正義の味方 incident4

左手に告げるなかれ


 夢の中で、自分は15歳の少年に戻っていた。
もう、何度も見た夢。
またか、と夢の中で思った。
 
中学の制服を着て、家へ帰るために走る。
玄関のドアを開けてカバンを落とすと、家の中は静かだった。
「あれ? 母さん?」
玄関のドアは開いていたのに…。
「やあ、コウ」
奥から知っている顔が声をかけた。
「涼一」
黒羽 高の顔に笑みが浮かんだ。
「いつ来たの? 母さんは?」
カバンをもう一度つかんで、ダイニングへ向かう。
「さあ? オレは留守番を頼まれたんだ」
ふうん、と言って高は冷蔵庫を開けてウーロン茶のペットボトルを取り出す。
コップにつがずに、そのまま口に付けた。
 
「涼一、大学は? もう夏休みなの?」
「うん、そう。大学生は夏休みが早いのが取り柄でね」
冬馬涼一はにこにこ笑いながら高を見る。
「コウは夏休み、いつから?」
「まだ先だよ、もう少し。だいいち、いま試験」
「えっ、そうなのか? それで早く帰ってきたんだ。勉強、やってるのか?」
「やってるよ。ちゃんと。受験生なんだから。一応」
冬馬涼一は大きく口を開けて笑った。
高は黙ってその顔を見つめた。
 
彼のことが好きだった。
人付き合いの下手な自分にとって、彼はとても『優しいお兄さん』だった。
 
「勉強、見てやろうか?」
「えっ、ホント?」
ほんと、ほんと、そう呟きながら、彼は二階に上がっていく。
自分はその大きな背中を見上げて思った。
 
好きだった。
彼のことが、本当に好きだった…。
 
 
 
夢の中で、場面は変わる。
いつだって、ここで変わるのだ。
夢は勝手だった。
幸せが幻だったことを、僕にもう一度思い知らせたいのだ。
 
暗い穴の下からは、風が吹いていた。
見おろすと、階段は途中から闇に呑み込まれている。
サルベージ用の、縦穴。
両親ともサルベージ関係の仕事に就いていたから、高もよく縦穴に入り込んで遊んだ。
慣れていたはずだった。
特にここは、母の研究室だった。ドアを開ければ、いつものように母が微笑んでくれる。
だが今は、なんとなく不吉なものが、そこら辺中にただよっていた。
何故? どうして? 入ることができない。
いや、あの時はもっと何気なくここに入ったはずだ。
夢の自分は知っているから。
もう過去の事だから。
何があったか知っているから。
 
「母さん! 父さん!」
こんな大声を出しただろうか?
高は右手を前にさしだした。
だが、届かなかった。
 
ジャンク。ジャンクが! ジャンクが!
助けなきゃ。助けなきゃ。
涙があふれた。
ああ、助けなくては。
僕は、僕が、どうやって?
何もできない。何も持ってない。
僕は、僕の手は!
 
突然後ろから抱きしめられた。
抱かれたまま、入り口のほうに引きずられる。
「涼一! 涼一! 助けなきゃ。ジャンクが」
高のかすれた叫び声にも、手を緩めることなく冬馬涼一は答えた。
「だめだ。ダメだよ、コウ。コウまで危ない」
ずるずると引きずっていく冬馬に、たぶん少しは抵抗したような気がする。
だが実際は、体は固く硬直していた。
怖かった。ただひたすら怖かったのだ。
 
冬馬は高を階段上まで引きずり上げると、頑丈なドアを閉め、ロックした。
「警察を呼ぼう」
冬馬は立ち上がりかけ、それから呆然としている高を見おろした。
 
「コウ…」
声は、驚くほど優しい。
「コウ、君のせいじゃないよ」
肩に手をおろす。
僕のせい? 僕のせいなのだろうか?
僕が子供で、何もできなかった。
だから…?
 
「君のせいじゃない」
暖かい腕が体を抱きしめた。
何もかも忘れて、それにすがりたかった。
 
ああ、こうやって抱きしめられたのは、警察が来て、色々終わって、呆然と部屋に取り残された夜のことだったかもしれない。
記憶は混乱していた。
ただ静かな部屋に、父親も母親もいなかった。
そこには、冬馬涼一が立っていた。
 
「おいで」
彼は手を差し伸べる。
僕は知らない世界のなかで、一人きりだった。
「オレがいるよ。独りじゃないよ。オレはコウのこと、大好きだから」
冬馬涼一は笑った。
「さあ、いこう。オレがいるよ」
 
高は、右手をさしだした。
かすかに涼一の指先に触れる。
 
そして、僕は冬馬涼一の手を取った。
 
孤独の中に投げ込まれた、たった一本のロープに、それがどこにつながっているか知らないで、僕はただひたすら、それにすがりついた。

 

 

  「…ああ」
夢だ。夢だった。
びっしょりと汗をかいて、黒羽 高は目を覚ました。
時計は4時を指していた。
まだ半分夢に浸かっているように体が痺れて、感覚が宙に浮いたように曖昧になっている。
「大丈夫」
自分の体を自分で抱きしめる。
「助かった。今度は、助けられたんだ」
薄暗がりの中で見る自分の右手は、夢の中のものより、ずっと大きかった。
 
起きあがって流し台に立ち、コップに水をくんで飲んだ。
やっとなんとなく現実感が戻ってくる。
「今度は、助けることができた」
もう一度確認するように、口に出して言ってみる。
 
黒羽は、昼間の病院でのことを思い出した。
白鳥は、なんだか驚くほど元気だった。

 
「ああ、黒羽さん、来てくれたの?」
白鳥はベッドの上で高く手を挙げて、ぶんぶんと振った。
黒羽は、なんとなく遠慮しながらベッドに近づいていく。
「さっきまで高田さんとか色々来てたのに。何で一緒に来なかったのさ?」
そう言いながら、彼は黒羽の手を取って自分のほうに引き寄せた。
「でも、嬉しいな。2人っきりじゃん」
2人っきりね。
黒羽は他のベッドを見回しながら肩をすくめる。
もちろん他のベッドは満杯で、みな有名人の登場に興味津々でこちらを覗いていた。
「なんだよ。こっち見るなよ。オレはこの人のパートナーなの。本当だぞ」
そう言って白鳥は一息にベッドのカーテンを閉めた。
いきなり空間が狭くなり、黒羽はカーテンに引っ掛からないように注意しながら、ベッドの脇の椅子に腰をおろした。
 
「なんかさあ、思いっきり体を動かしたい気分」
白鳥は陽気に言った。
「もうほとんど大丈夫なんだから。早く退院したいよ」
「しらとりさ…」
「香澄!」
いきなり訂正された。
なんだか病院に入ってからの方が、白鳥は元気がいい。
白鳥は黒羽の手を取って、カーテンの向こうを透かして見るような目つきをした。
「へへへ。なんか、みんな注目してたね。黒羽さん有名人で、おまけにそんなに綺麗なんだもんなあ。それが、オレんところにお見舞いに来る。うん、うらやましいだろ、って感じ。ちょっと気分いいな」
黒羽は白鳥の手を見つめた。
 
生きてる。
僕が助けた。助けることができた。
何度自分にそう言いきかせても、それでも黒羽は確かめることをやめられなかった。
大丈夫。ちゃんと生きている。
 
その白鳥の手が彼のメガネを外して、そして顔を近づけてきた。
「病院ですよ…」
その言葉が言い終わらないうちに、唇をふさがれた。
これで、何回めかの、キス。
ちゃんとわかる。
生きているって。
僕は今度はおいていかれなかった…。
 
確認するように、彼の体に手をすべらせた。
「あのさあ…」
白鳥が唇を放してつぶやいた。
「なに?」
白鳥は、ちょっと沈黙した。
「…いいよ。なんとなく収まりがつかなくなっちゃいそうだから」
白鳥は顔を赤くして黒羽の体を離し、それから掛け布団を上の方まで引きずり上げた。
 
「香澄?」
「ああ、ううん、もうじき退院だから、そうしたら何か、美味しいもん食べにいかない?」
白鳥は白い歯を見せて笑った。
「黒羽さんさあ、プロ野球とか、見にいった事ある?」
黒羽は首を振った。
白鳥は嬉しそうに笑う。
「そうだよな。砂城には野球場がないもんな。海とかも?」
「見た事がない」
うん、うん、と頷きながら、白鳥はたぶんお見舞いの品なのだろうリンゴを黒羽に手渡した。
「食べて」
このまま?
それでも妙に嬉しそうな白鳥の顔に、黒羽は何も言わずにそのリンゴに口をつけた。
甘酸っぱい味が口中に広がる。
リンゴのいい匂いが鼻腔に広がった。
 
白鳥は膝を立て、その上に覆い被さるような格好で、首だけこちらを向けた。
「黒羽さん、外のこと、何にも知らないんじゃん」
確かに…、しらない。
「だったら、おあいこだよな。オレが砂城のことをなにも知らなくても」
 
なにも知らない。
自分はなにも知らなかった。
それが自分の右手の罪だった。
 
「だから、おあいこで、許したげるよ。黒羽さんの言ったこと」
自分は何を言ったのだろう?
彼が怒るようなことを何か?
口を開こうとする黒羽に向かって、白鳥は手を伸ばした。
そして、持っているリンゴを奪い取ってかじりつく。
「いいさ、オレはだいぶ勉強した。入院って、暇で、暇で」
リンゴについた白い跡は、白鳥によって大きくかじり取られていった。
その白が妙に眩しくうつった。

 

 

  知らない。
知らないことが罪だった。
過ぎ去ったことに取り返しはつかないし、罪も消えない。
それでも僕は、今度は彼を助ける事ができた。
たったそれだけの事が、ひどく嬉しかった。

 
黒羽はまだ夜明け前の薄暗い廊下に出て、白鳥の部屋を覗きに行った。
もちろん誰もいない。
主のいない部屋は、奇妙に広かった。
壁いっぱいに色々なものが貼りつけてある。
大半は雑誌のグラビアを切り取ってきたような女の子の写真。
しかし、それと少し離れて、一枚のポスターが貼ってあった。
 
折り目が白くついた、古いポスター。
子供向けの、自分が最初に撮ったポスター。
写った自分は、微かに笑っている。
 
彼は何でこんなものを持っているのだろう?
黒羽は手を伸ばした。
黙って部屋に入ったなんて言ったら、怒るだろうか?
そう思いながらも、聞いてみたい気がした。
 
自分は白鳥のことを、なにも知らなかった。
知る必要があると、あまり思ったことがなかった。
けれど、白鳥が生きているなら、今からでも取り返しはつくかもしれない。
 
 
 
右手の罪を、左手は知るべきか…。
 
黒羽は答えを出すことができないまま、いつのまにか眠ってしまった。
夢は、見なかった。
 

END

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