
（学校行ってた頃、少しはオレだってそう言われてたんだぜ）
男は男だ。
ましてや綺麗なオカマさんと違って、現在まったく加工無し。
体毛は男にしては薄いけど、でも生足！
ウエストは女みたいにくびれてないし、素肌にシャツだから、男体型バッチリ。
…ああ、自分だってのに、気持ち悪い。（泣）
それに、スカートって…。その、中心が…。
風もないのに、涼しいものが吹き抜けていく感じでございます。
ぶらぶらしてるしさ…（号泣）
「か、かすみ…、その…」
何を言ったらいいのか、まったく解らなくなっているらしいコウが、後ろでこそっと呟く。
言うな！ なんか知らんがひと言だって言うな！
「香澄、かわいい、よ」
ばきっ！
それはフォローのつもりかっ。
スカートまくり上げて下のモノ見せたろかっ！
（あたし、綺麗？ そお、これでもー？）
だああーーーっ。完全に変態思考っ。
どうするんだオレ。このまま変態の道を突っ走るのかっ!?
外に出ると、雨は完全にやんでいた。
そう、外に出たのだ。
もちろんスカートで。
そして、ノーパンのまま。
一度は自分のパンツを引っ張り出しては来たのだが、それははっきりきっぱり、水が滴っていた。
冷たい…。
何もかもオレに冷たいぜ。
どこかのセリフが口をついて出てしまう。
そして同じく、引っ張り出した靴も、濡れていた。
泥が付いたんだよ、上から下まで。靴だって、靴下だって。畜生！
靴下はパスした。
だが靴は履かないわけにはいかない。
だからオレの今の格好は、見える所だけでも凄まじいものだった。
どこからどう見ても男が、生足でスカート。
靴下無し。素足に直接のスニーカー。（半がわき状態）
手にはデパートの袋を下げている。
中に入っているのは濡れたオレの服だが、この格好では、何が入っていても激烈怪しい。
一体どんな災難がオレに襲いかかったのか、たぶん誰にも解るまい。
（もはやオレ自身にもよく解らない…(T▽T)
そして見えない所は、もちろんもっと凄まじかった。
なんか、なんつうか、すごく無防備になった感じ。
素っ裸だというなら、逆にそんな事はないのかもしれないが、なまじ布を腰に纏っているだけに、纏ってない部分が強く意識される。
女って、こんなものはいてるのかよ。
めちゃめちゃ無防備じゃん。
いやまあ、普通女だってノーパンでスカートは履かないだろうから、もう少しはガードした感じになるのだろうけど。
それにしてもすうすうする。
下が開いているのだから当然だ。
うう、だからスカートってめくりたくなるのか。
無防備な感じが、きっと男を誘うんだな。
もっともオレのスカートをめくりたいとは、どこの誰も思うまい。
そんな事をしても誰も嬉しくないし、やった瞬間オレは、猥褻物何とかだ。
そう、今のオレは天下御免の『変態』だった。
「香澄…」
コウが小さく呟く。オレはじろりと睨んだ。
「何？ コウ、オレのスカートめくりたいわけ？」
「い、いや、車までだから…」
「そうだな。車まで戻ったら、オレのスカートめくって、じっくり鑑賞してくれよ」
今のオレは、すっげー意地悪モードに入っていた。
だって、車までなんだぞ。
車まで帰るには、まず道を向こうに渡って、それからあのナメクジのいた広ーい公園を突っ切っていくか、でなければ、その周りをぐるりと大回りしていくしか方法はない。
雨はすっかり上がり、家の中にいた人達が、外に出始めている。
休日の公園なんて雨が上がれば、散歩する奴やら、合宿所なんかがあったのだから、そこでスポーツする奴やらで、人だらけになるだろう。
オレはその中を、この格好のまま歩かなくてはならないのだ。
まるっきり罰ゲームだった。
やっぱりコウに先に車の所まで行ってもらい、ここまで運転してきてもらった方が…。
一度考えて却下した提案が、再び頭をよぎる。
だが次の瞬間、香澄はぶるぶると頭を振った。
いや、冗談じゃない。
コウを一人で行動させて、もしまた何かトラブルが起きたりしたら。
考えたくもない。
オレはこの格好のまま、いつまでたっても帰ってこないコウを待つ羽目になる可能性もあるのだ。
一度あったんだから、２度目がないなんて保証はどこにもない。
やっぱりどんなに恥ずかしくても、この格好のまま公園を突っ切っていった方が断然早い。
だけど一体、オレが何をした。
コウとじーっくりいい事しちゃったツケか？
それにしても今のオレ達、一体どう見えるんだろう。
すっげー奇天烈な取り合わせだよな。
超美人の男と並ぶ、変態オカマ。
いや、今のオレをオカマと言ってしまったら、オカマさまに失礼だ。
せめてパンツくらい履きたい。
それが人として、最低のラインと言うものだろう。
だって人間は、パンツをはいた猿だって言うじゃん。
ああ、それって、誰が言ったんだっけ…？
「うへへへへへ」
「も、もうやめといた方がいいんじゃないか」
「なーにけちくさいこといってんだよぉ、もお、いっぽんおちょうしねーっ」
すでにへべれけである。
そりゃ冷酒を５本、お銚子１０本をほとんど一人で飲んだのだから当然だ。
それにしてもよく飲む。
酔ってくると、勝手に喋りまくり、ギャグを飛ばし、一人で受けて大笑いだ。
「だからね、二言目には家名がどーのって、何様だっつうの。かめーなんざ、かめーはめーはっ、ぎゃははははは」
なんだかわからん。
「だいたい自分では何もできないってどうだよ。同じ人間なんだから、血なんか一緒だぜ。なのにありがたがれってか？ 血をありがたがるのは吸血鬼か、でなければ輸血の時だけだぜ。家名なんてくそくらえっての」
なるほど。
金持ちもそれなりに苦労があるわけだ。
「だからさ、自分だけの力で仕事ができる男って憧れな訳よ。血も、外見も関係ない。たった一人でさ。自分の力だけで立つんだ」
「ボクもそうしてるけどね。金持ちの親も親戚もいないから」
「そっか、そりゃー結構。やるじゃんおっちゃん。仕事は芸能関係？ さっきの人もスカウトしたかった訳？ いや、なんで芸能かって言うと、ゲイが芸能って…ぎゃはははは」
がっくり脱力する。だめだ完全に酔っぱらいだ。
「後から説明するギャグはやめた方がいいと」
「うるせーっ」
海里はろれつの回らなくなった舌で、更にベラベラまくし立てる。
「ダメだぜ、おっちゃん。どれだけおっちゃんの好みでもさ。葵さんも、さっきの綺麗な人も恋人がいるんだ。特にさっきの人の恋人は、香澄ちゃんって言ったっけ。ゲイじゃなさそうだぜ。かーわいい名前。どっちにしろいい男は、さっさと売り切れちゃうってワケだ」
「君は？ キミもまあまあ綺麗だけどね」
「ばーか。オレは女が好きなの。こう、ばばーんで、きゅっで、ぼーんな子が好みだぜ」
パンツ、パンツ。
これまでの人生２１年の中で、今くらい男物のパンツが頭を駆けめぐった瞬間はないだろう。
そうオレは断言する。
とにかくパンツくらい履きたいっ。
そんなオレの目に飛び込んできたのは、生活時間が不安定な人達の強い味方。
コンビニだった。
おおおっ。
コンビニ。コンビニだったらパンツはあるはず。
白鳥は黒羽の腕をぐいぐい引っ張って、コンビニに突入した。
「香澄？」
「ここでパンツを買うんだ」
ああ、と黒羽は得心したように頷いたが、その後ふと首を捻った。
「だけど香澄、どちらのパンツを買うんだ」
「どっちって」
「男物か、女物か」
「………」
男物に決まってんだろっ。そう言いたかったが、何かがオレを止めた。
なにせ今、オレは『変態』だ。
フルチンかどうかは傍目には解らないにしろ、ぶっさいくなオカマに見える事だけは間違いない。
だったらこの格好で買うのにふさわしいのは、女物のパンツだ。
今のオレは、もうオレじゃない。
オレじゃないと思いたい。
だったらもう、この際のめり込んで、完全にオレじゃなくなるってのも、一つのテかもしれない。
オレだと思うから恥ずかしいんだ。
今オレはオカマだっ。なりきれば恥ずかしくなんか無い。
オレは女優になるのよっ。
……じゃなくて…。オレってば、ああ…。(T^T)
「女物だっ」
絞り出すような低い声で、オレは言う。
「あ、ああ…」
気圧されたように、黒羽は頷いた。
「香澄、だけど」
「いちいちだけどって言うな」
「女物は、布の面積が少ないし。その、はみ出さないか？ 香澄のは、結構おおき…」
思わず黒羽の頭をひっぱたいてしまった。
うわああ。コウの頭叩いちゃったよ。ちょっとドキドキ。
だけど自分の言った事が、やっと頭の中で繋がったらしく、コウは真っ赤になって黙った。
か…、可愛いじゃないか。
オレはスカートの下のモノが正直に反応しないうちに、すばやく女物のパンツをひっつかんだ。
ぱっかやろう。スカートでテント立ててたまるか(T.T)
だが、パンツを掴んだオレの目に、ふとその隣に下がっているストッキングがとびこんできた。
そ、そうだよなあ。
オレってば生足だし。
どーせここでパンツ買うなら、いっそのことストッキングとか買っちゃってもいいかもしんない…。
よく見ると、上のほうには、化粧品までそろっていた。
コンビニコスメってやつだ。
ううむ。オカマになるなら、こんなモノも必要かもしれない。
残念ながら、靴とブラジャーは無いみたいだけど、まあそれは、後でデパートでも行けばいいか。
そこまですれば、完璧だよな。
とりあえず、まずはここで、パンツとストッキングと、化粧品を買って、んでもってトイレかどこかで顔を塗りたくろう。
だんどりくんが再び顔を出してくる。
何かが激しくズレてきている事に、香澄は気付かない。
異常事態に振り回されたあげく、完璧なオカマを目指す事に、思考が集中してしまった。
だが、化粧品を持って、どっちのトイレに入るつもりなのか。
男用か、女用か。
ていうか、デパート行くつもりなら、そこで男物を全部揃えればいいのだ。
だが、もちろん隣にいる黒羽にも、そんな思考が浮かんで来るはずはなかった。
さんざん飲み食いした挙句、テーブルに突っ伏して眠ってしまった海里を眺めやりながら、どうしたものかと男は迷っていた。
名前を名のろうとして海里に何度も遮られたので、いまだに名無しの『男』である。
自分で自分に名のるのも変だから、当分このままかもしれない。
さて。
どうしよう。
このままほったらかしていくほど無責任ではない。
だが何処かへ連れ込んで悪戯してやろうというほど、度胸も据わっていない。
そろそろ夕飯時で店も混み始めた。
仕方なしに肩を担いで店を出る。
海里はうにゃうにゃ言うばかりで、自分で歩こうとはしない。
「頼むよ。歩いてくれよ。重いよ、君」
タクシーを拾おうと少し歩くと、向かいの歩道を見覚えのある長身が歩いていた。
おお、ラッキーじゃないか。
遠目で見てもあの美貌は、一発で解る。
彼をかついでいなかったら、もう一度駆けよって声をかけたいくらいだ。
しかし女の子を連れていた。
なんだ、邪魔できないな、と思う。アレが彼女か。
しかし、なんだか妙な子だな。
結構デカいし、ここからでも顕かにわかるほどごついし、
あ、タクシーだ。
向こうの二人連れは、角のコンビニへ入っていった。
男は止まったタクシーに海里を押し込み、自分のマンションの場所を告げた。
女物の（敢えて強調だ）パンツと、いや、パンツ、じゃない。『ショーツ』というんだな。そう書いてある。むかーしは『パンティ』とか言ってなかったか？
兄に借りて読んだエロマンガが頭を駆けめぐる。
大丈夫。この格好なら、頭に被るために買うんだとは思われない。
いや、だいいち新品のパンツを頭に被ってどうするんだよ。
って、そんな事どうでもいいって。
とにかくパンツだ。
パンツと、ストッキングと、口紅をひっつかんでレジへ向かう。
他のごちゃごちゃした化粧品は使い方がわからない。
兄ちゃんだ。
兄ちゃんのいるレジがいい。
いてくれ、兄ちゃん。
だが、白鳥の期待も虚しく、この時間レジにいたのはお姉ちゃん一人きりだった。
ホテルで念入りに剃ってきたから髭は目立たないだろう。
『あたしはオカマ』
自分にそう言い聞かせて心の目を瞑って、商品をつきだした。
お姉ちゃんは商品と白鳥の顔を見比べ、それからはっとしたようにいきなり仕事モードに入ってレジを打ち出した。
「ありがとうございました。またどうぞ」
明るい声が背中に痛い。たぶん視線も。
二度と来るかい！
ていうか、来られねぇよ。
大股にコンビニを出る白鳥の後を狼狽てたように黒羽が追った。
公園のトイレにダッシュする。
公園のトイレは大抵汚いものだが、その辺がどこもかしこもちょっぴり金持ちなのか、砂城のトイレは綺麗だった。
掃除専門の業者が、きっちり仕事をしているに違いない。
全速力で飛び込むと、中にいた奴らが、一瞬驚いたように振り向き、それからギョッとした視線を向けた。
だろうぜ。飛び込んできたのはスカート男だからなっ。
もちろん男性用トイレに駆け込んだ。
いくらオカマになるんだ、と思ったって、女子トイレに飛び込めるほどの度胸は全然無い。
別にいいじゃんか。スカート履いてたって、心は男だ。
お前らのケツなんか狙わねえから安心しろ。
ちょっぴりヤクザな気分になって、トイレの男どもを心の中で睨みつけると、そのまま個室に駆け込んだ。
続けて黒羽も中にはいる。
ちょっと待ったあーっ！
なんでコウがついてくるわけ？
さすがにオレは慌てた。
男子用トイレの個室に、男が二人ではいる。
キョーレツ怪しいじゃん。
ただでさえ片方はスカート男でオカマなのにっ。
コウ、全然何も考えてないだろっ！
信じらんない。
馬鹿じゃないのか。
だって、狭い個室の中は、二人の男が入ったら満員だ。
そうでなくったってコウはデカいのに。
俺より背も高いし、綺麗な顔に誤魔化されるけど実は肩幅だって結構ある。
なんたって、あのショットガンを片手で撃てるんだぜ。
キッチリ筋肉がなきゃ絶対できない。
それでもコウは見た感じほっそりしてる。白い肌と、くっきり黒い髪、長い脚のせいだろうか。ホントに、綺麗なんだ。
って、そんな場合じゃない。
問題は質量だっ！
でかいんだよっ、コウはっ。
見た目の問題じゃない。
この狭い個室に二人で詰って何しようッてんだ。
着替えるスペースもないじゃねえか！
馬鹿馬鹿馬鹿
白鳥は頭の奥で何かがぷっりきれる音を聞いた。
今日何度目だろうか。
「出てけよ」
低くいう。
「え、でも」
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
「出てけってんだよ、じゃまだっ」
ほとんど蹴り出すようにして黒羽を外に押し出す。
「香澄、どうしたんだ」
ドアの外で怒鳴る声。
な、名前なんか呼びやがって。
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
恥ずかしいじゃねえか。コウは恥ずかしくないのかよ。
恥ずかしいなんて、わかってないんだろうな。
ガックシ。
周りのヤツラのことなんか、てんで目に入ってないに違いない。
そそくさとパンツを穿きながら
『うわ、頼りねえ、このパンツ』
白鳥は思う。
黒羽はクールなポーカーフェイス、と思われてるが、あれは実はなんにも考えてないんだ。
ええ、ええ。
本日、キッチリ、身をもって、嫌って程、わからしてもらいましたとも。
香澄に追い出されてしまった。
茫然と黒羽は個室の前に立ちつくす。
確かに中に入って、自分が何かする事があるのか、と考えると、何もない。
じゃまだ、と言われればその通りだ。
ドアを叩いたが、返事はない。
それどころか、まったく物音もしなくなってしまった。
怒っているんだよな…。
それだけは間違いない。
だいたい何を間違えたのか、女物の服なんかを買ってきてしまった自分が悪いのだ。
何で女物の服を買ったんだっけ。
……。思い返して、もっと情けなくなった。
説明できない上に、やはり何か間違っている。
説明できない理由は解っていた。
状況は言える。男がやってきて服を選ぶと言って、迷惑だから逃げて…。
だが、何故そんな事になってしまったのかが、全然解らないのだ。
だいたいどうして男がこちらに寄ってきたのかが解らない。
他人の行動原理が、黒羽にはまったくと言っていいほど理解できなかった。
犯罪者がどう動くのかなら予想がつくのに…。
理由付けの出来ない人間の考えている事は、本当に解らない。
自分がそういう洞察力に激しく欠けている事は、なんとなく自覚していた。
だが、今まではそれで何とかなってきた。
急に自分は無能になってしまったのだろうか？
そう思うと、黒羽は情けなくなっていった。
だが、実際はそうではない。
単純に今までは、外との接触を殆どしてこなかった。
他人との関わりなど皆無に等しかった。それだけだった。
だから考える必要もなかったし、失敗もありえなかった。
今は白鳥がいて、彼が外との橋渡しの役目を果たしている。
黒羽と外との間に立ち、大きな窓のように外の景色を映してくれていた。
彼が見せてくれる『外』は、魅力的に見えた。
黒羽は次第に変わりつつあった。
しかし彼自身は、まだその事には気付いていなかった。
歩き慣れない道に足がもつれる事に、ひたすらとまどっているだけだった。
「香澄…？」
小さく呼んでみたが、トイレのドアは固く閉ざされたままだ。
返事もくれないし、出てくる気配もまったくない。
まるで岩戸にこもってしまった、天照大神を待っているような心境だ。
どうしよう。怒っているよな。
何とか出てきてもらう方法はないのだろうか。
いや、着替えが終われば出てくるのだろうか。
黙って待つべきか、何かするべきなのか。
僕はどうすればいいんだろう…。
