正義の味方intermission1

レフトハンドショットガン


 エレベーターには乗らない。階段を上がる。
冬馬のマンションに行く時は、いつでもそうした。
冬馬のマンション。
今もそうなのか、自分には解らなかった。
それでも習慣で階段を上がる。
一歩一歩、痛みを踏みしめるようにして、上がる。
何を求めて自分はここへ来たのだろう。そんな事すらも解らなかった。



「黒羽くん」
里村恵美(さとむら めぐみ)が椅子に座ったまま振り向いて声をかける。
「カウンセリング、受けてる?」
「受けてます」
どこまでも素っ気ない、最小限の答え。黒羽は里村と視線をまともに合わせようとしなかった。
里村はため息をついた。
前から素っ気ない感じの子だとは思っていたけど、あの火事の前までは、綺麗なくせに、もっとこう朴訥って言うか、茫洋っていうか、のんびりした可愛い感じがあったのに…。

里村は椅子に座った黒羽の横顔を、そっと窺う。
今は、触ると火花が散りそうだった。
しかも、その火はおよそ生気のあるものじゃない。
暗闇の中に青白く燃える、温度のない炎。
それが彼、黒羽 高(くろはね こう)の体中にまとわりついていた。

閉鎖都市と呼ばれる『砂城さじょう』のアンダー。
注目されることもなく地下に沈むこの都市に、大事件が起こったのは、ほんの三ヶ月前の事だった。
アンダーでトップクラスのホテル『レオニス』
ここに政治家の命を狙うテロリストが立てこもり、爆弾をしかけ、火災を起こした。
多数の死傷者を出したこの惨事は、三ヶ月たった今も、アンダーに大きな傷跡を残していた。

その傷跡の一つがここにもいる。
黒羽は一般人の保護とテロリスト排除のため、アタックをかけた警官の一人だった。
そして、彼一人が生き残った。
一緒にホテルに突入した他のメンバー達は、生きて還ってはこず、黒羽一人だけが、子供を伴ってあの劫火の中から生還した。
人々はそれを奇跡と呼び、彼は英雄と呼ばれた。

だが彼は、いまも全てを拒絶するように目を伏せる。
あの炎の中で何があったのか、誰にも解らない。
黒羽 高と親しい関係を持っている人間など皆無に等しかったが、それでも少しでも彼を知っている人達は、あの火事の後、彼の中に、ぱっくりと口を開けた、大きな傷跡を見つけた。
傷跡…。いや、跡ではない。
それはまだ大きく口を開き続け、彼の中から生命のかけらを外に流し捨てているように見える。

黒羽 高は、あの時以来、確実に何かを失ったのだった。

体の傷は治っても、心の傷は長く治らない事が多い。
そのため、こういった事件の後には、必ずカウンセリングを受ける事が義務づけられている。
黒羽 高は、今日そのカウンセリングを受けてきたはずだった。



「だけど、何か知らないけど、カウンセリングじゃ、傷は埋まりそうもないみたいね…」
里村は口の中でこっそりと呟いた。
「傷を埋めるために、ここへ来たんなら、ちょっと問題があるかもしれないけど、だけどまあ、落とし前の付け方は人それぞれだし」
里村はくるりと椅子をまわして、黒羽のほうを振り向いた。
「で、あなた専用のショットガンを作って欲しいと、そういうわけ?」
黒羽は黙って頷く。
「片手で…、全て扱えるものをお願いします」
「左手一本で? 重くなるよ」
「大丈夫です」
「そーいう特注品は、経費で落ちないよ。自費になるけど、いい?」
「結構です」
「うーん、せめて弾は他のショットガンと互換性のあるものにしとこうか。そっちのほうがいざって時、役に立つし」
「細かいところは里村さんにお任せします」
黒羽はまったく無表情のまま言葉を重ねる。

拳銃を扱う事を日常とした砂城アンダーの警察には、銃器専門の技官が存在した。
鑑定だけでなく、警官が使用する銃器を、カスタマイズし、時には注文に応じ、オーダーメイドで作り上げるエキスパート。
里村恵美は、その技官達のチーフだった。

「左手一本で、誰を狙うの?」
この質問に答えが返ってくる事を、里村は期待していなかった。
しかし、少しの沈黙の後、黒羽は小さく呟いた。
『幽霊』
黒羽の唇は、そんな風に動いた。



黒羽 高自身は、自分が他人にどう思われているのか考えた事はなかった。
傷と言われたら、首をかしげた事だろう。
穴がある事は知っている。
暗い穴が足元に広がり、どこまでも風が吹きすさぶ。
しかし、それが傷だと思った事はなかった。

ただ、どうしたらいいのか解らない。
あの時。何もかも失敗し、死ぬ事すらも叶わなくて、一人、放り出されるように取り残された。
僕には、何もない。
世界を失い、明かりを見失い、どこかで道を外れた。
嵐の吹きすさぶ、果てしなく暗い荒野だけが目の前に広がっている。
僕は置いていかれた…。
虚空に手を伸ばすと、一人の男が暗闇の中で笑った。

冬馬涼一とうまりょういち。綺麗で、冷たい男。
ずっと、自分の全てだった男。
彼がいるところが自分の世界だと、そう思っていた。
涼一。あんたがいたから、僕はここに来たのに。
あんたがそうして欲しいと言ったから、僕は拳銃を握ったのに。
僕は、涼一だけが欲しかった。
涼一をあがなうために、何でもさしだした。

涼一。これは憎しみなのか。
それとも執着か。
僕のこの手にあんたの手を。
僕の唇にあんたの唇を。
重ねてこう言ったんだろう?
『愛してあげるよ、コウ』

僕は彼のものだった。
爪の先まですべて。
気が向く時だけ愛するふりをした涼一。
それでも、彼をつなぎ止めておけるなら、僕はそれでも良かった。
良かったと、思っていたかった。
結局最後まで出来はしなかったのに。
都合の悪い事は、見ないでいればいいと思った。
視線を逸らし続ける事も出来なかったくせに。

どうして心なんかがあるんだろう。
どうして誰かから愛して欲しいなんて思うのか。
僕は失ったものの代わりに、何をもって世界に立てばいいのだろう…。

 

 

 冬馬の部屋は、最上階にあった。
階段を上りきったエレベーターの前で、誰かとすれ違う。
冬馬では、もちろん無かった。
冬馬は死んだのだ。そう、記録上は。
彼はあの火事で行方不明扱いとなり、まもなく殉職者の列に名を連ねた。
遺体のないままの警察葬。
しかし遺体の損壊が激しく、結局個人特定が出来なかったものも多く、冬馬一人が特別なわけではなかった。
だが、黒羽は知っている。
彼は、あの炎の中から逃げていった。
どこに行ったかは誰にも解らない。
天国でない事は確かだった。

マンションのドアノブに手をかける。
見慣れた、ドア。
週末になると、自分はここに来て冬馬に抱かれた。
事件でも起こっていない限り、必ずここに来て、冬馬が望むだけ、ベッドで彼に奉仕した。
『いいよ。コウ。すごくいい』
冬馬にそう言われる事が嬉しかった。
そのうち自分が、冬馬の欲望を受け止めるための人形なのだと、そう自覚してからも、それも愛の一つだと思った。
だって、いつだって彼はそばにいる。
そばにいてくれるのは、冬馬たった一人だったのだから…。

 

 

「撃て!」
そう言われて、初めて人を殺した瞬間を忘れる事が出来ない。
それまで拳銃は、冬馬に褒めてもらうための道具の一つに過ぎなかった。
15歳の時両親をジャンクに殺されて、いつか銃を手に持つ事を決意した。
しかし実際に黒羽に拳銃を握らせたのは、冬馬涼一だった。

初めて握った銃で、25メートル先の的を撃ち抜く。
撃ち終わった時、冬馬は隣で口笛を吹いた。
「へえ、すごいな、コウ。人間はどこに才能があるか解らないな」
黒羽は嬉しくて、頬を染める。
まだ、16だった。冬馬は優しいお兄さんだった。
「銃を握っていいのは本当は成人からなんだけどな。でも、コウには才能がある。オレがこっそり教えてやるよ。そうしたら、そのうち絶対オレの右腕になってくれよ」
冗談めかして言う冬馬。
しかし黒羽は真剣に頷いた。

涼一。大好きな涼一。
ずっと隣にいられるなら、僕はそうする。
涼一が褒めてくれるなら、僕はどんなことでもするよ。



冬馬にはリロードを徹底的にたたき込まれた。
リボルバーのシリンダーをスイングアウトさせて、からの薬莢を落とす。新しい弾をこめて、シリンダーを戻す。
通常4秒かかるリボルバーのリロードを、黒羽は3秒でやってのけた。
もっともリロードだけに限るなら、オートマチックのほうが早い。マガジンを下に落として入れ替える。
2秒ですむ。
それでも冬馬は黒羽にリボルバーを持たせた。
「いいじゃないか。リボルバーのほうが故障が少ない。それに、でかい弾も撃てるしな。だいたい砂城はもともとフロンティアなんだから、リボルバーが似合うんだよ」
冬馬は笑って言った。
たぶん、単純な彼の美意識だったのだろう。

どちらでもいい。黒羽は思う。
銃は、銃だから。
いまは冬馬に褒めてもらうためのものにすぎなかったけれど、それでも黒羽には解っていた。
これは、殺傷する道具だ。
どの銃を選んでも正確に扱える事。
それだけが大切な事だった。
本当ならジャンクだけに、この銃口を向けたい。
だけどいつか冬馬の隣に立つ時、人に向けなくてはいけない場面があるかもしれない。
その時、ぶれた手で引き金を引く事だけは、したくなかった。

正確に扱う事。
それが自分も、これを向けられた誰かも、どちらも守る事になる。
人の命を手の中に持つ権利を有する瞬間。
自分の指先が、ほんの少し後ろに引かれただけで、失われる命がある。
考えただけで、ぞっとした。

だけど、僕は、銃を持つと決めたのだから…。
銃を持つという事は、いつか必ず誰かを撃つという事だった。
遅かれ早かれ、必ずその瞬間は来る。
その時、未熟さで人を殺す事だけはしたくなかった。
だからこうして、銃が体の一部になりきるまで、体が動きを覚えるまで、何百発でも撃ち続ける。

黒羽のその姿を見ているものがいたら、きっとため息をついた事だろう。
彼の射撃は、美しかった。
安定した射撃体勢。
銃弾が飛び出すその瞬間さえも、反動など無いかのように、微動だにしない銃身。
長くしなやかな指が、正確にトリガーを引く。
狙った場所に、自ら吸い込まれるかのように着弾する弾。
その正確さは、高性能の機械マシンを連想させた。
たとえば銃身にコインを乗せて、千回引き金を絞っても、コインは下に落ちなかった事だろう。

黒羽 高は、射撃の天才と、そう呼ばれた。

「いいよ、コウ。最高だ」
冬馬の低い声が、耳元で甘く響く。
「いつか、オレのために引き金を引くんだ」
銃身の熱で手の周りに陽炎がのぼり、やがて、何も考えなくても体が動きはじめる。
力が自分の指先から、轟音をたてて飛び出していく。
体に響く反動を全身に逃がす。
心地よい瞬間。

銃を撃つ事は、好きだった。
だがそれで人を殺す事は『嫌』だった。
本当に嫌だったのに…。



冬馬が叫ぶ。
「撃て!」
冬馬は床に倒れていた。犯人は震える指で拳銃を構え、迷うように冬馬と黒羽の両方に銃口を向けた。
「コウ、撃て!」
冬馬の声が、いまも悲鳴のように耳に響く。
撃って殺せ! 
初めてだった。初めて人を殺した。
冬馬に、銃口を向けたから。
ただそれだけの理由で、僕は引き金を引いた。
警官になって、冬馬と組んで、最初のミッションだった。

「コウ、よくやった。いいんだ。判断は正しい。立派なオレの右腕だよ」
震える肩を冬馬は抱いた。膝に妙に力が入らず、僕は血まみれの死体を見おろした。
これで、いいんだ。いい子だ…コウ…。
その晩、ベッドで自分を抱く冬馬は、吃驚するほど優しかった。

「いい子だ、コウ。よくやった」
冬馬に褒められるのは、いつでも嬉しかった。
「お前は正しい。お前はオレの拳銃なんだから、オレを害するヤツは、あんな風に殺すんだ」
冬馬の腕の中で、黒羽は何度も頷く。
そうだ。いいんだ。涼一の隣に、僕は望んで立ったのだから。
彼のために、いつか誰かを殺してしまう事は、解っていたはずだろう?
それでも、体は震えた。
自分のこの手が誰かを殺す。
すごく怖い。どうしようもなく、怖い。

涼一にキスされて、頭の中が痺れたように何も考えられなくなる。
涼一につらぬかれて、体は勝手に反応する。
涼一、お願いだから、何度でも言ってくれ。
あれで良かったんだって。
僕が必要だって。
だって、だってそうでないと、でないと僕は…。



頭の中で、硬く冷静な自分が、闇の底にうずくまるようにして上を見上げていた。

…涼一は、あの時倒れていたけれど、ごらん、今だって足は痛くなんか無い。
本当は涼一は、少しも危なくなんか無かった。
お前が殺した男の銃口が、ぶるぶると震えていたのを、お前だって見ただろう?
涼一の腕なら、あの男の拳銃だけ打ち落とす事だって、本当は出来た筈なんだ。
なのに、彼はお前に撃たせた。
撃たせて、殺させた。
あの男は、たぶん涼一にとって、邪魔な存在だったんだろう。
犯罪者だという事とは、また別にね。
涼一が言っただろう?
『オレを害するヤツは、あんな風に殺すんだ』って。
あいつは何か涼一にとって、不都合なヤツだったんだよ。
ただそれだけ。本当は殺す必要性なんて、全然無かったんだ。
でも、お前にやらせるために、その為に涼一は演出した。
危ない自分。撃たれそうな自分。
お前が人を殺しやすいように、状況を作ったんだ。

お前がちゃんと自分の『いい子』かどうか、涼一は試したのさ。
自分の為に人を殺せる『いい子』かどうか…。
ついでに都合の悪いものも取り除く。

頭の中の冷たい自分は、囁きながら氷のような笑いを浮かべた。
そして、お前は撃ち、男は死んだ。
お前は、なんとなく解っていて、それでも撃ったね?
涼一は自分に都合のいい状況を、二つ手に入れたわけだ。
死んだ男と、いい子のお前。
『嘘つきの、汚い人殺しのいい子』を…。



違う!
もう一人の自分が、激しく泣き叫んでいた。
あれは正しい。正しい判断だったんだ。
だって、涼一がそう言った。あれで良かったんだって。
だから、きっと間違いない。
涼一、どうか何度でも言ってくれ。
あれで良かったんだって。
僕が必要だって。
だって、だって、でないと僕は…。

ただの、人殺しだ…。


「涼一、りょうい…ち」
「なに? コウ」
優しい涼一。
「僕は、今日の…ぼくは…」
涼一の唇が、黒羽のものを塞ぐ。
「いいんだよ、コウ。オレの言うとおりにしていれば、いいんだ。そうすれば…」

手に手を。唇に唇を重ねて、冬馬が囁く。

『愛してあげるよ、コウ』

 

 

 マンションのドアは、たぶん開かないだろうと思っていた。
しかし、手の中のドアノブは驚くほど軽く、するりと回った。
かちりと軽い音がして、ドアが開く。

黒羽が覗き込んだそこは…。
完全な空白だった。

なにも、まったく何も無かった。
玄関にかけてあった、冬馬の好みの風景画も、アンティークショップで手に入れたのだと言っていたコート掛けも。
全てがそこから運び出され、持ち去られていた。
生活の匂いは綺麗に拭い去られ、ただのガランとした空間だけが目の前に広がる。
人のいなくなった家は、ただの箱だった。
そこには冬馬という人間など、最初からいなかったかのようだった。

黒羽は、そっとドアを閉める。
解っていた。解っているはずだった。
いったい自分はここに、何を求めに来たのだろう。
冬馬がいるはずがない。
あんな風に消えた冬馬が、何か手がかりになるようなものなど、欠片一つも残していくはずもない。
何か自分だけには解るようなものが、残っているとでも思ったか?
そんな事、するはずがない。
彼は、完全に、消えたのだ。

…僕は、いらないと言われたんだ。



冬馬、僕は何を確認するためにここへ来た?
お前への憎しみか?
それとも、お前への執着か。
冬馬、僕はあれから何人も人を殺した。
もう、あんたの手の中で震えたりしない。
自分が最低だと、解ってしまっているから。

冬馬、あんたが世界の全てだった。
目の前の部屋には、何もない。
自分が失った世界が本当に無い事を、僕はもう一度確認するために来たんだ。




あの時、炎の中で冬馬に銃口を向けた時。
左手だけでは支える事が出来なかった。
だから、僕は今度は手にしようと思う。
あんたに向けるための銃口を。

ソウドオフ・ショットガン。
短い銃身。
片手一本で扱うための、オートマチック機能。

涼一。今度は右手が使えなくなっても、あんたをきっと殺せるよ。
涼一は、僕を必要じゃないと言ったね。
だから、今の僕はただの人殺しだ。
僕があんたを撃つか、あんたが僕を撃てば、それで世界は消えて無くなる。
そうしたら、やっとお終いに出来るんだ。

『レフトハンドショットガン』
大嫌いな名前。
けれど、今度は本当に、左手一本だけで、銃を持つ。
僕はそれだけを抱えて、荒野に踏み出す。
人殺しに、帰る場所はない。
だから、彷徨さまようために。
ただ彷徨うために荒野を歩く。
たった一人で。
左手に全ての罪を抱えながら。

END

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