正義の味方incident10

薄明はくめいみち


 交番が爆破される事件が起きた。
爆弾は落とし物を届けに来た善意の一市民によって、その場に運ばれた。
紙袋の中に入った小さな箱。
蓋を開けた瞬間、箱は轟音と共に飛び散った。
死者は2名。
箱を開けた警察官と、落とし物を届けに来た老人。即死だった。

死体には一つの大きな特徴があった。
しかしその特徴は、捜査上の秘密として、マスコミにも流される事はなかった。
だが、長く秘密にしておける事でもなかった。

なぜなら、事件がこれ一度きりで終わる筈はなかったからである。

 

 

「ううう〜、腹減った。なんであんな狭いアパートが家賃5万円もするんだよ」
篁 海里(たかむら かいり)は道端の空き缶を蹴飛ばして、ゴミ箱にシュートさせる。
「おおっ、ゴール。うん、やるねオレも」
海里の両手には、たくさんのビデオテープが入ったビニール袋が握られていた。
「まったくもう。たかがアパート借りるのに保証人が必要だの、敷金だの礼金だのって…。ここに来てたった一ヶ月だってのに、もう金がねえ」
だが、海里は誰にも弱音を吐く気はなかった。
そんな事を少しでも誰かに漏らしたら、だからお坊ちゃん育ちは、と言われるに決まっている。
金だって、実家には一円たりとも頼るつもりはない。
ここ、砂城のアンダーに持ってきた金は、学生時代からバイトでこつこつ貯めてきた、自分自身が稼いだ金だけだった。
アンダーに来ると決めたのはオレだ。
初めて自分の意志で決めた。
大学を中退したのだって、自分の意志といえば意志だが、やっていたものを止めるのと、何かを始めるために決める事は、やっぱり大きく違った。


たかむら 海里かいり
海里という名前は少々変わってはいるが、意味はあまり無い。しかし、篁という名字のほうは、聞けば『ああ、あの』と言う人が何人かはいる筈だ。
篁家は、一部の人間には大変有名な一族だった。
どの辺りに有名なのかというと、俗に上流階級と言われる、大変うさん臭い辺りである。
「何がうさん臭いって、貴族の血筋だとかアホな事言ってる割に、輸血の際に問題になるのは、その辺の誰とも変わらず『血液型だけ』って事だよ」
海里は何度もそれを口に出し、一族から異端視されていたが、実際には鼻にも歯牙にもひっかけられていなかった。
長い篁家の歴史の中で、所詮海里など血を繋ぐ部品の一つにすぎない。
個人の資質や才能などはあまり重要ではない。今もっている血を薄めることなく、大切に次に残せばそれでいいのだ。
篁はその『高貴な血』とやらを売り物に、ありとあらゆる上流社会の人間と縁戚関係を結んでいた。

「種馬になるのなんて嫌だ」
そう言い放って家を出てきた。
誰も止めなかった。
どうせすぐに帰ってくると思われているらしい。
けれど、自分は二度と帰るつもりはなかった。
篁の名前も、そのうち棄てるつもりだ。
まず砂城市に市民登録をしなくてはならなかったから、篁をそのまま名乗ってはいるが、いざとなったら自らの痕跡を消して、完全に消息不明になることだってできるんだ、と思っていた。
残念ながら即座に名前を捨てたり行方不明になったりしたら、まともに生活することすら出来ない。それくらいは海里にも解っている。
名前を捨てて行方不明になるといっても、浮浪者になりたいわけではないのだから。
まずは一人で生きていけるようになってから。全てはそれからの話だ。
篁から離れて、完全に独立することができる。
その事を一族に示したかった。

篁はいつでもオレ一人くらい取り戻せると思っている。
自分の血肉の一部は、決して離れていかない、そして世界はすっかり自分たちの掌の中にあると思っているからだ。
権力を持った人間は、いつでも世界の全部が手に入っているような、そんな錯覚を抱いている。
だが、篁が持つ世界など、本当はちっぽけな筈だ。
手が届かない世界など、幾らでもある。
さからいつつも血に囚われている、そんな自分自身のためにも、その事を切実に証明したかった。

もっとも篁としては、たとえ海里が本当にいなくなったとしても、血を繋ぐ部品が一つ欠けた程度、些細なことだろう。
海里が消えたところで、何も変わる事はない。
だから海里はただ、血の呪いから放たれて、一人で生きていくことだけを望んでいた。
篁を見返すとか、そんな事は考えていない。
彼らは勝つとか負けるとかの世界には生きていないからだ。
生き続ける為に、まるで逆吸血鬼のように、ひたすら人に自らの血を混ぜていく。

そんな一族の生き方に、海里は吐き気を覚えていた。
だから離れたかった。
離れるためにはどうすればいいだろう。
結婚して婿に行けば、姓を変えることができる。
だが、血を残すのには、ある種の嫌悪を感じる。
嫌悪しているくせに、そんな風に何をするにも、常に篁であることを意識する自分が大嫌いだった。
何もかも放り出して忘れたい。
ぐるぐると悩み、苦しんで、結局家を飛び出てきた。
それしかできなかった。
しかしそんな些細なことでも、初めて自分で決めて、自分の意志で歩き出した印だ。

オレはここに来たんだ。
逃げたんじゃない。ここに『来た』んだ。
家から逃げだしただけだろうと、言いたいヤツは勝手に言うといい。
オレはオレ自身がやりたい事をするために、自分で決めてここへ来たんだ。
砂城のアンダーに。
世界で唯一のフロンティアに。
下賤で猥雑で、人の手すら届かない未知の領域がまだ存在する、乱暴で自由な街。
ここで何かを見つけようと、そう思った。
責任放棄の、甘っちょろい世間知らずのドリーム男かもしれないけど。

それでも。
だからこそ。
ここからは逃げたりしない。絶対に。




決意の眸で、首から下げた、汚い格好にまったくそぐわない立派なカメラを見下ろす。
「まあもっとも、誰かにグチりたくても、だーれも知り合いがいないけどな。知り合いがいないところにきたからな。うん。その分金も借りられねえ。結構なことだ」
海里はぶつくさと独り言をもらした。
「金もねえのに、カメラ買っちゃったからなー。当分メチャクソ節約しねえと。ああー…。一週間前に食った寿司は旨かったなあー…」
うっとりと味を思い返す。
久しぶりに酒も飲んじゃったし…。

試食品食いにデパートまで出かけて、ひょんなことからホモのおっちゃんと知り合った。
出会いという偶然はどんな風に人に訪れるのか解らないが、考えてみたら、砂城に来てふらふらしている自分の、そのおっちゃんが唯一の知り合いと言えない事もない。
ホモは嫌いなんだよね、などと無礼なことをさんざん放れたオレに、何故かおっちゃんは気前よく寿司なんて奢ってくれた。
篁の名前を名乗ったとは思うが、だから親切にしてくれたわけではないらしい。
(もっともそうなら、とっくにカットアウトだ)
その時は名前を聞かなかったが、人が酔っている隙に、ズボンのポケットに名刺を突っ込んでやがった。
まったく油断も隙もあったもんじゃない。
だが、おかげで助かっていた。
基本的にホモは嫌いだが、まあ、ホモだから悪いって訳でもない。
個人の性癖に口を出すのはよくない。
これも『縁』ってヤツなのだろうし、素直に感謝しとくのが大人ってもんだろう。うん。


両手いっぱいに抱えたビデオ。
いま転んで、これを道にばらまいたりしたら大惨事だ。
なぜならこれは、…エロビデオなのだ。
ジャンルは様々。人妻もの、OLもの。縛られて感じちゃう、だの、痴漢電車でGO! だの。そんなのばかり12本。
裏ビデオじゃない。違法性のあるもんじゃないが、これを抱えて事故に遭う事だけは絶対に避けたいシロモノだ。
これは、おっちゃんが金がないオレに廻してくれた、ライターの仕事だった。
エロビデオを見て、簡単な解説を書いて、ランクをつける。
エロ雑誌のビデオ紹介コーナーの仕事だ。
オレは本当はカメラマン志望なのだが、仕事でえり好みしていられるほど裕福じゃない。
とにかく、今日くちに放り込む飯が必要なのだ。
そりゃまあ、オレだって最初はちょっとウハウハだったよ。
エロビデオ見て、チョコチョコっと何か書けば、金がもらえちゃうんだもんな。

そう思っていたのだが…。
仕事はそんな甘いものではなかった。
〆切まで殆ど時間が無い中、徹夜ぶっ続けで、ただひたすらエロビデオを見続ける。
楽しかったのは最初の3本目くらいまでで、あとはもう、苦行としか思えなかった。
目は痛くなるし、肩は凝るし。
徹夜で朦朧とした頭に、女のあえぎ声がキンキン響く。
あー、もう勘弁してくれ。
それで『イッパツ抜けるようなキャッチコピー付きで文章書け』って、できるかそんなの!
…だが、やらねばならなかった。
そして、経費節約のため、このビデオは今日中に返却しないといけなかったりするのだ。
ビデオ店が閉まるのが、夜中の2時半。
もう後10分で店は閉まってしまう。
海里はもつれる足を速めて、遠い灯りに向かった。

 

 

「はい、12本返却。ありがとうございましたー」
思わずホッとする。
しかし早く帰って、メモった文章をきっちり原稿に仕上げなくてはならない。
「今晩も徹夜かなー…」
店を出ようとした途端くらりとして足がもつれ、入れ違いに入ってきた男に軽く寄りかかる形になってしまった。
「おっと、ごめん」
しかしその男は海里には一瞥もくれず、野球帽を深くかぶって店内に入っていった。
「変なヤツ。人が謝ってんのに。もう閉まっちゃうじゃねえか。ビデオ屋なんか」
入り口に置いてある電飾の看板が、2、3度またたいて、ふっと消える。
ああ、お終いなのか? 
そう思った瞬間だった。
耳の後ろで信じられない程の轟音が鳴り響き、海里の身体は恐ろしい力で持ち上げられ、地面に叩きつけられた。
何も考える事が出来ないまま地を転がり、反射的に腕が上がって頭を庇う。

一体何が起こった。
爆発? 
まさか。オレ、爆風に飛ばされたのか?

ここ最近起こった何件かの爆発事件が、頭の中をかすめていく。
爆発事件の被害者は、今のところ全員死んでるんだ。全員。
頭から血が引いていく。
海里は必死になってその場所から出来るだけ遠くに離れようと思った。
しかし最初の爆音で耳がやられてしまったらしく、ぐらぐらと風景が回り、方向感覚もよく解らなくなっている。
更に足の感覚がまったく無い。
痛みを感じるならともかく、まるで足を失ってしまったかのような無感覚状態に、海里は冷たい恐怖を覚えた。

いけねえ、まずいよ、オレ。
オレ、帰んなきゃ。だって、〆切今日だし。
それにオレ、砂城に来たばかりなんだ。
早く、ここから逃げ出さなきゃ。
早く。
オレ、やることがあるんだよ。
たくさん、色々。
だから帰んなくちゃいけないのに
なあ、どうして足が動かないんだよ。

必死になって地面を爪でかく。
だが再び身体を揺るがす様な振動が起こり、動けない海里の背中に爆風が襲いかかった。
炎と瓦礫が自分に向かってゆっくりと落ちかかってくる。

死ぬのか?

そう思った。
あと少しここから離れるだけでいいのに。
なのに、オレ、たった30センチが動けなくて、ここで死ぬのか?


しかし次の瞬間だった。
腕がぐいっと引っ張られ、そのまま一メートル近くも地面を引きずられる。
瓦礫の山が自分のすぐ後ろで、がらがらと積み上がって落ちるのが感じられた。
ガラスの破片が飛んできて腕をかすめる。
「痛てえ…」
思わず呟く。
だが、自分は生きていた。不思議な事に、自分は生きているのだった。
「だれ?」
誰かが引っ張ってくれたんだ。オレ、30センチも動けなかったから。オレ…。
目の前でその人が自分に何か呼びかけていた。
だが耳がいかれていて何も聞こえない。
こいつが助けてくれたのか?
オレを引っ張ってくれたのか?
姿もぼんやりとしか見えない。
なあ、オレ目もどうかしちゃったのか? それとも一時的に爆風でおかしくなっているだけなんだろうか。

「大丈夫か!?」
膝をつき、至近距離で海里の顔を覗き込む。
「コウ、もっと離れたほうがいいんじゃ…」
「いや、これ以上この人を動かすのはまずい。足をやられてる。救急車は?」
「いま呼んだ」
「じゃあ任せたほうがいい。それより意識を失わせないようにしないと。君、名前は? すぐに救急車がくる。もう大丈夫だから」
大丈夫? オレ、大丈夫なのか。
「大丈夫!」

自分を覗き込んでいるのは、見た事もないほど綺麗な男だった。
へえ、世の中にはこんな綺麗な男もいるんだ。
幻とかじゃ、ないよな…。
混濁しつつある意識の中で、その顔は海里の頭に強烈に焼き付いた。
でも誰だろう、この人…。
見覚えがあるような、気もする。
オレを、助けてくれたのか。
オレ、助かったの…か…。

「香澄、意識を失った。救急車は?」
「まだ。あっ、来た、来たよ、音がする。あっちだ」
救急車と共にパトカーのサイレンも聞こえた。同時に頭上から雨が降ってくる。
シャワーのような水が、爆発の火災を次第に小さくしていった。
「これで、何件目?」
「4件」
そう、これは事件だった。
それも、最悪の連続殺人事件になりつつあった。

 

 

 砂城の警察には、鑑識から独立した科学捜査研究所がある。
そしてそこには、使役品とジャンク専門の特殊な技官が存在した。
この間30歳になったばかりの技官、堂本航平(どうもと こうへい)は、黒羽 高(くろはね こう)の姿を見ると、ガラスの向こうから手招きした。
黒羽が部屋の中を覗き込むと、そこには何かの装置が並んでいた。
水槽を縦に置いたような、透明なガラス状の箱と、中にはリンゴが一個。
「ああ、説明がいりますか?」
のんびりした声で喋りながら、白衣の襟元を整える。
「爆発物の中に、よく釘とかガラス片とか入っているのはご存じでしょう? 爆発すると辺りに飛び散って、より大きな被害をもたらす」
黒羽は黙って頷いた。
「今回の事件で、爆発物の中に仕込まれていたのはこれです」
堂本は試験管の中に少量入れられている、無色透明な液体を指さす。

「水?」
黒羽より先に来てその辺の椅子に座っていた白鳥香澄(しらとり かすみ)が首を傾げた。
「交番爆破事件を担当している捜査員の方々は、もう知っている事なんですけどね。ちょっと極秘扱いだったもんで。他の部署には教えていないんです。
マスコミもそこそこ感づいてはいますが、今は黙ってくれています。でもあまり続くとそうもいかないでしょうね」
「勿体ぶらないでよ、堂本センセ」
「黒羽さんと白鳥さんは、たまたま今回の事件の目撃者ですから。きっちり捜査の一員になるわけではないですが、色々と協力を求められる事があると思います。そういう訳で、一応解っていたほうがいいと、捜一の…」
「だから前口上はいいってば。なんです? それは」
「これは」
堂本は一度口をつぐんでから、さらりと答えた。

「これは使役品です」


「精製する前のものですか?」
黒羽がメガネに指をあてながら聞く。
「一応、特化とっかがかかってます。掘り出したそのままではない」
「あのー…先生方。よく意味が解らないんですけど」
白鳥が教室の生徒よろしく、椅子に座ったまま手を挙げた。
「君は使役品の事は全然知らないの?」
「はあ、オレ外から来たんですよ」
「あ、そっか。でも無関係じゃないですよ。君の履いてるシューズだって、あとサイフとかカバンとかも、使役品から出来てるでしょう?」
「えっ、そうなんですか?」
「東京ドームの天井のテント素材も使役品を使った布地。軽くて耐久力があってしかも燃えない。あとそうだな。白鳥さん、砂城市民に登録してあるなら、体組織を採取されているでしょ?」
「されましたけど?」
首を捻る白鳥の前で、堂本は妙に嬉しそうに唇を曲げて微笑った。
「そのうちジャンクに襲われるとかすれば解ると思うけど。提出した細胞と使役品で指くらいなら再生させられるから」
「………マジですか? 生えてくるんですか? 指が?」
「生えてくるんじゃないよう。君の体細胞から指をつくって、ちぎれた所で繋げるんですよ。自分の細胞だから、拒否反応がないの。
間に入れた使役品の作用で、神経もすぐ再生する。銃だって前と同じように撃てるようになりますよ」
「へええ…」

「僕はねえ、もし黒羽博士達が生きていたら、きっと今は腕くらいとっくにこの身体から再生させる技術が可能になってたんじゃないかと思うんですよねえ。歯の再生とか、あと髪の毛の再生とかも。
髪の毛は精力的に研究されてる分野だけど、金になるからね。ねえ、白鳥さんだって気になるでしょ? 男なら誰だって気にするよね、頭髪の事はさ」
「あの…堂本センセ?」
別にまだ後退しかけている様子はない堂本の頭髪をチラリと見ながら、白鳥は軽くため息をついた。
何だかオレの質問から、激しくずれてないか? 
科捜の先生達って、みんなちょっと変わってるよな…。
「それでも研究としてはまだまだだよね。あああ、ホント。黒羽さん。君のご両親が生きていたらね。もう僕はてっぺんハゲの事なんて気にしないでもよくなっていたと思いますよ。ホント、世界は惜しい人を失ったと思う」


なんだか…。
コウの両親の死を本気で惜しんでいるのは解るけど、てっぺんハゲの心配と一緒にされてしまうと、どう対応していいのか解らなくなっちゃうよな。
そんな事を思いながら上を振り仰ぐと、黒羽が軽く唇を噛んで、微かに視線を逸らしている姿が目に入った。
人には殆ど無表情のように見えるかもしれないが、白鳥には解った。
黒羽は未だに両親の事を話題にされる事が苦手だった。

両親が死んだ責任の一端は、自分にもあると思っているのだ。
しかしこの罪悪感を完全に黒羽から取り除いてしまう事は、今は出来なかった。
この罪悪感によってのみ、支えられている部分が黒羽の中に存在するからだ。
黒羽自身が、自分を罰する必要がある、と思っているうちは、この罪悪感は彼が生きていく上で必要不可欠なものだった。

抱きしめたい…。

白鳥は少しだけそう思った。
いつかオレが絶対コウを、そういった全部から救ってやる、とは思っている。
今は無理でも、そのうち絶対。
でも、オレってば情けないけど、そんな風に弱いコウを見ると、どうしようもなく欲情する。
抱きしめて、キスして、愛して、そして守ってやりたいと思う。
ちぇっ。
オレってそんな風に弱みにつけ込みたい人間だったのかよ。
マジで情けねえ。
そうは思うが、今だって堂本さえいなければ、すぐにでも考えている事を実行に移したかった。

 

 

「先生、てっぺんハゲの心配は後にしてですねえ…」
白鳥は下半身の事情を押さえつけるために、会話を元に戻す事にした。
堂本センセは額が後退していくタイプじゃなくて、てっぺんが薄くなるタイプらしい。
そりゃーオレだって、あと10年もすれば、だんだん気になる話題なんだろうけど、まあ今はな。
「あっ、ごめんごめん。どこまで話したっけ。そうそう。使役品は色んな事に使われているって話でしたよね」
黒羽は既に元の表情に戻って、堂本が持つ試験管の中身に注目していた。
「使役品はそのように、どんなものにも変化し、混ぜたりする事が出来るんですけどね、その為には、もちろん少々の加工が必要になってくる訳です。医療用に使うものと、テントにするものとでは、求める用途がぜんぜん違うでしょう? 
という訳で、掘り出したそのままではなくて、目的別に特性を強調させる。その状態にしたものを、特化がかけてある、と言います。特化がかかったものを、更に目的別に精製して、使用出来るようにする訳です」

「ふうーん」
「ふうーんって、感動が薄いなあ。いま簡単に特化精製って言いましたけどね。使役品産業では、全てが特化精製にかかっているといっていいんです。
言うのは簡単だが、やる為には非常に高度な技術が必要になる。
中には、この人でなければ出来ないって特別な特化もあるんですよ。
特化精製は、どんな些細なものでもパテントが取れるくらいです。
企業秘密ですよ」
そう言われても、何て言うのか。
解ったような解らないような、凄いんだかそうじゃないんだか、よく解らない。
白鳥の反応が鈍いので、堂本は少し不機嫌になった。
しかしそこで、完全に冷静な口調に戻った黒羽が質問した。
「それで、その液体にはどんな特化がかかっているんですか?」
堂本は一瞬で機嫌を直し、くるりと黒羽の方を向いた。
「うん、それを見せようと思いましてね。色々用意した訳なんです」
それを見に来たんだよ、話長いよ、先生。
白鳥はちょっと心の中で不平をたれたが、元々自分が使役品の会話に加われなかった事が長くなった原因の一つだということに思い至って、黙って堂本が差し出すものを見つめた。

「取り出しましたる一つのリンゴ」
下手くそな手品師の口上のような事を言いながら、堂本は用意してあった透明なガラス状の箱を指さした。中にはリンゴが入っている。
「この上から、特化のかかったこいつを一滴垂らしてやるとどうなるか」
堂本は試験管の透明な液体を、水槽を縦に置いたような箱の上部からそーっと流し込んだ。
液体が箱の上部から一滴だけ滴り落ちる。

その雫が箱の底部に当たった、その瞬間だった。
いきなり透明な箱の内部が真っ白に曇り、中のリンゴはぼんやりとしか見えなくなる。

「な、何が起こったの? どうしてガラス曇っちゃったんだ?」
堂本は面白そうに唇を曲げて白鳥を見た。
「下手に触らないでくださいね。危ないから」
「爆発とか…するわけ?」
そういえばあの液体は、爆弾の中に入っていたと、堂本センセは言ったんだっけ。これから何かあるのかもしれない。
「いや、もう爆発しましたよ」
「へ?」
「これでお終いです」
「お終いって、ガラス曇っただけで、何も変わってないじゃん。リンゴもそのままだし」
「…針…か」
黒羽が目を細めてぼそりと呟いた。
「そう、そうです。さすが噂通り。鋭いですね、黒羽さん」
「針?」
「ああ。このガラスの内側に、極小の針が無数に突き刺さっている。だから曇って見えるんだ。もちろんガラス板だけじゃない。リンゴにも刺さっている。そうでしょう? 堂本さん」
「はい、もちろん。白鳥さん。ちょっと箱を揺らしてみてください」
「え…、こうですか? …わあっ!」
白鳥が軽く箱をつついた瞬間、リンゴはまるですり下ろしたかのように、ぐずぐずと崩れてしまった。
「あ、あの、これ…」
今度の白鳥の反応は、えらく堂本のお気に召したようだ。妙に機嫌良く説明を始めた。

「これは刺激さえ与えなければただの液体です。ところがほんの少し、たとえばこの水槽はたった50センチの高さですが。その高さから下に落としただけで、飛沫がこのような極小の針の形となって飛び散るのです。
これは驚くほど細く、そして恐ろしく硬い。人の身体くらいなら皮膚はもちろん、筋肉も、骨さえも簡単に突きとおしてしまいます」
「え…それじゃあ。先生、コレが爆弾の中に仕込まれてたって言いましたよね。そうすると、爆発と同時にこの無数の針が無差別に飛び散った、って訳ですか?」
「その通り」
「側にいた人間は、それじゃ…」
「全身コレにまみれれば、一瞬でぐずぐずのドロドロです。人間の形なんか残らない」
「げええええ…」
「だから今まで、生存者が一人もいないのか」
そんなあっさり納得しないでくれよ、コウ。

「ところが今回は初の生存者、なんでしょう?」
堂本が実験器具を片づけながら黒羽に言う。
「ええ」
「黒羽さんが助けたんだってね。さすが噂通り、優秀なんだなあ」
黒羽の顔が僅かに歪んだが、堂本はそれには気付かなかった。
「偶然です」
「運ってあるよね。きっと黒羽さんは人を助ける運があるんだと思いますよ」
「科学の研究者が運命なんて信じるんですか?」
これ以上この話題に踏み込ませない為に、白鳥は横から口を出した。
案の定堂本は、さっさとこちらに食いついてくる。
「運命じゃないですよ。運。それに運は信じるものではなくて、確率です。この世界は偶然で成り立っている。僕が生まれてここにいるのも偶然。あなたと出会って喋っているのだって偶然です。まるで何かに導かれるように現象が展開したとしても、それはすべて偶然の積み重ねに過ぎません。
運命は精神論ですが、運は科学の分野です。
いいですか? だいたい確率というのはね、百万分の一しか起こりえないなどと言っても、起こってしまったら、全て100%なんです。これが確率の罠。
解りますか? 偶然って言うのはね…」


ベラベラ喋り続ける堂本の話に適当に頷きながら、白鳥は黒羽を見つめた。
黒羽がここしばらく落ち込んでいる事は、白鳥には解っていた。
いつものように仕事をこなし、態度も殆ど変わらない。
それでも空気は伝わってくる。
黒羽は、確かに何か苦しんでいた。

原因の半分が自分にある事を、白鳥は承知していた。
黒羽が引きずっている罪悪感。
罪悪感を背負わせている過去。
自分はその過去から現れて、黒羽に一番薄暗い部分を突きつけたのだ。
あの時起こった出来事は、長い間ずっと黒羽の中にしまい込まれていた。
誰も知らない。彼の中だけにある、黒い秘密だった。
だが今は。白鳥もそれを共有している。
自分がそれを共有した事が、黒羽を苦しめる事になっていた。

解っているさ。
でもね、オレは許さないよ。コウ。
あんたが独りになる事も、黙ってどこかに行く事も許さない。

 

 

 コウは最近一週間ほど行方不明になった。
もっとも正式に年休をとっての失踪だし、ちゃんと仕事に復帰したのだから、誰も行方不明などとは認識していない。
でも、オレには解っていた。
オレがコウの過去を知っていると解った時、コウはオレから離れるつもりだったのだ。
悔しい事に、そうやってコウはオレを守るつもりだったのだ。
自分の汚い過去からオレを遠ざけ、これから巻き込まれるかもしれない出来事から、オレを離そうとしたのだ。
だがオレは、もちろんそんな事は望んでいなかった。
コウ、オレはもう子供じゃない。
あんたが護りたかった綺麗な子供なんて、そんな偶像は本当はいないんだよ。

オレが一番痛かったのは、コウと手を離した事だった。
どうしてあの時、オレはコウの手を離してしまったのかと、ずっと悔やんでた。
そうさ。
7年の長い間、時折どうしようもなく、心の中にあの時の痛みがせり上がって来るのを感じていた。
だからね、コウ。
もう二度とオレは、あの痛みを味わうつもりはないんだ。
オレにとって、コウと離される以上に悪い事はない。

全て一人で背負って、どこかに行くつもりだったコウ。
一人は気楽かもしれない。
いつ死んでもいいと思っていたのなら、もっと楽だろう。
でもね、オレは行かせたりしない。
絶対許さない。
冬馬の所にも、あんたの両親がいるだろう、その場所にも。

だからオレは、秘密を共有する事で、あんたが一人で行く事が出来ないようにした。
そうだ、コウ。オレはもうあんたから離れてなんかやらない。
あんたがいなくなったら、オレは地獄の底まで捜す。
あんたが死んだら、オレはあんたを追いやったものを絶対に許さない。
オレを置いていく事も、命を手放して楽になる事も、オレは許さない。
もう知ってしまったのだから、どんな風にコウが動こうと、オレは必ず巻き込まれるんだ。

その事で、コウは苦しんでいる。
オレは、コウがいなくなる事よりも、コウが苦しむ方を望んだのだ。
だけどね、コウ。
二人分の苦しみを、コウが持つ事は無いんだ。
あんたに解って欲しいよ。
オレがあんたの苦しみを、望んで持ちたがっている事に。

コウの苦しみをオレが持てば、オレが苦しむだろうと、コウは思っているんだろう?
確かにそうかもしれない。
オレは今よりも、ずっと大変になるんだろう。
だけどね、オレはそれを望んでいる。

大丈夫。
何があってもオレは怖くない。
それを背負えるくらいには大人になった。
あんたが大人になる為の時間をくれた。
その全てが偶然でも。
オレはこうして、まるで決められていたかのように、あんたの隣にいる。
あんたを抱きしめて、あんたを護れるくらいの大人になって。
だからどうか、オレに分けて欲しい。
オレはきっと嬉しいから。
大変になっても、苦しくても。
でも、すごく嬉しいから。

コウ、オレはね。
あんたを愛しているんだよ…。

 

 

 黒羽はしばらく下を向いたままだった。
白鳥には黒羽が何を考えているかは解らなかった。
しかし、黒羽はやがてゆっくりと顔を上げ、堂本に尋ねた。
「使役品から、これがどこのものだか解りますか?」
「解りません」
「え? でも堂本センセ言ったでしょう? 使役品はどんな特化がかかっているかが最重要だって。だったら出自が解ってもいいんじゃないの?」
「おお。白鳥さん、覚えが早い」
「感心されてもなあ…」
「残念ながら、これは一発で出自が解るほど特別な特化じゃないんですよね。医療器具に使ったり、繊維にする為の前段階にも、似たような特化をかけます。
パテントはB&B社が持っていますが、しょっちゅうその辺で行われているありふれた特化ですよ」
「…役たたねえ」
「なんですって?」
「あっ、いやその…」
慌てて手を振る白鳥の隣で、再び黒羽が呟いた。

「しかし、どんな簡単なものだとしても、それでもこれには特化がかかっている」
「何? 大事な事なのか? コウ」
「出自が即座に解るようだったら、とっくに事件は解決している。未だに引きずっていると言う事は、これはまったく出所が解らない使役品、と言う事なんだ。
特化がかかっている使役品なら、まずどこかから盗まれたものではないかと疑うのが常識だ。しかし、捜査員は調べている筈だ」
「…どこからも、盗難届けはでていない?」
「多分。間違いなく。少なくとも今のところは」
「じゃあ」
「次に疑うのが盗掘だ。出自不明の使役品は盗掘されたものが殆どだから。しかし盗掘された使役品は、通常そのまま闇ルートに流される。何も手を加えない、そのままの未加工品だ。
特化をかけるには、金と技術がいる。今回のようなありふれた特化でもだ。
盗掘する人間には、そんな財力も余力も技術も、普通はない」
「とすると、残る可能性って、盗掘されて一度闇ルートに流された使役品が、特化をかけられた後、またわざわざこんな事に使う為に誰かに流されたって…こと?」

黒羽は黙って考え込む。
「でもそれって変だよ。その労力に見合うものは何なのさ?」
「確実な人間の死」
「死んで誰かに得があるわけ? 4件の爆発事件で8人が死んだ。誰かにでかい金でも流れ込んだか?」
黒羽は首を振った。
「どう見ても無差別だ。場所もバラバラだし、死んだ人間もお互い何の関わりもない」
「じゃあ、一体…」


「いやに詳しいじゃないか、黒羽さん」
その時、いきなり低い声が部屋に響いた。
白鳥が顔を上げると、ドアの所に目つきの鋭い40がらみの男が立っていた。
男はネクタイを首からだらしなくぶら下げ、口には砂城では滅多に吸っている人を見ないタバコを銜え、ニヤニヤ嗤いながら挑戦的な表情で黒羽を睨む。
「辻さん、ここは禁煙」
堂本が眉をひそめて、部屋の中に流れ込んできた紫煙を手で払った。
「可燃性の薬品もあるんですからね。でもちょうど良かった。話が終わった所です」
「じゃあ、何が秘密で何に口出しされたくないか、そういう分もわきまえたって事だな、黒羽さん」
辻と呼ばれた男はふうっと煙を吐くと、無造作にタバコを机に押しつけて消した。
堂本が辻をぎゅっと睨みつける。
「香澄、強行第一班の辻警部補だ」
「あっ、はい。初めまして。私は白鳥…」
「外から来た変わり者だろう? 有名だから知ってるよ」
「あ…はあ」
「状況を知らせたのは、別にあんた達に捜査を手伝って貰いたかったからじゃない。この事件が特殊だと言う事を知って貰うためだ。
余分な口出しはしないでもらいたい。もちろん不用意に外に口を滑らせる事もな」
「解っています」
「おまえらの事件じゃない。余計な推理はしないでいいんだよ」
「はい」

な、なんだあ〜。
何だかえらく高飛車な男じゃねえか〜。
警部補だって言ったよな。
まあそりゃあ警察官として先輩ではあるんだろうけど。でも階級はオレだって一緒だぞ。
白鳥は思わずムッとして辻を睨みつけた。
辻は視線に気付いたのか、唇を曲げて笑う。
「もっとも黒羽さんは、使役品とジャンクの大家だったっけなあ。詳しいんだよな。お偉いご両親の血を引いているんだもんなあ」
黒羽は黙って唇をひき結んだ。
「あの、お話はそれだけですか?」
白鳥は思わず口を出してしまった。
理由はよく知らないけどな。こいつがコウに含みがある事だけはよく解った。
コウが言い返さないんだから、オレが何か言う筋合いじゃないかもしれないけど。
でも死んだ親の事とか持ち出すのは良くないと思うぜ。

「くだらん話をする為だけに来るほど、オレは暇じゃない」
じゃあ余計な当てこすりなんか喋ってないで、さっさと用件を言ったらいいじゃないか。
「用があるから来たんだよ。黒羽さん、オレと一緒にちょっと病院までご足労願いたい」
「病院?」
「あんたが助けた唯一の生存者が入院している病院だ。現場にいたんだろう? そいつの話とあんたの話を、一応つきあわせたいんだ」
「もう話が出来るんですか?」
黒羽の表情が、少し明るくなった。
「ああ。基本的には足をやられただけだからな。爆風もかぶったし、興奮もしてるって言うんで、病院側が面会を渋っていたんだが、事件が事件だ。話を聞くなら早いほうがいい」
「そうですか。…よかった」
「よくねえよ。犯人はまだ捕まってない」
「はい、申し訳ありません」

コウが謝る事無いじゃん。
コウはその手がかりになるかもしれない目撃者を助けたんだぜ。
「口を出すなとか言うくせに、協力はしろって訳ね」
白鳥の口から小さく漏れた文句を、辻警部補は見事に無視した。
そして二人に向かって、ついて来いと言うように顎をしゃくって歩き出す。
その背中に向かって堂本が、床に落ちた吸い殻を拾い上げながら声をかけた。

「辻さん、前から言ってますけどね、タバコやめた方がいいですよ。匂いが取れなくなる。ジャンクはそういう気配にも敏感だって言われている事だし」
「タバコを吸ってるヤツの方がジャンクにやられやすいって言うんだろう? そんなの迷信だよ、堂本さん。だいたい奴らのどこに鼻があるって言うんだ」

「確かに証明されてはいませんが…。僕もやめた方がいいと思います」

黒羽の静かな声に、辻はギョッとしたように目を見開いた。
それから体を震わせると、まるで呪いの言葉でも聞いたかの様な目つきで、黒羽を睨みつけたのだった。


次へ

正義の味方「本編」INDEXへ