白い部屋


 目覚めたら僕たちは、たった二人白い部屋に閉じこめられていた。

一人だったら不安で仕方なかったと思うが、隣でまだ目覚めずに寝ている彼は、自分の恋人だった。

恋人…。

そう言える自分に驚く。
人に執着したことはあった。
それが恋だったのか、そうではなかったのか、未だによく解らない。
だが、その人に見捨てられることは、世界を失うのと同じ事だった。

彼はどうなんだろう。
彼は自分の事を好きだと言ってくれる。
愛していると。
では、自分は?
彼を愛しているのか?
もしも彼がいなくなったら、と思うと恐怖で胸の中が冷たく凍る。
絶対に彼を、失いたくはなかった。

しかしそれは、愛なんだろうか?
果たして僕は、彼が僕を愛するように彼を愛しているのだろうか?


その彼が隣で寝返りを打ち、そしてうっすらと瞼を開けた。
「う、うう〜ん」
あくびをして身体を伸ばし、自分の顔をぼんやりと見つめる。
「おはよう」
「あ…、おはよう、ございます」
寝ぼけた顔でそう言うと、彼は体を起こして、ぼりぼりと頭を掻いた。
「えっとー…」
やはり彼も状況をよくつかめていないらしい。
それはそうだろう。
起きたらいきなり、見慣れない白い部屋の中なのだ。
自分たちが寝ているベッドも、壁も、天井も、何もかも白い。
入り口はあるようだが壁の白に紛れて、まるで出入り口のまったく無い白い壁の中に塗り込められてしまったように思えた。

実のところ僕だって、いま何が起こっているのか、サッパリ解らない。
しかし、なんとなく違和感を感じる。
この違和感は、一体なんだろう。
だがその違和感の理由だけは、すぐに解った。
隣の彼がふっと上を見て、こう言ったのだ。

「ここ、どこですか? そして、その。あなたはどなたですか?」

彼は僕を覚えていなかった。
そして、僕も気付いた。

僕も彼の名前が解らないのだ。
もちろん、自分自身の名前も。
僕たちは二人とも、記憶を失っていた。


彼は誰だろう。
いや、誰だかは解っている。
彼は僕の恋人なのだ。
恋人だ。それだけは確かだ。
だって僕はこんなに彼のことが好きなんだから。

好き。好き…。
本当に好きなのか?
いや、好きだ。僕は彼が好きだ。
胸に広がる微かな不安を押さえながら、じっと彼の顔を見つめる。
彼はきょとんと僕を見上げた。
ああ、知ってる…。
僕は確かに彼を知っているんだ。
なのにまったく彼の名前も、彼がどういう男だったのかも思い出せない。
そして更に、自分も何者なのか、僕は思い出すことが出来なかった。

自分の事も、彼のことも、名前の欠片一つも思い出すことが出来ない。
しかしそれでも。
それでも僕は、彼を知っていた。
そして…。
こみ上げてくる想いの強さに、自分でも驚く。

僕は彼が好きだ。
彼が好きなんだ。
それだけは、何もかも忘れても、ただ一つ信じていられる、僕の中の真実だった。

 

 

「恋人って…」
寝ぐせの残ったようなぼさぼさの髪をかき上げながら、彼は驚いたように口を開けた。
「いや、その…。オレ何も覚えていないから、確かに否定も肯定も出来ないけどさ。でも、そのー…。どう見てもオレ達二人とも男じゃん」
「あ、ああ。そうだな」
改めて自分の身体を見下ろす。
白いベッドに白いシーツ。
その上に座る自分の身体は、確かに男だった。
性別を疑っていた訳ではないが、言われて改めて自分の身体を確認すると、彼を恋人だとあれほど確信していた心が、ぐらぐらと揺れる。

僕も男で、彼も男だ。
それで恋人だというのならば、彼はゲイなのだろうか?
それとも、僕がゲイか?
それともどちらも違っていて、僕は実はただ一人なのだろうか。
あれほど強く想った恋人は、本当はどこか遠くにいる別の人で、彼はただその人に似ているだけなのだろうか?
僕は、知らない男と一緒にいるのか。

強い不安が黒い雲のように湧き起こる。
彼が恋人でないならば、だとしたら僕は、いま独りだ。
絶対に失いたくないと思った恋人は、彼じゃないのか。
この感情は、それでは誰に向けられたものなのだろうか?

彼は自分の表情を読んだらしい。
少し困ったような顔をして、にっこり笑う。
その綺麗な笑い顔に、心がズキリと痛んだ。
やっぱり彼だ。彼の筈だ。
彼の言葉一つに、たったこれだけの笑顔に、こんなに心が動く。
知らない人間なら、恋人でないなら、そんな風になる訳がない。
だから、僕は確信する。
僕たちは恋人同士だ。

僕が男でも。
そして、彼が男でも…。


「そんな顔しないでくれよ。あー、こんな口きいちゃっていいのかな」
彼は困ったように笑う。
そして少しためらった後に、おずおずと手を伸ばしてきた。
「あんたって、すごく綺麗なんだね」
「僕が…?」
「そりゃそうさ。だってここには二人しかいないじゃん」
「僕は自分の顔は見えないから…」
「ああ、そうか。じゃあ教えてあげるよ。あんたは綺麗だ。それも、なんつーか、ええっとー。男に言う事じゃないかもしれないんだけど…」
彼は微かに顔を赤くして、頭を掻く。

「あんたみたいな綺麗な人、見た事ないよ。そうだな。あんたに恋人だなんて言われたら、オレが女だったら、もう飛び上がって喜んじゃってるぜ」
「女…だったら?」
「うん。絶対嬉しい。すっごく嬉しい。惜しいなー。あんたかオレか、どっちかが女だったら、たとえ記憶が無くっても、恋人オッケー、でまとまっちゃうのになっ」
彼は魅力的な笑顔をいっぱいに浮かべながら、陽気な声でそう言った。
しかし僕の心は、彼の表情とは逆に暗く沈んでいった。

「女じゃないと、ダメなのか?」
「えっ?」
「女だったら、嬉しいって言った。僕と君が恋人で、それで嬉しいって」
「ああ、うん。言ったけど…」
「でも!」
自分でも気付かず、声が大きくなる。
「でも僕たちは男だ。間違いない。女だったらと言われても、でも男なんだ。だったら、男だったら、絶対に僕と君は恋人にはなれないと言うことなのか? 
今から女に生まれ直すことは出来ない。君は僕が女じゃないと、ダメなのか?
僕たちはけっして、恋人にはなれないんだろうか!?」

自分でも驚いた。
まるで悲鳴のような声だった。

いやだ。
僕は女じゃない。
男だという事実は変えられない。
でも、それが事実なら彼とは恋人になれないのか。
そんなのはイヤだ。イヤだ。イヤだった。
まるで僕はだだっ子のように、首を横に振る。

「僕は君が好きだ」
いきなりの告白に、彼は目を見開く。
「君が好きだ。君が好きだ。僕は君を」
愛している…。
そう言いかけて、僕の言葉は詰まった。
僕は自分自身に苛ついて、一瞬叫き出しそうになる。
なんで!
どうして詰まったりするんだ!
こんなに彼を失うことが怖いのに。
どこにも行かないで欲しいと思っているのに。
彼が恋人でなけりゃ嫌なのに…。

僕は溢れてくるものを持て余して、彼をきつく抱きしめた。

  

 しばらくの間、おとなしく彼は抱かれていたが、やがて僕の身体を押し戻した。
「ありがとう、オレ嬉しいよ」
目の前の彼はにっこりと笑う。
本当に嬉しそうだったが、でも、それは自分の求めているものとは違っていた。
「とにかくさ」
彼はそう言ってキョロキョロと辺りを見回す。
「ここを出ないか?」
「出る?」
「ああ、だってオレもあんたも全然何も覚えてない訳だし、このままここにいても埒があかなさそうだしさ。出てみれば何か解るかもしれないし、事態も変わるかもしれないじゃないか」

僕は気がつくと、首を横に振っていた。
出たくない、と思う。
このまま出たら、彼は自分から離れて行ってしまいそうな気がする。
それくらいなら、ずっと白い部屋に閉じこめられていても良かった。
彼と二人だったら、彼が僕を愛してくれるなら、ここに何も解らないまま、ずっと二人で居続けても構わない。

「でもさ、ここにいても仕方ないと思うよ。何もないし」
彼は唇を尖らせる。
「君がいる」
「ええ?」
「僕は君がいればいい。外に出たくない。ここにいよう。君だけがいればいい」
彼は顎に手をあてて、ううん、と考え込んだ。
「それは、どうかなー。今さあ、オレ達きっと混乱しているんだよ。記憶無いし、不安になってるんだよな。だからそんなこと言うんだろう? でも大丈夫だよ。そりゃオレだって何が外にあるのか解らないから、少しは怖いけど」
彼は手を差しだして笑う。
「大丈夫だよ。オレはラッキーなんだ」
「その言葉、聞き覚えがある」
「え、ホントか? じゃあやっぱりオレ達知り合いなのかな」

恋人だよ…。

僕の思ったことが通じたかのように、彼は微かに肩をすくめた。
「どうしても外が怖いなら、何ならまずはオレだけが外に様子を見に行こうか?」
僕は激しく首を振る。
「嫌だ!」

そんなに、外がいいのか?
僕は君だけがいればいいと思っているのに、君は外がいいのか。

彼を引き止める。
お願いだから。お願いだから、どうか僕を独りにしないでくれ。
僕は手を伸ばす。

どうすれば彼を引き止められるだろう。
どうすれば僕の気持ちが彼に伝わるだろう。
何でもするよ。
何でもする。

たとえ君が僕を好きじゃなくても。
僕を思い出せなくても。
それでもどうか、僕を君の隣にいさせてくれ。

 

 

 何て言うか、綺麗な人だよな。
目の前で自分を引き止める男を見ながら思う。
こんな綺麗な人から、必死な顔をして『行かないでくれ』って言われたら、誰だってぐらりと来ちゃうよ。

だけど、恋人かあ…。
なんだか変な気分。
へええ。この人とオレが恋人。
男同士で恋人ってのも、ありだって事くらいオレも知っているけど。
でも自分がそういう男だとは、なんだか思えない。
男が好きだって?
それってホモだよな。
ううーん。
心の中の欲望を探るが、オレの中にそんなものはなかった。
でもこの人は綺麗だし、さっきから、えらく熱い目で見られちゃっているせいもあって、確かにドキドキもしている。

どうなんだろうな。
嫌いじゃないよ、この人。
っていうか、むしろすごく好みだよな。
白くて、綺麗な肌。
触ったら気持ちいいだろうなって思う。
あの唇にも、ちょっと心惹かれる。
あっ、何かそんな事思ってたら、あやしい気分になって来ちゃったぜ。
相手は男なのにさっ。
もしかしてオレって、どっちかって言うと、そういうのにリベラルなタイプなのかな。
心惹かれるなら、男女は気にしないとか?
うーん、でも、相手は男だぜ。
いくらあやしい気分になったってさ。

そこまで思った時だった。
彼の手がオレに向かって伸びてきた。

「僕に、触りたくないか?」
「えええ?」
げげっ。オレの気分読まれちゃった?
なんかバツが悪いな。
男の肌を『触ったら気持ちよさそうだ』とか思ってたなんて…。
でも考えてみたら、この人のほうがオレが恋人だって主張している訳で。
だったらオレ気分読まれちゃったとしても、別に変態、とか変な目で見られる事はないんだよな。
むしろ彼の理屈だったら、積極的に触っても…いいのかな?


気がついたら、彼の顔がすぐ近くまで来ていた。
うわあ…。
アップになると、なんつーか…迫力。

白い、透きとおるような肌。
信じられないくらい何もかも整った、その美貌。
長い睫毛。黒い瞳、紅い唇。
なんか、同じ人間だと思えないくらい綺麗…。
いやその。ヤバイ。
綺麗なだけじゃなくて…この人…。
メチャメチャ色っぽ…。

彼の唇がオレの唇に重なった。
「ん…」
オレはごく自然に彼とキスをしていた。
舌がすべり込んできて絡み合う。
甘い…。
彼の身体に触る。
思った通り、しっとりと手に吸い付く様な肌。

コウ…。

え?
いま何かオレ、思い出さなかったか?
この感覚。
この手触り。
熱くて、甘いキス。


まるで彼に吸い込まれるように、オレはベッドに転がり込んだ。
ええと、ええと…。
オレってば何をしようと…。
頭と行動がグチャグチャだ。
身体を外そうとしたが、彼の手は、強くオレの身体を抱き寄せた。

「好きだ…」
「あの…」
大きな瞳で見つめられる。オレの顔は熱くなった。
「君が好きだ」
そう言いながら、彼の手が自分の背中を抱き、そして次第に下の方に滑り落ちていく。
「本当だよ。僕はずっと、上手く言えなかったけど、でも気持ちは本当だ。初めて見た時から好きだったよ。でも、僕には好きという気持ちがよく解らなかった。今だって本当はよく解らないけど。でも」
彼は饒舌だった。
まるでオレに喋る隙を与えまいとしているかのように、言葉を紡ぐ。
彼の手は自分の下半身に滑り、その部分を愛撫し始めた。

「あっ…」
「でも、好きだ。こんな風に、僕は君が好きだ。どこにも行かないでくれ。ここにいて、僕を抱いてくれ。君が欲しい。きみが…」
彼の唇がオレ自身を呑み込み、硬くなったソレに、舌を這わす。
「君が好きだ。君が欲しい。僕は…」


オレは、落ちた。
本当にその表現が正しかった。
彼の腕に、彼の中に絡め取られる。
何もかもどうでもよくなるくらい、彼が欲しい。

くらくらするくらい綺麗な顔と身体。
甘い囁きと、微かな息。
そしてオレに完全に開かれた体。
魅力と言うより、まるで魔力のようにオレを惹き付ける。

何だよ。
この人。
男だろう?
なのに、オレ…。

とまどいが一瞬だけ頭の隅にちらついたが、彼が欲しいという圧倒的な感情の前に、それはあっさり押し流された。

彼が欲しい。
彼を抱きたい。
キスして、身体に触れて、そして彼の中にオレ自身を…。

欲情だけが身体を支配する。
不思議なことに、オレは彼を抱くやり方を知っていた。
オレの手は止まることも迷うこともなく、彼の身体を愛撫し続ける。
どこもかしこも、心地よく手になじむ肌。
オレは彼の感じる所を、よく知っていた。

何度も抱いているんだろうか?
やっぱり彼の言うとおり、オレ達は恋人同士なんだろうか。
オレは愛しているとか、そんな言葉をこの人に言ったのだろうか?

何かを思い出せそうな気もする。
切ない想いが胸の中に広がっていく。
彼の声に、その快感に耐える表情に、オレの身体は揺さぶられていく。
この人は…。
この人をオレは…。

「ああっ」
彼の悲鳴のような声と共に、オレはその身体を後ろから貫いた。

 

 

彼を引き止める。
自分はそれしか考えていなかった。
体は自然に動いた。
もう何度も同じ事をしてきたかのように、彼とキスを交わす。
その感覚に、痺れるような喜びを見いだす。

彼の唇。
彼の舌。
彼の身体…。

みんな知ってる。
全部愛しい。
僕は待っていた。
ずっと前から、君を。
僕は欲しかった。
彼の全部が。

こんな風に好きだったんだ。
彼に抱かれて、自分の体が勝手に動いて、初めて気がついた。
彼の体が欲しい。
身体で、自分を愛していると言って欲しい。
でないと馬鹿な自分には解らなかった。
言葉だけでも、身体だけでも、よく解らない。
抱きしめられて、こんな風につらぬかれて、初めて感じる。
そんな風に、自分は出来ていたのか、と思う。


誰だったか思い出せないが、昔好きだと思っていた男がいなくなってから、自分はたくさんの男と寝た記憶がある。
いいや、思い出せないのだから記憶とはいえない。
だが事実だった。
寂しいと思った訳ではない。
ただ、何かにとても渇いていた。
それを少しでも満たすために、僕は男と寝た。

その行為は、僕が今までやって来た、単純なセックスは、多分代償行為だったのだろう。
僕が欲しいもの。ずっと欲しかったもの。
満たされないものの正体は、やはり自分にはまったく解らない。
だが、言葉と身体で好きだと言われたい。
この想いは確かに、満たされないものの一部だった。

好きだと言葉で言ってくれる男は少ない。
でも、抱いてくれる男には事欠かなかった。
抱いてくれと言えば、どんな男でも落ちた。
渇きを癒す代償行為として、僕は男達と寝た。
身体だけでも、せめて身体だけでも、僕を欲しいと言ってもらいたくて…。


彼につらぬかれて、僕は喜びの声をあげる。

彼は違う。
彼はそんな男達とは違う。
どこまでも愛しい。
ずっとこうしていたい。

快楽と安らぎ。
苦しい感情と狂おしい想い。

この矛盾したものが同時に存在することが愛ならば、確かに僕は彼を愛していた。どうしようもないほど、一人では立てないほどに。

彼を、愛していた…。

 

 

抱き合い、声をあげて達する。
何度も、何度も。
快感のうねりに幾度も呑み込まれて、僕の身体は溺れた。

好き…。
好き。好きだった。
けっして彼を失ってはならなかった。
それくらいなら、いっそ、今のまま時間が止まって欲しかった。
今のまま…。
彼に愛されて、自分も狂おしいほど愛していると思った瞬間、彼と僕の時間を止める。
それは驚くほど魅力的な考えだった。
僕はうっとりと目を見開いた。


彼が僕の中で達して、身体の力を抜く。
息をついて、僕の上に倒れかかる。
僕はその身体を抱きしめて、耳元で彼の荒い息を聞いた。

「良かった?」
彼を抱きしめながら、僕は囁く。
「僕の中は、よかったか?」
「うん…オレ…」
彼の顔は紅潮し、ほんの少しだけぼんやりと焦点を失った瞳で自分の顔を見る。
「オレ、あんたを…」

最後まで僕は言わせなかった。
抱きしめた手をずらし、自分の身体を彼の下から引き抜き、身体の位置をくるりと逆転させる。
一瞬で僕は、彼の身体の上にのしかかる格好になっていた。
そのまま彼の頸に手をかける。
彼は目を見開いて、自分の顔を見上げた。

そう。このまま力を入れれば、彼は…。
彼の時間は止まる。
だってここから出たら、きっと彼は僕の前から消えてしまう。
そうなる前に、彼の時間を止める。
彼が僕を愛してくれて、僕も彼を愛していると思った瞬間に。

瞳の奥に何か熱いものが湧き上がってきたが、それは表に出ることはなかった。
自分の顔が白く硬く強ばっていることに、自分自身でも気付いていた。

さあ、力を入れろ。
このまま彼の時を止めてしまえ。
そうすれば永遠に彼は自分の隣にいる。

「オレを殺すの?」
彼は不思議そうに、僕の顔を見上げた。

  

「君は消えてしまう…。きっと、僕の前から」
そのまま力を入れてしまえばそれで終わりだったはずなのに、何故か僕は何かを彼に告白していた。
「だから今、いま時間を止めてしまえば、僕を愛してくれた君だけが残る。だから…」
時間が余分にたてばたつほど、さっきまで愛してくれた彼が遠くに行ってしまう。
ためらっている暇など無いはずだった。
今すぐ。
今すぐ彼の時間を止めてしまわなくては。

だが、彼の瞳の奥にある何かが、僕の手を止めていた。
彼は、少しも怖がっていなかった。
そればかりか、彼の顔は、ほんの少し悲しそうだった。

「そんな風に、オレが欲しいのか?」
彼はそう言った。
「そんな風にって?」
「あんた、オレを信じていないんだな」
「信じて…」
混乱がかかる。
僕は彼を愛している。
外に行こうと言って僕を独りにしようとしたのは彼のほうではなかったのか?
「誰も信じてないのか? それとも誰かに酷く裏切られたのか?」
頸に手をかけられながら、彼が手を伸ばしてくる。
その手の動きに、一瞬びくりとしたが、彼の手はそのまま自分の頬にあてられた。
その柔らかい感覚に、ゾクゾクと快感が走る。
掌は優しく僕の頬を撫で、僕はその感触を逃すまいと、夢中で掌に顔を寄せた。
暖かく、優しく、愛しい。


「あんたはきっと、欲しいものを欲しい時に、欲しいだけ手に入れたことがないんだな」
彼の言葉が不思議な感覚で耳に響いてきた。
どういう意味だろう。
でも、声は優しかった。
耳に神経を集中させて、目を瞑る。

「オレを信用できないまま手に入れて、それでいいのか?」
え?
「オレの気持ちも聞かないで、最初からオレが逃げると思っている。あんたから逃げてしまうような男と、あんたは一緒にいたいのか?」
「でも」
僕は目を見開いた。
「でも何?」
「でも君は外に…」
「勝手だろ、あんた」
頸に手をかけられたまま自分を見上げる彼の瞳は、驚くほど澄んでいた。
「オレを誘って、オレをその気にさせて、あんたを抱かせて…」
彼の手が唇に触れ、その輪郭を指でなぞっていく。
「何も思い出せないまま、何もオレに聞かないまま、たった一度きりでお終いなんて、あんたは残酷だよ」
「そんな、僕は…」

「オレは、あんたを裏切ったりしない」

でも…。
頸に絡む指がほどけて、彼の髪に触れる。
柔らかくて、いつでも軽く寝ぐせのついた彼の髪。

ああ…。

何かが思い出せそうな気がした。

「じゃあ、ずっと僕と一緒にいてくれるか? 一生ここで?」
賭けの様な言葉が、僕の唇から流れ出る。
YESと言われても、NOと言われても僕は恐ろしかった。
それが僕の望んでいたことなのだろうか?
僕は彼にどうして欲しいのだろう。

@ YES→ こちらの結末へ
A NO→ ちょっと覚悟してください
B どちらでもない→next