正義の味方intermission2

異邦人


「殺すな!」
思わず声が出た。
だが黒羽はそのまま体を翻すと、右手を一振りする。
手にした特殊警棒がすらりと伸びた。
黒羽はそれで、逃げようとした男の身体を地に叩き伏せた。
殆ど優雅とも思える、なめらかで無駄のない動き。
何百回も繰り返して体にたたき込まない限り、こうは出来ない。
高中は茫然と口を開けて、その動きに見とれた。
同時に背中にぞくりと冷たいものが走る。

こいつは、変わった。
前に一度手合わせをした時も、戦闘の天才だとは思った。
だが、今は…。
今はあの時とは、少し違う。
こいつの中に『黒い染み』が見えた。

何故殺すな、などと叫んでしまったのか。
奴がそんな事をするはずがない。
そんな事をしなくても、こんなちんぴら程度、簡単に押さえ込める。
最初から分かり切った事だった。
なのに、頭はそう思っても、俺の体はそうは思っていなかったようだった。
あいつの、黒羽 高の瞳の中に、一瞬閃いた、本物の殺意。

「どうしますか?」
男を押さえつけたまま、黒羽 高が指示をあおぐ。
…殺しますか?
言っているはずはないのに、なぜか高中の耳に、そんな言葉が聞こえた。
底の見えない、黒い瞳。
高中は目を逸らした。
「そいつは縛ってその辺に転がしとけ。『出入り』の邪魔にならないように、口を塞いでな。まもなく突入だ」
黒羽は黙って頷くと、男の体を引きずって暗がりに引っ込んだ。
男の目は異常に怯えていた。

大丈夫。大丈夫の筈だ。当然だ。
あいつは警官なのだから。
俺は何を不安に思っている?
警官が『人殺し』の筈がない。

けど、だったらどうして俺は叫んだ?
「殺すな」と…。

 

 

「助っ人がどっかから来るんだって?」
高中のだみ声が部屋中に響き渡った。
「ええ、高中さん、今日来るって話ですが」
「誰が来るってんだ? 怪我した大野と串沢の代わりだろう? 大丈夫なのかよ。余所からの助っ人なんて。なまじのヤツじゃ暴対はつとまらんぞ」
「だから、荒っぽい所から来るんですよ」
パートナーの中川が間延びした声で言う。
まもなく『出入り』があるって言うのに、呑気な奴だ。
高中は睨んだが、中川はどこ吹く風と、ヤクザより鋭いその眼光を受け流した。
「荒っぽい所? そりゃどこだ」
「ここ以上に荒っぽい所は一つしかないでしょう? 高中さん。捜一の強行特殊班ですよ」
「強行特殊…。おい、まさか来る奴って」

噂をすれば影。
その言葉通り、次の瞬間タイミング良く、後ろから声がかかった。
大きくはないがよく通る涼しい声が、高中の背中をくすぐる。
「今日からしばらくお世話になります。強行特殊班から来ました、黒羽くろはね こうです。よろしくお願いいたします」
礼儀正しく落ち着いた、飾りのない最小限の挨拶。
そろりと振り向くと部屋の入り口には、驚くほど顔立ちの整った男が立っていた。
白い肌。さらさらと流れる黒い髪。女でも男でも、誰の目も惹き付けずにはおかない印象的な美貌。
銀のメガネがその顔に、僅かに冷たい雰囲気を持たせてはいたが、それでも部屋中の誰もが、ぽかんと口を開けて彼の顔に見とれている事が解る。
しかしそれは、高中が見たくないと思っていた顔だった。

…こいつかよ。こいつが出入りの手伝いをするのか?
期間限定とはいえ、これから毎日顔を合わせるのか。
出来るならずっとすれ違ったままでいる事を望んでいたのに。
高中は、吸い込まれそうになる自分の視線を、ムリヤリ黒羽から引き剥がして、顔を反らせた。

何で、よりによってこいつなんだ。
いや、事情は知っている。
あのホテルの火災以来、こいつにはパートナーがいないのだ。
パートナー制をとっている砂城の警察では、シングルは動きにくい。
それで他の部署に遊撃ショートとして廻される事が多くなっているのだろう。
パートナーがいないのなら早く次の奴をあてがうか、そうでなければ部署の移動をすればいいものだが、こいつの場合は事情が特殊だった。



強行特殊班に入った直後から、黒羽 高はかなり目だつ存在だったらしいが、今回のテロ事件で、それは決定的になった。
奴は警察官にあるまじき『有名人』になったのだ。
立てこもったテロリストがホテルを爆破し、火を放つ。
巻き込まれた市民が悲鳴を上げて死んでいく。
マスコミが大好きなセンセーショナルな事件。
そのテロリストにアタックをかけ、ただ一人生き残った男。
他の誰も生きては還ってこなかった火の海から、多くの観光客と子供を助け出して生還した男。
一人生き残った悲劇性と、危機一髪の救出劇。
これだけでもマスコミが放っておく筈はないのだが、加えて黒羽 高は、大変見栄えがよかった。
最近量産されてるような、ちょっと綺麗がウリ程度の芸能人など逆立ちしても奴には勝てない。
その顔をマスコミはこぞって、撮しに来たのだ。
もっとも運がいいのか悪いのか、奴の怪我は思ったよりひどく、意識不明と面会謝絶の日々が続いたので、熱狂的だったマスコミも、さすがにそれ程の無理を通しては来なかった。しかしそれでも、西署は一時期えらい騒ぎだった。

だから、奴は部署の移動が出来ないのだ。
少なくとも看板性が薄れるまでは。
そして当然なまじの奴ではこいつのパートナーはつとまらない、という訳だろう。
実力があるのは知ってるさ。
だが俺は…。

こいつは、苦手だ。

 

 

  暴力団対策課。通称『暴対』
まったく読んでその名の通り、暴力団を専門に扱う部署だ。
暴力団対策法が施行されて以来、一般的にはその運用と、暴力団情報の収集、分析が仕事とされている。
その他、暴力団関係の犯罪の捜査。
暴力団排除対策と暴力団追放センターの支援事務。
まあ、仕事の内容は様々だが、暴力団と一口に言っても、色々ある。
仕事の実情も、それなりに色々だ。
特にこの砂城は、特別スペシャルだった。

ヤクザといえば、麻薬と拳銃がワンセットだが、この拳銃がくせ者だ。
なにせ厳しい許可制とはいえ、砂城は日本で唯一市民の拳銃携帯が合法的に許された都市だ。
つまりヤクザであろうと正式に許可さえ得れば、拳銃を持ってもいい事になる。
自衛の手段は市民の権利、という訳だ。
いかにもなヤクザが懐に鉄砲を呑んでいても、ただ拳銃を所持していました、だけでは、引っ張る権利は警察にもない。
だから当然事が起きれば、ヤクザどもは簡単に拳銃を引っこ抜く。
向こうが抜けば、こちらだって抜く。
銃撃戦になって死者が出る事も、始終ではないにしろ、すごく珍しいという程でもない。
ここはそんな部署だった。



「おっどろいたなー、男のすっごく綺麗なのって、女の綺麗とは、次元が違うって聞いた事あったけど、ありゃーホントだったんですねえ」
中川が妙に興奮したように唾を振りまく。
手に持ったおでんの汁が高中めがけて飛んできた。
高中は不機嫌な顔を更にしかめてそっぽを向く。
「男が綺麗で、何の役に立つ」
「そりゃー、ひがみだ。高中さん、鬼八分みたいな顔してるからでしょ。おっと」
振り上げた腕を中川は器用によける。
バカ野郎、相棒なら黙って鉄拳を受けろ。

「話には聞いてたけど、実物は初めてお目にかかりましたよ。アレが噂の黒羽 高か」
焼き鳥をつまみながら赤い顔をした西口が呟いた。
「お前ら、もう酔っぱらってやがるな。俺の奢りだからってピッチが早すぎるんじゃねえのか」
「惜しかったっすねえ。彼も奢りなんだから来ればよかったのに。そうすりゃ今ごろ綺麗どころがオレの隣に」
「だから、男を隣にはべらせて、何か楽しいのかって聞いてんだよ」
「いいっスよ、オレは。あれだけ綺麗なら、男でも女でも」
「そういう事言う奴がいるから、申し訳ありませんが、ご辞退させていただきます、って言われちゃうんだろ?」
「お前、女に振られたばっかだったなー」
「それじゃ、一発お相手してもらうか?」
「いくら綺麗でも、あんなでかい男相手にか?」
「だけどよ、本人の前では言えねえけど、あいつ妙な色気があるぞ。綺麗ってだけじゃなくてさあ」
「げっ、アブねえ、オレ、ケツに気をつけよう」
「バカか、お前を相手にするくらいなら、オレは山羊のカマでも掘るね」
狭い飲み屋に、下品な笑い声が響いた。

バカ野郎どもめ。
美人の先生がやって来たガキみたいに浮かれやがって。
確かにここにいるのは、見た目は殆どヤクザ顔負けの連中だ。
だけどな、あいつはただの子猫ちゃんなんかじゃねえぞ。
高中の機嫌は更に悪くなっていった。
「高中さんは、そういえば黒羽に会った事、確かあったんじゃなかったっスか?」
突然、思い出さなくてもいい事を中川が言い出した。
「ああ? ポスターなら、何度も見たぞ」
「そうじゃなくて、実物」
高中は、ああ、ともぐう、ともつかない声を漏らした。



会った事は、ある。
向こうが覚えているかどうかは解らないが。
だがそれが、高中のいま一番思い出したくない事だった。
「ええ? 高中さん会った事あるんですか? 仕事で一緒になったとか?」
「…試合だ」
浮かれたような声に押される形で、高中は渋々口を開いた。
「試合?」
「逮捕術の、試合だよ。あいつは警棒で、俺に勝ったんだ」
高中の言葉に、中川は目を丸くする。
他の連中の間にも、声にならないどよめきが流れていった。
チッ。だから言うのは嫌だったんだ。
驚くならちゃんと声に出して驚け。
「高中さんが、負けた? そういえば、確かに警棒の試合では負けてたような気が…。だけど、相手は、その、黒羽だったんですか? 本当に?」

嘘をついてどうする。
そんなもの記録を見りゃ解る。
高中はコップ酒を一気に呷った。
あの野郎は、黒羽 高は、初めて俺に土を付けた男なんだ。
俺の腕を捉えて、あっさり床に押さえ込んだ。
普通ならそこで、感心して一目置いて、それでお終いだ。
だが高中は、今でもあの時の事を思い出すと、背中に汗が流れた。

 

 

 逮捕術大会。
聞き慣れない名前かもしれないが、一応50年の歴史を持つ格闘技の大会だ。
犯人の実際的な制圧逮捕を目的とした、警察官の格闘技。
「警棒VS警棒」「素手VSナイフ」など、状況に応じた様々な組み合わせで対戦する。
その技能を競う大会が、全国では年に一度行われている。

もっとも高中が黒羽と対戦したのは、砂城警察内の逮捕術の大会だった。
一チーム5人の団体戦で行われるが、砂城では逮捕術の個人戦も存在する。
しかも通常の逮捕術の試合より、かなり荒っぽいのが砂城式だった。

「高中さん、次の相手は捜一の強行特殊班ですよ」
前の試合で自分に負けた男が、近寄ってそう告げる。
「強行特殊班だあ? じゃあ、アレか、あいつが出るのか、冬馬涼一」
咄嗟にその名前が口から滑り出る。
冬馬涼一とうまりょういちは、かなり目立つ男だった。部署は違っても噂が勝手に耳に入ってくる程に。
あいつは競技では射撃専門だった筈だが、体術もかなりやる方だったな。
高中は冬馬の顔を思い浮かべた。
あんな優男のくせに、結構強い。
一度だけ柔道で対戦した事があったが、クレバーな試合運びをする奴だった。
しかし男は首を横に振った。
「違いますよ。近いけど。対戦相手は奴のパートナーのほう」
「パートナー?」
「知りませんか。黒羽 高って言って、冬馬涼一が強引に特殊班に引っ張ってきた若い奴」
「小僧っ子か? どんな奴だ?」
問われて彼は、妙な笑いを顔に浮かべた。
「えらく目立つ奴ですよ。見れば一発で覚える。ああ、来た。あいつ」

指さされた方向には、冬馬涼一がいた。
その隣には背の高い男が立っており、冬馬はセコンドよろしく彼にぴったりと張り付いている。
あいつが、黒羽 高か。
体はでかいが、確かにまだガキだ
最近の若造らしく、腰の位置が高く、すらりと体が細い。
あんなので戦えるのかよ。
含み笑いを漏らした瞬間、黒羽 高がくるりと振り向いた。
視線がまっすぐこちらに向けられる。
その視線に射られて、高中の体は一瞬固まった。
知らずぽかんと口が開く。
隣の男が、それを見上げて口の端で笑った。
「ほら、目立つ奴でしょう?」
「あいつ、男か? いや、どう見ても男だな。だけど、ありゃー、その…。警官の顔か? あ、う、いや、顔で警官をやる訳じゃないが…」
何だか知らないが、言い訳めいたものがボロボロと口から勝手に流れ出てくる。
何だ、何を俺は動揺しているんだ?

男は同情するように高中の肩を叩いた。
「まあ、あれだけ綺麗な顔だとね。気持ちは解りますよ。あそこだけ空気が違う感じだ。
しかし動揺させるのも、もしかしたら手かもしれませんよ。冬馬の奴、柔道で高中さんに負けた事をしつこく覚えているみたいだし。今度は自分の手駒を使って雪辱戦ってわけです」
「せ、雪辱戦って、黒羽、だったか? あの小僧。上背はあるが体重は無さそうだぞ。そ、そんな事」
「やり合ってみれば解りますよ。あんな顔のわりに、手強いですよ。かなりね」
男はそれだけ言うと、さっさとその場を離れてしまう。
な、何だってんだ。何が言いたい、あの野郎。あいつこそ冬馬の言いつけで俺を動揺させようって腹じゃねえのか?
黒羽 高が僅かに目を細め、こちらを見て会釈する。
「う、あ…」
声にならない声を漏らして、高中も思わず頭を下げた。
彼から、目を逸らす事が出来ない。

おい、おい、おい。
俺は一体どうしたっていうんだ。



勝負は、あっさり決着が付いた。
綺麗な顔に見とれていたとか、奴を見くびって油断していた訳じゃない。
ほとんど瞬殺だった。
もし本当にあいつが何らかの得物を手に持って真剣に戦っていたとしたら、自分はとっくに地面に冷たく転がっていた事だろう。
それ程の短時間で勝敗は決まった。
だが、高中にとって問題だったのは、その後だった。

試合場に入り、向き合って礼をする。
間近で見る黒羽 高の顔。
人間じゃないみたいだな。
ほんの少しだけそう思った。
どこまでも整った顔。白い肌。無機質な表情。
よくできた機械仕掛けの人形みたいだ。

「構え!」
主審の声で、高中と黒羽は警棒を中段に構える。
「始め!」
長い睫毛がまたたいたと同時に、黒羽の体が風のように突っ込んできた。
速い! なんて瞬発力。
高中の防御はまったく間に合わなかった。
静から動への、瞬時の変化。
たちまち最初の一本が高中の腕に入る。
始まって3秒。
痺れるような感覚が腕に広がっていく。
こいつ!
ぞくぞくと、全身に冷たいものが走っていった。

間髪を入れず次の攻撃が飛んでくる。
高中がそれを何とか交わすと、黒羽は軽く息を吐いて横に移動した。
畜生、速い。動きに目がついていかない。
単純に力だけを競うなら、間違いなく自分の方が上だ。
そうは思う。
しかし、体の柔軟さとバネが、黒羽に驚くほどの速さを与えていた。

気がつくと奴はいつの間にか警棒を逆手に構えていた。
高中は舌打ちをする。
本来警察官はやらない型だが、この持ち方だと腕に隠されて警棒を視認する事が出来ない。
どこから攻撃が飛んでくるのか、まったく予想がつかなかった。
しかし、こいつの攻撃はえらく正確だ。
その正確さは、最初に感じた通り、機械仕掛けの人形を連想させる。
得物がどこから飛んでくるか解らなくても、これだけ正確な攻撃なら、どこに飛んでくるかは解る。
そいつを防御しさえすれば…。
だが次の瞬間、高中の警棒は手からはじき飛ばされていた。

あまりにも一瞬の出来事で、防御どころか何が起こったのかまったく解らなかった。
バランスを崩した所を払われ、組み伏せられて動けなくなる。
たった一分で、高中は全ての動きを完全に封じられてしまった。

俺が? 
高中は茫然とする。
この俺がただの一度も反撃できずにお終いか?
現場で鍛えた自慢の腕が、背ばかり高い、経験の不足したガキに、一撃も与える事ができなかった。


こいつ、天才だ…。


戦うための型は、ある程度体に覚え込ませる事が出来る。
だが実戦において相手の動きを瞬時に予測し、隙と弱点を見抜いて攻撃する力。
それは才能だ。
経験によってある程度は補う事が出来るが、それでも戦闘におけるカンは、天性のものだった。
試合じゃなかったな。
そう思う。
試合なら駆け引きが存在する。
だがこいつは驚くほどの速さで自分の得物を飛ばし、動きを封じようとした。
彼の動きは競技のものではなかった。
こいつがやったのは、まさしく実践的な戦闘だった。

ただ、多分こいつは、現場の経験はほとんど無い筈だ。
高中の直感はそう告げていた。
まだ本当に戦闘を経験した事はないだろう。
黒羽の体からは、現場をくぐり抜けてきた者のみが持つ『重さ』がまったく感じられなかった。
『気迫』の様なものが欠けている。
だから余計人形めいているのかもしれない。
そう思った。
戦闘が実際の重さを伴っていない分、技術だけが突出し、その無機質な煌めきは、人に倒されたと言うより、ナイフに刺されたような印象を高中に与える。

そして、そのナイフは、恐ろしく切れ味のいいものだった。



「まいった」
高中は素直にそう叫んだ。
宣言する必要など無いが、こうまで完敗だと何か言わなくてはいけない気分になる。
だが、そう叫んだ瞬間、高中はぎくりとして目を見開いた。

黒羽 高の顔が、自分の目の前にある。
ごく至近距離に、驚くほど綺麗な、その顔が。
呼吸はまったく乱れていないが、白い肌は微かに紅潮し、軽く開かれた口からは白い歯と紅い舌が覗く。
人形のような硬い顔に、それは妙に生々しい。
前髪が首筋をくすぐり、息が、顔にかかる。

こいつ、男なんだよな…。

そう思った次の瞬間だった。
いきなり高中の男の部分が反応しかけたのだ。
仰天した高中は、反射で黒羽の体を突き飛ばす。
試合の勝敗が決まり、押さえ込みを解こうとしていた黒羽は、あっさりと高中の腕にはじき飛ばされ、後ろに数歩よろめいた。
彼の瞳が驚いたように見開かれる。
周りの見物人も騒めいた。
それはそうだろう。負けた高中が、腹立ち紛れに勝者を突き飛ばしたように、間違いなく見えただろうから。

しかし高中には、周囲の目を気にする余裕などまったく無かった。
顔は熱く紅潮し、汗が流れ出しそうになっているというのに、背中だけが妙に冷たい。
俺は、今、何を思った?
俺は、俺はホモじゃねえぞ。
しかもあんな時に。
腕をとられて、押さえ込まれている時に。

誰にも気付かれてはいない。
だが、自分自身はごまかせない。
高中は恥ずかしくてどうにかなりそうだった。
勝負に負けて、押さえ込まれて、そのうえ男に欲情か?
高中は礼もそこそこに大股で試合会場を出ていった。
黒羽 高がこちらを見ているのに気付いたが、もう二度と視線を合わせる気はなかった。
他人にどう思われても構わない。
高中は何も視界の中に入れないようにして、ひたすら足を動かし続けた。
今はただ、一刻も早くこの場を離れたい。

 

 

 思い出したくなかった。
高中はもう一度酒を呷る。
好奇心満々のこいつらには、試合で負けた事、黒羽 高が手強かった事、それだけを簡単に話した。
高中が不機嫌な顔をしていたので、誰も深く追求しては来ない。
しかし、話せば余計な事も一緒に思い出す。

男に欲情する。それは、オカマだ。
あの時の自分が高中は信じられなかった。
そんな筈はない、と思う。
俺はホモじゃない。
それだけは解っている。
結婚もしてるし、ガキだっている。
女以外に勃てた事なんて一度もない。
もちろん男のそこは何もなくても、物理的に反応する事がある。
しかしあの時は、そうじゃない事は解っていた。
黒羽 高の顔が、唇が、吐き出された息が、今でも生々しく脳裏に浮かぶ。
あの瞬間、確かに俺は何かに誘われたのだ。
黒羽 高の何が俺を捉えたのかは解らない。
ただ俺は、奴からまったく目を離す事が出来なかった。

あいつが綺麗だったからか?
それともあいつに組み伏せられたからか?
俺は組み伏せられて、その事に欲情するような男だったのか?
いや、黒羽 高のせいだ。
あいつだからだ。
あいつは、どこか変なんだ。
最初に見た時から、俺は動揺していた。
言い訳でもいい。あまり思い出したくはない。

気がつくと高中は、黒羽の顔をまともに見る事が出来なくなっていた。
部署が違うのだから、あまり顔を合わせる事もない。
それは幸いだった。
だが、それでも時々は会ってしまう。
特に風呂場で会ったりしたら、最低だった。



…あいつは苦手だ。
俺の日常を、あいつは壊す。
俺は本当はこんな事を思い煩って悩む様な男じゃない。
俺の周りには俺のよく知っている日常だけがあれば、それでいい。
自分の信じてきた常識を、俺は微塵もひっくり返されたくない。
異質なものは、自分の世界に必要ない。

なのにあいつは、ここに来た。
すぐ、隣に…。
高中はますます不機嫌の底に沈んでいった。

 

 

「改造拳銃ですか?」
「拳銃だけじゃねえよ。サブマシンガンも、軍仕様になってるって話だ。未確認だが、ランチャーがあるって噂も聞いた」
「それを外に流そうと? 戦争でもするんですか?」
「さあな、ヤクザなんて馬鹿だからな。でもまあ、だからそうなる前の手入れなんだよ。いくら拳銃所持が合法でも、改造銃は完全に違法だ。ましてやそれを外に流そうなんてな」
「撃ち合いになりますね、タイミングを誤ると」
「だろ? 大変な時に手伝いに来たよ、お前」
「その為の手伝いだと、最初から承知はしています」
中川が黒羽 高に物騒な話をしていた。
『出入り』の話だった。

でかい取引がある。
その情報だけは前から流れていた。
詳しい事が解ったのはごく最近だ。
長い時間をかけて、ひっそりと罠をしかけてきた。
その罠を引き絞る瞬間が、すぐそこまで迫ってきている。
呑気な顔をしながらも、部屋の空気が次第に緊張感を帯びている事に、誰もが気付いていた。
撃ち合いになったら、死ぬ奴が出るかもしれない。
口には出さないが、誰もがそれは自分かもしれないと覚悟している。

そんな雰囲気の中、黒羽 高だけは、奇妙に静かだった。
出来るだけ目を合わせないようにしてはいたが、それでも一緒の部屋にいるのだから、まったく見ないという訳にはいかない。
久しぶりに見た黒羽 高は、えらく変わっていた。
前にはまったく見られなかった、『重さ』が感じられる。
たぶん、現場を経験したせいだとは思った。
現場を、特にウチや、こいつがいる強行特殊班の様な、修羅場をくぐる事が当たり前の部署で経験を積むと、ある種のハクがついてくる。
『気迫』と言ってもいいし、『覚悟』と言ってもいい。
それは、悪い事ではなかった。

ただ…。
高中は思う。
こいつのそれは、まるで黒い染みのように感じられる。
現場の経験は、普通人に何かをつけ加える。
しかし黒羽は、逆に何かを置いてきたように思えた。
何かをごっそり置いてきて、あいた穴に、代わりに『黒い染み』が広がっている。
そういう印象があった。



「中川」
「なんです?」
「お前ずいぶんと黒羽にべったりじゃねえか」
「あ、ああ。はあ、まあ、その…」
「気に入ったのか? おい、まさかあの酒の席の戯れ言が本気だってわけじゃねえだろう? 奴と寝たいのかよ」
「ええ? えええ? まさかぁー」
中川は困ったような顔をして笑い飛ばした。
だが、それは半分は本当で、半分は嘘だろう。
高中にはなんとなく解った。
もうすぐ『出入り』だ。
そのつもりはないが、それでも死ぬかもしれない予感が、ずっと俺達につきまとっている。

だから、お前はあいつに惹かれるんだよ。

死は残念ながら日常ではない。
日常から離れる事を、俺達は本能的に嫌う。
けれど、黒羽 高は静かだ。
まるで死など来ないか、そうでもなければ日常の続きだとでも思っているかのように。
だから、惹かれるんだろう?
あいつの静けさに、安心したいんだろう?

だけど、そいつは錯誤だ。
明かりに近寄った羽虫は、火に落ちて命を失う。
あいつが静かなのは、あいつ自身が死の続きにいるからだ。
死を日常の続きだと思っている奴の近くにいると、中川、お前が命を落とすぞ。
あいつはどこか変だ。
あいつの欠けた穴に、落ち込んだらお終いだ。
お前の日常に、あいつを入れるな。

しかし高中はそれを中川に告げる事は出来なかった。
どう言っていいのか、よく解らなかったのだ。



そしてそれきり、永久に言う機会は失われた。
中川は『出入り』で死んだ。
誰もが奴の死を心から悲しんだが、同時にそれが自分ではなかった事に心の底から安堵した。
それが俺達のリアルな死だった。
それが俺達の日常だった。

 

 

  黒羽 高がヤクザの下っ端を掴まえて物陰に引っ張っていった数時間後、『出入り』は行われた。
タイミングはある程度よくて、そこそこ悪かった。
撃ち合いは避ける事が出来なかった。
黒羽 高は何のためらいもなく飛び出し、そして、あの時俺を押さえ込んだ力を一気に解放した。
今度は、優秀な殺し屋として。

あいつが何人殺したのか、俺は言いたくない。
記録を見れば解るだろう。

ただ、一つ解った事があった。
あいつについた黒い染み。
それはきっと『血』だ。
初めて見た時人形のように無機質だと思ったあの男は、今は血にまみれていた。

俺達は、不思議な事に死に魅かれる。
恐ろしさで目をそむけるのと同時に、覗き込んでみたいという衝動。
人の死に、俺達は興奮する。
性に興奮するように、時には興奮する。
それは、錯誤なんだ。
俺達は時々、その区別が付かなくなるのだ。



俺はあいつから目を離す事が出来なかった。
あいつは変わった。
黒い染みはあいつの顔に深い影を落とし、時にぞっとするような凄みを与えている。
血にまみれたあいつは、恐ろしく綺麗だった。
恐ろしいほど、俺を誘った。

だから、どうか俺の日常に入らないでくれ。
お前はどこか俺の知らない場所からやって来た、異邦人だ。
俺は、俺の知っている日常だけが欲しい。
お前が帰ったら、俺はまたお前の事は忘れる。


大丈夫。大丈夫の筈だ。
あいつは警官なのだから。
警官は『人殺し』になったりしない。

だが、この不安は何だろう。
あの男のナイフは、恐ろしく切れ味がいい。
それを向ける相手が誰になるのか。
あいつが間違えない事を、俺は祈った。

END

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