第三章「火焔」


 ああ…、離れちゃった。
香澄は自分の左手を見つめる。
さっきまで、あの人の手がここにあったのに…。
大きくて、温かい手。
なんか、もうちょっとあのまま走っていたかったな。
 
香澄は息をひそめるように、廊下にしゃがみ込む。
いきなり、何もする事が無くなってしまった。
そりゃあ、一緒について来たと言ったって、何か自分に出来る事があるなんて思ってなかった。
一緒に来られて嬉しかったけど、でも、今のオレは守ってもらうだけの『おまけ』だ。
あの人が待ってろ、って言うなら、オレは邪魔なんかできない。
角から顔を出すなと言われたので、後ろ姿を確かめる事もできない。
だけど、今はこうしているのが、オレの与えられた任務なんだよな、と思いなおす。
こうしていれば、そのうちすぐに、クロハネ コウが帰ってくるだろう。
そして、もう一度手をさしだして、さあ、行こう、と言ってくれるはずだ。
 
香澄はしばらくの間、ただじっと待ち続けていた。
しかし、いつまでたっても彼は帰って来なかった。
次第に、じわじわと不安がつのる。
 
なにか、あったんだろうか?
何か、思いもかけないアクシデントとか、それとも手強いヤツと闘っているとか?
奇妙に静かな廊下が、なおさら香澄の不安をあおった。
オレ、ただここにいていいんだろうか?
いや、何ができる訳じゃないけど。
あの人の足手まといになるのはヤだけど…。だけど…。
 
だけど、もしもあの人が倒れていたりしたら?
オレはあの人の名前が呼べるけど、あの人はオレの事を呼べない。
 
香澄はそれでも、ゆっくり100数えた。
数え終わっても、クロハネ コウは帰ってこなかった。
顔を上げて、そろそろと立ち上がる。
彼がやっていたように、上半身を低く下げる。
そして、覗いてはいけないと言われた廊下の向こうに、そっと顔を出した。
 
 
 
さっきまで誰もいなかったそこには、人が一人立っていた。
遠目で煙に霞んではいたけれど、香澄にはそれが誰だかすぐに判った。
女幹部と一緒にいた、色の黒い参謀じゃん。
たしか、沢木とか言った。
あいつ、何やってるんだろう?
あいつも、その、オレを撃ってきた連中の仲間なんだよな?
だったらあいつ、敵だ。
もしかして、クロハネ コウを狙っているのかもしれない。
そう思った時、香澄は彼の手の中にあるものに気付いて、ぎくりとした。
 
細く長い刃物。
鈍く光るそれには、はっきりと血脂が付いている。
彼は全く無表情のまま、その刃物を見つめていた。
あいつ、よく判んないけど、でも誰かを刺してきたんだ。
もしかして、もしかして、クロハネ コウを?
香澄の顔に汗が滲んだ。
ど、どうしよう。だったら助けに行かなくちゃ。
でも、いま出ていっても、絶対ダメだし。
 
香澄はとりあえずここから移動する事にした。
あの男がここにいる限り、あそこには近づけない。
しかも、オレまで見つかっちゃったらサイテーだ。
そろそろと音をたてないように後ろに下がる。
どうしよう。
どうにかして、クロハネ コウを助けなきゃ。
どこか違う場所から、あの部屋に入れないかな?
香澄は煙の中に紛れるようにして、すばやく移動を開始した。

 

 

 桐子さまを、殺しきれなかった。
沢木はナイフを見つめながら、ぼんやりと思う。
何故だろう?
簡単だったはずなのに…。
 
人を殺すのなんて、簡単だ。
私は今までだって、何人も殺してきた。
直接手を下したわけではないが、私がした事で自殺に追い込まれたものもいる。
ずっと、そうやってきた。
だから、大丈夫だと思った。
今日一日だけだって、何人の人を殺しただろう?
爆発で吹き飛ばし、火を放ち、神崎を刺した。
そして、今だって…。
 
ボディーガードの一人が、こちらへ走ってくる。
男は荒い息を弾ませ、大きく口を開いて言った。
「ああ、沢木さん、まずいぞ。この辺りにも火が来てるんだ。早く先生を避難させないと…」
沢木はにっこり笑って、手の中のナイフを男の口の中に深々と突き刺す。
男は驚いたような顔をして、一瞬だけ体を硬直させたが、そのまま廊下に転がった。
 
…ほら、簡単だ。
仕事だと思えば、私はなんだってできる。
沢木は振り返った。
そろそろ冬馬さまの仕事も終わるはずだ。
だから、私は逃げ道を彼のために用意しなくてはならない。
それが次の仕事だ。
足元の死体に一瞥もくれず、沢木は歩き始める。
ふたたび桐子の顔が、ちらりと頭をよぎった。
殺しきれなかったが、あの傷だ。
多分そう遠くないうちに、失血で意識を失うだろう。
 
何故だろう? 桐子が哀れだった。
あんな風に、化粧でべったりと自分の顔を塗りたくって、素顔を隠そうとしていることが、なんとなく悲しかった。
わかっている。
あれが自分と同じものなのだと言う事を。
きらきらと輝くものを夢見ながら、必死で自分の本心を隠そうとしている姿。
 
それじゃ、私も哀れなのかな?
沢木は笑った。
けれど、私はもう悪魔の手を取ってしまった。
悪魔と約束を交わしてしまった。
私は理想と引き替えに、すべてを売った。
だから今歩いているのは、もう違う道だ。
引き返す事はできないし、引き返す気もない。
沢木は歩き続けた。
 
 
 
それから2人のボディガードを殺し、沢木は冬馬のための道を用意した。
やがて炎の中に冬馬が現れ、沢木の目の前で桐子を殺した。
知らない男の腕の中で、桐子は撃たれ、血を吐いて死んだ。
たぶん、そんな事をしなくても、桐子は遠からず死んだ事だろう。
失血のために、かなり朦朧としていたはずだったのだから。
それでも目の前ではっきりと殺された事に、沢木は何故かほっとした。
桐子は最後の、過去の自分だった。
 
これで行ける。
これで、歩ける…。そう思う。
桐子さま。いつまでも子供でいたかった、可哀想な桐子さま。
けれど、残念ながら、もうあなたは子供じゃない。
いつまでも遊びたいというのなら、この世界には、もうあなたのいる場所は無かったんだ。
私のいる場所も、本当はもう無いんですよ。
だから、選んだんです。
夢の世界に行く。
覚める事のない、約束された世界へ。
だから…、さようなら。
 
休眠時間に入り、小さく縮こまったジャンクを、沢木は箱の中に入れる。
新しく鍵をかけ直し、はしゃいだようにやってくる冬馬を迎えた。
「やあ、沢木、楽しかったよ。ありがとう」
そう言いながら、冬馬は微かに顔をしかめた。
「だけど、ちょっとだけ問題があってさ、早くここから逃げないと」
「さっきの男ですか?」
沢木の問いに、冬馬は鼻を鳴らした。
「そう。あいつが本気になったらね、かなり怖いのさ。あいつはものすごく出来のいい、殺し屋なんだ。オレが創った最高のお人形さ。本当は今日、あいつも持っていくつもりだったんだけど、なんだか大変でさ。だけど壊しちゃうのももったいないし、今は時間もないしな」
冬馬はべらべらと喋りながら、くすくす笑った。
「まあいい。まあいいよ。おおむね成功だ。オレに失敗はない。今までだって無かった。これからだって無い。絶対。永遠にね」
沢木は頭を下げて、冬馬に道をあけた。
 
V.I.P専用の退避ルート。
ここを通って逃げれば、他の冬馬の協力者達が、後は手伝ってくれるだろう。
ここを抜けて、自分は死ぬのだ。
死んで、そして、もう一度生まれ直す。
この苦しさは、その為のものなのだろう。
沢木は冬馬を先に通し、そして自分も扉をくぐった。
 
静かにドアを閉める。
後から誰も来られないように、入り口に爆薬をしかける。
さようなら…。
誰に言うともなく、沢木は口の中でそう呟いた。


 

 

 炎が、激しく燃えさかっていた。
閉まったドアの前を通るたびに、フラッシュオーバーの恐怖に怯える。
苦しい、と思う。
オレ、あの人を見つける前に死ぬかも…。
香澄は廊下に膝をついた。
道を間違っちゃったのかな? オレ。
 
沢木から遠ざかり、違うルートを捜しているうちに、絨毯に落ちる血の跡を見つけた。
血は点々と霞んだ廊下の向こうへと続いている。
香澄はその後を追った。
あの人の血じゃないだろうか?
あの沢木って奴にやられて、それで倒れているんじゃないだろうか?
 
香澄は歯を食いしばった。
怖い。確かに怖いさ。
だけど、オレ、見つけなきゃ。あの人を見つけなきゃいけないような気がする。
だって、でないとオレ、もう二度と会えない。
あの人にも、家族にも、他の誰にも。
確かに手に入れたと思っていたカードが、あんな簡単に炎の中で灰になってしまったように、オレ一人じゃ、この炎に呑み込まれてしまうだろう。
どこにいるんだ? どこに?
この血の続く先に、本当にあの人はいるんだろうか?
ずるずると、鼻と口を押さえた低い姿勢で、香澄は廊下を移動する。
 
そして、いくつめかの角を曲がったその先に、ついに香澄は見つけた。
 
コウ! クロハネ コウ。
いた、やっぱりいた。あんな所に!
オレは間違ってなかったんだ。
香澄の心は飛び上がり、しかし、あっという間に地の底に叩き伏せられた。
 
彼は廊下に倒れていた。
まるで、死んでしまったかのように。
まさか、そんな…。あいつに、殺されちゃったのか?
香澄は首を振る。
絶対、そんなはず無い。
正義の味方が死ぬなんて、そんな事は、絶対にありえない。
 
目を細めながら近づいていくと、彼の胸がゆっくりと上下しているのが解った。
ああ、良かった…。香澄は安堵のあまり泣き出しそうになった。
体中にこびりつき、まき散らされた血は、どうやら彼のものではないらしい。
よかった。死んでない。
香澄は大声で彼の名前を呼ぼうとした。
 
 
 
…しかし、叫ぶ事はできなかった。
彼の顔を見た瞬間、香澄は何もできなくなってしまった。
コウ…?
胸の奥に、とつぜん刺すような痛みが疼く。
コウ? どうしちゃったのさ?
香澄は静かに彼に近づいていった。
クロハネ コウは、虚ろな瞳を空に向けて倒れていた。
瞳は香澄の動きを追って、それでも微かに動く。
 
どうしたの? コウ。何か変だよ。
なんか、泣いているみたいだ。
涙など、一滴も彼の頬に流れてはいなかったが、しかしそれでも、彼は泣いているように見えた。
香澄はその場にひざまずく。
 
クロハネ コウの体は血にまみれていた。
顔は汚れ、口元には何か吐いたような跡がある。
それでも…。
胸の痛みが香澄を刺す。
それでもコウは、信じられないくらい綺麗だった。
 
ねえ、独りぼっちで、泣いているみたいに見えるよ…。
どうして? コウ。
あんたは正義の味方なのに、強くて綺麗な、オレの正義の味方なのに…。
どうしてそんなところで、一人きりになって、泣いているのさ?
 
香澄は彼の顔に手を伸ばした。
 
オレ、どうしちゃったんだろう?
なんで、こんなに苦しいんだろう?
コウ…。
ねえ、どうして? どうしてそんな顔をしているんだ?
どうしてオレ、こんなに苦しいんだ?
まるであんた、世界でたった独りぼっちになってしまったみたいじゃないか…。
何もかも無くして、一人で置いていかれて、泣いているみたいじゃないか。
 
コウの頬に指をすべらせる。
ねえ、コウ。オレが判る?
オレが喋ったら、オレの声、聞こえる?
誰があんたを置いていっちゃったの?
いま、一人きりなのか?
だけど、オレ、来た。あんたの所に来たんだよ。
だから、オレを置いてどこかに行かないで。
オレの正義の味方。
オレの、特別のたった一人。
ねえ、オレの声が聞こえる?
あんたはオレの名前を、まだ知らないから、だからオレが呼ぶよ。
だから返事をして。
お願いだから。コウ。
 
香澄の中に、よく解らない感情があふれ出していた。
それに名前を付ける事は、できなかった。
自分の中にある、見知らぬ初めての感覚。
苦しくて、辛い。
だけど…、オレ…。なんか、すごく…。
感情のままに、彼を抱きしめた。
血の匂いがする黒い髪。ざらりとした頬。
彼の体は、暖かかった。
ずっとこうして、抱きしめて、触っていたい。
 
「ねえ…」
声が掠れる。
あんまり喋ると、涙が出そうだった。
そんな情けない姿を、コウに見せたくなかった。
香澄はやっと、言葉を絞り出す。
「ねえ、帰ろう? 下に、降りようよ…」
 
 
 
腕の下で、コウの体がぴくりと動いた。
ああ…。香澄は震える。
返事をしてくれた。
オレの呼ぶ声に、答えてくれた。
 
…帰ろう。二人で。
ねえ、誰に置いていかれても、独りじゃないよ。
ここには、オレとあんたがいる。
すべての世界から切り離されても、一人じゃない。
オレはおまけかもしれないけど、でも、それでも、ここにいるよ。
あんたのいるところに、オレもいる。
だから、一緒に、生きて帰ろう。
 
クロハネ コウは立ち上がり、再び香澄を見た。
彼の黒い瞳の中に、自分の顔が映っていた。
また、オレを見てくれている。
…嬉しかった。
ほんのさっきまで、オレもたった一人だった。
そして、生きて帰れないと思っていた。
だけど、今は二人だ。
オレと、コウの二人。
二人なら大丈夫。きっと、大丈夫だよ。
 
 
彼の左手をしっかりと握る。
「離さないで…」
かすれた声で、コウが言った。
香澄は大きく頷く。
 
オレは何もできないけれど、あんたとはぐれたら、大声で呼ぶよ。
あんたの名前を呼ぶ。
だから大丈夫。
こうやって、手をつないで、二人で走ろう。
この手を離さないで、走ろう。
独りじゃ帰れなくても、二人なら大丈夫。
たとえそれが、炎の中だって。

 

 

 香澄とコウは、下に向かって走った。
最初に向かったV.I.P専用退避ルートの入り口は、破壊され、瓦礫に埋まっていた。
コウはまったく慌てることなく、体を翻して別の道を捜す。
彼は確かに怪我をしているはずなのに、体の動きはなめらかで無駄がなかった。
自分の出来る事、やるべき事を、彼は本当によく知っているようだった。
「コウ?」
ときどき香澄は彼の名前を呼んだ。
「離さないで」
コウはそう答えた。
 
この、手の先だけで、二人は繋がっている。
炎の中、ただ二人だけで走る。
他に誰も生きている人はいなかった。
世界から切り離されて、オレ達は二人きりだった。
コウにはオレしかいなかったし、オレにはコウしかいなかった。
二人でいないと、立っていられない。
コウが道を捜し、オレが彼を呼ぶ。
二人でいないと、生きていられなかった。
 
 
 
ドアから火柱が吹き上がり、一瞬道を閉ざす。
コウはすばやくオレを後ろに庇った。
「大丈夫?」
オレはコウを見上げる。
コウは辺りを見回し、それから頷いた。
「二人なら、きっと大丈夫だ」
それは、呪文だった。
 
コウが指さす方向へ走る。
炎のない道が、まるで魔法のように目の前に広がった。
ためらうことなく、二人してそこへ飛び込む。
通り過ぎた瞬間、後ろで何かが音をたてて崩れた。
しかし何が起きても、二人は後ろを振り向かなかった。
ただ目の前に現れる、ほんの一瞬の道を見つけて、逃さず走る。
ただひたすら、下へ、下へ…。
自分たちがどこまで降りたのか、あとどれくらい走れば一番下までたどり着くのか、二人とも解らなくなっていた。
 
ねえ、コウ。
コウは呼ばれてこちらを見る。
オレ、死ぬのは嫌だ。生きて、下にたどり着きたい。
だけど、だけどさ。下についたらお終いなんだよな。
もう、二人きりじゃなくなるんだ。
変だよ、オレ。
生きていたいのに、早く下に着きたいのに。
でも、あんたと一緒に、ずっと走っていたい…。
二人きりじゃなくなるのが、なんだかすごく辛い。
なんでだろう? どうしてかな?
コウにはそれってどういう事なのか、わかる?
 
「離さないで…」
再びコウはそう言った。
「僕には、帰る場所なんて無い。だから、今しかないんだ…」
コウは愛しそうに、つないだ手を見つめた。
「ここにしか、世界はない。下に着いたら、全て終わる」
「コウ?」
「この手だけが、いま僕を繋いでいる。僕はね、今日全部失ったんだ。だから、この手を離したら、僕は終わるんだよ」
香澄は上を見上げた。
コウの言っている事は、よく解らなかった。
しかし、次の瞬間、不思議な事に香澄は気付いた。
冷たい感触に、頬を触る。
 
「…水だ」
「水?」
確かに、上から水が滴っていた。
ほんの僅かなしたたりが、やがて大粒の水滴に変わる。
「雨?」
いや、だって、ここは地下だ。
「天空のスプリンクラーが、動き出したんだ」
コウは優しく下を見おろした。
「君は、助かるよ…」
君は? コウは? 助かるのは二人じゃないの?
 
「僕も、思ったよ…」
コウは呟いた。
「このまま、二人で走っていたい…」
だんだん量が多くなっていく水しぶきの中、コウは膝を落として香澄と同じ高さで視線を合わせた。
「終わるのは、つらい。だけど、永遠なんて無い。夢はきっと覚める」
「コウ?」
「今はこの手が必要でも、下についたら、もういらない。君は帰る。日常へ」
「コウは?」
「僕は、今だけでいい。こうして今、手を繋いでいる。それだけで、いい…。離れたら、終わりになる」
「いやだ!」
香澄は激しくかぶりを振った。
「じゃあ、オレ、離さない。この手は絶対、離さない」
コウはどこか遠い目をして薄く笑うと、小さく首を振った。
「それじゃ、コウ!」
香澄はコウの瞳を覗き込んで、まっすぐその視線を捉えた。
彼の黒い瞳に、自分の姿が映る。
「オレ、呼ぶから。手を離しても大丈夫なように。あんたを捜して呼ぶから! だから、返事してよ。そしたら、また二人になれるよ!」
 
コウは目を伏せて、軽く息を吐いた。
それから彼は、すばやく顔を寄せた。
香澄の唇に、何か暖かいものが、一瞬だけ触れて、そして離れる。
 
コウ!?
香澄は目を見開いた。
コウは何も言わずに立ち上がり、香澄の手を引いて下へ向かう。
炎は水の勢いに押されて、かなり弱まってきていた。
「もっと強くなると、逆に水に足を取られるから…」
コウはまっすぐ前を向いたまま、そう言った。
コウ…。
香澄の目に、また涙が滲んだ。
唇に残る感触が、まだ暖かかった。
もうすぐ終わりなんだ。
この手を、離さなくちゃならないんだ…。
 
世界中のどんな事よりも、ただそれだけが辛かった。
涙の中で見上げたコウの顔は、やっぱりすごく綺麗だった。

 

 

 高く広がる造りものの蒼穹から、無数の水滴が滴り落ちてくる。
どこまでも青い空から大量の水が降り注ぐ光景は、奇妙に美しかった。
水滴は炎上するホテルに降り注ぎ、惨劇と炎を呑み込んでいく。
ホテルは次第に、赤い炎の代わりに黒煙を吐きだし始め、劫火の地獄から、黒い棺桶へと変わっていった…。
 
 
 
香澄とコウは、上から降り注ぐ灰まみれの水で全身を濡らしながら下にたどり着き、エントランスを出た。
その瞬間、騒然としていた現場に、更に大きなどよめきが湧き上がった。
「誰か降りてきたぞ!」
「子供!?」
「子供がまだ残っていたのか!?」
「おい、あんた! 大丈夫か?」
 
たちまち口々に喚くたくさんの人達に二人は取り囲まれ、もみくちゃにされた。
人々の体に押されて、握った手が離れそうになる。
香澄は泣きながら喚いた。
「コウ! ねえ、コウが! この人ケガしてるんだよ」
コウは薄く笑って、香澄の手を駆けよってきた救急隊員へと渡す。
「あっ…!」
思わず香澄は、それをもう一度掴み直そうとした。
しかしコウは首を振って、握った手を開いた。
人差し指の先が、最後に一瞬だけ触れて、二人の手は離れる。
香澄の体は救急隊員の手に抱かれ、口々に何か言おうとしている人々に取り囲まれた。
香澄はむりやり体を捻って、やはり人々に囲まれて遠ざかりつつあるコウの姿を目で追う。
「コウ!」
涙ににじんだ視界の中で、コウは上を向き、もう自分を映してはいないその瞳を、静かに閉じた。
 
そして、それきりコウの姿は香澄の前から消えた。
彼の体はたくさんの人の中に紛れ込んで、見えなくなってしまった。
人々の喚く声と、救急車のサイレンの音が耳に響く。
香澄の周りで、いくつものフラッシュがたかれ、香澄は思わず目を閉じて、歯を食いしばった。
泣いている自分に、たくさんの人達が優しく話しかけてきたが、香澄はただ首を振る事しかできなかった。
 
 
 
離れてしまった。
クロハネ コウ…。
どういう字を書くのかも、オレ、聞けなかった。
オレの名前をあの人に言う事もできなかった。
あの炎の中では、手をつないでいさえすれば、それで充分な気がしたのに。
ただそれだけで、他に何もする必要がない、って…。
 
自分を運ぶ救急車の中で、香澄は泣いた。
 
だけど、離れてしまったら、オレ、あの人と何のつながりもないじゃん。
いま、どんなに呼んだって、もう声は届かない。
どうして、もっと色々な事を話さなかったんだろう?
どうしてオレ、あの人の事、何も聞かなかったんだろう。
バカだ。すっげえ、バカ。オレって…。
 
涙は後から後から流れ出て、止まらなかった。
 
 
 
 
 
1時間後、香澄は運ばれた先の病院のロビーで、ぼんやりと椅子に座っていた。
ホテルの火災はかなり大規模なものだったらしく、この病院にもたくさんの人達が運び込まれていた。
病院内は、更に運ばれてくる怪我人や、駆けつけてくる人々等で騒然とし、医師も看護婦も、全ての人達が慌ただしく動き回っている。
それを横目で見ながら、香澄は一人、呆けたように座りんだ。
誰も自分に目もくれない。
香澄は働く人々の邪魔にならないように、小さく隅のほうに体を寄せて座ると、黙って白い天井を見上げた。
 
救急車で運ばれては来たものの、香澄の体には殆どケガらしいケガはなかった。
わずかな火傷とかすり傷。
医者は一通り香澄の体を診たあと、傷を簡単に消毒すると、にっこり笑って首を縦に振った。
「うん、大丈夫だね。煙を吸ったから、ちゃんとした検査は必要だけど、さしあたってはね。ええと、検査はねえ、他の病院でやるから。詳しい事はここの看護婦さんに聞いてね」
そう言うと医者は看護婦に向かって頷き、それから香澄を置いて足早に部屋を出ていってしまった。
きっと香澄より、ずっと大変な怪我人を助けに行くのだろう。
 
香澄が見上げると、看護婦が笑って立つように言った。
「あのね、香澄くんのお父さんとお母さんが、ここに迎えに来るそうよ。よかったねえ」
看護婦は、まるでとても小さな子供にするように、甘ったるい声で香澄に話しかける。
オレはそんな話し方をされるほど子供じゃないんだけど…。
そう思ったが、口には出さなかった。
きっと自分は、さぞや小さく頼りなさそうに目に映っているのだろう、と思う。
それに、両親が来る、という言葉に、一気に力が抜けてしまったのも確かだった。
「お父さんとお母さんは、違う病院に運ばれてたの。だけど、連絡ついたから。すぐにここにいらっしゃるって。だから、ロビーで待とうね?」
看護婦に促されて、香澄は立ち上がった。
 
雑然としたロビーの椅子に座り込むと、看護婦は香澄の両肩に手を置いた。
「じゃあ、ここでしばらく待っててね。じきにお父さんとお母さんが迎えにいらっしゃるから。お姉さんはお仕事があるから、ごめんね。一人でいられるよね?」
目線の高さまで座り込んで顔を覗き込む優しい看護婦に、香澄はにっこりと笑いかえした。
彼女の顔が、ぱあっと明るくなる。
 
「大丈夫だよ。オレ、一人で大丈夫。他に、怪我している人がいるんでしょ? オレは全然平気だから」
香澄が腕を広げると、看護婦は嬉しそうに頷いて、去っていった。
 
 
 
大丈夫だよ。オレ。
だって、あの人に守ってもらったんだ…。
 
握りしめていた自分の右手を見つめる。
あの人の左手の感触が、まだそこに残っていた。
指で唇をなぞる。
あの人が触れていった熱さが、まだそこに残っていた。
最後に一度触れて、離れた人差し指の先は、痺れたように震えている。
 
オレは大丈夫。
大丈夫だ。だけど…。
 
だけど…。
 
胸のどこかが刺すように痛んだ。
今、この手が離れていることが苦しかった。
あの火事の中に、ずっといたかった訳じゃない。
だけど、あの瞬間は。
二人でいる事がすべてだったあの瞬間は、取り戻せない大切な遠い夢のように、自分の中で鈍く疼いた。
 
たったあの一瞬しか、オレとあの人に繋がりはないんだ。
手を離してしまえば、もうすれ違う事もない。
香澄は右手をきつく握りしめた。
いや、オレ、オレは…。
 
香澄は目を細めて、白い天井を見上げる。
その時、ロビーの隅、電話が置いてある少し引っ込んだスペースの壁に、なにかを見つけた。
香澄は目を大きく見開き、慌てて椅子から立ち上がると、壁まで駆けよって、それを見上げた。
 
壁に貼ってあったのは、一枚のポスターだった。
 
『交通ルールを守ろうね』
そんな言葉が書かれた、子供向けに作られた警察のポスター。
ポスターの真ん中には、警察官が一人、ぎこちなく笑って写っている。
香澄はゆっくりと微笑った。
頬に涙がすべっていった。
 
「コウ…」
 
やだなあ、オレ。大丈夫。大丈夫の筈なのに…。
袖で涙をすくう。
 
コウはなんとなく恥ずかしそうに、ポスターの真ん中で微笑んでいる。
すごく綺麗だ…。
香澄は泣き笑いのまま、しばらくその写真に見とれていた。
 
 
 
近くを通り過ぎる看護婦の袖を、香澄はなんとか捕まえる。
急に止められた看護婦は、驚いたようにこちらを見た。
「どうしたの? ぼく」
「あのさ」
香澄は唇を湿らせて、言葉を探した。
ぼくと呼ばれた事は、この際気にしない事にする。
「あの、あそこに貼ってあるポスター、もらってもいい?」
「ええ?」
看護婦は軽く首を傾げた。
同時に忙しそうにわずかに足を動かす。
「あの、あのさ!」
香澄は必死の表情を作って、彼女の腕を更にきつく掴んだ。
「あのさ、あそこに写っている人、オレを助けてくれた人なんだ。だから…!」
看護婦は一瞬不思議そうな顔をしたが、ふと何か思い当たったように頷くと、にっこりと笑った。
 
「ああ、そうか。あなた、外から来たあの子ね? 助けてくれた人が、あのポスターに載っているの?」
香澄は勢いよくぶんぶんと頷く。
「そう! だから、だからさ、もらってもいい? オレ、欲しいんだ。持ってたいんだよ。だって、だって、オレ…」
看護婦は優しく笑って人差し指を唇に当てた。
「いいよ。ホントはいけないんだけど、ナイショで持って行っちゃいなさい。だって、その人に助けてもらったんだもんね。だから、特別」
 
「ありがとう!」
そう叫んで香澄は勢いよく頷くと、ポスターの下に走り寄り、ていねいに壁から剥がした。
顔に折り目がかからないように注意して折り畳み、そっとポケットの中に入れる。
 
そう…、特別なんだ。
オレの、特別なんだよ。
 
 
その時いきなり後ろから、大声で名前を呼ばれて、香澄は振り返った。
病院の入り口には家族の姿と、それからたくさんのテレビや新聞の記者らしい人達が詰めかけている。
「香澄!」
「香澄、よかった!」
両親が泣きながら、駆けよってきた。
二人の兄も、顔を歪ませながら走ってくる。
たちまち香澄は家族に取り囲まれ、抱きしめられた。
「大丈夫? どこもケガは無かったの?」
うん、うん、と、香澄はただ頷く事しかできなかった。
 
うん、よかった…。
オレ、戻ってきた。
やっと、オレは帰れたんだ…。
 
香澄は安堵の深いため息を漏らし、家族を抱きしめた。
その様子を撮ろうとフラッシュをたいたカメラマンに、看護婦がきつい口調で注意をする。
しかしそれでもフラッシュは収まらず、同時にいくつものマイクが差し出された。
「よかったね、香澄くん」
「どう? 今の気分は?」
そんな言葉があちこちからかけられた。
 
しかし香澄は、何も答えられなかった。
黙ったまま、存在を確かめるように、家族の体を強く抱きしめる。
 
 
 
コウ…。
クロハネ コウ。
今あんたはどこにいるんだろう?
オレ、やっと帰ってきた。すごく嬉しくて、すごく、ほっとしてる。
だけど、なのに…。どうしてだろう?
いますぐ、あんたに会いたいよ。
すごく、あんたに会いたい。
なんだろう? この気持ち。
一緒に帰ろう…。
そう約束したのに、あんたは今、ここにはいない。
コウ。あんたの帰る場所は、どこなんだろう?
 
両親の体を、兄の手を握りしめながら、香澄はいつまでも、あの左手の感触を思い出していた…。

 

 

 香澄がポスターを部屋の壁に飾ったのは、それから3年も後の事だった。
一番上の兄、聡が地方の大学に進学して家を出たため、香澄が空いた部屋を使える事になったのだ。
初めての個室。
香澄はその壁に、長い間ずっと机の引き出しにしまっておいた、あのポスターを引きずり出して貼り付けた。
古いポスターは、折り目の所で白く筋がついてしまっている。
しかし、それでもポスターの中から、黒羽 高は微笑んでこちらを見ていた。
香澄の口にも笑みが浮かんだ。
 
黒羽 高。
ちゃんと漢字も調べた。
大きな火事だったから、あんたの事、こっちの新聞にも載ったんだ。
それで、わかったんだよ。
黒羽 高。レフトハンドショットガン。
そんな風に、呼ばれているんだな。
 
綺麗に貼りつけたポスターを、そっと撫でる。
つるりとした冷たい感触だけが、指に伝わった。
 
オレ、あれからけっこうあんたの事、色々知ったんだ。
もっとも、砂城の情報はほとんど入ってこないから、あの火事の時の事くらいしか、わからなかったけど。
母親は砂城の事なんか、思い出したくもないと言っている。
父親もあれきり二度と砂城の話はしなくなった。
兄たちも、事件の事はすっかり忘れたかのように振る舞った。
 
だけど、だけど、オレはさ…。
 
ポスターの黒羽の顔を指でなぞる。
 
オレは、忘れない。
黒羽 高と出逢った、運命のような一瞬を。
 
 
 
まいにち普通に暮らしていくのに忙しくて、確かにあの時の事は、夢の中の出来事だったように思える時もある。
残念ながら、あの手の感触も、もう残っていない。
今は代わりに、冷たいポスターの手触りだけが指先に触れた。
 
だけど、毎日学校に行って、友達と笑って、一日一日を消費していくように過ごす。
そんないつもの、普通の日々の中で、時々驚くほど鮮やかに甦る、炎の記憶。
 
大丈夫だ…。
そう言って笑った時の、すこしかすれた声。
…正義の味方だよ。君は安心してていいんだ…。
一番欲しかった、言葉。
炎の中、手を握って、二人でどこまでも降りていった不思議な時間。
黒い髪に染み込んだ血の匂い。
倒れた彼を抱きしめた、その暖かさ。
そして、ほんの一瞬だけ触れていった、彼の唇。
 
何度も、何度でも、オレは思い出す事ができる。
ぼんやりした日常の中に、くっきりと軌跡を描いて、記憶はオレの中に焼き付いている。
あの火事は確かに悲惨だったかもしれないけど、でもオレはね、オレには嫌な思い出じゃないんだ。
時々すごく、あの瞬間に帰りたくなる。
もちろん、いつも思い出す訳じゃない。
大抵は日々のいろんな事に追われて忘れているのだけれど、でも何かの拍子に、ふっと思うんだ。
 
…逢いたい。
すごく、あんたに会いたい。
こんな、冷たいポスターなんかじゃなく、本物の黒羽 高に会って、もう一度その体に触ってみたい。
そんな風に思うと、少しだけ涙が出てくる時がある。
 
やっぱり、変かな?
きっと、変だよな。
だけど、この感情が何なのか、オレにもよく解らないんだ。
 
だから、だからさ。
オレはもう一度会いに行こうと思う。
 
警察官になる、と言ったら、友達はみんな目を丸くした。
公務員なんか、お前にはつとまらない、なんて言ったヤツもいる。
だけどオレが、正義の味方になりたいんだ、って言ったら、みんな納得して笑ってくれた。
 
 
 
大丈夫だ…。何もかも、全部。
 
あんたの声が耳に甦る。
信じられないくらい綺麗な顔が、オレを見つめて鮮やかに笑う。
彼の放つ光。なんて綺麗で、なんて強い。
不安も恐怖も、何もかも光に溶けて消え、彼がいれば、どんな事でも大丈夫だと思った。
世界のすべてが変わった、あの瞬間…。
 
あの時、怖い夢はすべて消えた。
これから先、どんな恐ろしい事や苦しい事があっても、オレはきっと大丈夫。
たとえ世界中が炎に包まれている時でも。
オレは見つけたんだから。
オレの中の、たった一人の、正義の味方を。
 
 
 
だから、オレは決めたんだ。
オレはオレのなりたいものになる。
そして、もう一度、あんたに会いに行くよ。
黒羽 高…。
 
このまま何もしなければ、オレの決意も、あんたを思う、このよく解らない感情も、すべてあの時のカードのように、手からすり抜けて灰になってしまうだろう。
だから、いつか、あんたのいる場所に行って、その隣に立つ。
きっとあんたはオレの事を覚えていないと思うけど、だけどその時は、オレももう、守ってもらうだけの子供じゃない。
 
今度はオレが言うんだ。
笑って、こう言う。
 
「大丈夫。大丈夫だ。何もかも、全部」
 
そう、『正義の味方』になるために…。
 
 
 
 
 
見上げたポスターの中の『黒羽 高』は、あの時から少しも色あせることなく微笑んでいた。
香澄は動かない写真を見つめ、もう一度その顔の、今度は彼の唇に指を這わせる。
オレって、きっと変だ…。
彼の唇に這わせた指を、今度は軽く自分のものにあててみる。
その感触は、奇妙に熱かった。
 
カバンを掴んで、香澄は部屋から出る。
ドアがバタンと音をたてて閉まり、彼の顔は香澄の視界から消えた。
 
 
 
正義の味方になりたい。
もう一度、黒羽 高に逢いたい。
強い願いと、ざわざわと揺れ動く感情。
二つの気持ちが自分の中で、よく解らないまま混ざり合って胸に痛む。
 
…時々すごくせつなくなる。
この感情が何なのか、オレにはよく解らない。
だから、あんたに会いに行くよ。
黒羽 高。
 
 
会って、手を握って、それからどうしよう?
名前を呼んだら、振り返ってくれるだろうか?
 
 
 
 
―あの感情が恋かもしれないと、そんな風に思ったのは、それからずいぶんと後の事だった…。

END


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