正義の味方incident9
片翼
香澄…。君は誰だ?
香澄の腕の中で黒羽は呟く。
あの少年の事なんて、僕は忘れていた。
炎の中で起こった悲劇はどんなに振り払おうとしても、鮮やかに目の裏に甦ってくる。
背中の痛みも、血の匂いも、自分を捨てていった男の顔も。
思い出すと身を裂かれるように痛い。
今でも。
なのに。なのにあの少年の事は、まるで夢の中の出来事だったかの様に、どこまでも霞んで曖昧にぼやけている。
本当にいたのだろうか?
あれは幻ではなかったのか。
どこまでも最低な自分が、死ぬ前に見た綺麗な幻じゃなかったんだろうか?
『お兄さん、正義の味方?』
綺麗な顔。見上げる瞳。
『ああ、そうだよ。正義の味方だ』
僕はせめて、言葉だけでも綺麗なものになりたかった。
正義の味方。彼に必要だと思った言葉。
けれど本当は僕に必要だったのかもしれない。
嘘つきで、卑怯で、汚い僕に。せめてその時だけでも、自分はそんな存在だと思っていたかったのかもしれなかった。
彼が。白鳥香澄があの時の子供だなんて信じられなかった。
夢の中の綺麗な少年。
大人の声で話し、大人の腕で自分を抱く彼と、記憶の中の少年は繋がらない。
彼は、白鳥香澄だ。
たった数ヶ月前に初めて会った男だ。
そうでないと、困る。
………困る?
黒羽の中に激しい混乱が巻き起こった。
彼とは何度も寝た。彼がセックスしたいと言ったから、僕は喜んで寝た。
自分はそういう男だ。
セックスにいい思い出など無いのに、欲望だけは存在する。
この身体は冬馬が作ったものかもしれないが、僕は元々ゲイなのだから。
男が欲しいように出来ているんだ。
別に良かった。
彼が、白鳥香澄が嫌いじゃなかったし。むしろ、その率直さが好ましかった。
もともと自分は人とつき合う事が極端に苦手で、誰に対してもどう接していいのか解らない。
間に仕事があればよかった。仕事の話をすればいいのだから。だが、そうでないのなら、何をすればいいのだろう。
冬馬とは仕事の話をするか、セックスをするかどちらかだった。
だから…。どちらかしか解らなかったから。香澄からセックスをしたいと言われた時は、妙にホッとしたのを覚えている。
本当は自分から持ち出したいくらいだった。だが、卑怯な僕は彼から言わせたのだ。
そして、これ以上卑怯にならないために、僕は喜んで彼と寝た。
いいじゃないか。自分がどんなに汚い存在だって。身体だけでも欲しいと思ってくれる男がいる。
死んだような体に、欲望だけが火を入れた。
心は死にたいのに、身体は生きている喜びを求める。
身体で感じる事は、考える事を放棄した自分にとって、一番楽な方法だった。
だから、男と寝た。誰でも良かった。
そして、誰でもいいのなら、香澄でもいい。香澄は好ましい男だし、それで彼と上手くやれるなら悪くない。
セックスは一瞬で、刹那的で、無くなってしまうのが当たり前の喜びだから。
それだけですむなら、いつ彼が目の前からいなくなっても自分は大丈夫の筈だった。
香澄とのセックスは、何だか気持ちよくて、それは僕を少しだけ不安にさせた。
だが、それでも『ただセックスしただけ』だ。
誰かを愛するのも、何かに執着するのも、深く関わり合いを持つのも怖い。
無くした時にあまりにも大きなものを同時に失うから。
そのうち冬馬に会ったら、終わらせるつもりだった自分の時間。
冬馬を殺しても、自分が死んでも、どちらでも自分の時間は終わる。
何度か失敗しているが、それは問題ではない。
終わらせるつもりなのだ。
いつでも、時がきたら。
だから、誰かを愛するのも、愛される事もしたくない。
愛は…。怖かった。
香澄は、数ヶ月前に初めて会った男のはずだった。
だって僕は話してしまった。彼に、白鳥香澄に全部。
冬馬涼一に会って、自分が思っているより遙かに動揺してしまった。
彼も殺せず、自分が死ぬ事も出来なかった。
あんなにも憎んでいると思っていたのに、僕はまだ彼の何かに捕らわれているのか。
一人では断ち切る事が出来ないほどに。
香澄が手を伸ばしてくる。一人ではどうにかなりそうだった。だから縋った。
僕は彼に全てを話した。今のこの気持ちから逃れるために彼を利用した。
自分の行為を、泥を吐き出すように、露悪的に告白する。どれだけ自分が穢いか、彼に見せつけるように話す。
それは、倒錯した喜びを自らに与えた。
吐き出す事は気持ちが良い。セックスと似ている。
彼の上に跨って、声をあげて達する時と同じだ。
最低、最低、最低。
最低な自分をあえて見せる。
香澄は今度こそ僕を軽蔑するだろう。
それでいい。偶像は落ちる。夢は壊れる。彼はいなくなる。
彼とは身体だけだから。今なら大丈夫だ。
軽蔑されるのも怖くない。もう彼は少なくとも自分がゲイだという事は知っている。
その事実にほんの少し、もっと腐った臭いが加わるだけだ。
そう思っていた。
そう、思っていたのに…!
黒羽は混乱していた。
彼は誰だと言うんだ? あの時の綺麗な子供? まさか。
僕は彼をセックスに誘ったんだぞ。
僕は、彼の『正義の味方』でいたかったのに。
嘘でもいいから、たったあの一瞬だけでも、そんな存在でありたかった。
僕はどうすればいい?
香澄、違うだろう? 君はあの少年なんかじゃないんだろう?
そうでないならば、もしも本当だというのなら。
それなら…。
「君は僕を罰しにきたのか?」
香澄は驚いたように目を見開いた。
「たくもう、コウの奴、全然解んない…」
白鳥香澄は桜庭を相手にぶうたれていた。
「コウの奴、ねえ…。いつから呼び捨ててんの? 白鳥くん」
「前からです。ええ、ずっと。心の中では呼んでましたよ。だけど向こうが白鳥さんで、こっちがコウじゃ、釣り合わないじゃないですか。まあ最近は香澄って呼ばれてましたから、だんだんとは、そのね…」
エッチの時にコウって呼んじゃったことは何度かある。
コウは別に呼び方なんて気にしてなかったようだから、普段の時もそう呼んでもよかったとは思う。
思うんだけど、不思議とずっと壁があった。よく解らない壁が、コウとオレの間に立ちふさがっているような気がして、なんとなく名前を呼べなかったんだ。
でも、オレは呼んだ。自然に。
白鳥は思い出す。
あの男。冬馬涼一からコウを守ろうと思ったその瞬間、オレは呼んでいた。
彼を抱きしめて、自分の敵を睨んで叫んだ。
『帰れ!コウは気分が悪いってさ』
冬馬涼一を見たのは初めてだった。あのホテルの炎の中で、あいつもいた筈なのに、オレ達は出会う事はなかった。
だけど解った。こいつが敵だ。
オレの敵で、コウの敵で、世界の敵だった。
こいつ、コウに何をした!
そして、これから何をやろうとしている!?
オレの中から信じられないほどの怒りが一瞬で湧き上がった。
それは初めての経験で、不思議な気分だった。
危ないと思ったから。コウを見失いそうな気がしたから。
だから呼べたんだと思う。
炎の中で彼の名を呼んだ、あの時のように。
「それで? 黒羽くんとはその後寝たの?」
桜庭がぼそっと呟く。白鳥は慌てて視線を目の前の女上司に戻した。
「…っ。ず、ずいぶん露骨ですね。桜庭さん。プライバシーっしょ、そーいうの」
桜庭はため息をついた。
「私ね、後からやっと思いあたったのよ。黒羽くんと冬馬涼一がそういう関係だったって事。あのころは自分の事だけで必死だったから仕方ないけど」
「桜庭さん?」
「でも全て失って、私は後悔した。みんな、帰ってこなかった。私のせいじゃない事は解っていたけど、でも自分を責めた。その後悔の中で、たった一人残ったのが黒羽くんだったの。だから、あの子を無くしたくない。私にとって過去の心残りは、全部黒羽くんの中にある」
「オレの経歴は知ってたんですか?」
桜庭は首を振った。
「全然。補充人員が欲しいと言っただけ。あなたがここへ来たのも全部偶然。だから…」
きっと…運命。
最後の言葉は、口の中で小さく呟かれ、白鳥の耳には殆ど届かなかった。
「コウは、オレは違うって言うんです。あの時の子供じゃないって。ちょっとそれって、どういうんだと思います? オレね、かなり腹立ってるんですよ。オレはどうすればいい訳? 7年。ここに来るのに7年もかかってるのに」
「7年か。君にとっては長い時間ね」
「オレは本当は、あの時の子供だなんて知られたくなかったんです。だってガキじゃん。力もない。ただのガキ。守って貰うだけで、ヒーローに、ただ憧れるだけの足手まとい。そんなガキだったなんて記憶して貰いたくなかった。それくらいだったら初対面で初めましてがよかった。だから言わなかったんだ。ずっと」
白鳥は吐き出すように続けた。
「だけど、コウの事を知りたかった。全部知りたかった。知ったって、怖くない。オレはコウに助けられたあの時から、なにも怖くないんだ。そして知って貰いたかった。どんな事があったって、それでもあの時のコウは綺麗だったって。オレはコウがいなかったら死んでたって。なのに…」
白鳥はうつむく。
「コウは、逃げようとしたんだ。オレが抱きしめようとしたら、逃げようとした。オレが、怖いみたいだった。何なんだよ、いったい…」
「逃げられたの?」
桜庭の問いに、白鳥は唇を噛んで首を振った。
「いいえ。桜庭さん知りたいみたいだから言っちゃうけど。もう誰かに言わなくちゃぐちゃぐちゃしちゃって収まりつかねえし。かといって他の奴には言えないし。寝ましたよ。きっちり。だけど…」
だけど、そうさ。
逃げようとしたコウの手首をオレは掴んだ。
あんな重いショットガンを扱っているくせに、妙に細い手首。
「君は誰だ?」
コウが眼を大きく開きながら問いかけた。
瞳の中の暗い穴がオレを捉える。一瞬彼がおかしくなったのかと、オレは思った。
「誰って…。オレはオレだろ? 白鳥香澄」
「香澄…」
黒羽は息を吐く。
「そうだ、白鳥香澄だ。僕はあの子の名前は知らない。だから違う。香澄。よかった。香澄ならいい。香澄だったら…」
「コウ。オレはコウがいたからここに来た。オレはずっとコウの事が…」
黒羽は激しく首を振った。
「僕の知っている白鳥香澄じゃないのか?」
白鳥は困惑の目つきで黒羽の必死な顔を見つめる。
「オレは…」
「香澄だろう?」
「うん…」
返事をした途端、コウの唇が自分のそれを塞いだ。
狂おしいほどの、ディープキス。
「香澄ならセックスしよう。僕は香澄が欲しい…」
あの少年ではない『白鳥香澄』を黒羽は求めてきた。
訳が解らなかった。だがそれに関して言葉を濁すと、黒羽は安心したように身を寄せてきた。
体に絡みついてくる手に、くらくらする。
どうにも出来なくて、なにも考えられなくなって、オレはコウを押し倒した。
コウは嬉しそうに、更に手を伸ばしてくる。
オレは、誰だよ?
そんな考えが頭をよぎったが、彼の体を求める気持ちが全てに勝った。
コウが本気でオレをセックスに誘ったら、オレは拒否する事が出来ない。
だから彼の言うとおり、オレはあの少年じゃない『白鳥香澄』になって、夢中で彼を抱いた。
だけど…。
だけど
それじゃ、オレの7年間は何だったんだ?
あの時助けられなくても、ここにいるのがオレじゃなくても、コウにはどうでもいいって事なのか。
あんたの心の中を占めているのは、やはり冬馬涼一だけなのか?
歪んだ怒りが湧き上がってくる。
畜生! 畜生、畜生!
力で彼の体を押さえ込む。
コウの唇をこじ開けるようにしてキスする。
優しい囁きなんか無かった。無言のまま、ボタンをちぎるほどの勢いで、服を剥いでいく。
オレも少し混乱しているのかもしれなかった。
セックスはいつだってコウにリードされていた。
オレは経験も浅いし、男と寝た事なんて無かったから。
だからコウにリードされる形で。
時々ちょっと翻弄されながら、やっとどうにかオレはセックスしてた。
セックスは気持ちいいし、コウとするのは嬉しかったけど、もしかしたらオレはとまどっていた所もあったと思う。
だけど今は違った。
暴力的な衝動が、熱くオレの体を襲う。
『欲しい』と思う。
彼が欲しい。黒羽 高がオレは欲しい。
強烈な思いが、熱く痛いくらいに胸を焦がす。
こんなに彼が欲しいと思った事なんて無かった。
心も体も重ねるようなセックスがしたいと思っていた。最初は無理でも、そのうち出来ると思っていた。
だけど、そのうちじゃ嫌だ。
今欲しい。いますぐコウが欲しい。
全部。身体も心も全て。
いますぐは駄目だというなら、体だけでも犯してオレのものにする。
冬馬涼一はあんたをどんな風に抱いたんだ?
きっとあんたはあいつの下でもこんな風に声をあげたんだろう?
体だけじゃなくて、オレにするよりもずっと、心も寄せて。
あの時あいつはあんたを捨てた。
側にいたのはオレだよ。オレじゃないか!
なのにどうして?
なぜ逃げる、コウ!
これは、嫉妬? 殺意?
どうにもならない思いと、やりきれない気分にオレは歯がみする。
声をあげるコウの体を更に責め立てながら。
オレは心の中で、何度も冬馬涼一を殺す。
こんな事を思いながらするセックスは、全然よくなかった。
コウから求められたのに、まるで強姦しているみたいだった。
オレ達はパートナーだったから、どんな事があっても次の日も顔を合わせなくてはならなかった。
大きな事件がない事が、今は逆に恨めしい。
ルーチンワークは存在するし、書かなくちゃいけない書類も山と積まれている。
だからオレ達は、黙々と仕事をこなした。
軽口も叩かず、最低限の言葉しか交わさない。
もっとも考えてみたら、コウの方は最初から仕事以外の話なんてした事がなかった様な気がする。
オレが一方的に喋って、コウが相づちを打つ。
そうでなければ、あとは抱き合っていた。
オレはそういう行為に舞い上がっていたのだけれど…。
コウの事がだんだん解るようになってきたと思っていたのだけれど。
オレってば、あの子供の頃と、ちっとも変わらない。
自分だけで納得した気になって、それでいいと思って。
そして、そうじゃないと気付いた時に、バカだったって泣くんだ。
隣でペンを走らせるコウをちらりと見る。
オレはどうしたい?
オレはコウを護りたい。あの男から。
いや、そんな綺麗な事じゃないだろう。せめて自分には正直でいないと、また後で泣く事になるんだ。
白鳥は目を瞑って一つ息を吐いた。
オレはコウが欲しい。
それだけは変わらない。
もう一度逢いたいと思って7年間、ここへ来る事だけを考えた。
ただ隣に立っていられるだけでも、もちろんオレは幸せだったと思う。
でも、もっと深い部分の願望も叶えられてしまった。
パートナーだと言うだけじゃなくて、もう一歩中に踏み込んでいいんだって。
そうしたら引き返せない。もっと欲しくなる。もっと。もっと。
逢って、抱きしめたら、離れられない。
コウ、コウ。コウはオレのものだ。
オレだけのもの。
身体も心も、全部手に入れたい。
オレの手の中で、オレの名前だけ呼んで欲しい。
コウがまだあの男のものだと解ってしまっても。
だからなおさら。ずっとずっと強く彼が欲しかった。
あの男との事を知ってしまったせいで、ぼんやりしていたオレの気持ちが強い願望に変わる。
コウが欲しい。
こんなに、こんなに、苦しいほど欲しい。
オレの中に、これ程激しい感情が隠れているなんて、オレは初めて知った。
昨日、香澄と寝た。
いつもの彼とのセックスだった。
そうだ、不安な事など無い。彼とはそういう関係だ。
これからもずっと。彼が死ななければ、ずっと。
ほんの僅かだけ不安が走ったが、黒羽はその不安を押し込めた。
きつく、きつく、心の底に。
両親は死んだ。冬馬も死んだ。他にも自分と関わった人間が何人も死んだ。
香澄…。香澄は、何故まだ死なない?
そう考えた瞬間、心臓が一拍跳ね上がった。
痛い、香澄。どうして苦しいんだろう…。
僕はあの時失敗した。失敗したんだ。全部。
あの少年だって死んだ。
生きているというなら、だったら彼は、僕の失敗をなじりに来たんだ。
僕の罪を責めに来たんだ。
僕じゃない。正義の味方は僕ではない。
たった一人の生き残り。人命救助の英雄? すべて嘘。
僕は人殺しで、嘘つきで卑怯者だ。
綺麗な君は、その嘘を正しに来たのだろう?
死者は何も話さない。僕の罪にも黙って口を閉じてくれている。
それに甘えていたツケを、僕に払わせに来たのだろう?
怖かった。
彼があの少年なら、幻のような綺麗な記憶を僕は汚したんだ。
香澄と少年は繋がらない。
だって僕は、香澄とセックスをするのが好きだ。
昨日だって、僕は彼を誘った。
したかった。彼に抱かれたかったから。彼のセックスはぎこちなく性急なものではあったけど、でもいつも優しかった。
その優しさは、優しくされる価値のない僕には時々苦しかったけれど。
でも好きだった。
彼が…好きだった…。
「申し訳ありません。長期の休暇は取れないでしょうか?」
黒羽の申し出に、桜庭は驚いたように目を開いた。
「黒羽くんが? 自主的に休み?」
「はい。一週間ほどでいいのですが」
「……そりゃあ、あなたは一度も年次休暇を申請した事がないから、ちょっと消化するのもいいかもしれないけど…。だけど突然だね。休みを取ってもする事無いからって、仕事に来てたのは黒羽くんじゃない」
桜庭の勘ぐる声に、黒羽は黙って視線を逸らした。
「良くないな。そんな風に目を合わせないのは」
言いながら、それでも桜庭はオーケーを出した。
黒羽は黙って頭を下げると部屋を出ていく。
その後ろ姿を目で追いながら、桜庭は呟いた。
「追う訳でもなく、逃げる訳でもない。ただ停滞する。…黒羽くん。君はずっと、何処にいるつもり?」
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