incident14前編−2


「奥がホールか。この辺りは警備部のテリトリーだよな。オレ達特殊班は、もっと裏の方か」
白鳥は無線のテストも兼ねて、各自の配置を確かめた。
「OK。待機よろしく。これからオレとコウは会場を一巡りします」
無線機に向かって喋り終えた白鳥は、黒羽を見上げた。
「特殊班が警備する所って、ほとんど人が来なさそうなところばかりだね。会場の隅っこっていうか」
「僕たちは人数が少ないから、少ない人数でも大丈夫なところに配置されたんだろう。しかしそれでも、迷い込む人はいる。むしろ不埒なことをしようと思ったら、そういう場所を選んで来るかもしれないな。油断は大敵だ」
「解ってる。オレの主な仕事は、自分の班のメンバーが、ちゃんと配置場所にいるか確認することだ。もし連絡が取れなかったら異常事態があったということだからな」
白鳥は、忙しそうに働く多くのスタッフを注意深く避けながら、ホールの方に足を向けた。

「…下がってるって、あまり感じないな」
「解らない造りになっているんだろう。でも、僕には解る」
「コウ、平衡感覚とかすごいもんな。オレには無理だけど、他のヤツは解ってるのかな?」
「完全な地下じゃないから、解らない人も多いだろう。上から来た客には解らないと思う」
「それにしてもさ、何でわざわざ半地下なんだよ。単に一階に造ればいいじゃないか」
黒羽はくすりと笑った。
「それはパンフレットに書いてあったぞ」
「ええっ? どこにさ。そんなこと書いてあったか?」
「素晴らしい音響の確保と、優れた防音性。ここだよ」
白鳥は口の中で舌打ちをして、眉をひそめた。
「……畜生。なんかそれって、詐欺師の口調みたいだな。一つの物事を、都合のいい方向からしか語らない」
「嘘は言っていない。ただ認識が違うだけ、ということだな」
「やっぱ詐欺だよ」

大ホールに入った瞬間、黒羽は微かに顔をしかめた。
「香澄……」
「なに?」
「何か匂わないか?」
「えっ? どんな臭い? いい匂い? それとも焦げ臭いとか」
「表現しにくいが…。タバコの香りに近い…いや、違うか。そういう具体的なものというより、どこか落ち着かなくなるような…」
白鳥は上を向いて、犬のように鼻をひくひくさせた。
「う〜ん…解らないな。何か匂うかって言われたら、そりゃー人がたくさんいるし、新しいホールの塗料みたいな匂いもするし。あ、花もたくさん飾ってあるから、そういうのも混ざり合ってるかも。でもその…コウが言ってるのはそういうのとは違うんだろ?」
「……違う…けど。でも、そうだな。気のせいなのかもしれない。僕も緊張しているし」
白鳥は目を大きく開いた。
「へえっ、コウも緊張するんだ」
「するさ」
黒羽の口角が僅かに上がる。
香澄を護るために、ここに入る前から感覚は研ぎ澄まされている。何か起こるのではないかと、酷く神経質にもなっていた。
「でもコウは、鼻もいいからな〜。オレが解らない匂いを感じているのかもしれないな」

どうなんだろう。黒羽はホールの空気を吸い込んでみる。
しかし、入った瞬間感じたと思った匂いのようなものは、すでによく解らなくなっていた。
嗅覚は鈍感で、比較的あっさり慣れて解らなくなってしまうものだ。
しかし匂いと共に感じた、ザワザワ揺らめく感覚は胸に残り続けた。
悪い感覚ではなかったが、どこか乱されるような気分は気にくわなかった。


大ホールの様子は、準備とセレモニーの始まりの中間のような状態になっていた。
スタッフはまだあちこちでセットを揃え、警備の人間も完全に配置についているわけではない。
しかし上からのゲスト達は既にかなりの人数が到着しており、配られる飲み物を口にしながら談笑していた。
その間を、白鳥と黒羽は様子をうかがいながら歩いていく。
「あ…あれ、上の警備部の人かな?」
白鳥が視線を向けると、あきらかに上の階級であろう警察官が振り向いた。
二人は同時に頭を下げる。黒羽が耳元で囁いた。
「本間警視正だ」
「警視正? ちょっ…。上の人だとは解ったけど。じゃ、警視庁から来てるんだ。すげ〜。そんなお偉いさんが現場に出るのか? ていうか、警備の指揮って中央署の警備部長じゃなかったっけ?」
「上の人間が砂城で実質の指揮を執れるとは思えないな。火器使用の規模が上と砂城じゃ違いすぎる。たぶん名目上の総指揮だろうから、実際には警備本部に引っ込むんだろうが、一応全体を把握するために現場に来たのかもしれないな」
「名目といっても口は出せるんだろ? 頭が二人いると混乱の元だと思うけどなあ」
声をひそめて喋っていると、いきなり後ろから聞き覚えのある銅鑼声が響いてきた。

「うわははーっ。黒羽くん、来てくれたんだねえ」
銅鑼声の主は、もちろん、今日黒羽をこんな格好にさせた張本人、高島プロデューサーだった。
横に大きな身体を揺らすようにして、嬉しそうに二人の傍にやってくる。
彼もタキシード姿だったが、恐ろしいほど似合っていなかった。
わざと服をだぼだぼにしているコメディアンかピエロのように見える。
もっとも彼自身はそんなつもりはないらしく、もじゃもじゃ生えていた髭は、パーティ用に綺麗に整えられていた。
「いやあ、君はホントに綺麗だねえ。タキシードもバッチリ似合ってる。きっと今日参加する芸能人の誰よりも綺麗だぞ」
ベラベラ喋りながら高島は黒羽の周りをぐるぐる回り、舐め回すように見つめた。
「それにしても〜。君、ショットガンは持ってきてないの?」
「持っては来ています」
「えっ? そうなの。じゃあどっかに隠し持ってるの?」
「この格好ですから、控え室に置いてあります」
「えええっ? そりゃつまんないなあ。黒羽航一と言ったらショットガンなんだから。持ってよ持ってよ」
高島は子供のようにだだをこねた。

「僕は航一ではなく、黒羽 高です」
「でも君だってショットガン持つんだろ? 聞いたよ、レフトハンドショットガン。カッコイイよねえ、レフトハンドショットガン。見たいなあ〜」
黒羽が微かに眉を寄せるのに白鳥が目敏く気づく。
ありゃ〜、最近呼ばれてなかったペットネームを連呼されちゃったよ。
白鳥は慌てて横から口を出した。
「あ、あの〜。でも、タキシードにショットガンって、目立ちませんか?」
「目立ってナンボだよう、この世界は」
高島はニコニコ笑いながらへろっと言ってのけた。
ちょっと待て。おやじ、矛盾してないか?
白鳥の頭の中で、突っ込みがせーだいに入る。
もともとコウが目立つから、客やゲストに溶け込むようにって渡されたタキシードだろうが。
それを目立たせたら意味ないじゃんか。
やっぱりこのオヤジ、最初からそのつもりだったに違いない。
警備として目立ちすぎる云々は単なる口実で、コウを芸能界に引っ張り込むための策略の一つなのだろう。
「でもですね、正装にショットガンって、なんかB級アクションみたいじゃないですか? 安っぽいですよ」
白鳥はせいいっぱい高島のセンスを皮肉ってみた。
しかし高島はわが意を得たり、とばかりに大きく頷き、ぱあん、と手を打った。
「そう、そうだよ君。B級作品こそ、ドラマ屋の目ざすところだよっ!」
高島は興奮したように大きく息を吸い込む。
どうやら、何かスイッチを押してしまったらしかった。

「いいかい? 君。ドラマというモノはね、大衆のモノなんだよ。A級作品とか芸術作品とか目ざしたらいけないんだっ。ありがたがられても、売れなかったらお話にならないからね。売れないとダメなんだよ。だからA級なんて目指さない。そんなもの目ざしたら、永久にヒットしないよ。
……って、わはは、わかる? A級を目ざしたら永久にヒットしない。A級、えいきゅうってね。わははははっ」
高島は膨れた腹を揺すって、膝を叩いて笑った。

白鳥は激しく脱力したが、黒羽はインコが鳴いてる程度にも注意を喚起しなかったらしい。
完全に無視した形で、視線すらも高島に落とさなかった。
というか、コウの奴。
このおっさんの相手を、完全にオレに丸投げしたな。
桜庭さんといい、コウといい、時におっそろしく逃げ足が速い辺りがむかつく。
腹の中でブツクサ言いながら、それでも白鳥は仕方なく高島に向かって、なんとか笑い顔を作ってみせた。
「え〜と。お…おやじギャグってヤツですか? でも、その。オレ思うんですけど、ギャグは解説しないほうが…」
「だからドラマ屋はね、A級に見せかけたB級作品を目ざすの。わかる? 俺のいうこと!」
「よく解りません…」
ひっそり呟く白鳥の言葉は、もちろん高島にはまったく聞こえていないらしい。
彼が目指したいドラマ論、みたいなものを口元に泡を飛ばしながら、どんどん話し続ける。

だがそこで、すました顔で黙っていた黒羽が、いきなりスッと口を開いた。
「解りました。では、お言葉に甘えて装備を調えさせていただきます」
熱く語られるドラマ論をパーフェクトに黙殺した言葉だったが、高島は話をやめて目を輝かせた。
「えっ? ホント? ホントに?」
黒羽は何も答えず、あいかわらず視線も合わせず、白鳥の腕を掴んで踵を返した。
「こ、コウ?」
「いいじゃないか」
「えっ?」
黒羽は薄く笑った。
「お許しが出たということだ。香澄もスナブノーズ一挺では心もとないと言っていただろう? でもこれで堂々と武装することが出来る」
「あ…、ああ。確かに、まあね」
頷きながら、白鳥はちょっとばかりクラクラした。

もしかしてあのおっさんの相手は、コウの方が向いてるんじゃねえの?
前に聞いた、科捜研の堂本と黒羽との会話を思い出す。
高島が思いついたことをベラベラ喋って、その好き勝手な話の中から、コウが自分に都合がいい部分だけセレクトして答える。
そういうのが会話って言うなら、だけどさあ…。

 

 

ご期待通り装備を調えて再びホールに戻ると、二人の格好に高島は手を叩いて喜んだ。
「すごい、すごい。本物のガンマンみたいだ」
「みたいって、本物だけど…」
呟きながら白鳥は、僅かに赤面した。
砂城では銃を持つことは成人の権利だ。別に珍しい事じゃない。
しかし今の格好は、かなり意図的なものだった。

普段のスーツの場合、ホルダーは通常肩からかけるタイプを使う。
上着を着れば、一見では拳銃を持っているかどうかは解らない。
しかし黒羽は西部劇みたいなガンベルトを、わざわざ目立つように腰に巻いたのだ。
控え室でその様子を見て目を丸くする白鳥に、黒羽は薄く笑った。
「これくらいやらないと納得しないだろう、あの人は」
「ああ〜、確かに。まあそうかもね。じゃあつまりオレ達、気分はコスプレって事でいいのかな」
「コスプレ?」
「あー、そこは気にしなくていいから」
解らない単語に怪訝な表情になる黒羽を軽く手で制して、白鳥も同じようにベルトを腰につけた。
「制服警官だった時も銃は腰だったけど、こんな派手なベルトはなかったしなあ…」

ガンベルトの両脇のホルスターに、大口径の銃をわざわざ見えるようにぶち込む。
右に、ベレッタM92F。コウが選んでくれた銃。
左に、グロック17。ニューヨーク市警が採用しているトリガーが重いタイプ。
黒羽に至っては、右にマグナム、左にショットガンだ。
ショットガンホルスターは長いので、いくらソウドオフタイプとはいえ、これ以上目立ってどうする、な格好と成り果てた。

黒羽の思惑どおり、高島は飛び上がらんばかりだった。
「すごいすごい。カッコイイーっ。サイコーだよ黒羽くんっ」
手放しの賛美だったが、黒羽は伸ばされた高島の指を素早くピシリと叩いた。
「痛っ!」
「すみません、つい。実銃なので触らないでください」
どうやら高島は黒羽の銃を触ろうとしていたらしい。
いい大人が、いたずらを叱られた子供のように指を叩かれるなんて、それなりにプライドが傷つくような気もするのだが、高島は逆にうっとりした瞳で黒羽を見上げた。
「うう……そうか、本物…。し、痺れるなあ〜。そのセリフ。実銃ですので、触らないように。い、いいなあ〜。それ、今度どっかで使おう」
心底ドラマ屋らしい言葉に、半分感心、半分あきれた気持ちで後ろに立っていた白鳥に、高島が突然くるりと振り向き、まっすぐ視線を合わせてきた。
ぎょろりとでかい印象的な目で、睨みつけるようにして、上から下までじろじろ視線を走らせる。

「な…なんです?」
「うん。いやあ〜。黒羽くんがあまり綺麗だから見過ごされがちだけどね。君もなかなかいいよ。こうして見ると、結構いい男じゃないか」
「そ…それはどうも」
「単独だと主役としては弱いけど。でも二人並ぶといいねっ。相棒刑事、みたいで映えるよ〜。でも、ええと、その顔で君、40歳すぎだっけ?」
「違いますっ!!」
白鳥は心の中で、激しくずっこけた。

ドラマになんか微塵も出るつもりはないけど、でもおっさん、その設定だけは変更しといてくれっ。


高島とゴタゴタ話しているうちに、気がつくとホールに人が増えていた。
「お…あれ砂城市長か。あの辺り、大物席?」
人の頭を透かすようにして、白鳥が前の方を見つめる。
同じようなテーブル席でも、厳然とランクがあり、その席には先ほどの本間警視正もいた。
「警備主任じゃなくて、警視正もゲストか?」
「市長と知りあいみたいだな。他にも、砂城市の大物や、上からは政治家も来ているようだ。たぶん彼らは、この会場を造った利権がらみの関係者だろう」
「せっかく映画祭だっていうのに、生臭い感じだぜ」

オープニングセレモニーまでには、まだ少し時間があるが、どうやら建物の外には、かなり人が集まっているようだ。
ロビーから、わあっと歓声のようなものも聞こえてきた。
不思議そうに首を傾ける黒羽に、白鳥は伸び上がって耳打ちする。
「会場に誰かスターが来たんだよ、きっと。外に集まってるのは中に入れない一般客とか野次馬。有名人が見たくて集まってるのさ」
ああ、と黒羽は頷く。
「おおお、来た来た。なるほど、大御所の映画監督と愛人って噂も流れてる女優のお出ましだぜ」
「香澄は詳しいな」
黒羽は心の底から感心したような声を出した。
「僕はそういう情報はサッパリだ。名前と経歴はパンフレットを見て覚えたが」
「覚えたの?」
「覚えたさ。誰が有名人で重要人物か、知っておくことも大切だって香澄が言ったんだろう?」
そう言うと黒羽は、たった今通り過ぎていった監督のデビュー作から受賞経歴まで、ズラズラと並べ立てた。
「ああう…。覚えてるのは解ったよ。ていうか、詳しいのはオレか? コウの方じゃないのか?」
「パンフレットには、女優と監督が愛人だとかいう話は書いてない」
「単なるウワサだよ」
「僕の知識はデータだ。噂は生きている情報だ」
そうかねえ、と呟きかけて、白鳥は黒羽が積極的にウワサ話を集めていることを思い出した。

ウワサ話はデマも多い。信頼性には大きく欠ける。
しかし黒羽は、誰かの主観が入った話を欲しがった。
きっとコウは、正確さが欲しいわけではないのだ、と思う。
正確な情報は、きちんと調べればいくらでも手にはいる。
コウが欲しいのは知識ではなく、誰かのウワサ話に潜む、思惑とか愛憎など、デジタルな情報からは計る事が出来ない、人の心の澱なのだろう。
コウは「人間」が知りたいのだ。
人付き合いが下手で、心の機微を上手く読むことが出来ない事を、コウは常に気にしている。
ウワサ話と情報とのズレの中に潜む何かが、コウは欲しいのだろう。 

「あれ? そういえば高島のおっさんは? やけに静かだと思ったら、いつのまにかいないじゃん」
「さっきの監督を追いかけていった。挨拶に行ったんじゃないのか?」
「ああ〜、なるほど。この世界は人脈っつーかコネが大切だって聞くからな」
「あの人は映画進出を狙っているらしい」
「そっか。それで大御所にご挨拶ね、なるほど。そういや映画、何か作ってたよね。見てないけど。えーと…、そうだ、あれ。篁 翔子が主演の…」
言いかけた瞬間、ロビーから地鳴りのような轟きが聞こえた。
ホールに集まりつつあった人たちも、その音に首を伸ばしてロビーの方角を窺い見る。
白鳥も好奇心をそそられて、周りと一緒に首を伸ばした。
「えっ!? なになに? すげえ歓声。誰が来たんだ?」



ほどなく歓声の正体一行が、ホールに入場してきた。
期せずして感嘆の声と、パラパラと拍手が起こる。
「篁 翔子だ…」
白鳥の声に黒羽は振り向き、そして眼をスッと細めた。
それはまるで、若い騎士達に囲まれた女王のようだった。
決して姫ではない。男に囲まれているためか小さく儚げには見えるが、護られる存在ではなく、彼らを付き従えている印象があった。
「思ったより小さいぜ。でも、キレーだな、やっぱ…」
ため息をつきながら白鳥はチラリと黒羽を見上げた。
「なんだ?」
「いや、ずいぶん真剣に見てるなって思って。ま、彼女が今回の映画祭の主役みたいなものだからな。それにしても…。男と女じゃ比べてもしょうがないけど…」
並んだら絶対コウの方が綺麗だぜ。
白鳥はそう言いかけて、言葉を呑み込んだ。
バッカだな。今は仕事だよ。変なこと言ったらコウにあきれられちゃうぜ。
「でもアレだな、歓声は篁 翔子のせいだけじゃないぜ。彼女を取りまいて入場してきた連中、MASKだもん。どーりで女の子の歓声が大きかったわけだ。あ、コウはMASKは知らないか? 4人の男性グループでさ、歌うときにマスクするの。羽とかつけちゃってさあ…。えーと、ビジュアル系? アイドル系? どっちだろ。でも映画祭に来るくらいだから、役者もやってるんだよね」
ベラベラと喋り続ける白鳥の横で、黒羽はあいかわらず眼を細め、ひどく熱心にその集団を見つめていた。
だが視線の先にいるのは、篁 翔子でもなければ、MASKでもなかった。

いた……。
黒羽の心の中に、黒い靄が広がる。

黒羽の視界の中心にいる男は、まったく目立たなかった。
華やかなオーラを放つ集団の中で、彼のところだけ、ぽっかりと暗い穴が出来ている。
篁 洋平。
海里の兄。篁一族の、たぶん一番トップに近い男。
香澄を危険な目に遭わせるかもしれないと、黒羽を脅した男。

そんな脅しには意味がない、と黒羽は思う。
実際に手を出してくるまでは無害だし、手を出してきたその時は、僕は彼を排除する。
躊躇も、容赦もしない。
いや、きっとできない。

篁 洋平が放った言葉が自分に引き起こした変化を、黒羽自身はあまり自覚していなかった。
しかし黒羽の心の中には、確かにひどく凶暴なものが渦巻き、吹きだまっていた。

そうだ……。
もし、香澄に手を出したら…。
迷うことなく僕は、あの男を引き裂く。


「コウ?」
怪訝な表情で見上げる白鳥の声に、黒羽はハッと我に返った。
「なんだ?」
「なんだって…えーと。オレの話聞いてた?」
「あ…うん」
白鳥はふうっと息を吐いた。
「コウさ、今すごい怖い顔してたぞ。何かあるのか? 篁 翔子に」
黒羽はほんの少しだけ躊躇し、それからゆっくりと唇を開いた。

「篁 翔子は、冬馬祐二の婚約者だそうだ」
「……えっ!? 冬馬って…まさか」
黒羽は頷く。
「冬馬涼一の弟だ。冬馬グループの、現在の実質トップに近い男。顔は、あまり冬馬に似ていない」
「ええっ? 篁 翔子が婚約とかって、オレ知らなかったよ。ちゃんとしたソースがある話なの?」
今度は黒羽は首を振る。
「いや…。ウワサ話だ。でも高島プロデューサーも婚約の事は口に出していた。誰ととは言わなかったが、ほぼ間違いないだろう。この映画祭の間に婚約発表するらしい」
「ええーっ。いや、でも、そうか。今回の映画祭の一番大きなスポンサーは冬馬グループだ。そういう理由も、あったのか?」
白鳥は、唸りながら腕を組んだ。

「ねえ…。ただの婚約発表だよね?」
「どういう意味だ?」
「何か裏があるとか、ないよな。だってその…。冬馬だし」
「解らない。だが自らの希望で予断しないほうがいい」
「解ってるよ、くそっ。ただの警備の手伝いだったはずなのに…」
唇を噛む白鳥の肩に、黒羽はそっと手を置いて囁いた。
「僕がいるよ、香澄…」


香澄の質問を、僕はあえて誤魔化した。
本当に見つめていたのは、あの男だったのに。
篁 翔子だと思いこんだ香澄の勘違いに、そのままのった。
なぜ香澄に本当のことを話さなかったのか、よく解らなかった。
香澄は常に、僕に正直でいてくれようとしているのに。
自分の方は、嘘ばかりだ…。
だが、あの男の事を話すと、海里の話に触れなくてはならなかった。
海里を誘惑し、寝ようとした事実が、黒羽の口を閉ざす。
別に説明するのに、そこまで話す必要はない。
解っている。解っているのに。
なのに何故か、黒羽はあの夜に触れたくなかった。

無線機で、配置されている他の仲間と定時連絡を取る香澄の後ろ姿を、そっと見つめる。
本当に、何も無いといいのに。
このまま滞りなく全てが進んで、香澄のリーダーとしての初仕事が無事に平和に終わるといい。
なのに心はあいかわらず、ざわついていた。
ただでさえ広域知覚は、ピリピリと人の気配を肌に伝えてくる。

半地下に広がる大ホール。
伏せられている婚約発表。
冬馬グループが一番大きなスポンサーにもかかわらず、先ほどの大物席に冬馬の関係者が一人もいない事実。
べったりと黒く塗りつぶされたような悪意の塊の、あの男。
何もかもが不吉な符号に満ちている。
そんな気がした。

 

 

「あらっ、こっちじゃなかったの? ねえ、お巡りさん。セレモニー会場の、一般用入り口って、どっち?」
「おっちゃんさあ…。もしかして方向音痴?」
「違うよう…。えーと、少し?」
「ちょっと待て。オレは今、基本的に移動は全部おっちゃん任せなんだぞ。おっちゃんが迷ったらオレも迷うじゃねえかよ。ていうか、オネエ言葉嫌いだからやめろ!」
ぎゃあぎゃあと怒鳴りあう声が、人通りのほとんど無い廊下に響く。
お巡りさんと呼ばれた、制服姿の男は、二人のやり取りに軽くため息をついた。
言い合いをしているのは、車椅子に乗っている篁 海里と、その付き添いの松本一彦だった。
「だって、車椅子だと階段使えないじゃない。スロープ捜しながら移動してたら、ぐるぐる迷っちゃったんだよ。ていうか、ここ。砂城の建物にしちゃ車椅子に不便な作りしてない? ねえ、君もそう思わない?」

話を振られた警官は、軽く苦笑した。
「ええ、ちょっとだけね。廊下も狭いしね」
「あっ、やっぱりそう思う? どーして? 新しい建物なのに」
「ここ、デザインは外の人だそうですよ。砂城の事情をよく解ってないんじゃないですか?」
「へええ〜。それで変な作りしてるんだ」
「そんな雑談どうでもいいから。道聞けよ、おっちゃん」
警官は肩の無線で報告らしきことをしゃべった後、笑って二人に道を教えてくれた。
「大変だねえ、お仕事も。こんな人が来ないような場所に、ずっと立っているんでしょう?」
「いや、こうやって時々、そちらのように迷い込む人もいますからね」
「そっか。バカだな。人が来ないって、私たちが来てるじゃないか」
松本は大きく口を開けて笑うと、警官に手を振って、海里が乗った車椅子を反転させた。

「けっこういい男じゃないか」
「なんだよ。妙に話が弾んでると思ったら、警官の顔に見とれてたのかよ」
「そうだよ、いい男は国の宝さ〜」
「じゃ、オレも宝だな」
軽口を叩きながら、海里はなんとなくホッとしていた。
杖をつけば歩けるのに車椅子に乗っている自分に、どことなく違和感があったのだが、別に誰も何も言わない。
当たり前だと解っていても、まだ海里はこの状況に慣れないでいた。

杖があれば一人でも歩ける。
しかし人がたくさんいるような会場だったら、いっそのこと車椅子がいいと主張したのは松本だった。
「ああいうゴミゴミした場所で、いつものように行動できると思ったら大間違いだよ。移動とか大変だし、杖ついたまま転んだりしたら危ないだろ? 杖ついたら歩けないことはないんだろうけど、自由に歩けるってわけじゃない。だったら車椅子でもレンタルして、付き添いつけたほうがいいって」
他の事情も色々含めて、松本にマシンガンのように捲くし立てられ、海里はうんうん、と頷くしかなかった。
「まったくもって、口が上手いぜおっちゃんは」
「なんだって? 何か言った?」
「なんでもねえよ…」

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