incident13−2


黒羽の押し殺したような声に、篁 洋平はニヤニヤ笑って首を振った。
「いえいえ。具体的にどうという話ではないですよ。ただね、噂を聞いたので。あなたの近くにいる人は、死んだり怪我をしたりするんですって?」
黒羽は眼を細めたまま、話の続きを待った。
彼は黒羽のリアクションを期待していたようだが、沈黙する黒羽に肩をすくめると、話を続けた。
「そんな人が映画祭の警備だなんて、皮肉な感じがしますよね。また何か起こったりしたら大変だ。ま、海里は命拾いしたわけですが。でもあれですよね。弟は、足、無くすところだったんでしょう?」
黒羽は、肯定も否定もしなかった。
そう、海里を助けたという事実はない。無いことしろ、というのが黒羽に与えられた命令だった。
だから、この男がどんな形で誘導しようと、引っかかるつもりはなかった。

そんな黒羽の態度を、篁 洋平は嘲笑った。
「職務に忠実なんですね。私に黙っていても意味がないんですけどね。なぜなら足の費用の事を海里に持ちかけさせたのは篁ですから」
黒羽の表情が、初めてぴくりと動く。

海里に対して行われた、上からの特別措置。
辻が呟いていた政治的配慮。
そういったものに、この男は関わっているのだろうか。
だとしたら彼は、確実にどこかで冬馬涼一と繋がっているはずだった。
黒羽の心の汚泥に、ぶくりと泡が湧いた。
この男を通じて、冬馬が自分に何か接触をしてこようとしているのだろうか。
それとも、爆弾魔と同じように、この男も自分の意思でしたいことをしているだけなのか。
どこまでが冬馬のたくらみで、どこからがその人間の意思なのか、こちらには解らなかった。
だとしたらできるだけ多く、この男に何かを喋らせる必要があるだろう。
情報は多ければ多いほどいい。
ただ、自分は冬馬と違って、こういった駆け引きは得意ではなかった。

海里あれが家に泣きついてくるなら、それでもよし。来なくても、まあ事件に巻きこまれたなんて不名誉なことは永久に黙っていてもらう。どっちにしても篁の家に損はない。ただまあ、私はてっきり泣きついてくるかと思ってたんですけどね。あれは甘ったれの根性無しですから」
「それほど根性無しでもないようですが」
黒羽がここで返事をするとは思わなかったらしく、篁 洋平はジロリと睨んだ。
「おや、やっぱり海里を助けたんですか? 黒羽さん」
その質問に対しては、黒羽は沈黙を守る。
篁 洋平は、フンと鼻を鳴らした。
「まあね、海里も困ったものです。ああいう男でも、篁の次期当主なんでね」
「次期当主? あなたの方が兄なのではないですか?」
黒羽の質問に、洋平は露悪的な笑みを浮かべた。その質問を、まるで待っていたかのようだった。

「兄ですよ。年齢的にはね。でも私は妾腹の出なので。たとえ年上でも、せいぜいがスペアです。私は自分の立場をわきまえていますよ。
篁はね、基本的には血で判断されるんです。本家の直系。正妻の男子。これが一番偉い。たとえどれだけぼんくらでも、そう決まっているんです」
なるほど、と黒羽は思った。
彼は恐ろしいほど巨大な自尊心とコンプレックスを、同時に持ち合わせているのだろう。
それは時間をかけて心の中で熟成され、彼の闇を作り上げた。
黒羽には篁の家がどんなものだかは、まったく解らなかった。
だがその家と血が何十年もの間、この男をギリギリと縛り上げ、限界まで歪ませているのは確かだった。
「では、弟さんが帰ってこなかった方が、あなたには都合がいいんじゃないですか?」
ありきたりだが、挑発の言葉を黒羽は口にした。
しかし、そういった挑発は、予想の範囲内だったのだろう。
篁 洋平は馬鹿にしたように笑った。

「私は自分の立場は心得てると言ったでしょう? 私は篁です。当主になるのは直系の正妻の男子がいいに決まっている。篁はそう考える一族なんですよ」
「では、ここには弟さんを連れ戻しにいらしたのですか?」
「いいえ、ビジネスでね」
「お仕事ですか。それはどのような? 映画祭と関係があるのですか?」
洋平は、首を横に振った。
「映画祭は、まあついでです。翔子の面倒もみなくちゃならないので、少しは関わりますが。でも、私の仕事はもっと大きなビジネスですよ」
「使役品に関わることですか?」
黒羽の質問に、洋平はぶつっと口を閉ざした。

しまった、急ぎすぎただろうか?
黒羽は心の中で舌打ちをした。 
やはり自分は冬馬のようには人の話を誘導できないらしい。



彼は常に自らを大きく見せたいようだった。
黒羽に対して妙に突っかかるのも、自分の方が上だということを相手に示したい現れのように思えた。
最初黒羽は、なぜこの男が自分に対して挑発的なのか、よく解らないでいた。
ただ彼が、ひどく何かを憎んでいるのは感じられた。
憎んでいるものの塊の中に、たまたま黒羽がいる。
おそらく、そんな感じなのだろう。
そして、話しているうちに、その考えは、ある程度正しいと思えてきた。
たぶんこの男は、生まれつき持っている血があらわすものを憎んでいるのだ。
もちろん人の心はそれほど単純なものではないから、他にも理由はあるのだろう。
しかし……。

正妻の男子だというだけで、誰よりも上だと評価される弟。
生まれつき綺麗だというだけで、高島のような男から一目で価値を認められる黒羽。

更に言うなら海里も黒羽も、その価値にひどく無頓着だった。
むしろ価値を認めていない。
彼にとって、そういったことも、憎悪の対象なのだろうと思われた。
自分がもっとも価値を見いだしているものを、無視する人間。
それは彼にとって、自分の存在を否定する『敵』だった。

お前らは馬鹿だ、と篁 洋平の濁った瞳は語っていた。
そうだ、馬鹿だ。
だから馬鹿なのだと思って、放っておけばいい、と黒羽は思う。
しかし何故か彼のような人間は、『敵』を放っておくことが出来ないようだった。
自らの下に置いて踏みにじりたい。
そうでなければ世界から消してしまいたい。
彼の瞳の中の危険な光は、その二つの選択の間で揺らめいていた。

……この男。

黒羽の瞳の中にも、剣呑な光が灯りはじめた。
こういった感情を、冬馬がひどく好きなことを黒羽は知っていた。
間違いなく彼は、何かに利用されていた。
彼のような人間は、特に珍しいわけではない。
自らに満たされずに、何かを憎み続ける男。
機会さえあれば、その対象に毒を吐きかけることを望む男。
そう、世の中にはたくさんいる。
だが、彼はそういうタイプの男であり、かつ『篁』だった。

一人ではなく、千人に毒を吐きかける事が出来る男。
千人に吐いた毒を、さらに広くばらまくことが出来る男。
特例措置を市に働きかけることが出来る男。
そんな男は滅多にいない。
そう、多分ここに、たった一人いるだけだ。

使役品関係か、と問われて彼は口をつぐんだ。
爆弾の中に入っていたのは、使役品だった。
喋りすぎたと、彼はそう思ったに違いなかった。

あれほど見せびらかすように喋っていた篁 洋平は、今は完全に沈黙していた。
彼はいかに自分が大きな仕事をしているのか、馬鹿な弟より有能か、黒羽にひけらかしたかったに違いない。
うまく誘導すれば、彼の仕事の実体を、もう少し喋らせることもできた気がした。
だが、黒羽は早く核心を突きすぎた。
こうなってしまったら、自分の技量では、再び彼の口を開かせることは難しいだろう。
まあいい、と黒羽は思う。
ここまででも上等だ。僕は運がよかった。
この男の虚栄心がなかったら、篁が冬馬に関係していることも、知らないままだったに違いないのだから。
この男は、本当は黙っていればよかったのだ。
だが、黒羽を見た瞬間、彼はどうしても無視することが出来なかった。
生まれつきの血の上に胡坐をかいている、憎むべき『敵』
それをほんの少しでもやり込め、自分が上位であることを思い知らせ、精神的にいたぶりたい。
コンプレックスから来るその欲求に、彼は抗うことが出来なかったのだろう。

黒羽はしばらく待ったが、結局、篁 洋平は、口を開かなかった。

 

 

黒羽は、ふうっと息を吐き、一礼した。
「それでは篁さん。お話が終わったようなら、僕は失礼します」
篁 洋平は、唇を緊く噛んだ。
何か言い返したいのだろうと思われた。
話を打ち切られ、自分の許しもないうちに勝手に去ろうとしている黒羽の態度は、彼の内心を激怒させたに違いない。
しかし、なんと言っていいのか、咄嗟に思いつかないのだろう。
彼の手は小刻みに震えていた。

完全に敵に回したな、と黒羽は思う。
だが仕方ないだろう。
黒羽のような男は、黙っていても彼にとっては敵なのだから。
黒羽は彼に背を向けて歩き出した。
もう振り向くつもりはなかった。
だが篁 洋平は、立ち去る黒羽の背中に向かって、ひと言言い放った。
どうしても何か言わないでは、いられなかったのであろう。
たとえばそれが、あまり意味のない侮辱や脅しにすぎなかったとしても。
相手に勝手に話を打ち切られ置き去りにされるくらいなら、相手を痛めつけるための言葉の暴力を選ぶ。
だから、篁 洋平は、こう言った。


「今度のあなたのパートナーは、長く生きていられるといいですね」

黒羽は、ピタリと歩を止めた。

黒羽が立ち止まった瞬間、最初に篁 洋平の顔に浮かんだのは、勝利の微笑みだった。
自分の言葉が、確実に相手の胸に突き刺さったことを確信したからだ。
しかしその笑みは、すぐに消え去った。
何故なら黒羽が立ち止まり、くるりと振り向いたと思った次の瞬間、その身体が洋平の目の前に立ちふさがったからだ。
本能的に逃げようとした洋平の動きを、まるで獲物を捕らえる蜘蛛のように、黒羽は素早く押さえ込んだ。
廊下の壁と自らの腕を使って、退路を塞ぐ。
あまりにも一瞬の出来事に、篁 洋平は何が起こったか解らず、きょときょとと目を泳がせた。

「……え。あ…。黒羽…さん?」
洋平の瞳の中に、かすかに怯えの色が浮かんだ。
自分が肉体的に完全に捉えられてしまった事に対する、原始的な恐怖だった。
黒羽は洋平に顔を近づけ、顎に手をかけた。
逸らそうとする瞳を、まっすぐ自分の方に向かせる。
そして、低い声で囁いた。

「香澄には、何もするな」

冷たく、無機質な、容赦のない瞳。
「手を出したら、僕は手加減しない」

篁 洋平はごくりと喉を鳴らした。
あまり経験のない原始的な恐怖に、戸惑っているようだった。
無意識に身体は逃げようと動くが、黒羽はそれを許さなかった。
腕と脚は洋平の身体をがっちりと押さえ込み、顎にかけられていた指は、頸にも伸ばされる。
洋平の戸惑った瞳に、次第に恐怖の色が浮かびはじめた。
今、自分の身体を、黒羽がどうとでも出来ることに突然気づいたようだった。
それでも何か言い返そうと彼は口を開いたが、喉からは空気が漏れ出ただけだった。
幾度かひゅうひゅうと音をたてた後、やっと彼は震えながらも、いつもの嗤い顔を形づくった。
「な…。何かするというんですか? 私に、あなたが? 黒羽さん。あなたが私に何かできると?」
「なんでも」
「な、なんでも? 警察でしょ、あなた。市民に暴力をふるってもいいと思ってるんですか?」

馬鹿のくせに、と震えながら、その瞳は語っていた。
命令で動くしか能のない、下っ端の犬のくせに。
黒羽は犬らしく、唇を曲げた。
チラリと白い歯がのぞく。
喉にかけられた指の力が、ほんの少し強くなった。
篁 洋平は、ぶるっと身体を震わせ、小さくひい、と悲鳴を上げた。

「僕が、何も出来ないと、そう思っているのか? おまえ」
「あ…。あ、いや、その…」
「僕が警察で、お前が市民なら、確かにお前は保護の対象だ。僕はお前を守ろう。だが、忘れるな」
黒羽はほとんどくっつかんばかりに洋平に顔を寄せると、すっと目を細める。
洋平は黒羽の腕の中でびくりともがいたが、黒羽の指は一ミリも動かなかった。
静かに、ひどく静かに黒羽は囁いた。
「…僕は、確かに飼い犬かもしれない。けれど、主人はお前ではない。お前は保護の対象かもしれないが、僕がお前の命令に従うことはない。
その違いを、よく覚えておくことだ」

ギリギリまで顔を近づけて、耳の底に言葉を吹き込むと、黒羽はふいと手を放し、身体を引いた。
拘束から解き放たれた洋平は、廊下にすとんと尻をついた。
身体中から力が抜けてしまったかのように、ぐんにゃりと座り込み、立ちあがることが出来ない。
「……あ、あ?」
ひどくマヌケな声が唇から漏れる。
突然解放された状態が、よく把握できていないようだった。

黒羽は篁 洋平を見下ろし、突き刺すように言った。

「僕の情報を、誰から吹き込まれたのかは知らない。だが、僕の手はいつでもお前に届く。僕にはできないだろうと思うのは勝手だ。しかし……」
黒羽はゆっくりと息を吐き、自らの闇を、意識的に吐き出した。

「覚えておけ。僕は――人殺しだ」

 

 

足音が遠くに去っていく。
だが、篁 洋平は、しばらく立ちあがることが出来なかった。
足からは力が抜け、腕の震えが止まらない。

嫌な、嫌な男だ。
あんな風に、力で押さえつける事しかできない、野蛮な男。
怒りがどす黒く胸の内から、うねるように湧き上がってくる。
畜生。
あんな男に押さえつけられ、好きなようにいたぶられた。
ひどい屈辱だった。
にもかかわらず、立ち去っていく黒羽の後ろ姿を、顔を上げて見ることすら、怖くて出来なかった。
あの指が、喉を押さえ込んだ指の感触が、まだリアルに残っている。
ほんの少し内側に力を加えられたら、一瞬で息が詰まっただろう。
あんな男に、数分とはいえ自分の命を完全に握られた。
恐怖と屈辱から来る怒りで、身体の震えを抑えることが出来なかった。


「どうしました?」
静まりかえった廊下に、いつの間にか誰かが近づいてきていた。
聞き慣れた穏やかな声が、上から降ってくる。
「ああ、……あ」
洋平はその声に、やっと顔を上げることができた。
「大丈夫ですか? ひどい顔色だ。立てますか?」
背の高い男が差し出した手に縋り付くようにして、洋平はよろよろと立ちあがった。
まだ力は、戻ってこない。
それでも洋平は恨みがましい声で、手を貸した男に噛みついた。

「あ、あんた。は…話が違う」
「なにがです?」
男は不思議そうに首を傾げる。
「あ、あんなに危険な感じの男だとは言わなかったじゃないか」
「経歴はお教えした筈ですが」
「聞いたが…しかしあんたたちは、もう少しは与し易い男だと、そんな感じで喋っていた」
男は浅黒い顔をかすかに傾けたまま、興味深そうに尋ねた。
「違いましたか」
「お、脅されたぞ。自分は人殺しだと、そう言った。この私に向かってだ」
「黒羽 高は、もともとあなたと違って下賤な男なのです。けれど、ずいぶん挑発的ですね。何か彼に、おっしゃったんですか?」
「私の方が悪いというのか!?」
男は驚いたような顔をして、大きく首を振った。
「とんでもありませんよ。篁の実質のナンバーワンが、遺漏などする筈は無いと信じています。だとしたら…」
「だとしたら? 沢木さん?」

砂城では目立つ浅黒い顔をした男、沢木は、すうっと眼を細めて黙り込んだ。
篁 洋平は怪訝な表情で、その様子を見つめる。
「どうした?」
「いいえ、ただ。…黒羽 高は、あなたを脅したのですね」
「そ、そうだ」
「公務員の立場から考えると、彼が自分にそういう行為を許しているとは思えないのですが…。でも、あえてそうしたのだとしたら」
沢木の残りの言葉は、口の中で小さく呟かれた。

「なにか、彼の中の状況が変わったのか?」

「え? なんだって?」
「いえこちらの話です。篁さん。無礼な男には、かならず罰をくだしましょう。大丈夫、保証します。なに、黒羽 高がどれほどいきがっても、向こうは一人です。出来ることなど限られていますよ」
沢木の言葉に、心の底からホッとしたように、洋平の顔は笑み崩れた。
沢木はその笑顔に儀礼的に微笑み返しながら、頭の中で新しい情報を検討しはじめた。

黒羽 高が、瞭然と他人を威嚇する。
それは今までの彼のメンタリティには、無い行動だった。

黒羽 高は、おそろしく優秀な男だが、同時に扱いが難しい男でもあった。
潜在的な能力ポテンシャルは信じられないほど高いのに、ほとんどの場合において、それは有効に活用されることがない。
黒羽 高は、基本的には温和しく、何事においても消極的だ。
それが悪いとは言わない。時には長所となることもあるだろう。
だがあの男の場合、時にそれは沢木にとって、怠慢のように見えた。
怠慢、無為、拱手。
沢木がもっとも嫌悪する、人の悪癖。
流されるように動き、事に目を瞑り、知っていても動こうとしない。
出来る筈のことを、自ら放棄する。
他のどんな事よりも腐ったにおいを発する、最大の悪徳。
故に沢木は、黒羽 高が嫌いだった。

あの男を使うのは難しい。
たとえどれだけ優秀だろうと、怠け者で気紛れな男の不安定な能力など、沢木だったら使うに値しないと思うだろう。
だが冬馬涼一は、ひどく彼に執着していた。
確かに冬馬涼一なら、あの男を上手く使うことが出来るのかもしれなかった。
冬馬の元にいた時、黒羽 高は信じられないほど多くの功績を残したからだ。
あの力を、冬馬はもう一度手にしたいのだろう。

沢木は黒羽が嫌いだったし、冬馬に牙を向けてくる今の状況では、邪魔な存在としか思えなかった。
しかし、放っておいた。
そう、放っておいても大きくは仕事に差し支える事はないと判断したからだ。
深刻にこちらを妨げる存在となるのなら、どれだけ冬馬涼一が彼に拘泥しようとも、排除することを考えただろう。
だがあの男は、一人では気まぐれに力を放出させることしかできない。
瞬間のパワーは恐ろしいし、決して侮ってはならないと自覚しているが、彼にはその力を、目的に合わせ効率的に行使する才能がなかった。
そしてあの難しい男を上手く使うことの出来る人間も、いそうにない。
ならば敵ではなかった。
黒羽 高が一人でどれだけ動こうと、あの不安定さがある限り、簡単に弄する事も出来る。
ずっとそう思っていた。

なのに……。
それが変わってきているのだろうか。
あの黒羽 高が、銃を突きつけられでもしている状態ならともかく、平時にどんな罵言を浴びせられようと、誰かを能動的に威嚇するなどありえない。
…ぞくり、と背中にかすかな寒気が走った。

篁 洋平の話が本当なら、彼の近くに誰かがいるのだ。

あの男は、銃だった。
引き金がひどく堅く、重くて扱いにくい拳銃。
能力はおそろしく高いが、彼を握り、狙いを定めて撃つ人間がいない限り、たいして怖くはない。
なのに、いるのか?
銃把をしっかりと握り、安定させることの出来る誰かが。

あの男に揺るぎない目標と意思が与えられたら、ひどく厄介な、そして恐ろしい敵となるだろう。
だとしたら、いくらお気に入りの玩具とはいえ、冬馬涼一が残した宿題は、かなり難儀なものだった。
冬馬はこれを知っているのだろうか。
自分の玩具だった男が変わりつつあることを。
黒羽 高は、冬馬だけがこだわっている、個人的な執着の対象だ。
ならば、冬馬自身に責任を取ってもらいたかった。

自分は関わりたくはない。
心の底からそう思っていることに気付いて、沢木は驚いた。
どうして?
何故そこまで、黒羽という男に関わりたくないのだ?
解っている。そうだ、驚くことなど無い。
沢木は唇を曲げて嗤い、自らの心の暗闇をまさぐる。
掴んで引き上げたそれは、『恐怖』だった。
そう。
あの男が嫌いで、そしてひどく怖いのだ。

攻略するべき敵として認識するなら、怖くはない。
難しくても、戦う方法を考えればいいだけだ。
だが、自分が彼に対して感じる怖れは、もっと生理的なものだった。
ほとんど嫌悪に近い生理的な恐怖。
あの男に、近くにいて欲しくない、と思う。
彼は、もはや人から遠く離れてしまった冬馬涼一と、同じくらい異質だった。
そして……あの顔。
冬馬の顔は、まだ人間のものだ。なのにあの男の顔は、まるで仮面だった。
しかも恐ろしく魅力的な、誰もを惹きつけてけっして離さない、白い美貌。
あんな美しさは、不自然だと思った。
いや、自分はもっと奇怪でバカバカしい連想を、彼の顔に見ていた。

不用意に近寄ったら、捕食されてしまうのではないか。
あの不自然なまでの美しさは、人を喰うために用意されたものなのではないか。

あまりにも子供じみた突飛な空想に、沢木は苦く嗤った。
こんな事すら考えてしまう『恐怖』という感情が、まだ自分の中に残っている。
たぶん恐怖とは、原始的な感情なのだろう。
何もかも捨ててきた人間にも、恐怖だけは残っている。
理屈ではない。
彼がたとえば、自分の隣に座ったら。
…考える事すら、おぞましかった。

しかし、どれほど近寄りたくなくても、あの男の傍に誰かがいるなら、もう放っておく事は出来なかった。
黒羽に関わらざるを得ない状況に自分を追い込んだ見知らぬ誰かを、沢木は心の底から憎悪した。

 

 

「つ、疲れた〜」
ドアの向こうに聞こえないように、白鳥はそっと呟く。
先ほどの会議の前の騒動について、中央署の上層部から、白鳥は長々と説教を喰らったのだ。
映画祭当日、黒羽と共に行動するのは自分なのだから、多少の注意や心得を叩き込まれるのは仕方ないとは思っていた。
「でもですね、あれだけ長いとは、予想外でしたよ。なんかもう、オレばっかり集中砲火でグチグチと。中央署は暇だから説教が長い、なーんて事は、無いですよね」
「ここの人達は、黒羽くんに慣れてないから、じゃないの?」
桜庭はどこ吹く風という顔で、飄々と答えた。
「あー…。じゃ、桜庭さん、中央署にもコウに慣れてもらおうと思って連れてきたって言うんですか?」
「いや、むしろ黒羽くんを抱えていると、こういうことも多いわよって、白鳥くんに慣れてもらおうと思ったかな〜」
「えーと…。じゃあ今まで、桜庭さんも、こういう目にあってたってわけですか?」
「同じ目じゃ、ないけどね」
桜庭は意味ありげに言葉を切って、ふうっとため息をついた。

「だって、さっきだって解ったでしょう? 主に怒られたのは、あなた。確かに映画祭当日の特殊班の指揮をとるのは白鳥くんだけど。
でもね、今回黒羽くんを連れてきたのは私だし、特殊班の主任も私。なのに怒られたのはあなただったわね。それは、どうしてだと思う?」
「え? えええ〜?」
白鳥は唇を尖らせて少し考えると、恐る恐る口を開いた。
「怒らないでくださいよ。もしかして、桜庭さんが、女……だから?」
「半分だけ正解」
「半分って?」
「あなたのことが入ってない」
「オレのこと?」
怪訝な表情の白鳥に、桜庭は更に突っ込んだ。
「どうして女だと怒られないと、白鳥くんは思うの?」
「う……。えーと。やっぱ女の人は怒りにくいですよ」
「男と同じ立ち位置にはいないと、思うから?」
桜庭の意地悪な質問に、白鳥は慌てて手を振った。
「あっ、いやその、ええーと。そういうわけじゃなくってっ。い、一般論ですがっ。お、女の人には優しくしないとっ」
桜庭はくすりと笑った。

「ごめんごめん。別に白鳥くんを責めているわけじゃないから、気にしなくていいよ」
「あの、でもその…。じゃあ、桜庭さんじゃなくて、オレが怒られた理由って、なんです? 半分だけ正解って?」
桜庭はほんの少し眩しそうに白鳥を見つめた後、静かに、しかしキッパリと言った。

「それは、あなたの方が私より偉くなるからよ」

「えええっ?」
白鳥はまだ中央署の廊下にいることも忘れて、一瞬大きな声を出してしまった。
建物内に響いた声に自分で驚き、慌てて口を塞ぐ。
桜庭はあきれたような顔になった。
「ええって、そんな意外なこと? 白鳥くん、出世するつもりはあるんでしょう?」
「あ、まあ。そりゃー、その、ありますよ。昇進試験を受けるつもりくらいは。でも、それってずっと先の話でしょう? ただでさえオレ、年齢的にもキャリア的にも、本来ありえない階級にいるんだし」
「それはその通りね。でも、君と私は現在階級が同じ。白鳥くんと私が同じ階級で並び立った場合、上は自動的に、君の未来を見るってわけね。
君の方が確実に上に行く。だから君の方が責任者だと判断された。故に怒られた。と、そういうわけ」
白鳥は混乱がかかったような顔をして、眉をひそめた。

「ええーと…。でも現在の責任者は、桜庭さんじゃないですか。それを、中央署の人は知らなかったって事ですか?」
「知っていてもいなくても、対応はあまり変わらなかったと思うわ。私のほうが階級が上だったら、考慮されたとは思うけど。
でもね、警察は、本当に男社会なのよ。私とあなたがいたら、自動的にあなたが上と見做される。
女だから怒ったらいけないと思っているんじゃない。女には怒る価値がないから。だから私は白鳥くんと同じようには怒られないの」
「待って、待ってくださいよ。そんなのすげー差別じゃないですか」
「差別のつもりなら、まだマシ。でもね、自動的にあなたが上と見做されるのは、当たり前だと思われているの。当然のことで、疑問はないの。それくらい、どうしようもなく、ここは男社会なのよ」

白鳥は黙って下を向いた。
桜庭は彼を沈黙させてしまったことを後悔したように、ごめんなさいね、と呟いた。
「別に白鳥くんのせいじゃないのに、吐き出しちゃったわね。あああ。ちょっと八つ当たりか。悪かった、ゴメン」
「……桜庭さん」
桜庭はなんとなく幼さを感じさせるような苦笑いを浮かべた。
上司であり母でもある、大人の女の仮面が、ほんの少し外れたように見えた。
「でもまあ、解っていてくれると嬉しいかな。白鳥くんは自分だけが怒られて私に愚痴を漏らしたんだろうけど。でも逆に、怒られない悔しさもあるんだってこと」
「違う立場で、ものを見てみろってことですか」
桜庭は困ったように微笑んだ。
「そこまで立派なことを言った訳じゃないんだけどね」
「いや、でもうん。確かにそういう視点も、持っていたほうが有利だとは思います」
「有利?」
桜庭は首を傾げた。
白鳥は桜庭とは逆に、大人びた微笑を浮かべてみせた。


桜庭には、自分が何を思い浮かべたのかは、解らないだろう。
そして知らせるつもりもなかった。
桜庭を巻きこむつもりは、微塵もなかったからだ。



冬馬涼一。オレとコウの敵。
ヤツは人の心理を操ることにかけては、天才だって、コウは言ってた。
だからオレは、戦うために、もっと多くを知らなくちゃいけないんだ。
怒られることは悔しい。そんな当たり前のことなら、すぐに解る。
でも亀裂は、オレが意識したこともないような場所からやってくるのだ。
それを見逃してはならない。
怒られることのない悔しさ。
無視されるのがあたりまえだと、そう思い知らされて。それでもなお、そこで生きていかざるを得ない人たち。
オレはもっと、色々な立場を知るべきだと思う。
だって、正義の味方になりたいと、オレはそう願っているのだから。

「白鳥くん?」
桜庭が不思議そうな表情で、こちらを見ていた。
「ああ、すみません、桜庭さん。オレきっと、すっげー無神経でしたよね」
桜庭は驚いたように、ブンブンと顔を振った。
「白鳥くんが、気にする事じゃないのよ。これは私の問題だし、私の感情だから」
「そっかな。でも男社会のことを男が考える必要がないと言うなら、いつそれは変わるんです? だったら、まずオレが少しくらい考えてもいいんじゃないですか?」
白鳥の言葉に、桜庭は目を丸くすると、かすかに微笑んだ。
「ああ、そうか。そうかぁ……。君は、正義の味方志望だったね」
「そうッスよ」
「じゃあ、期待しちゃおうかなあ。私も」
桜庭は楽しそうに笑うと、白鳥の背中を軽く叩いた。

「白鳥くんには解ってて欲しい。あなたはいつか、上に立つのよ。少なくとも周りからはそう見做されている。そのつもりでいなさい」


やっとこれから、初めて特殊班の指揮を任される。
まだそんな程度なのに、更に上に立つ道を示される。
不思議な気分だった。
僅かでも高い所に立つと、今まで見えなかったものが、いきなり幾つも見えてくる。
そんな感じなのかもしれない。

中央署の建物から出ると、庭木の下にコウが立っていた。
コウはすぐにこちらに気付いて、軽く手を上げた。
桜庭さんは、じゃあ後は若いお二人だけでごゆっくり、などという冗談をかましたかと思うと、笑って去っていった。
「桜庭さんは?」
緑の下で、コウが不思議そうな顔をする。
「桜庭さんもさ、色々大変なんだよ」
「…ふうん?」
首を傾げたコウが妙に可愛くて、オレはほんわかした気分になった。
もちろん、ほんわかと同時に、むずむずした気分にもなる。

「なあ、コウ」
「うん?」
「今日は、このまま直帰OKだからさ。ちょっとその〜、どっか寄ってかない?」
「残っている仕事とかはないのか? 映画祭も近いし、後に回すと大変になるぞ」
白鳥はムッと唇を突き出す。
「誰のせいで、今日余計大変だったと思ってるんだよ〜。もう大変なことは、今は考えたくないって」
少しの間、無表情で黒羽は考え、それからすうっと笑った。
「そうだな、香澄。少し休もうか」
「おお。ずいぶん物わかりがいいじゃん」
「今日は、僕が悪かったからな」
「いい、いい。どっちが悪いとかは無し。そんなことより、早くどっか行こうぜ」
「どこかって。場所はもう決まっているんだろう?」

緑の下でひとしきり笑って、二人は歩き始めた。

END


正義の味方「本編」INDEXへ 正義の味方「本編」INDEXへ