第二章「少年」


 炎だ…。
上階には、火炎が渦巻いていた。
いったい、何故?
黒羽は炎にあぶられて、何度も違うルートをとらざるをえなかった。
テロリストがいない。
だいいち彼らは何をたくらんでいるのだろう?
それとも、これは彼らの予期せぬアクシデントなのだろうか?
 
非常階段を何とか上へあがると、そこの廊下には、たくさんの人が蹲っていた。20人はいるかもしれない。
「!」
黒羽は急いで駆けよる。
近寄ってくる黒羽の姿に、床に座っている一人が悲鳴を上げて逃げようとした。
「待って、待ってください。僕は警察です。警察。大丈夫。大丈夫ですから。助けに来たんだ」
警察、の言葉に、あちこちから安堵のため息が聞こえてきた。
それから、すがりつくような声が人々からあがる
「ああ、こっちへ。少なくとも、僕が来たルートには火が回ってません。先導はできないけど、説明するから、そのルートを外さないように、慌てずに降りてください」
黒羽の言葉に、悲鳴を上げかけた、最初の男がくってかかった。
「なんで!? なんで先導できないんだ? あんた、警官だろう?」
少し面食らった黒羽は、その男と至近距離でまっすぐに向き合った。
しかし男は、黒羽の持っているショットガンや、身につけている重々しい装備にギョッとしたようだった。
 
ああ…。
冬馬の言っていた事が頭の中に甦る。
砂城アンダーツアー。
この人達は、外の人なんだ。
「あなたがここの責任者ですか?」
声を潜めて黒羽は問う。
「い、いや、そうじゃないけど、でも」
「でも、どうやらあなたが適任だ。この状況で僕にくってかかれるのだから。たいした度胸だ」
男はわずかに顔を、ほころばせた。
いいぞ、こんな場合でも、お世辞はきく。
 
「だから、あなたにだけ言っておきたいのですが、ここの上階に、テロリストがいる」
男は目を丸くしたが、賢明なことに何も言わなかった。
「やっぱり、知らなかったんですね。僕は、そのテロリストを制圧するために来たんです。ちゃんとした救助隊は、もう少し下にいる」
男は黙って頷く。
この人選は、思ったより悪くなかったらしい。
「下、と言っても、あとほんの僅かです。あと少し下ればいい」
あと少し、をできるだけ何度も強調する。
「あなた方が後ろから撃たれないようにするのが、僕の仕事です。だから、あなたが先導してください。大丈夫。きっとできる。途中まではフォローしますから」
 
何とか男を丸め込み、黒羽はほっとする。
自分にしては、びっくりするほど良くやった。
こういう言葉なら、いくらでも口から出るんだな。
 
男を先頭に立たせて、自分は後につく。
不安そうに人々は降りていったが、階下には、まだそれほど火が回ってないことを知って、一様に安心したようだった。
もちろん安心なんかできない。
どんなに安全そうに見えても、どこのドアにも触らないことを約束させる。
 
その時だった。
一人の女性が悲鳴を上げた。
「どうしました? 大丈夫ですよ。救助隊はすぐ下だ」
そうじゃない、そうじゃないの、とその女性は叫ぶ。
「子供が、子供が!」
「子供? あなたの?」
彼女は埃と煙にぐしゃぐしゃになった髪をふりみだして、黒羽にしがみついてきた。
「しっかりして、いつからいないんですか?」
解らない、と女性は答える。
すぐ近くに、これも彼女の子供であろうと思われる少年が2人、居心地悪そうにうろうろしている。
「君たちは? 知らないの?」
中学生くらいかと思われる2人は、お互い顔を見合わせて、首を横に振った。
「わ、わかんない…。だって、何もかも真っ白で…」
声は、震えている。
 
ずきり、と心の中に痛みが走った。
何もできない…。子供だから。
それは自分でも充分すぎるほど解っていても、それでもこの罪悪感から逃れられない…。
 
黒羽は頷いていった。
「仕方がないよ。この炎と煙だ。みんな怖いし、訳が判らなくなってる」
黒羽は、2人の顔をまっすぐに覗きこむ。
2人は、ぽかんとして黒羽の顔を見上げた。
「でも、大丈夫。僕がいる。僕が絶対に助け出す。だから、先に行くんだ」
「お兄さん、正義の味方?」
背の小さい方が、独り言のようにもらした。
「ああ」
黒羽は頷いた。
 
そう、そうだね。
今だけ。今だけは正義の味方をやってもいい。
今だけは、非の打ち所のないヒーローを演じても、いい。
 
泣きそうに後ろを振り返りながら、降りていく女性に、できるだけ頼もしく見えるように頷く。
上手くいったかどうかは判らない。
だけど、この埃と煙が、本当の僕を隠してくれるだろう。
 
人影が見えなくなると、黒羽は踵を返して走り始めた。
走れ。速く。もっと。
ここは、なんとなく変だ。

 

 

 好きなだけ9ミリ弾をドアにぶち込み、マガジンを下に落としてリロードすると、冬馬涼一はドアを足で蹴倒した。
激しい音をたてて、頑丈なドアは内側へと倒れる。
煙が密閉されていた部屋の中へ、するすると流れ込んでいった。
部屋の中には、男が2人と、そのボディーガードらしき男が一人いて、入り込んできた者に一瞬びくりと体を震わせたが、顔を確認すると、安堵のため息をついた。
 
「やあ、誠さん。成次さん迎えに来ました。遅くなっちゃって」
冬馬はウジィを片手ににこやかに笑う。
「ああ冬馬くん、どうなってるんだ、外は。いったい何があった?」
「テロリストですよ。困りましたね。砂城のアンダーって所は、荒っぽくて」
「テロリスト? なんで、そんな…」
誠と呼ばれた男はびくびくと怯えながら、冬馬に連れられて部屋から出た。
彼のボディーガードらしき男が、後ろへ続く。
最後に成次と呼ばれた男が、そろそろと辺りを見回しながらついてきた。
「なんで? なんでって、そりゃあ、私が呼んだからですよ」
男はなんとなく不思議そうな顔をして、後ろを振り向いた。
冬馬はその顔にまっすぐ銃口を突きつける。
 
「と、言うより、テロリストは、私かな?」
 
冬馬の手が火を噴いた。
32発の9ミリパラベラム弾が、あっという間に男の体に吸い込まれていく。
男は口から血をまき散らし、何も考える間も与えられず、目を見開いたまま床に倒れていった。
同時に冬馬は姿勢を低くして、反対側にいたボディーガードの体を吹っ飛ばす。
「10年早いな」
手を伸ばそうとしていた銃をたたき落とし、その体に銃弾を容赦なく撃ち込む。
一瞬のためらいも、一切の手加減も無かった。
銃弾は正確に男の頭と胸の真ん中を2発ずつ貫いた。
 
「オレに銃で勝てるのは、コウくらいだよ。まあもっとも、コウはオレの銃でもあるんだから、やっぱりオレが一番かな?」
にこやかに笑って、冬馬は顔を上げた。
そこには成次と呼ばれた男が、腰を抜かしたように、床に座り込む姿があった。
 
「やあ、成次さん。ありがとう。私のために、おみやげを持ってきてくれたんでしょう?」
「と、と、冬馬、くん?」
男はがたがたと震えていた。
「荒っぽいでしょう? すみませんね。騒がしくて。静かにやる事ももちろんできたんですけど、これを私の引退の花道にしようと思っているんですよ。だから、ちょっとばかりクレイジーに行こうってね。もー、映画みたいなアクションをやりたくて。用意に時間はかかったけど、かっこいいでしょう? でも、やりすぎかなあ? んん、そうかもね。早く片を付けないと、めちゃくちゃになるな」
「なんで…なんで…、殺…」
「ええ? だって殺しとかないと、あれを私に渡すつもりはないんでしょう? それに、実験台として、私の体を差し出すのも、嫌だな」
冬馬はくすくす笑った。
「それに、知ってました? 私はね、プライドが、とっても高いんです。実験のため仕方がなかったとはいえ、あんたなんかに体をまさぐられるのは、大っ嫌いだったんですよ」
「冬馬くん? まさか君?」
一瞬だが、成次の瞳の中に光が宿った。
「そう、嬉しいでしょう? 私は、成功したらしい。不老不死です。いや、まだはっきり証明されてはいないわけですけどね。しかし、それはこれから、私がゆっくりやりますから。成次さんは安心してていいですよ」
冬馬はマガジンが空になった右手のウジィを床に落とし、ホルスターからシグP226を抜いて、ゆるやかに構えた。
 
「それで? あれは、どこです? 持ってきたんでしょう? はやく答えた方が、いいと思うな」
冬馬はかすかに首を傾けながら、座り込んでいる成次に近づき、彼の開いた口の中に、銃の先をねじり込んだ。
 
「ねえ、成次さん。いま死にたい? それとも、後で死にたい?」
冬馬涼一の口の端が、ゆるやかにつり上げられ、妙に紅い舌が、その上をゆっくりと舐めていく。
声は、どこまでも柔らかく、そしてとても楽しそうに響いた。

 

 

 上へ登る階段の途中でいきなり銃声が響いた。
黒羽は姿勢を低くし、ショットガンを構える。
廊下の角を利用してアングリングする。
その場所には火はあまり来ていないようだったが、なぜか異様な緊迫感がただよっていた。
 
廊下の向こうにちらりと人影が見える。
見えたと思った瞬間に、そいつは撃ってきた。
大口径から発射された銃弾は、黒羽の隠れる壁に弾かれて砕け飛ぶ。
黒羽は膝を落とし、ショットガンのストックを肩につけて、すばやく連射した。
至近距離からのショットシェルを食らって、男の頭部は弾け飛び、体は床に倒れ落ちる。
間髪入れず、黒羽はポンプアクションをしながら廊下に転がり出て伏せると、次の人影を狙った。
轟音とマズルフラッシュ。
シェルが体に炸裂し、大口径の拳銃を手にした男が、もう一人廊下に吹っ飛んだ。
 
黒羽は用心しながらすばやく立ち上がり、辺りを見回す。
廊下にはもう誰もいなかったが、それでもさっき感じた異様な緊迫感は消えていかない。
血まみれで床に転がった二つの死体を見おろす。
これが、テロリスト、なのだろうか?
 
何か、変だと思う。
普通テロリストは、スーツなんか着てはいない。
もっとこう、意識的に、恣意的に、ごてごてと武装しているモノなのだ。
本物のプロならそうでもないだろうが、それにしてもこの格好という事はあるまい。
銃を向けられたから、当然の事ながら問答無用で撃ってしまったが、彼等は見た目には、誰かの個人的なボディガードのように見えた。
 
いったい、ここで、何が起きている?
 
その時白い煙の向こうに、何かぼんやりと影が映った。
殆ど反射で銃口をそちらに向け、それから黒羽は仰天して口を開いた。
「嘘…、だろう?」
口からは知らず言葉が漏れる。
 
成人男性より、わずかに小さいくらいの大きさの、影。
上体をそり上がらせるようにして起こした、グロテスクなシルエット。
突起のような物が不規則にぶつぶつと突きだした、虫のような、その形。
 
「ジャンク…」
ジャンクが何故? どうしてこんなところに?
黒羽の頭は一瞬混乱した。
ジャンクはまだ黒羽に気付いていないらしく、ずるずると廊下を無作為に移動している。
今のうちに…。しかし…。
手元には一発のジャンク用ブレットも携帯してはいなかった。
あたりまえだ。今日の任務は完璧にテロリストノックダウンだったのだから。
しかし…。
自分の装備をあらためて見直す。
 
ショットガンシェルが残弾5発。予備が14。
357マグナムに6発。予備ローダーが3つ。
充分な気もするし、心許ないような気もする。
通常のブレットでも、たくさん撃てばジャンクは壊れる。
しかし、これから先どんな敵に会うのか解らない。
その上、ジャンクが一匹かどうかも、いまの黒羽には判断のしようが無いことだった。
 
しかし、あの異様な緊迫感はジャンクのせいだったのか、と思う。
それなら銃声が響いたのも、男がすぐに撃ってきたのも解らないでもない。
確かめずに発砲したのは、確かに男のミスなのだが。
それにしても、こんな上の方にジャンクが自然発生的に存在する筈など無かった。
誰かがここに持ち込んだのだ。
なんの為だかは解らない。
解るのは、それが極刑に値するほどの重罪だという事だけだ。
 
ジャンクがいるなら、早く下に知らせた方がいいとは思う。
しかし、爆発の衝撃で無線機はとっくにおシャカになっていた。
それとも、この事態をもう下に告げた者がいるだろうか?
上に行くべきなのか、下に降りて知らせるべきなのか、黒羽はわずかに逡巡した。
 
しかし気がつくと、自分の足はすでに動き始めていた。
ジャンクは上へと移動していった。最上階へ。
上に人がいるかどうかは確認していない。
しかし誰かがいる可能性があるのなら、いま一番近い僕がそこへ行くべきだろう。
 
倒れているスーツの男から拳銃を引き抜き、それを腰に差し込む。なんでも無いよりはましだ。
黒羽は走った。

 

 

 階段を上りきる寸前の場所で、黒羽は彼を見つけた。
崩れた瓦礫に挟まり、隠れるようにうずくまった、その小さい影は、注意していなかったら見落としてしまった事だろう。
しかし、黒羽は見つけた。
煙で煤けた青白い顔をした少年。
聞いていた特徴に一致する。
捜していた子供に間違いなかった。
座り込む彼の、疲れ切った薄い瞼は伏せられて、かすかにひくひくと動いていた。
 
生きてる…。
黒羽は心の底から安堵する。
必ず助け出す、と約束はしたが、もちろんそれは空手形にすぎない。
自分は約束に値するものなど何一つ持ってはいないのだ。
実際の所、半分くらいは死体を運び出す覚悟でいた。
だけど、生きている。少なくとも今は。
ここから逃げ出さない限り、まだ五分五分の可能性にすぎないけれど、それでも黒羽は最初の賭けには勝ったのだ。
 
少年は13という年の割には、かなり小さく見えた。
その小さい体を更に小さく縮めて、細い首を下に落としている。
しかし黒羽が近づくと、彼は思ったよりもすばやい動きで顔を上げた。
「だれ…?」
まだ声変わりのしていないそれは、高くかすれる。
だが少年は、ぼんやりした瞳で黒羽を見た途端、小さく悲鳴を上げてそこから逃げようと体をひねった。
ひねった体が瓦礫の山にぶつかる。
 
その衝撃で、たぶん微妙なバランスを保っていたのであろう少年の上の瓦礫が、突然ガラリと大きな音をたてて崩れ落ちてきた。
その中の特に大きな塊が、まっすぐに少年の頭めがけて落下する。
 
「危ない!!」
叫ぶと同時に、無意識に手は動いた。
一番大きな瓦礫をショットガンではじき飛ばすと、黒羽は崩れてくる瓦礫の下に飛び込み、片手で少年を攫うと、前に飛んだ。
黒羽の痛めた背中に、再び石の塊がごつごつと降りそそいでくる。
少年を全身でかかえこみ、そのまま廊下に転がり出た。
「くっ…」
痛みに思わず声が漏れる。
しかしそれでも黒羽は、何とか子供を抱えてそこを脱出することに成功した。
 
ほっとして、思わず小さく息を吐いた。
だけど…。
黒羽は振り向いて眉をひそめる。
階段が全部瓦礫で埋まってしまった。
子供を担いでは、とても降りられそうもなかった。
また新しいルートを探さなくてはならないだろう。
 
 
「だ…、大丈夫?」
小さな声が、体の下から聞こえた。
黒羽が視線を移すと、少年が仰向けになったまま、びっくりしたように、目をまん丸に見開いて黒羽を見上げていた。
その目とまともに瞳が合う。
黒羽はかすかに笑った。
大丈夫。彼に大きな怪我はない。
「大丈夫だ。何もかも、全部」
黒羽の声に、少年は大きく頷いた。
「君を助けに来たんだ。だから、もう心配いらない」
空手形の連発だな。そう思いながら、黒羽は体を起こした。
しかし、こんな約束でも、なにも無いよりはましだ。
 
立ち上がって下を見おろすと、体を起こした少年と、また視線があった。
彼は思ったよりずっと意志の強そうな目で黒羽を見つめ、そして小さくぽつりと言った。
「お兄さん…、正義の、味方?」
見上げる瞳は、真剣な光を湛えている。
「ああ…」
黒羽は微笑んで頷いた。
さっきも同じ事を聞かれた。
 
炎のなかで、すべてにはぐれた子供。
一人きりで、どうにもならなくて、目の前に最初に来たものに、必死の力でしがみつく…。
黒羽はかつての自分とよく似た苦しみを、その瞳の中に見いだして、かすかに胸が痛くなる。
 
希望が必要なときが、あるんだ。
子供の夢、子供のたわいない希望でも。
たったそれだけのものでも、必要な時がある。
それが言葉だけだと知っていたとしても、それでも言ってもらうことに価値がある時が、きっと。
だから、嘘でもいい。
今だけ。今だけ君の望むものになってもいい。
それが必要だというのならば…。
いつだって僕は、誰かに必要とされるものに、なりたかった。
だから…。
 
黒羽はまっすぐに少年の瞳を覗き込み、そしてもう一度、大きく頷いた。
「ああ、そうだよ。正義の味方だ。だから君は、安心してていいんだ」
黒羽の言葉に少年は目を見開き、それから大きく破顔した。
 
 
ああ…。
黒羽は一瞬何もかも忘れて、その笑顔に見とれた。
それは、誰でも彼のことが一目で好きになってしまうような、そんなとびきりの笑顔だった。
黒羽が、とっくの昔に忘れてしまったような、とても綺麗な笑顔だった。
 
いや、そんなものを自分は持っていただろうか?
今でさえ、自分がどんな顔をしているのか、よく解らない。
冬馬と今のような生活を始める以前に、自分がどういう顔をしていたのか、今では思い出すことさえも難しくなってしまっていた。
僕はたぶん、冬馬の手を望むのと引き替えに、たくさんのものを捨ててきてしまったのだろうと思う。
だけど…それは、自分で選んだ。
望んで冬馬の手を取った。
彼の手が、僕には必要だったから。
彼が、好きだったから…。
 
ああ、変だ。
こんな時だというのに、なぜ昨夜の冬馬の顔を思い出すのだろう?
妙に冷たい体。
耳元で囁かれた、幻のような、夢のような言葉。
冬馬の混乱した部屋。
そして、ずっとつきまとっている気持ちの悪い違和感。
 
冬馬、今どこにいる?
なぜここに、冬馬はいない?
 
 
少年が黒羽の手を握りしめてきた。
暖かいその感触に、現実に引き戻される。
黒羽はその手をしっかりと握り返した。
そうだ、今はここを出なくては。
彼を彼自身の日常に戻してあげなくては。
「降りよう」
黒羽は少年に言った。
しかし彼は首を横に振って、こう言い返した。
「向こうに、悪いヤツがいる」
「…悪い、ヤツ?」
少年は頷く。
「奥の展望室でオレを撃ってきたんだ。オレ、あそこに忘れ物しちゃって、それで…」
少年の声は次第に小さくなっていった。
自分が取り残されたことを思い出したのだろう。
しかしそれでも彼は言った。
「向こうにも、何人かいるんだ。全部悪いヤツなのか、そうでないのか解らない。女の人とかも、見た。だから、だけど…、でも」
少年の瞳は、強い光を放っていた。
 
それでも、あんたが正義の味方なら、そこへ行かなくちゃ。
彼の瞳はそんな風に言っているように見えた。
どっちにしろ、この子一人で下に向かわせる訳にはいかない。
それに…。ぞくりと背中に寒気が走る。
それに、ジャンクがいる。
ならば、たとえ危険でも、自分の後ろについていさせた方がいいかもしれない。
黒羽は頷いた。少年の手をしっかりと握る。
「わかった、行こう」
 
そして黒羽は踏み込んでいった。
炎がうずまく、最後のステージへと。

 

 

最上階の展望室は、炎に蹂躙されていた。
炎は貪欲に床や天井を舐め回し、限りある酸素を喰い尽くしていく。
 
「ここは、だめだ。誰かいたとしても、もう手遅れだろう」
黒羽の言葉に、額にじっとりと汗を滲ませて少年も頷いた。
「だけど…、待てよ。ここの裏をまわると、V.I.Pルームに続くんじゃなかっただろうか?」
黒羽は必死になってホテルの見取り図を思い出す。
早くここから逃げた方がいい。
手遅れにならないうちに。
それは解っていた。
しかし、V.I.Pルームには、通常の通路の他に、専用の退避ルートがあったはずだった。
そこには炎がまわっていない可能性もある。
どちらにしても、自分が来た通路は、もうふさがれてしまったのだ。
可能性は、いくつ探ってもいい。
黒羽は少年の手を握って、展望室の裏手へと走った。
 
「君を撃ってきたのは、どんなヤツ?」
走りながら黒羽は聞く。
「なんか、でかい男だった。サングラスなんかかけちゃって。バカみてえ。ここ、地下じゃん」
子供の正直な感想に、黒羽は苦笑した。
「スーツ、着てた?」
「着てた。なんか、何人もいたよ。そんで、何かが逃げたとか、何とか…」
…ジャンクだ。
それでは奴らがここにジャンクを持ちこんだのだ。
「それは、爆発の前? それとも、後?」
少年は間髪入れずに答えた。
「後。だってオレ、下に逃げる途中で忘れ物に気がついたんだもん。黙って戻って来たのは、確かにまずいと思ったんだ。だけどさ、言ったら絶対許してなんかくれなかっただろうし」
「忘れ物は、取り返せた?」
少年は苦笑いを顔に浮かべて首を振った。
「だめ。撃たれそうになったんで、オレ、隠れちゃったもん。もう焼けちゃったよ、絶対。あーあ、もったいない事したな」
しかし彼は、にっこり笑って黒羽を見上げて言った。
「でもいい。あんなの、もうどうでもいいんだ。だって、あんたに会えたんだもん」
僕に…?
少年の言っていることは、よく解らなかった。
けれど彼が、あまりにも幸せそうな顔をしているので、解らないままにも黒羽は彼の笑顔につられて微笑み返した。
「あんたに会えたから、もういいや。ねえ、お兄さん、なんて名前?」
「黒羽 高」
「そっか、くろはね、こうだね。覚えた。オレはね…」

少年が何か言いかけた時、黒羽は前方に倒れている人影を見つけた。
走るのをやめて、唇に指を当てる。
途端に少年はぴたりと口を閉ざした。
頭のいい子供のようだった。
ひとつ手前の曲がり角まで少年を戻し、そこに座らせる。
「できるだけ、体を低くしているんだ。角から顔を出してもいけない。安全かどうか、まず僕が確認してくる。いいね?」
小さく頷いて、少年は言われたとおりに体を低くする。
黒羽はショットガンを構え直すと、膝を落としてゆっくりと人影に近づいていった。
 
 
 
白い煙と埃が視界をさえぎり、世界をぼんやりとしたものに変える。
しかし近づいて行くに連れて、それが知った顔だという事に黒羽は気がついた。
「…木村さん!?」
黒羽は駆けよって彼の体を起こす。
しかし、彼の体は無数の銃弾に穿たれて血塗れになり、完全に絶命していた。
いったい何が起きた?
黒羽は辺りを見回す。
用心深い木村さんが、真正面の、しかも至近距離から撃たれて死んでいる。
そのうえただの一発も撃ち返した様子はない。
頭のすみで、ずっと鈍く訴え続けてきた違和感が、いま急速に体全体に広がって、黒い胸騒ぎに変わった。
 
知っている人間に、撃たれた?
それは、テロリストではない?
それとも…。
 
よく見ると、少し離れたところに、更に二つ死体が転がっている。
50がらみの太った男性と、それから多分そのボディーガードと思われる男。
2人の男は、驚くほど手際よく始末されていた。
こんな事が出来るのは、黒羽が知っている限り、2人しかいない。
一人は、自分だった。
そして、もう一人は…。
 
『冬馬涼一』
 
黒羽はドアを壊され、大きく開いた部屋へと、一歩足を踏み入れた。

 

 

 V.I.Pルームには、まだ殆ど炎は入ってきていないようだった。
趣味がいいのか悪いのか、よく解らないが、高価そうな調度が部屋をごてごてと飾り立てている。
このホテルのインテリアデザイナーは、空間を綺麗にとる、という事が出来ないらしい。
せっかくの広い部屋が、妙に狭く見える。
それとも砂城のアンダーらしく、遮蔽物を多くして、入り口からの襲撃に備えているのかもしれない。
そんな皮肉な考えが黒羽の頭をめぐった。
 
V.I.Pルームは、12室。
それ全部がたった一人のために用意されている。
それだけ部屋があれば、ジャンクのひとつくらい、軽く隠せるだろう。
V.I.Pに手荷物の検査はない。
黒羽は、もう彼等がジャンクを運んできたことに、まったく疑いを持っていなかった。
何のためだかは知らない。
しかし、彼等がここに運んできたのだ。
遮蔽物の後ろをひとつひとつクリアにしながら、黒羽はじりじりと進んでいった。
その時、いきなり奥の方で銃声と掠れた悲鳴が聞こえた。
黒羽はすばやく音のした方へと移動する。
音の聞こえた隣の部屋のドアは、大きく開いていた。
黒羽は壁づたいに体を移動させ、半分開いたドアの隙間から、そっと中を覗いた。
 
 
 
「ああ、ああ、ああ…」
がりがりと痩せてメガネを鼻の上にのせた、やはり50がらみの男が一人、床にはいつくばっている。
男はひいひい何か解らない事を呟きながら、がたがたと震えて、爪を床で削っていた。
そして、その上には綺麗な男が一人、トリガーに指のかかった拳銃をまっすぐ彼に向けて、優雅に立っていた。
わずかに目は伏せられ、口元には薄笑いを浮かべている。
 
『冬馬…!』
黒羽の鼓動は、一拍跳ね上がった。
 
銃を下に向けて、軽く首をかしげた冬馬は、恐ろしいくらい綺麗だった。
上機嫌と不機嫌を、同時に体全体から滲ませ、残酷なオーラを冷たい炎のように纏っている。
それは冬馬がけっして外で見せる事の無い、もう一つの顔だった。


だけど、僕は知ってる。
黒羽は目を瞑った。
僕は! 知っている。
冬馬…。冬馬!
確信が心の中に走った。
涼一が…、やったのだ。
木村さんも、2人の男も。
火事と、ジャンクと、テロリストに紛れて?
いや…、もしかしたら、この火事自体も?
 
しかし黒羽の頭は、自らの直感を必死にうち消そうとした。
いや、だって、なぜ?
涼一がそんなことをする必要が、どこにある?
僕たちは警察官だ。
自分たちは、確かにテロリストをノックダウンする為に、ここに入ってきたのだ。
僕は見なかったけれど、でもテロリストはここにいた筈なんだ。
 
確信を力の限りうち消す。
鈍い痛みと吐き気が、体の奥からせり上がってきた。
だから、涼一…。だから、違うだろう?
きっと、そいつは、そいつがテロリストなんだろう?
そいつが、銃すら持っていないけれど、でもそいつが、きっとテロリストなんだろう?
だから、言ってくれ、涼一。
信じるから。
ずっと、信じてきたように、あんたを信じるから。
納得するような言葉を、僕にくれよ。
あんたが言った事なら、全部信じるから…!
 
ドアの影の黒羽に、冬馬はまったく気付いていなかった。
男を見おろしたまま、彼はゆるやかに口を開いた。
 
 
 
「ああ、何で泣くかなあ? 怒ってないって言ってるでしょう? 男が泣くのは、みっともないですよ? オレは涙を拭いてあげませんからね?」
「と、冬馬くん、冬馬、く…ん」
「ね? オレは怒って人殺しなんて、したりしないんです。怒っていても、いなくても、したい時に、するんですよ」
冬馬はにこやかに笑う。
そして、するりと上半身を落とし、はいつくばっている男の頭に銃口を押しつけた。
男はひい、と小さく悲鳴を上げると、ますます体を縮めた。
「警察は、いいところだ。特にこの砂城のはね。オレに人殺しのやり方を色々教えてくれましたよ。
知ってます? このままあなたを撃つとね。頭は爆発するんです。頭蓋内に空洞が出来てね、圧力の逃げ場がないから、爆裂しちゃうんです。本当ですよ。やった事あるんです。面白かったな。
…あれ? 違ったっけか。ああ、あれはライフルでした。安心してください成次さん。9ミリ弾じゃあ、爆発はしませんよ。死ぬけどね」
冬馬はくすくす笑いながら饒舌に喋り続けた。
 
「あれを逃がしたって失敗は、まあ、いいとしましょう。あれだって、きっと狭いところは嫌いだったんですよ。逃げた先で観光客の一人でも喰えれば、案外逃亡も悪くないかもしれないし。だけどね、その後がいけない。何で壊すように指示したんです? あれはね、あんたの私物じゃない」
冬馬は口の端を歪め、白い歯をむき出した。
 
「あれはねえ、オレのものだ」
 
冬馬は今、まるで剥き出しのナイフのように、ぎらぎらとしたものを身に纏いはじめていた。
 
「あれはね、オレのものだよ。ずっとな。オレが欲しいものを、おまえらが盗ろうとしたから、取り返すだけだ。正当な権利だよ。
え? 誰が資料をそろえてやった? 誰が最初に金を出した? 誰が実験体を用意してやった? 最後には自分の体をさしだしたのは、誰だ? オレだろ? 
あんたでも、誠さんでもない。オレが黒羽の家に入り、邪魔者を排除し、金も出して道を整えてやった。まあ、確かに半分はお楽しみだったし、金はおやじのだけどな。
あんたらの力が色々欲しかったのは確かさ。誠さんの政治力も、あんたのノウハウも、確かに必要だった。
でもね、だからって、実った果実を全部人にやるつもりは、更々オレにはないんだよ。
オレが創ったものをもぎ取る権利は、オレにある。殺すのも、使うのも、全部オレだ。誰も邪魔することなんか出来ないよ」
冬馬は彼の頭に銃をきつく押しあて、嘲笑するように言い放った。
 
「さあ、どうする? 今あんたはオレの手の中にいる。オレの世界にいるんだ。だから今あんたにとって絶対なのは、オレの理屈だけだ。あんたの話すいつものくだらないお話はひとつも通らないよ。だって今、あんたの命も、話す言葉ひとつも、全部オレの手の中だもの。オレの世界では、誰よりもオレが正しい。
ね? そうでしょう? 成次さん。だから、言ってごらん? オレが正しいって。全部オレの言うとおりだって。そこで言うんだ。いますぐ、言え!!」
 
男は、涎を口の端から流しながら、震えていた。
歯の根はまったくあっていない。
「い…、と…、とう…ま…。ただ…」
無言で冬馬はトリガーを引き絞る。
轟音と共に、男の体は一度大きく跳ねると、大量の血液を床にまき散らしながら、その場にごとりと倒れた。
 
黒羽は銃声と同時にドアの影から飛び出し、ショットガンを構えたが、もちろん何もかも間に合わなかった。
冬馬は退屈そうに死体を見おろして呟いた。
「ああ、だから…。いますぐ、って言ったじゃないか。オレは楽しくないことには気が短いんだよ。成次さん」
それからするりと視線を上げる。
そして、銃口をこちらに向けている黒羽と目が合うと、嬉しそうに笑って言った。
 
「やあ、コウ」
 
いつもの声だった。
まるで、朝の挨拶でもするかのような、柔らかく、明るい、黒羽の好きな声だった。
黒羽は歯を食いしばった。
 
「いつ来たの? いま来たのか? 待ってたよ。来ると思ってた。誰が来なくても、コウは絶対来ると思ってた。でも、真っ黒だな。血も出てるぞ。バカだなあ、せっかく綺麗なのに。でもここまで来るのは、大変だったんだな」
「りょうい…ち」
「オレ、捜し物をしなくちゃいけないんだよ、コウ。あまり時間がないんだ。だから、後でな」
「涼一…。これは、いったい、何?」
しかし冬馬はくるりと黒羽に背を向けると、そのまますたすたと歩き始めた。
「涼一!」
黒羽は叫ぶと、腰だめに構えたショットガンを顔の位置まで上げた。
ストックを肩につけて、右手でフォアグリップを引き、銃口をまっすぐ冬馬の背中に向ける。
「何故この男を殺した!」
 
お願いだ、涼一。
僕に言葉をくれ!
信じる。
必ず信じるから!
 
冬馬は振り向きもしないで言った。
「こいつ、テロリストだったんだよ」
「嘘…だ」
まるで自分ものではないような、震えて掠れた声が、黒羽の喉から、勝手にすべり出してくる。
「嘘じゃないよ」
冬馬は振り向く。
そして、黒羽が見た事もないような、綺麗な笑顔を浮かべて、鮮やかに言った。
 

「愛してるよ、コウ」
 
 
 
黒羽はショットガンを落として膝をついた。
何か暖かいものが、頬を伝って床に落ちる。
冬馬がゆっくりと近づいてきた。
「コウ。どうしたんだよ、コウ。一緒に連れてってやるって、ちゃんと約束しただろう? 泣いてるのか? コウ?」
冬馬の唇と舌が、頬を伝うものをうけとめる。
「なんで泣くんだ? 男が泣いたら、みっともないぞ。まあだけど、コウが泣くのは好きだから、オレはかまわないけどな…」
唇はそのまま頬から降りてきて、黒羽のものに重なる。
黒羽はそのまま、黙って彼を受け入れた。
冬馬の唇は、冷たかった。
 
 
涼一…。
だめだ、涼一…。
それは嘘だ。
僕を愛しているなんて…。
今までの嘘のなかでも、最低だ。
 
 
「りょう…いち」
「なに?」
「涼一、答えて」
「…いいよ、なんでも」
 
「僕の両親を、殺した?」
 
冬馬は唇を離し、少し驚いたような顔をして黒羽の顔を見つめた。
それから優しく笑う。
「なんだ。もしかして、あのとき聞こえてたのか? 黙っているなんて、案外いやな奴だな、コウ」
「涼一…。答えて」
涙は少しも止まらなかった。
なんのための涙なのか、悲しくて泣いているのか、それすらも黒羽にはよく解らなかった。
「どうしようか? 秘密なんだよ、コウ」
「でも…、僕は、聞いた」
「うん、コウが好きだからさ。だからちょっとだけ言ってみたんだ。だけどね、コウ。オレと来るなら、その話は後でしようよ」
言いながら冬馬は優しく抱きしめてくる。
ずっと長い間、こんなに優しい抱擁はなかった。
 
「木村さんを、殺したのは、涼一?」
冬馬の優しい声が耳元で囁く。
「それなら、答えてやってもいいよ。それは確かにオレがやった」
「どう、して?」
「ここから先は、見る権利がなかったからさ。だからあそこで終わりにした。もちろんコウは来ていいよ。もしも今日来られなくても、後で迎えに行くつもりでいたけどね。オレは今日、一度死ぬことにしたんだよ。コウ、おまえも一緒に死のう。そしてさ、その後は2人で、ずっと一緒にいよう」
 
 
 
冬馬の優しい手が黒羽の背中をなでた。
嘘で整えられた、偽りの優しい手が。
『ずっと、生きていたくないか?』
そんなこと…、できないよ。涼一…。
『夢の中で、一緒に暮らそう』
どこへ行くんだ? 涼一。
混乱した部屋と、父親のフロッピー。
白い紙の束に隠された、べったりと血にまみれた一冊の古いノート。
 
涼一…。
どうして僕の所に来た?
何もかも、最初から決まっていたのか?
あんたがすべてをもたらし、すべてを壊し、僕を抱いて、あんたのものにして、今またどこかに行こうとしているのか。
涼一。僕が両親を救えなかったのも、それも、すべて計画の内だったのか?
 
涼一、僕は何もかもよく解らなくなってしまった…。
知っていたよ。見ないふりをしていたけど、心の奥では、なんとなく知っていた。
さっきのあの男を殺し、木村さんを殺し、2人の男も殺し、そしてきっと、そうやってたくさんの邪魔者を排してきたんだ。
計画のためとか、そんなんじゃない。
本当は、どうでもよかったんだろう?
ただ、ほんの少し、鬱陶しかっただけ。
あんたの世界で、あんたは道端にある石ころを、ただ消していっただけなんだ。
 
愛している?
それは、嘘だ。
だけど、僕はどうなのだろう。
僕はまだ、あんたのものなのか?
いや、もうとっくに僕という者などここにはいないのかもしれない。
あんたに必要なのは、僕ではなく、あんたの世界にいる僕だけなのか。
涼一。ここにいるって、言ってくれ。
どこかになんか行かないで。
ここにずっと、僕といるって。
一緒に死ぬというなら、ここでいますぐ、僕と死んでくれ。
 
…冷たかった。
彼の体も、彼の唇も、彼の舌も、彼の手も。
そうだ。もう、とっくの昔に、ずっと遠くへ行ってしまっていたんだ。
知ってた…。
ただ、怖くて、とっても怖くて、そう思いたくなかっただけなんだ。
 
涙は暖かい雨のように、次から次へと頬を伝って流れ落ちていった。

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