海里くんの憂鬱
「オレは女が好きだ」
思わず口に出してしまう。
どうして? 何故だ。
オレは23年も生きてきたが、こんな当たり前の事を、わざわざ口に出して確認したりなんかしなかったぞ。
篁海里。23歳。 現在限りなくぷーたろーに近い、カメラマン志望のアルバイター。
…は、生まれて初めてのアイデンティティーの何とやらに頭を抱えていた。
確かにここしばらく、ていうか結構長い間、女の子には全然ご無沙汰だった。
家を飛び出して砂城のアンダーに潜ってからというもの、貧乏が板についてしまったからだ。
なにせメチャ狭いアパートを借りただけで、今までアルバイトで稼いできた貯金が殆ど吹っ飛んだもんだから、毎日今日食う飯代を稼ぐのにヒイヒイだったのだ。
女の子と遊んでいるヒマなんて、逆立ちしたって出来るわけがない。
まあ、仕事から帰ってきて、バッタリぶっ倒れているのでは、その気もナニも起きなかったりするのだが。
それにしたって…。
真っ白で事務的な名刺を、手の中で弄びながらため息をつく。
『いつでも、連絡を下さい』
低く滑らかな声が耳に甦る。
くそっ。
あのセリフは単なる仕事上のことなんだ。
この名刺は確かに意味ありげにオレの手の中に滑り込まされたが、それだってオレに気があっての事じゃない。
…………………………。
…気があってって! 一体なんの話っ!?
オレ、何を考えているんだよっ。
あのセリフが仕事上のことだろうと、どうだろうと関係あるか?
相手は男なんだぞ。男! 男! 男!
「オレは、女が好きだ」
もう一度口に出してみるが、同時にため息が出た。
名刺の名前を見つめる。
白い飾り気のない紙に、シンプルな黒い文字。
「黒羽…高」
名前を口に出すと、顔が浮かび上がってきた。
瞳の中に、くっきりと焼き付いてしまった綺麗な顔。
黒く艶やかな髪。
どこまでも深く沈んでいきそうな瞳の色。
うっすらと色の付いた、形の良い唇…。
余計なものをそぎ落として、純化していったような。
白く玲瓏な美貌。
あんなに綺麗な男が、どうしているんだろう。
綺麗で、そして毅い。
だが同時に、どこか危うくて脆い。
深くて暗い影のようなものが、彼の身体に纏わりついている。
それは、ぞくぞくと海里の奥にある何かを刺戟した。
髪に触れていった、長くて白い指の感触が、まだ残っているような気がして、身体が熱くなる。
あの指…。
あの指がオレに触って。
あの指がオレの身体に。
あの指がオレの…。
………………………………。
だだだ、だめだ〜!
絶対おかしいぜ、オレ。
綺麗な男くらいたくさんいるだろ? なっ、なっ?
綺麗だからって、ものすごく綺麗だからって、男と女を間違えたらダメだぜ。
テレビつけて見ろよ。中には女かって思うくらい綺麗な男がたくさんいるぜ。
大体オレの周りにだって、綺麗な男はたくさんいる。
篁は美形を輩出してきた一族だからな。
現にオレだって…。
いや、オレの顔の方はどうでもいいんだ。問題は相手の顔なんだ。
確かに黒羽さんの綺麗さは、どこかで一線越えてるとは思う。
綺麗な男はたくさんいるとか、誤魔化したらダメだ。正直言うと、あれだけ綺麗な男は初めて見た。男とか女とか完全に超越しちゃってる。
だからその。見蕩れるくらいなら、当たり前だろうと思う。
それならいいんだ。
見蕩れて、憧れて、好きになるくらいだったら、別に構わない。
でもさ…。
くそーっ。
オレ、別の事考えてるだろ?
何か間違ってるだろ、それって。
正気に戻れ、海里!
憧れるのは男でもいいけど、エッチするのは女とじゃなきゃ!
おっきなオッパイと、きゅっと締まったウエスト。魅惑的なお尻。
これだよ、これ!
白いオッパイが揺れなきゃダメ!
男ってのは、そういう女を抱いて、いいわ〜、とか言わせるもんだろ?
女の子。そうだよ、好みの女の子を想像するんだ。
オレより小さくて、胸がでかくて、黒い髪がさらりと…。
いや待て。黒髪はダメだ。
オレは黒髪の女の方が好みだけど、今はダメだっ。
白い肌もダメダメッ! (≧◇≦)乂
えーと、えーと。
髪は茶髪で色は黒い。少し前の女子高生かよ、その好みって。
アレはオレ的にはイマイチ……。
いや、まあいいや。女、女、とにかく女だ。
女を想像しろっ。
これでも地上にいた頃は、かなりモテた方だった。
逆立てた金髪に、汚れたジャンパー。膝の擦れたジーパン。
(ファッションではなく、マジに破れていたりするのだった。…とほほ)
今のこの風来坊の様な格好からは想像もつかないかもしれないが、オレはお坊ちゃまだったのだ。
髪もストレートで染めてなかったし、高校生の頃は、あの有名私立校って一目で解るブレザーに身を包んで。
そりゃあ高校生なんだから少々下品な話題に花を咲かせたりはしていたが、あからさまにいいとこのご子息風って感じだった。
実際オレはかなり真面目だったと思う。
家がどうとかって、子供の頃から頭にたたき込まれてきたし、人の期待に応えるのって、上手くいけば、そりゃ気分いいじゃん。褒められる訳だしさ。
だからオレは色々一生懸命にやった。
だけど…。
まあ人生そうそう上手くいくことばかりじゃない。
オレは思ったより不器用で、自我が強かった。
どうも周りが期待している事と、自分がしている事は食い違っているような気がする。
そう思うことが度々だった。
もっとも子供の頃のオレは、その食い違いが余りよく解ってなくて、とにかく一生懸命頑張ればいいんだ、なんて思っていた。
やっぱりなんつうか、基本的に性格が真面目なんだな。
自分ではあまり好きになれない部分だけど、もって生れた性質だから仕方がない。
だが結局、どんなに頑張っても認めてなんてもらえなかった。
オレが頑張っていることと、望まれていることがズレていたんだから。
そしてオレは、どうしてもそのズレを修正することが出来なかった。
解っている。
オレに望まれていること。
篁の名を汚さないこと。
ただその名前を護って、それらしく振る舞うこと。
将来は考えなくても約束されているのだから、あとは家名に恥じない男でありさえすればいいのだ。
…ちょっと待てよ。
名前名前って、オレは看板か?
オレって人間より、名前が先に来るのか?
それさえ「らしく」守っていれば、あとは影で恥ずかしいことをしていても、無能でも、情けない男でも、それでも構わないのか。
オレは嫌だった。
名前も血も、最初から履かせられたゲタに過ぎないじゃないか。
もちろん自分が、そんなに上等な人間だと自惚れていた訳じゃない。
ただ、ゲタの上に積みあげていくはずのオレ自身なんてどうでもいいのだと、いつでも言われている様な気がしたんだ。
ゲタだけに価値があるんだって。
上に積みあげられたオレ自身は、ゲタを美しく見せる為の看板に過ぎないと。
嫌だった。
ゲタは生まれた時に履いてしまったのだから、もう逃げられない。
だが、看板になってそれを背負い続ける事。
その為に努力することが苦しかった。
そう、とっても苦しかったんだ…。
でもな。それでも高校生くらいじゃ、まだ子供だった。
身体は大人だったりしても、養われて生きているし。
まだ親に褒められたいって未練はあったし。←真面目だったんだよ!
さっさと自分の道を求めて家を出ていくなんて事も出来ない。
(明解にすっごくやりたい『夢』なんてものがあった訳でもないしな)
かといってどうも期待に上手く応えることも難しそうだ。
…で。
結局オレは高校生の頃は、ちょっとワルぶっていた。
家なんてものに縛られていたから、情けないくらい中途半端だったけど。
でも女の子にはウケが良かった。
どーもその、中途半端なワルさ加減が好まれたらしい。
まあ、オレだって徹底した不良スタイルはカッコ悪いと思ってたし(所詮オレのワルは格好の問題程度だ)女の子だってそんな男、普通の子は引くわな。
かといってあまり真面目〜なタイプでも近寄りにくい。
なにせ篁って一族は、半端じゃなく『上流階級』なのだ。
そんな奴が真面目にかしこまってみろ。遠巻きにされて誰も近寄ってこられない。
という訳で、見た目は有名私立校のご子息風で、そのくせちょっと斜めな感じ程度の悪さ、って所が、女の子から見ると、食いつきやすかったんだろう。 (多分な)
だからオレはモテた。
言い方は良くないが、女の子には不自由しなかった。
本気でつきあってくれ、と言われるのも面倒くさかったオレは、どっちかというと軽〜い感じのお付き合いをちらつかせる女の子と積極的につきあった。
そういう女の子って、これも言い方は悪いが、後腐れなくヤらせてくれた。
嫌な言い方ばかりするようだけど、オレは金だけは持っていたので、オレの奢りで楽しく遊んだら、後はベッドへってのが定番。
たかが高校生のくせに、女の子をとっかえひっかえ。
それでよく誰からもどこからもトラブルが出なかったと思うよ。
今から考えると、いくら遊びだと思ってたって、絶対歪みが出ていた筈だったんだ。
でもオレは、それは自分が上手くやっているせいだと思っていた。
沢山の女の子と適当に遊んでも、別に誰からも束縛されないし、恨まれない。
遊びだもんな。
全部遊び。
そんなもんだと思っていた。
だけどバカバカしい。
そういった事は全部、甘えの中で成り立っていたんだ。
オレの顔がほんのちょっと良かった事が、理由のほんの少し。
後の大半は、私立有名校の生徒だったこと、金を持っていたこと。
そして名前が篁だったこと。
そういったモノがブワブワしたゼリー状のクッション様に、何重にも周りを取りまいて、オレを保護していた訳だ。
面が良くて金を持っているから、女の子はトラブルを黙っててくれる。
いいとこの坊ちゃんだから、大人も大目に見逃してくれる。
金も名前も、全部篁のものだ。
甘ったれのワル。
吐き気がする。
名前を背負うのは嫌なくせに。守る事だけはして貰っているのだ。
そりゃあ篁の金をムダ遣いするのも、オレとしては反抗なつもりだった。
名前とやらに纏わりついている金を、キョーレツ無駄に遣ってやろうと思ったのだ。
だがな。
女の子と遊ぶのに、いくら金を浪費しても、所詮高校生の遊びだし。
へでもない金額だろう。
大海の一滴にもあたらない。傷一つつかない。
結局オレは反抗どころか、大人たちの間で、よしよしとあやされている赤ん坊にすぎなかった。
そして気付いた。
反抗とか言ってるけど、結局オレだって篁を利用して上手いことやってるんじゃないか。
上手く利用しているくせに、それは反抗なんだと自分自身に言い訳して、やっている事を正当化しようとしている。
そうして大人になったら、全部口をぬぐって、納まるべき所に納まって暮らすんだ。
やっぱりそれが、当たり前の権利のような顔をして。
嫌な男だよな。
今考えても当時の自分が恥ずかしいぜ。
もっともそれで急にいい子ちゃんになれるって訳でもなかった。
やめてもやめなくても、篁に縛られていることは変わりない訳だしな。
ただ、ちょうど受験時でもあり、だんだんワルぶって女の子と遊びまくるのは控えるようになった。
大学に入ってからは、本気で独立を考えるようになっていった。
さすがに高校生の頃とは違って、外に出るって発想が加わってきた訳だ。
ついでにどっかに婿養子にでも入っちまえば、名前も変わるよな、なーんて姑息なことも考えたりしたが、とりあえずは独立して一人で生きていくことが肝心だ。
そんなこんなで色々動き回っていたので、さすがに女の子と遊びまくる訳にはいかなかった。
でもな、確かに高校生の頃より数は減ったが、それでもオレは女の子には不自由しなかったんだ。
遊んできただけあって、女に好かれるのが上手いらしい。
オレは(養子の思惑とかもちょっとだけあって←バカ)かなり一生懸命に女の子とつきあったりもした。
もっとも大学生で結婚を積極的に考えている様な女は、オレとつきあうなら篁込みで考えているわけで。
もちろん、どのお付き合いも途中で破綻した。
そのうちオレの中に「砂城に行く」という考えが湧いてきて。
そうなったらさすがに一人で行くしかなかった。
砂城に付いてきてくれる女の子なんていないだろう。
ましてや、名前も金も捨てて行こうと思っている訳だから。
オレだって責任持てない事はしたくない。
そりゃあ何があってもどうしても放したくない女の子ってのがいたというなら、話は別だっただろうけど…。
つまり結局。
オレは誰とも真剣ではなかったと言うことだ。
女の子が大好きで、沢山の女の子とつきあって、たくさんベッドに入ったけど。
でも高校生の頃はどれも遊びだった。
大学生になってからは、色々な都合が常に頭の中にあった訳で。
そう…。
真剣に誰かを好きになったことなんてなかった。
マジに誰かに惚れたことは、一度もなかった。
女の子を思い浮かべてみたけれど、どれも曖昧で捕らえどころがない。
くっきりと浮かぶのは…。
『いつでも、連絡を下さい』
黒い髪に白い貌。
黒羽 高の、あの端整な面立ちだった。
「おっちゃん、おーす」
ボロい三階建てのビルに入り、これまた年季の入ったドアを開けて挨拶する。
中は事務所って言うのか、それとも住居も兼ねているんだか何だか知らないが、本棚やら机やらがごちゃごちゃと詰り、書類だの雑誌だのがうずたかく積み上げてある。
置いてあるソファーには毛布がひっかかり、お茶の飲みかけが床に、弁当の残骸はゴミ箱に無造作に突っ込んであった。
その間から、おー…という怠そうな声と共に、おっちゃんこと松本一彦の手が上がる。
「ひでえな、杖付くスペースが無いじゃん。少し片づけろよ」
「なんだ海里くんか。梨々花ちゃんかと思ったよ」
梨々花って芸名みたいな名前の女は、この何をやっているのだかよく解らないおっちゃんの事務所の、唯一の常勤事務員だ。
今日はまだ来ていないらしい。
「梨々花がオレみたいな低い声を出すかよ。アレは一応女だぞ」
オレはぶつくさ言いながら、それでも杖をついて部屋の奥へ入っていった。
「海里くん、今日は何だい?」
「なんだいって、リハビリ兼ねて外へ出てきたんだ。ついでに寄っただけ」
おっちゃんは椅子に起きあがり、大きく欠伸をした。
それから鼻に皺を寄せる。
「海里、まさか無理してるんじゃないだろうな?」
「無理って」
「大分歩けるようになったんだね。まだ完全じゃないが、かなり元通りになってきた。でもそういう時が一番危ない。本当はまだ良くなってないのに、ついいつもなつもりで無理をしやすいんだ。
あんたまさか、時間があるからって、色々嗅ぎ巡ったり歩き回ったりしていないでしょうね?」
「してねえよ」
オレは慌てて手を振った。
オレは足が悪い。
生まれつきじゃなくて事故のせいで、時間をかけてちゃんとリハビリすれば治るものだが、一時は足を失くす所だった。
「だったらいいんだけど、僕が仕事もまだあげてないのは、今無理して欲しくないからだからね。そんな事になってごらん。今度こそ一生かかっても払いきれない医療費支払うことになるんだからね。解ってる?」
「わかってる、解ってるって」
おっちゃんは疑惑わしそうな目でオレをじろじろ眺めた。
「どうだか、海里は甘ちゃんだからな」
「なんだとぉ! いくらおっちゃんでもな、そういう言い方は…」
「あー、そうだね。海里はよく解っている。だから今動いちゃダメだ。退屈だろうが何だろうが、今は身体を治すことに専念すること」
おっちゃんはぱっぱっと手を振って、オレをあしらってくれた。
ええい、くそ。
どーもオレは、自分が子供だとか甘いとか言われることに神経質のようだ。
その辺を上手く逆手に取られて、おっちゃんに見事釘を刺されてしまった。
でも今のはオレが単純だからじゃないぞ。
おっちゃんの年の功だ。
そう考えておこう。うん。
しかしおっちゃんのヤツ、オレがぶらぶら出歩いているのはエネルギーが余っているからだと思ってやがる。
いや、もちろんそれもあるんだけど…。
でもオレは今、どうにもならないグラグラに翻弄されているんだよ。
…もっとも散歩にでも出て誰かと話せば、ちっとその悩みを忘れられるかな〜、とも思った訳なんだけど。
「あんたにはね、た〜くさん貸しがあるんだから。今また身体を悪くされたりなんかしたら、つぎ込んだ分大損じゃないか。
怪我が治ったら、タダ同然で色々こき使う予定なんだから、ちゃんと直しなよ」
「口の悪ィオヤジだぜ、本当」
「オヤジ言わない。僕はまだ40前だよ」
「オレから見れば、充分オヤジさ」
「そうかい?」
言いながら、妙なことにおっちゃんは、ほんの少し嬉しそうな顔をした。
そういやあ…。
このおっちゃんはホモだったな。
考えるまいとしている筈なのに、オレの頭の中に、フッとそんな思考が過った。
瞬間オレは心の中で頭を抱える。
バカかオレは!
自分は男が好きなのか?
なんていうアイデンティティーの崩壊の危機を忘れる為に外に出て、それでわざわざホモの所へ来てどうするよ!
といってもオレは砂城に来たばかりだし、来てすぐ大怪我なんてしちゃったので、遊びに行くような知り合いが本気でいないんだけどな…。
だけどホモって事は、男が好きなんだよな。
男と、その…寝るんだよな。
な…舐めたりしゃぶったりするのかな?
ナニ…とかをよ。
想像した瞬間気持ち悪くなった。
うへえ、やっぱりオレはダメだぜ。
うん、絶対オレはホモじゃない。
黒羽さんのことは、何かオレの中で勘違いがあるに違いない。
助けて貰ったわけだし、ホラ、吊り橋の上の男女は危ない所にいるドキドキを恋のドキドキと勘違いして、恋人関係になりやすいって言うじゃないか。
きっとそれさ。
ちーっと違うかもしれないけど、似たようなもんだろ。
それにあれだけ綺麗な人だからな。
オレの中で混乱かかってるんだ。
間違いないって。
あんな綺麗な、女より綺麗な人なんてそうはいない。
目を奪われちゃっても、忘れられなくても当たり前さ。
それにオレはメンクイなんだ。
そうとも。
「海里、僕の顔をじろじろ見ちゃって、何だい? 今さら僕がいい男だって気付いたのか? そうじゃないんなら、ちょっとお茶入れてくれ。目覚めの一杯ね。梨々花ちゃんまだ来ないし…」
「目覚めの一杯ってなんだよ、もう昼すぎだぜ。梨々花もそんな遅くていいのか」
「あー、今日はいいの。この間まで狂ったように働かせていたから。一仕事終わったら、しばらくはのんびりね」
オレは目覚めの一杯とかを入れる為に薬罐を火にかけ、セールで投げ売りしていた日東紅茶のティーバッグを自分の分も一緒に引っ張り出した。
茶を入れながら無駄口をたたく。
もちろん、頭の中で再び膨れあがってきた黒羽 高の顔を追い払う為だ。
「おっちゃん、オレの部屋のカーテンだけどさ」
「ああ、カーテンが入ると部屋らしくなるだろ? 素窓のままじゃねえ〜。独身男貧乏でございって感じがモロで情けないしね。それに向かいのアパートには女の子もいるじゃないか。隠すのは礼儀ってもんだ」
「すまどって…そういう日本語あるのかよ。いやそうじゃなくてな、カーテンはいいんだけど、何でガラが趣味の悪い水玉なんだ? オレあのカーテンには代金払いたくないぞ」
「いいよ〜、あれは別に僕のオゴリ。海里くん退院祝いね。お金の心配はしなくていいから」
「そういう話じゃなくて、趣味の問題! 水玉なんて最悪だぞ」
「可愛いじゃないか」
オレがカップの紅茶に牛乳をそそいで差し出すと、おっちゃんは嬉しそうにその中に3杯も砂糖をぶち込んだ。
「げげげ」
オレは顔をしかめたが、おっちゃんはニコニコ笑いながら湯気の立った紅茶を口に含んで頷く。
「いいわ〜。甘い紅茶大好き」
「…おっちゃん、オカマ言葉でてる」
「オネエって言うんだよ。私はゲイだけどオカマじゃない。心は女じゃないからね」
「その辺の区別、どうもよく解らねえ」
オレは引っ掛かってる毛布を端に寄せるとソファーにどさりと腰を下ろし、一緒に入れた紅茶を飲んだ。
熱い液体がのどを滑り落ちていく感覚が心地よい。
「なあ、おっちゃん」
「んんー、何だい?」
おっちゃんは紅茶をすすりながら、新聞を読み始めている。
どうやら今日は本当に暇らしかった。
「どうしてさ、おっちゃんはオレのアパート代とかを払ってくれるんだ?
そりゃーそのうち働けるようになったら、全部返すつもりだけど。でも金額バカにならねえだろう?」
「ええ? 今さら何だい。もう僕たちそういう事言う仲じゃないだろう」
「その…ホモだから…じゃねえよな。オレおっちゃんの好みじゃないし」
おっちゃんはカップから唇を離し、目を丸くしてこちらを見た。
一瞬、怒るだろうか? と思ったが、おっちゃんは唇の端にうっすらと意味ありげな笑いを浮かべた。
「ゲイだから…かもねえ」
「おいおい」
「そうだなあ、まあ別に秘密じゃないし、いいか」
「なんの話だよ」
「海里がさあ、まるで自分の子供みたいに思えるんだよね。そのせいかな、色々世話焼いちゃうのって」
「おっちゃん、そういう言い方…」
「怒らないの。子供扱いしているって話じゃないんだから。たださ、本当の子供の世話が焼けないからさ」
「そりゃー、ホモじゃ男同士だし、子供は出来ないだろうな…」
「それも違うよ、海里くん」
「違うって何が」
「海里くーん。あんたねえ、僕には息子がいるの。ホントに。解った?」
オレは多分、ものすごーくマヌケな顔をしていたと思う。
無意識のうちに紅茶を飲もうとカップを唇につけて、それから液体を気管にそそぎ、思いっきり咳き込んでしまった。
「ぐはっ! がっ。げっげっげげっ」
「海里くん、大丈夫? そんなマンガみたいに驚かなくても…」
「ホントに苦し…げほげほげほっ。はなっ、鼻からっ」
「鼻から牛乳?」
「やめろおっちゃん。げっげっ…。ティッシュ!」
「床にこぼした分はぞうきんで拭いてね」
おっちゃんはしれっとした顔で、テッシュの箱を差し出し、黙って自分の紅茶を飲み干した。
「む、息子って…、マジかよ。だっておっちゃん、ホモだったんじゃ…」
まだ紅茶が気管に残っていて、喉がつーんと痛い。
たっぷり入れた牛乳が徒となって、鼻の奥が牛乳くさい。
まさに鼻から牛乳。ううう、やめてくれってーの。(T^T)
「ゲイだったことにハッキリ気付いたのはねえ、僕遅かったんだよね。いや、そこはかとなくそうじゃないかなあ、とか思ってはいたけど、でも、ハッキリ自覚して、自分の性癖はこうだ、とか言いきれる人って、そんなにいないじゃないか。
僕は色々と遅かったんだよ。セックスだってぜーんぜんした事無かったんだから。海里くんなんて、十代でやりまくってたんだろ? まったく最近の男の子はねえ。セックスってのは憧れてるうちがいいのにねえ…」
「おっちゃん…じゃあ女と、ヤッたのか」
オレは思わず年よりずーっと老けて見えるおっちゃんの顔とか身体とか、じろじろ見てしまった。
「ヤッたなんて下品な言い方はやめてほしいね。ヤッたどころか、結婚したんだよ、僕は」
「……………!!!!」
「またマンガみたいな驚き方をする」
「だ、だってよ。結婚…してたのか、おっちゃん」
「バ・ツ・イ・チ。もう離婚しました。ゲイが夫なんて世間体が悪いからね」
「そ…そうか? そうかな」
「そうなんだよ。残念ながらね」
「でもおっちゃん、女と出来たって事は、ゲイじゃないんじゃないのか?」
「海里くんねえ、相手が僕だと思って失礼なことをずばずば聞いてるって解っているかい?」
おっちゃんはちょっと憮然とした顔になった。
だがすぐに、まっ、いっか、とでも言うように肩をすくめると話し始めた。
「そうじゃなくてさ。彼女としたのが初めてのセックスだったの。それで気付いちゃったのさ。僕は女がダメだって事にね」
オレは呆然と口を開いていたと思う。
「もちろん彼女のことは愛していた。だから結婚したのさ。愛してるなら結婚するべきだって僕は思っていたからね。
でもね、愛しているという思いと、性の対象は一致しない事もあるわけ」
おっちゃんはハアッと大きくため息をついた。
「美里ちゃんのこと、僕は本当に大好きだったのになあ。小さい頃から大好きで大好きで、絶対結婚するんだと思っていた。だから結婚出来てすごく嬉しかったのに。なのにダメだなんて…。この悲劇解るかい?」
「解らねえ…」
ていうか、そろそろ想像の範疇外なんですけど。
「美里ちゃん、いい女だった。今でも格好いいんだろうなあ。男らしくて、さばさばしてて」
「それって、男だと思って惚れてたんじゃないのか?」
「失礼だね。美里ちゃんは誰が見ても立派な女だったよ。綺麗できりっとしててさ。僕なんかとどうして結婚してくれたのか解らないねえ…」
おっちゃんはうっとりと視線を宙にさまよわせた。
青春の想い出ってヤツを反芻しているらしい。
おっちゃんの若い頃って想像出来ないけど、まあ今の状態から見ると、すごーくいい男だったという過去にだけは行きつかないと思う。
しかし、たで食う虫も好きずきって諺があるし、顔で結婚する訳じゃないだろうから、何かしてもいいと思う要素が当時のおっちゃんにはあったんだろう。
「だからねえ、美里ちゃんとは一回だけ。それきりダメだった。だんだん向こうも事情が解ってきて。それでも結婚生活は2年と半分くらい続いたけど。でも結局離婚。
子供が出来たから悩んだんだけど、やっぱり父親がゲイっていうのはね。美里ちゃんより僕の方が激しく引いちゃったのさ。いないほうがいい、子供の前から消えちゃった方がいいって思ったんだ。
向こうのご両親も、僕が近くにいるのを好まなかったし。だからもう、ぜーんぜん会ってもいないの」
「じゃあ子供は、おっちゃんが父親だって知らないのか?」
「うーん、多分ね。養育費も受け取ってもらえないんだから。だめだろなー。美里ちゃんキャリアウーマンでバリバリだったし、僕はこんなだから、僕といるより、ずっといい生活してるとは思うんだけど。
でも、毎年誕生日には一応まとまったお金を送ってるんだ。これから学費だってどんどんかかるからねー。それだけは黙って受け取ってくれてるよ」
「そうかー、おっちゃんも苦労してるんだな…」
よく解らないまま、ご家庭の事情を聞いてしまったオレは、なんとなーくしみじみしてしまった。
うん、どこの家にも大変な事情はあるもんだ。
ん? だけど。
「ちょっと待てよ。おっちゃんがゲイで子供の面倒見る事が出来なかったから、なんとなくオレに色々してくれるって事は解ったけど、オレ23だぞ。おっちゃんが面倒見たい子供じゃないだろうがよ」
「おや、僕の子供は、もう高校生だけど? 見た目は海里と変わらないよ」
「げっ。おっちゃんそんな早く結婚したのか」
「海里の歳には子供いたね」
「ひゃーーーっ」
「変な声、外まで聞こえますよぅ〜。おはようございまーす。ありゃ、海里くん。遊びに来てたの?」
声と共に、事もあろうにケツでドアを押し開けながら、梨々花が部屋に入ってきた。
両手には、何やら食べ物らしきものが大量に入った紙袋を抱えている。
「まあね。さっきまでおっちゃんの青春の過ち話を聞いてた」
「過ちって何だい。失礼な」
「ああ〜。ついに海里くんも美里ちゃんとやらの話を聞かされたのか」
「何だよ、誰にでも話してるのか? おっちゃん」
「別に、秘密じゃないって最初に言ったじゃないか」
おっちゃんはブーブーと唇を鳴らす。
梨々花は来るなり、お昼食べてもいいですか〜? などと言って、簡易キッチンで湯を沸かしはじめた。
おっちゃんはその背中に、梨々花ちゃん僕にもコーヒー入れてね、と声をかける。
オレは何となく、おっちゃんの横顔を見つめてしまった。
next
|