正義の味方incident8

炎の記憶 −白鳥香澄−

第一章「発端」


 砂城さじょうのゲートをくぐった瞬間、白鳥香澄(しらとり かすみ)の心は躍った。
『ずっと、来たかったんだ』
香澄は両親と2人の兄を振り返る。
砂城からそれほど遠くないところに住んでいるにもかかわらず、いや、なまじ近くにいるせいなのか、白鳥一家は一度も砂城に足を踏み入れたことがなかった。
砂城へ遊びに行こう、という計画は、実はずいぶん前からあった。
しかし、世の父親の子供への約束というものは、いざとなると破られる運命にある。
何度も日延べを繰り返したあげく、遅れた誕生日という名目で、やっと今日という日を香澄はゲットしたのだった。



「えええー? 家族で遊園地?」
連休に家族全員で砂城に遊びに行こうと言った父親の言葉に、嫌な顔をして振り返ったのは、一番上の兄、聡(さとし)だった。
「いいじゃん、オレの誕生日プレゼントなんだからさ」
香澄は上の兄貴に負けまいと、せいいっぱい突っ張った口調で話す。
「だからって、なんで全員で行かなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん、なあ? 行きたいよな、たけ兄は」
香澄のすぐ上の兄、武史(たけし)はにやにやと笑って頷く。
「おめーらは中学生だろうがよ。中坊はいいんだよ。ご家族で遊園地でもさ。だけどオレは…」
「高校生になったからって、どこがでっかくなったわけでもないだろーにさ」
香澄は兄の背の低さをからかう。
たちまち拳が頭を狙って飛んできたが、生まれた時から兄の鉄拳を食らっている香澄は、軽々とそれをかわした。
 
「あのなあ、香澄、さとし兄は女ができたんだぜ」
武史が指で卑猥なポーズを作る。
「げっ、女。色気づいたか、聡」
再び殴られまいと逃げ回りながら、香澄は続けて言った。
「それじゃあ、いいじゃん。さとし兄。ドリームパークは、でえとこーすだぞ。とりあえず今回は一緒に行って下見してさ、次は彼女と2人で来れば? 色々覚えとけば、恥かかないですむぞ」
聡はむっとしたように口をつぐんだが、どうやらそれは悪くない考えだと思い至ったようだった。
 
香澄と武史は頭をつき合わせるようにして、こそこそと言葉を交わす。
「聡、ホントに女がいるんだ。たけ兄、どんなヤツだよ。見たのか?」
「見た。手ぇつないで、帰ってきてやんの。チューは近いぜ、あれは」
「なんだ、まだチューもしてねえのかよ。おっせえなあ」
「てめえら、こそこそ話してっと、ぶっ飛ばすぞ!」
聡の恫喝に2人はその場から逃げながら、げらげらと笑った。
「ガキめ! てめーらは、どうせあそこで欲しいカードでもあるんだろう?」
 
それは、まったくその通りなので、言い訳なんかしない。
実際香澄は期待でわくわくしていた。
ついこの間まで、聡だって集めていた、ヒーローカード。
少し前に発売された、歴代のヒーローものをどさっと集めたオールヒーローというカードシリーズは、枚数や種類がケタ外れに多く、集めるのに苦労するシロモノだった。
しかし、苦労するからこそ集めたい、という心理は確かに存在する。
その辺のマニア心を上手くくすぐって、オールヒーローカードはレアなものだとネットオークションで何万円もするものさえ登場していた。
しかし当然、中学生にすぎない香澄たちにとって、それは遠い世界だった。
地道にコンビニやカード屋でちまちま集め、だぶったカードは友達と交換する。
それが唯一の方法だった。
 
しかし実は、コンビニでは手に入らないカードというのものが存在する。
イベントカードというヤツだ。
イベントカードとは、何かのイベントの時にしか発行しない類のカードで、それを逃すと手に入らない。
超貴重な、と言うシロモノである。
そして、砂城にはそれがあるのだった。
砂城のドリームパークには、砂城でしか出さないカードが存在する。
香澄と兄の武史は、それを狙っていた。
情報誌をにぎわす数々の新しいアトラクションの類も、もちろん楽しみには違いない。
しかし、それよりも何よりも、やっぱりカードが欲しかった。
もちろん、レアなカードだから、買った中にそのカードが入っているかどうかは、袋を開けてみないと解らない。
すべては運しだいの、神様まかせのお楽しみ。
 
だけど、砂城に行かなけりゃ、手に入るチャンスもないもんな。
香澄はにやけてくるのを押さえられないでいた。
バカにしたけりゃ、勝手にしろよ。と思う。
好きになった人でなければ、この気持ちは解らない。
かっこいい正義の味方が好きで、どこが悪いんだ。
 
正義の味方は、きっといる。
香澄は半ば本気でそう思っていた。
こう、いつもは普通の人みたいに隠れてて、いざという時に颯爽と現れるんだ。
そんなことを夢見ていて、何が悪い?
そんな奴がいるはず無いとか、何でも否定して、バカみたいに暗い事ばっか言ってまわるヤツなんて、大嫌いだ。
いいじゃんか。
どこかにいる。かっこいい、憧れのヒーローが。
そう思っていた方が、楽しいじゃないか。
そんで、いつかオレも憧れのものになるんだって、ちょっぴり思っていたい。
 
まあ、もっとも、その考えは誰にもナイショだ。
カード仲間でもある武史にもだ。
いくら何でも中学生にもなって、テレビに出てくるヒーローに、本気でなれるとは思っていない。
だけど、ちょっとそう思っているくらいは、いいよな。
恥ずかしいから、誰にも言えないけど、思っているだけなら別にいいよな…。
 
 
家族サービスの名目に満足している父親の顔を見上げる。
母親も久しぶりのおでかけに、なんだか嬉しそうだった。
空も驚くほど美しく晴れわたっている。
今日は一日最高の日になる、そんな予感がした。
その、筈だった。

 

 

 人気のアトラクションを、並んでいくつか制覇した後、香澄と武史は待ちかねたようにドリームパークのショップに飛び込んだ。
聡が渋々という顔で後に付いてくる。
バースデー特典として、香澄はいくらか両親から援助してもらえる事になっていた。
とりあえず、全くのカンでいくつかのカードの袋を手に取ってレジに並ぶ。
聡は2人のお目付役を両親から言い渡されて、憮然とした顔でショップの壁際に立っていた。
しかし彼はまもなく何かを壁に発見し、香澄達がレジから戻る頃には、少々興奮した表情で激しく2人を手招きして呼んだ。
「なんだよ? さとし兄」
「早くショップ出ようぜ。袋開けたいからさ」
「いいから、おまえらちょっと来てみろ。面白い企画があるぞ」
聡が指し示す壁には、何かのポスターが貼ってあった。
香澄と武史の2人は怪訝な表情で、それを覗き込む。
 
『砂城アンダーツアーのご案内』
 
そこにはそんな文字が、色とりどりの地紋で飾られて、楽しそうに踊っていた。
「え? アンダーって、ええと、ここの下にある都市だっけ?」
武史が首を傾げる。
「期間限定企画。あまり知られていない、日本唯一の地下大都市をご案内いたします。毎週3回実施。午前11時半から出発。昼食はアンダー随一のホテル『レオニス』での、豪華ランチをご用意。4人以上の団体には割引アリ。ただいま参加者募集中、だってさ」
香澄は一気にポスターに書かれている文字を読み上げると、へええ、下かあ…、と呟いて唸った。
「いいだろ? 興味ないか? オレはこんな遊園地より面白そうだと思うけど?」
聡がやっと面白そうなものを見つけた、という顔でにやつく。
「ええ? だってそこ、アトラクションとかは、別にないんだろ? 普通の街だって聞いたぜ」
武史がほんの少し口を尖らせる。
 
しかし、香澄は逆に顔をほころばせた。
「いいじゃん。オレは行きたいなー。知ってるか? あそこ、拳銃持ってていいんだぜ。悪者と警官が、ばんばん撃ち合いやるんだってよ」
「おまえさあ…」
武史はちょっとだけあきれたような声を出した。
「そーいうの、好きだよなあ。だけど、そんなの大げさに言ってるだけだって。刑事ドラマの見すぎだぞ」
「でも…、拳銃触らせてくれるかも…」
「バカか。撃ち合いはアトラクションじゃねえって。日光江戸村とか、ウエスタン村じゃないんだから」
「うっせえなあ、知ってるよ、それくらい。オレはたださ…」
香澄は口を尖らせながら、無意識に手の中の、カードが入った袋をていねいに破る。
「ちょっと興味があるって、言っただけじゃん…」
「知ってっぞ。お前が好きな次元刑事ブラックは、砂城のアンダー出身って設定なんだよなっ?」
「そうだよ。悪りぃかよ。たけ兄だって、北海道行きてぇ、とか言ってなかったか? ファイブアタッカーの基地があるからって…。うわっっ!」
 
香澄のいきなりの大声に、耳を寄せていた武史は思わずのけぞった。
「なんだよ。バカ野郎。鼓膜潰れるじゃんか」
「鼓膜は、潰れるんじゃなくて、破れるだろ? そんな事より、見ろよ、たけ兄。ついに出たぜ。ラッキイイイーッ」
香澄は破った袋から、一枚のカードを取り出し、高々と上に掲げて見せた。
「やったーっ、オレってやっぱ運がいいーっ」
「うわ、ホントだ。砂城限定カードじゃん。しかも、いま言ってた次元刑事ブラックの、シルバーキラカード。すげえ、いいなあ。ちっ、オレのには入ってないのかよ」
武史は自分のカードをごそごそとまさぐり、それからがっかりしたような顔をして香澄の方をうらやましそうに見つめた。
「元気出せよ。たけ兄。オレ、これがあれば他のはいらないからさっ。帰りにもう一袋ずつ買ってもらおうぜ。そんで、スペシャルが出たら、それが何でもたけ兄にやるよ」
スペシャルが出る保証などどこにもないのだが、香澄は思いっきり太っ腹なつもりで、えらそうに胸を叩く。
しかし、そんなしょうもない約束でも、武史は嬉しそうな顔をした。
香澄も気分良く、手の中のカードをうっとりと見つめる。
 
きらきらしたシルバーで縁取られた、一見地味にも見える黒いカード。
しかしそれは、自分にとって最高のカードだった。
黒いカードには、更に黒いインセンティブスーツに身を包み、銃を構えた次元刑事ブラックが、ポーズを決めてこちらを見ている。
一番かっこいいよなあ。
香澄はにやける。
次元刑事の中では、ちょっとばかり地味なイメージを持つブラック。
だけど、砂城限定カードになってんのは、このブラックだけなんだぜ。
 
たけ兄は、そりゃ、ブラックが砂城出身だって設定だからだろ?
と笑って一蹴したが、それでも、特別は特別だ。
自分の一番好きなキャラクターが、何らかの形でも、特別に扱われているのは、すっごく気分がいい。
自分まで特別になれた気持ちがする。
香澄はカードが折れないように、大切に袋の中に戻し、上着のポケットにそっと納めた。
なんて、今日はいい日なんだろう…。
 
 
ふと顔を上げると、聡が両親を連れてこちらへ来るところだった。
香澄達に視線をよこすと、聡は笑って、指でオッケーマークを作ってみせる。
砂城アンダーツアーに参加する事が、決定したらしかった。
香澄は思わずバンザイをする。
本当に、今日はなんていい日なんだろう。
上着のポケットをそっと押さえながら、香澄は走り出した。

 

 

 砂城のアンダーへは、直通のエレベーターで、ほんの数十秒だった。
あっという間に、拍子抜けするくらいあっさりと下に降り着く。
「なんだあ? なんか、けっこう簡単だなぁ…」
それでも香澄は、物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回した。
アンダーツアーには、20人ほどの人達が参加した。
全員アンダーは初めてのようだった。
今回の参加は、人数的には多い方だったらしく、添乗員らしい狐のような顔をした男の人と、これは可愛い案内役のお姉さんが、にこにこしながらガイドを開始する。
 
「みなさま、このたびは砂城アンダーツアーへのご参加ありがとうございました。これからアンダーのゲートへとまいります。
アンダーはご存じの通り、特別指定都市として、日本のどの都市とも違う、独自の機構で運営されており、そのためゲートには、厳しいチェック事項がもうけられております。
皆様もこれから、一人一人チェックを受ける事になりますが、けっして特別の事ではございません。
アンダーと上とを、お互い安全に維持するために必要不可欠なものとなっております。
どうか皆様、その点のご理解をよろしくお願い申し上げます」
お姉さんの声に従って、一人一人ゲートチェックを受ける。
一流ホテルの豪華ランチだけを楽しみにしている母親は、時間のかかるチェックに少々嫌な顔をしていたが、子供達は逆に、期待感に胸をふくらませた。
 
妙にあっさりと下に着いてしまったので、なんとなく拍子抜けした気分になっていたが、ゲートチェックが厳しいと、こうでなくちゃ、という気がする。
いかにも秘密の地下都市に入っていく、という感じで、ぐぐっと盛り上がる。
兄達も同様に思っているらしく、なんとなくはしゃいだ雰囲気が辺りに広がった。
「これさ、これさ、拳銃の検査なんだろ?」
香澄はガイドのお姉さんの袖を引っ張って聞いてみる。
しかし、お姉さんはにっこり笑ったまま、そうだとも違うとも、言ってくれなかった。
「香澄、そんな事言ってくれるわけないだろ?」
「ええ? だってさ」
「そういう事は、秘密なんだよ。ひ・み・つ。企業秘密ってヤツだな」
「企業かよ、砂城は」
「細かい事を言うなって」
子供達はけたけたと笑いながら、ゲートを通り抜けた。
 
通り抜けると、そこには、全く知らない世界、砂城のアンダーの風景が拡がっていた。
目にしみるほどの、人工の青が投影された空。
地面をくぐって、もう一度遭遇する空は、なんだか奇妙に目眩のするようなイメージを、見るものに感じさせた。
地に潜ったはずなのに、反転して逆の外側に、くるりと出てしまったような、そんな、くらくらするイメージ。
 
しかし、一度その感触が通り過ぎれば、あとは全く外と変わらない、普通の風景が目に映った。
高い建物があまり無いので、都市と言っても平らに拡がった形をとっている。
それは見ようによっては、牧歌的な田舎の雰囲気も連想させたが、ガイドの狐顔の男は、人々をさっさとバスの中に押し込めた。
バスが出発し、景色が流れはじめる。
香澄は手元のガイド用小冊子を開いた。
最初の目的地は、『ホテル・レオニス』
前の席では、母親が嬉しそうにメニューの検討を始めていた。

 

 

 砂城アンダーの、自称ナンバーワンホテル『レオニス』のフロントは、いま少々ざわついていた。
たったこれだけの事で、フロントがざわつくって所が、一流ホテルじゃない証拠なんだよな。
アシスタントマネージャーの志村は、また何度かめのため息を、こっそりとつく。
しかし、このため息も、一流ホテルじゃない証拠かな、と思うと、彼は少々自己嫌悪に陥った。
ホテル・レオニスは、開業して5年目にさしかかるところの、比較的新しいホテルである。
建てられた当初は、アンダーにも一流のホテルを、との呼び声も高らかに、期待を集められていたホテルだった。
 
だけどな…。
志村はホテルの内情を思い浮かべて、もう一度ため息をつく。
いざホテルが出来上がってみて、さあ、お客様いらっしゃい、となると、そう理想どおりには上手くいかない。
だいたい、直通エレベーターで、たった数十秒上がれば、そこには快適で名の通ったスカイの一流ホテルが、ずらりと並んで存在しているのだ。
高級ホテルに泊まるというのなら、そっちに泊まった方が、何倍もいいに決まっている。
たとえアンダーに用事がある人物であっても、スカイのホテルに泊まって、用がある時だけエレベーターで下がってくればいい。
ではそういうホテルに泊まらないような人達は、というと、逆にもっと金のかからない、安いビジネスホテルを望んでいる。
つまり、ホテル・レオニスは、金持ちの客にも、貧乏な客にも、どちらにも相手にされない、非常に中途半端なホテルなのだった。
 
だいたいオーナーが成金だからな、と思う。
『一流』とか『ステイタス』とかいう言葉に弱いのだ。
志村に言わせれば、レオニスは、クジャクの羽をくっつけたカラスのようなものだった。
見た目は美しく、内装も豪華。
ロビーには高価なアンティーク家具が配置され、壁には有名画家の油絵がでかでかと飾ってある。
しかし、実際の所、壁の絵は大きすぎて、圧迫感を感じさせたし、アンティーク家具は他との調和がとれずに、押しつけがましい雰囲気だけを漂わせていた。
 
そのうえ、と志村は思う。
ホテルの最大のウリである『サービス』の内容が全然なっていない。
ドアマンもベルボーイも、一応そつなく仕事をこなしてはいるが、せいぜいがそつなく程度である。
フロントが客を待たせる事など日常茶飯事だし、コンシェルジェは、いるにはいるが、お客を充分満足させるサービスを提供できているとは言い難い。
一度ハウスキーパーの後を回って、部屋を点検してまわるインスペクターの真似事までしてみたが、一見整った美しい部屋の、見えない角は、あちこち薄汚れていた。
 
何もかも見せかけ、見せかけだけだ。
しかし、自分は来るところを間違ったと思う事が、志村には屈辱だった。
アンダーに一流ホテルを造る。
それは素晴らしく魅力的な構想だった。
期待に胸をふくらませて、あえてここを選んだのは自分だ。
だから、ここを良くしたい。
しかし、そう思えば思うほど、このホテルの中で空回りしている己の姿に気がつくのだった。
 
あの、最上階のV.I.Pルーム。
たった一人のために12室も用意された、あの無駄な空間が、何よりの、このホテルの象徴だった。
あんなものを一つだけ突出して用意するくらいなら、ロイヤルスイートとでも銘打った部屋を3つ作る方がずっとましだ。
現にV.I.Pルームは、創業以来、誰一人としてご利用いただいた事がない、デッドスペースと成り果てていた。
いや、完全に使われた事がない、と言うのは嘘だった。
確かオープン初日にどこぞのお偉いさんを、オーナーが招待した筈だった。
しかし招待、と言うからには、当然宿泊料はタダである。
その時は、そのお偉いさんに宴会バンケットを開いてもらうことによって、格好をつけたはずだった。
しかし、それきりである。
それきりあの部屋は使用された事がなかった。
 
一度志村は、あの部屋をバラ売りする事を提案した。
V.I.Pルームを3つか4つに分けて、豪華な部屋と充実したサービスをウリに、女性客を対象に、ちょっとリッチな週末を過ごしてみませんか? というプランである。
絶対手の届かないような高嶺の花の部屋を、一部分ではあるが、体験できるというのは、魅力的なプランに違いない、と思う。
少し高めの、と言っても手が出ないほどではない定価ラックレートを提示して、高級感をアピールする。
その上で、様々なサービスによって、対応価格を決めていけばいい。
 
しかし、志村のその提案は、支配人によってあっさり却下された。
当然オーナーの意向である。
クジャクになり切って、自信満々で、せいいっぱい羽を広げて作った豪華な部屋が、ただの一度も使われないまま切り売りされるのは、カラスのプライドが許さないのだろう。
自分のした事が失敗だったと認める事が怖いのだ。
その気持ちは、志村にもよく解った。
自分がそうだったからだ。
しかし実際、経営は火の車だという噂も聞いている。
ここのところのサービス低下の原因は、その経済状況にも寄っているらしいのだ。
本来はなりふり構っている場合ではないはずだった。
 
 
 
しかし、そんな状態だったホテルレオニスに、いきなり天地がひっくり返るような予約リザーブが舞い込んできた。
なんと、V.I.Pルームのリザーブである。
朝からずっとホテル全体がざわついているのは、その為だった。
本来ならV.I.P専用の入り口には花が飾られ、お出迎えの準備が整えられるはずなのだが、今回のお客様はお忍びを強調された。
お忍びで、V.I.Pルームねえ…、と志村は思う。
だがやっとあの部屋を正式に使ってもらえるわけだから、これでオーナーの面子も立つはずだ。
部屋を分割して売り出す志村の提案にも、軟化した態度をとってくれるかもしれなかった。
なんとなくホテルがざわついて、浮き足だった感じになっているのは確かに気にくわなかったが、これでいい方向に向かうかもしれないとも思う。
しかしそんな志村の思いを、ヒステリックな大声が、いきなりうち破った。
 
「ちょっと、それはないんじゃないの?」
声のする方向には、狐のような顔をした男が一人いて、フロントクラークの一人にくってかかっていた。
「いかがいたしましたか?」
志村はあくまで穏やかな顔を作って、なおも言い募ろうとしている狐顔の男に近づいていく。
狐顔の男は真っ青な顔をして志村の方を振り返ると、大げさな身振りをしてみせた。
 
「今日が砂城アンダーツアーの日だって事は、解っていた筈じゃない。どうして展望フロアに上がれないって言うわけ? そのうえ、レストランでの食事は、どうなっているんだ?」
志村は怪訝な目をフロントクラークに向ける。
「あの…。何らかの行き違いが、あったらしいんです…」
彼は妙におどおどとした、ウサギのような目を上に向けた。
「行き違い?」
「はあ…。今日は、例のお客様がいらっしゃると言う事で、警備の都合上、最上階には誰も入れないように、という指示が出ていたんです。当然アンダーツアーは中止になると思いこんでいたんですが、その連絡に、ミスがあったようで…」
「だから聞いてないよ。そんな話。砂城を上から見渡せる展望フロアは、ここのウリでしょう? そんで景色を見ながら豪華ランチ。これはウチのウリでもあるんだからね。お客様をここまで連れて来ちゃって、申し訳ありませんができませんでした、じゃ信用問題に関わるのよ」
 
単純な連絡ミス。
志村は頭の隅にかすかに鈍痛が走るのを感じていた。
こういった連絡ミスは、実のところけっして初めてではなかった。
それどころか、ここしばらくは細かいところでたびたび引き起こされている。
情報がどこかで行き違うという事は、人間の体で言うなら血管の一部が詰まり始めたようなもので、たびたび起これば命取りにもなりかねない。
このホテルが、ゆっくりと死にかけている、その証拠を見せつけられたような思いだった。
 
大変申し訳ございません、と志村は頭を下げる。
「いますぐ、確認をとってまいります」
「ええ? でも、志村さん。これは支配人とオーナーが…」
「誰がなんと言おうが、ミスはミスだ」
志村はピシリと言い放った。
V.I.Pルームの客は、確かに大切だ。
しかし、だからといって、アンダーツアーの客をおろそかにする真似など、死んでもできない。
彼等は毎週3回やって来て、食事とみやげ物に、確実に金を落としていってくれる。
V.I.Pルームの客がどんなに大量の金を今回使ってくれたところで、10年に一度来るかどうかも解らないような客なのだ。
だいたいV.I.Pルームと展望フロアは隣接しているわけではない。
単純に同じ階にある、というだけだ。
従業員用のバックスペースを長々と通らない限り、2つの場所の行き来はできない。
いくら警備上の都合だからといって、広い最上階に誰も入れるな、というのは、オーナーの見栄に違いない。
そう志村は思っていた。
「でも、しかし、志村さん…」
 
「いいじゃないですか?」
突然低くなめらかな声が、彼等の間に割り込んできた。
志村が顔を上げると、そこには切れ長の目を持つ浅黒い顔をした男が一人立っていた。
「沢木様…」
沢木と呼ばれた男は、目を細めてにっこりと笑う。
「ウチの先生も、ちょっと色々あるので、ボディガードが神経質になりすぎているんですよ。別に最上階を空っぽにしてくれ、なんて無理を通すつもりは私どもには少しもございません。それより、有権者の皆様方に楽しんでいただく方が、先生もお喜びになるでしょう」
沢木朋彦。民主自由党の二世議員、田島誠の第二秘書。
そして田島誠は、その問題のV.I.Pルームのお客様だった。
「そうですか? そう言っていただけますと…」
いかにも政治家の秘書らしい言い方だと志村は思ったが、それでも沢木のこの申し出に、彼は心の底から安堵した。
「私の方からも、そちらの支配人に口添えをいたしますよ。先生は、少し遅れますので、その間に動きましょう」
それから沢木は狐顔の男の方を、くるりと振り向き、深々とお辞儀をした。
狐顔の男は、仰天したような顔になる。
「そちら様にも、大変ご迷惑をおかけいたしました。たぶん多少お待たせしてしまう事にはなると思いますが、その間に私どもの方で、ドリンクを用意させていただきましょう。それと、ランチにも特別デザートを追加させていただきます。それで、どうかお時間をとらせる事をお許しいただけましたなら幸いです」
「沢木様。今回の事は、こちらのミスですので、そこまでは…」
慌てる志村に、沢木は、いいえ、と言って再び頭を下げた。
「これくらいは当然です。どうぞ、ツアーの皆様にも、これからも田島誠をよろしくお願いします、とお伝えください」
 
狐顔の男は、少しぽかんとした顔で、はあ、それなら…、と呟きながら、ツアー客が待つロビー中央へと戻っていった。
胸をなで下ろす志村に、沢木は振り向いてもう一度にこやかに笑った。
「いいんですよ。イメージは政治家にとって何より大切なものなんです。こんな事くらいで名前が売れるなら、むしろ歓迎したいくらいです」
沢木はそう言いながら、微かに唇を曲げた。
それはほんの一瞬の表情の変化にすぎなかった。
しかし志村は、それを見てしまった。
ぞくりと背中に冷たいものが走る。
この人は、いったい…?
「お互い、少々軋んできた玉楼を支えようとするのは、大変ですよね。でも大丈夫ですよ。そのうちきっと、何もかも良くなります」
沢木はジョークとも愚痴ともつかない言葉を漏らすと、さっさと歩き始めた。
慌てて志村が後を追う。
 
そう…。なにもかも、よくなる。
沢木は志村に聞こえないような声で、こっそりと呟いた。
 
 
なぜなら、悩みの種が、今日無くなるのだから…。
私の困った先生も、あなたの困ったホテルも、すべてね。
まもなく浄化の炎が上がるだろう。
そうしたら、もう、すべて何もかも良くなる。
 
それは、きっと美しい光景に違いない…。

 

 

 フロントカウンターで何かもめている添乗員を見ながら、香澄達は勝手にレオニスのロビーをうろつき始めた。
「何か問題が起きているようだなあ」
父親がフロアのイスに腰を下ろしながら、のんびりと言う。
「腹減ったよな」
「ここでお昼の筈だろ?」
そんな事を言い合っていると、ロビーには、また新しい一団がぞろぞろと入ってきた。
 
「なんか、あいつら怪しいぜ」
武史がそれに気付いて指をさす。
見ると、確かにそこには妙に重々しい雰囲気の男達が、スーツをびしりと着込んで何人も立っていた。
「あやしい。怪しいぜ。やくざかも…」
「いいや、悪の組織だね」
香澄はちょうどいい退屈しのぎを見つけ、喜んでべらべらと適当な事を口に出し始めた。
「いいか、色の黒い男が入ってきただろ? アレが幹部だな、きっと。一人背広の色が違うしさあ。残りの連中は下っ端だぜ。サングラスなんかかけてるからな」
香澄の言葉にくすくす笑いながら武史が後を続ける。
「いいやオレが思うに、色の黒いのは参謀だな。頭よさそうじゃん。ボスはいねえのかよ」
「ばーか」
気がつくと聡までもが2人の後ろに立って、会話に混ざってきた。
要するに全員が退屈なのだ。
「ボスがそう簡単に見えるところに出てくるかよ。ボスは最後。だけど悪の組織なら、ちょっと足りないものがあるなあ…」
「足りないものって?」
武史が後ろを振り仰ぐ。
とーぜん。そう言って聡は胸の前に大きく半球を2つ描いて見せた。
「でっかい乳の女幹部に決まってるだろ? 女幹部のいない悪の組織なんて、イチゴの載ってないショーケーキみたいなもんだぜ」
なるほど、と武史が感心して頷いていると、いきなり香澄が嬉しそうに声を上げた。
「見ろっ、たけ兄、さとし兄。その女幹部の登場だぜ。乳もでかくて、厚化粧だ。条件ぴったり。その上見ろよ。マッドサイエンティスト付きだっ。すげっ、そろったじゃん」
 
 
 
子供三人がげらげら笑う姿を不愉快そうに横目で見ながら、その女はロビーへと入ってきた。
マッドサイエンティスト呼ばわりされた白衣の若い男が一人、後ろから付いてくる。
「ああ、桐子とうこさま。先生と一緒にいらっしゃるのではなかったのですか?」
色の黒い男、沢木がにこやかに女を迎えた。
「お父様なら後から来るわよ。私はねえ、着付けがあるから先に行けって言われたんだから。なにさ。お見合いでもしろって魂胆なの?」
「さあ、先生の深いお考えは、私どもには…」
「何が深い考えなんだか。沢木、あたし疲れたの」
言いながら桐子と呼ばれた女は沢木の肩にしなだれかかる。
「はい、それではお飲物でも…」
言いかけた沢木に、いきなり後ろから白衣の男が口を挟んだ。
「あのさ、冬馬くんは来ないの?」
「え? ああ、申し訳ございません。有栖川ありすがわさま。有栖川さまも、遠いところまでご苦労様です。今日のお食事会には出席なされるんですか?」
 
有栖川と呼ばれた白衣の男は、指でメガネを軽く持ち上げた。
「いや、こんな白衣ではね。ホテルのロビーにいるのだって場違いだ。私は単なるお目付として来ただけです。例のもののね」
言いながら有栖川は口の端で微かに笑う。
顔立ちの整った彼は、そんな風に笑うと、恐ろしく酷薄そうに見えた。
「ここで沢木さんにバトンタッチできるなら、私の仕事は終わりかなぁ? 寺井教授も後から来るしね。終わりでしょう? 今日の所は?」
そこで言葉を切って、彼は意味深に沢木を見つめ、くすりと笑った。
「中まで入ってきたのは、冬馬くんに会えるかなぁって思ったからですよ。彼はアレだから。様子が見たかったんだけど。でも、いないみたいですし、用事も終わったし、帰りますよ。
例のものは、ちゃんと中に入れておきましたから。でも、十分注意してくださいね。寺井教授に扱いきれるといいんだけど…。でも大丈夫か。冬馬くんが来るんだし…。
ああ、そうか。きっとアレは彼の家の方にあるんだな。じゃ、そっちへ行こうかな?」
「はい、お気をつけてお帰りください」
べらべらと喋り続け、最後には独り言のようになった有栖川の言葉に、噛み合っているのかいないのか解らない返事を、沢木はにこやかに笑って返し、深々と頭を下げた。
 
有栖川が出ていくと、桐子は不愉快そうに目を細めた。
「なんなの? あいつ。気持ち悪い。知り合いなの? 沢木」
「先生が出資援助なされている研究所の職員ですよ。若いけど、優秀な方なんです」
「顔はまあまあだけど、あたしの趣味じゃないな」
そう言いながら、桐子は沢木の腕に自分の胸を押しつけた。
沢木は笑いながら、失礼にならない程度に軽く腕を引く。
「桐子さま、すぐにお部屋へご案内させますよ。それより、何かフロントの方がもめているようなので、ちょっとそちらへ失礼させていただきます」
すらりと交わされた桐子は、紅くべったりと塗りたくった唇を尖らせながら、まだこちらを見て笑っている少年達をじろりと睨みつけた。
「まったく、冗談じゃないわあ。なんだってこんな臭いアンダーのホテルになんか泊まらなくちゃならないのさ。わざわざ。しかも、ごっつい護衛付き。あーあ、がっかり。いい男でもいるんなら話は別だけどさ。いるのはおっさんとガキばっか」
 
そのガキはひたすら桐子の胸を話題にしているところだった。
「でけえ乳。がばっと見せちゃってよー」
「ぜったい乳の間で卵割れる」
「よせてー、上げてーっての使ってると思うかー?」
「それより見たか? あの女幹部。乳を参謀にすりつけてたぞ。あれはなー、ヤっちゃってもオッケー、って合図なんだ」
「ヤっちゃうって、何をだ?」
「ナニをだ。バーカ。ガーキ」
からかわれた香澄は、顔を真っ赤にしながら聡に殴りかかった。
「てめえだって、彼女とヤってなんかいねえくせによっ」
「なんだと? くそガキ。やるか?」
拳を固めて飛びかかろうとしたその瞬間、香澄は上着のポケットに手をあてて、ハッとして立ち止まった。
「いや、今はやらねえ。腹減ってるし…」
げらげら笑う聡を香澄は睨みつけた。
後で覚えてやがれ。と思う。
だけど、今ケンカなんかしたら、このポケットに入っているカードが折れてしまうかもしれない。
もう一度香澄はポケットの中の塊を上からなでた。
大切な、大切なカードだ。
そう思ったら、急にまた見たくなった。
しかしその時、父親がロビーのイスから彼等の名を呼んで手招きした。
「やっとお昼みたいだぜ、香澄」
武史の声に、香澄はポケットに入れかけた手を引き抜いて、振り向いた。
 
時計の針は、まもなく一時をまわろうとしていた。
 
 
 
フロントにおかしな電話が入ったのは、その30分後だった。
『もしもし…』
機械で作ったような奇妙な声が受話器から流れる。
『あのね、人が死にますよ…』
それだけ言って、ぶつりと電話は切れた。
電話をとったフロントクラークは、慌ててオペレーターに連絡を取る。
「変な電話がねえ、入ったんだけど」
「はあ、いたずらでしょうか?」
「ううん…、そうだとは思うんだけど、どこからだか解る?」
「ホテルの中からです。たぶん、6階の622号室かと…」
「たぶんって、何だよ」
「いえ、それほどきちんと確認をとったわけではなくて…」
「622はウォークインのお客様ですよ」
もう一人のフロントクラークが横から口を出す。
予約無しで来る客ウォークイン? なんとなく怪しいな」
前金デポはいただいてますが」
「なんだ。じゃ、問題ないじゃないか。なんとなく怪しい、じゃ、動けないしな。きっといたずらだよ。いたずら。放っておきなよ。V.I.Pルームに初めての客が来たんで、神経質になっているんだよ。オレ達」
彼は思いだしてくすりと笑った。
「ベルさんがめちゃくちゃ緊張してたよ。ああ、そういえば、なんかさ、でっかい荷物、見たか?」
「いや、僕は見てませんけど」
「あ、そう? 何だろうなー? アレ。人が入りそうなくらい、でっかい箱だったけど」
「そんな事より、いいんですか? マネージャーの志村さんにこのこと言わないで」
「いいよ。いたずらだよ。絶対。志村さん、なんかぴりぴりしてて声かけられないよ。あの人って超くそ真面目でさ、やりづらいったらないよな。今いたずら電話の事なんかで呼び止めたりしたら、怒鳴られちゃいそう」
2人のフロントクラークは、顔を見合わせて笑った。
 
 
 
ホテルに流れる血管の一つが、こうしてまたゆっくりと詰まっていく。
これが死に至る大きな血管の一つであった事に、誰も気が付く事はなかった。
ホテルが巨大な体を地に横たえる、その瞬間まで…。

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