上の階には、思ったより障害物が少なかった。
それでもこの広いホテルを全部探して回るのかと思うと、目がまわる思いがする。
白鳥は自分が覚えている場所に行ってみようとした。
　
たぶん、最上階か、そのすぐ下の階。
そう思いながら黒い壁を伝っていったが、そのうち自分がどこにいるのか、よく解らなくなってしまった。
焼け焦げて、あまりにもホテルの様相が変わってしまったためだ。
どうやら白鳥は、自分の覚えているところへは、行き着けそうもなかった。
「だめだあ…。記憶もぼんやりしちゃってるし、こんなにあちこち壊れているんじゃ。あきらめて降りようかなあ？」
しかし、上の方から空を見る、という野望をまだ果たしていない。
　
そういえば最上階には、大きなガラスが嵌ったフロアがあったっけ。
白鳥は記憶を頼りに廊下を歩いていった。
　
　
　
頬に当たる風を感じたと思ったら、いきなり白鳥の目の前に、広々とした空間が開けた。
目的地についた。
そう思った瞬間に目に飛び込んできたのは、すっかりガラスが無くなり、壁にぽっかり空いた穴となった大きな窓と、下に広がる街並みだった。
たいして高くはないが、なんとなく、おお、と思う。
　
高い場所、久しぶり。
白鳥は足元に注意しながら、ガラスのない窓に近づいていく。
砂城の街が小さく見えるのは、かなり新鮮だった。
なにしろここは地下にある。高い建物も、ほとんどない。
なんとなく、倒錯した感じがする。
どこよりも低い地下の都市で、一番高い建物に上っている自分。
なんだか不思議な気分だった。
　
　
　
その時、目の端に、何かがちらりと動いた。
「え？」
白鳥はぎくりとして振り返る。
誰かいる？
　
柱の向こうに、黒い影が見える。
影は、白鳥と同じように窓の外を眺めているようだった。
顔を確認するべく位置を変えると、急に影はこちらを振り返った。
そして、白鳥と目が合うと、にこりと笑った。
　
男…。
男だ。
なんで？　こんなところに、人？
　
白鳥は、一瞬何が起こったのか解らずに、ぼうっと突っ立っていた。
それから、あわてて口を開く。
「あ、あの、ここは立入禁止ですよ」
男は少し首をかしげて、それから白鳥のほうに、ゆっくりと近づいてきた。
　
優雅な足どり。
下にはやはりゴミのようなものが転がっているというのに、その男はまったく気にとめる様子もなかった。
高そうなブルーグレーのスーツを上品に着こなし、綺麗な動作で障害物をよける。
靴もきちんと磨き上げられていて、およそこんな芥溜めのような場所とは縁が無さそうな感じだった。
「こんにちは」
声は低くて甘い。
人を安心させるような陽気さが、声の中に含まれていた。
風にあおられた髪を、かるく押さえて微笑む。
綺麗な男だった。
　
ど、どっかのエリートサラリーマンか、それとも弁護士とかかな？
　
白鳥は男に微笑まれて、どぎまぎした。
皺のひとつもないスーツをぴしりと着込んだ男の前で、自分のぐしゃぐしゃのシャツが、どうしようもなくみっともないものに思える。
男の圧倒的な存在感は、白鳥の心を押さえつけて萎縮させた。
「あの、ここは立入禁止ですが」
さっきと同じ言葉しか出てこない。
ばかじゃん。何でここにいるのかとか、どなたですか、とか他に聞くことあるだろ？
白鳥は心の中で自分自身をののしった。
　
確かに綺麗だけど、こいつ、黒羽さんとは全然違う。
なんか、なんつーか、その。
　
…怖い。
　
白鳥はわずかに後じさった。
足元で壊れた床がかつんと音をたてる。
　
男は口の端で微かに微笑んだ。
　
そういえば、この男。
白鳥の頭の中に、じわじわと違和感のようなものが沸き上がってきた。
こいつ、今はこんなにも存在感があるのに、さっきまで、まるで空気のようだった。
ここに入った瞬間は、まったく人の気配なんて感じなかった。
今のこの男を見落とすことなんて、絶対にありそうもない。
だとしたら、男はまるで幽霊にでもなっていたかのように、完全に生きた気配を断っていたのだ。
　
なんか、ユーレイ出そうじゃない？
自分の言った言葉が、頭の中でリフレインした。
白鳥の背中に、ぞくりと冷たいものが走った。
　
「勝手に入ってすみませんでした。警察のかたですよね？」
男はいきなり口を開いた。
「え？　あ、はい。そうですが。何で…？」
口を開いたのと同時に、男の雰囲気は、すぱりと変わった。
まるで一瞬で何もかもがくるりと入れ替わってしまう、手品のように。
　
気がつくとそこには、にこやかに笑う、普通の男が立っていた。
年齢は、よく解らないが（２０代後半から、３０代半ばくらいか？）先ほどまで彼を取りまいていた威圧感のようなものは、ウソのように消えている。
「たしかに、ええ、まあ、警察ですけど。どうして…？」
あれ？　なんでオレ、こんなにへりくだってるんだ。
男は端正な顔を白鳥に向けて答える。
「ああ、だって、この下を黒羽　高が通っていったでしょう？　何か、捜査なんですか？」
言われて白鳥は納得した。
　
黒羽　高は、なんたって有名人だ。
俳優やアイドルじゃないから、顔は知らない人も結構いるが、それでも名前は（あだ名のレフトハンドショットガン、のほうだけどね）多くの人が知っている。
顔だってその気になれば、ポスターでいくらでも見ることができた。
しかし、遠目でみて黒羽と解るのだから、この人は彼のファンなのかもしれない。
　
だけど、世間の人はそんな有名人がゴミ溜めで捜し物をしてるなんて、思わないだろうなぁ？
ま、仕事ってのは、そんなもんだけど。
しかしここは、ご期待を裏切らないように…。
白鳥は重々しく言った。
「申し訳ないですけど、大事な捜査の最中なんです」
一度言いたかったんだ。大事な捜査、なんて、ウソだけど。
「ええ、邪魔はしません。出ますよ」
男はにっこり笑って、よどみのない足どりで下へ続く階段を降り始めた。
白鳥はその後へ続く。
　
「ここね、私の思い出の場所なんです。久しぶりに来たら、まだこのままだったんで、いけないとは思ったんですけど、ちょっと上がってみたくなって」
「へえ！　じゃ、オレ…、いや、自分と同じですね。自分もそんな感じだったんで…、って、仕事中の警察官がそんな事言ったら、ダメか」
男は前を向いたまま、あはは、と笑った。
「お巡りさんだって、人間でしょう？　やりたいことをやるべきです。それで？　お巡りさんは、いい思い出があるんですか、ここに？」
「いやあ、いいって言うのか、悪いっていうのか。でも、とにかく…」
　
運命的。
そう表現するのが正しいような気もする。
でも、それじゃちょっとロマンチックすぎるかな？
　
黙ってしまった白鳥に、かまわず男は続けた。
話しながら、階段をどんどん下りていく。
男の速い足に、白鳥はいつの間にかついていくのに必死になっていた。
くそっ。でかい男はこれだから…。
「私はねえ、ちょっと苦い思い出なんです。恋人とね。とっても好きだったんだけど、でも、ここで別れたんですよ」
そりゃあ、なんつーか、気の毒に。
白鳥は適当に相づちを打つ。
「とっても綺麗な子で、本当は別れたくなかった。私はあの子に、何でもしてやるつもりだったのになあ…。でも、彼は私と来ないっていうから…」
ああ、そう。恋人がね。残念でしたね。
　
…彼？
　
足元を見ながら階段を下りていくのに夢中になっていた白鳥は、いきなり立ち止まった男の背中にぶつかりそうになった。
あわてて階段の手すりをつかんで体を引き戻す。
すると、男の背中越しに、ちらりと人影が見えた。
『黒羽さん？』
ごはん、買ってきたのか？
そう思って彼を見た瞬間、白鳥の全身にぞくりと泡が湧いた。

黒羽が階段下で、まっすぐこちらを見上げて立っている。
射抜くような、鋭い目つき。
口を引き結んだまま、恐ろしいほどの沈黙を身にまとって。
片手に白いコンビニの袋を提げていたが、それが連想させる穏やかな日常には、大きな亀裂が入りはじめていた。
　
開いていく亀裂の底から、どこまでも暗く、深い闇が顔を覗かせる。
　
黒羽はそこに静かに立ったまま、全身から何か白い炎のようなものを、ゆっくりと立ちのぼらせていた。
　
いったい…。いったい、なに？
どうしちゃったんだ…。
　
白鳥の、まったく知らない黒羽がそこにいた。
彼の中の、たぶん一番底にある、暗い淵。
　
「やあ、コウ。ひさしぶり」
白鳥の前で、男の甘い声が響いた。
「元気だった？　あいかわらず、綺麗だ」
　
黒羽は硬く引き結んだ口を、ゆっくりと開いた。
　
「冬馬…涼一」

　
え!?
　
白鳥は口を開けて、目の前の広い背中を見つめる。
とうま…、りょういち。こいつ、が？
彼の背中から、次第にさっき感じた恐ろしいほどの威圧感が
甦ってきた。
白鳥は、その場から動けなくなる。
　
こいつが、冬馬涼一？
死んだ、筈の？
なんで？　死んでなかったのか？　
いったい、今、何が起こっているんだ。

　 「おまえは、何をしている…？」
かすれてきしんだ声が、黒羽の口から絞り出された。
「なに、何って、いきなりかい？　挨拶は？　コウ。オレに、挨拶」
「…うるさい」
何か飛び出してきそうなものを、必死に押さえているような声だった。
冬馬涼一は、肩をすくめた。
「ああ、もう。そんなに怖い顔するなよ。涼一って呼んでくれないのか？」
黒羽は、黙って彼を睨み続けた。
「あ、そう。ダメか。残念。もしかして、怒っているのか？　なにかしたなら、オレはいつでもコウに謝るよ。なんだったら、土下座しても、いいよ。そうしたら、また昔みたいに楽しくやろう」
黒羽は、彼の言葉を完全に無視した。
　
「おまえは…、何をしている？」
黒羽の左手が、かすかに動き始める。
「何って、なんの事だ？」
「…ごまかすな」
手はゆるやかに、後ろにまわされる。
「ああ、お巡りさんだなあ。コウ。もしかして、職務質問だろう？　オレって不審人物だから。でも、何もしてないよ。ホント」
にこやかに笑う。
「嘘つきめ」
「それは心外だ。オレはいつだって正直者だよ。自分自身にね」
冬馬は何かを思いだしたように、くすくすと笑った。
楽しそうに、指を唇にあてる。
「ううん、たとえ何かをしていたとしても、それはコウには秘密だ。コウもくだらないことは早く忘れちゃえよ。そうしたら、一緒に遊べる」
　
「黙れ！」
黒羽の手が素早く動いた。
一瞬で手の中にバックアップ用のリボルバーが現れる。
　
うわ！　銃を向けられて、後ろにいた白鳥は初めて動くことができた。
あわてて自分の体を見まわしたが、当然の事ながら自分は、どこにも銃は携帯していない。
裏付け捜査をするのに、ベレッタなんて持ってこられるか。
そう思っていたのだ。
黒羽も、一見何も持っていないように思われたのに、その手にはしっかりと、鈍く光るスナブノーズが握られていた。
どこに隠してたんだよ、それ。
っていうか、撃つ気か？
　
ぞくぞくした。
また、あのオーラのようなものが黒羽の体から立ちのぼっている。
　
「こわいなあ。怖い」
冬馬涼一は、軽く両手を上げた。
「それ、撃つのか？　撃ってもいいけど、オレは丸腰だよ。せっかく作ったスーツにも穴が開くし、嫌だな」
「黙れ！」
「黙れ？　何をしてるって、コウが言うから、いろいろ話してんのに。かわいくないなあ」
「黙れ！」
黒羽は歯を食いしばる。
冬馬涼一は、腕を広げた。
「ああ、コウ。何か悩んでるんだ。そうだな？　それじゃ、聞いてやるから、話せよ。オレはいつだってコウの悩みを聞いてあげる、いいお兄さんだったろ？　おまえだって、何でも話してくれたじゃないか。あれ？　違った？　だめか。お互いベッドでは忙しかったからな」
「黙れ！　黙れ！　黙れっ!!」
黒羽は吼えるように叫ぶと、がちりと撃鉄を起こした。
トリガーに置いた指が、かすかに震えた。
　
　
　
「ダメだ！」
その瞬間、白鳥の体が宙を飛んだ。
階段の手すりを飛び越え、大きく跳躍して床に降り立つ。
そしてそのまま、黒羽のほうへ向かって疾走した。
　
冬馬涼一は階段の上で、あっけにとられたようにそれを見つめていた。
白鳥は殆どすべり込むような格好で、黒羽の元にたどり着くと、いきなりリボルバーのシリンダーに指をかけた。
そして、シリンダーをがちりと押さえ込み、指を撃鉄とフレームの間に入れる。
それから、すばやく冬馬涼一のいる階段上を振り返った。
　
「あんた、帰れ」
思いっきり、彼を睨みつける。
「帰れ。コウは、気分が悪いってさ」
冬馬涼一は肩をすくめて、階段から下りてきた。
「気分が悪いなら、手を貸すよ？」
白鳥は差し出されたその手を、思いきりはたき返した。
驚くほど冷たい感触が、触った部分に広がる。
　
「…おまえ」
白鳥はうつむいている黒羽の体を、自分のほうへ引き寄せた。
冬馬涼一の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
口の端をつり上げてつくる、完璧なアルカイックスマイル。
「おまえ、あいつらの…、仲間か？」
「あいつらって、誰？」
声は相変わらず、甘く響く。
しかし、白鳥にも、もう解っていた。
　
何もかも、嘘だ。
嘘と、見せかけしか、この男は持っていない。
暖かい体温があるように感じた体も、氷のように冷たい。
　
こいつ、コウに何をした!?
　
「オレ達は、用があるんだ。おまえが何をしたのか知らないけど、何かしたって証拠は今はないし、この場は見逃してやるよ。だから、帰れ」
　
ふうん、と冬馬は鼻で笑った。
「おまえ呼ばわりか。よくないお巡りさんだ。君は嫌いだな」
しかし彼はそれ以上何もせずに、黙ってエントランスを横切り、入り口の白い光の中に消えていった。
白鳥はしばらく動かずにその後ろ姿を目で追っていたが、完全に彼が消えると、ほっとため息をついた。
　
　
　
ああ、ああ、怖かった。
どうなるかと思った。畜生。
手に冷や汗かいちゃったじゃないか。
白鳥はやっと押さえていたリボルバーから手を放す。
同時にそれは、かちんと音をたてて床に転がった。
　
「くろはね、さん？」
そっと腕の中の彼を見る。
黒羽は下を向いたまま、口の中で何かを呟いていた。
「黒羽さん、ねえ、黒羽さんてば」
肩をつかんで前後に揺する。
「どうして…、どうして、僕は…」
黒羽は手で顔を覆った。
表情がまったく見えなくなる。
「どうして、あんな男に…」
　
「黒羽さん、何かされたの？　あいつに。何かされたんだろう？　ねえ。あいつが冬馬涼一なんだな？　そうなんだろ？　あの野郎。コウに何をした！」
　
白鳥の中から、驚くほど激しい怒りが沸き上がってきた。
なんだか知らないが、知るもんか。
コウに酷いことをしたなら、あの野郎、ぶっ殺してやる。
　
「僕は…、僕は被害者なんかじゃないんだ…」
黒羽が白鳥の手のなかで、苦しそうに呟いた。
「僕は、彼の、道具だった」
膝をつき、声を漏らす。
「道具だった。あいつの武器で、あいつのおもちゃで、あいつのセックスの道具だった。でも、それでよかった。僕は、あいつに必要だと言って欲しかったんだ！」
声は悲鳴のように、過去の残骸にこだまして震えた。
　
「本当に、本物の道具だったら良かったのに。そうしたら、何も感じない。苦しくない。あいつは、使えばよかったんだ。武器としてでも、セックスの道具としてでも。どうにでも、使えばよかったんだ。どうにでも。どうにでも！」
　
白鳥は彼の震える背中をきつく抱いた。
黒羽の髪のにおいが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「ねえ…」
白鳥は彼を抱きしめたまま、静かに言った。
「ねえ、嫌だったことや、苦しかったことを忘れたほうがいいなんて、オレは思わない。だけど、道具になりたいなんて、言わないでくれ。だって、コウはオレのヒーローじゃん。オレ、あんたがいたから、ここに来たんだ。あんたは知らなくても、ずっと、ずっと、長い間、あんたのことが好きだったんだよ」
黒羽は不思議そうに白鳥の顔を見上げた。
白鳥は、笑った。
　
ああ、この人は、こんな時にも泣かないんだな…。
なんか、その顔、めちゃくちゃ綺麗だ。
　
「僕…、を？」
「うん、そう、あんたを。黒羽　高を」
「どこかで…、会った？」
白鳥は頷いた。
「会ってる。きっとコウは覚えてないと思うけど、でも、オレ達会ってる。オレはあん時から、ずっとあんたにメロメロなんだ」
ふざけて白鳥は笑った。
「ホントだよ。オレは嘘はつかない。下手くそだからな。オレ、あんたがいたから、ここに来た。あんたが言ったんだよ。正義の味方って…」
　
黒羽は、目を見開いた。
白鳥はもう一度きつく、彼を抱きしめる。
　
　
オレは、知りたい…。あんたのこと。
何があったのか、何が無かったのか。
その、すべてを。
そして…
　
　
「オレの話も、したいな」
　
黒羽は、黙って頷いた。
その体は暖かかった。

　 「やあ、お仕事、ご苦労様」
暗い部屋の中で、ぽつんと座る白鳥に、桜庭が声をかけた。
「ああ、いいえ」
ほんの少し疲れた顔で、白鳥が見返す。
桜庭は、ちょっと驚いたような表情をした。
「なんか、凶器が見つかったんですって。だから、２人の捜査本部入りは、たぶんお終いになると思うわ」
「うん、そうですか」
白鳥は、軽くのびをする。
「…黒羽くんは？」
「コウなら、いま射撃場。彼が気の済むまで撃ったら、オレたち話をするんです」
「話…」
「知らないこととか、知ってることとか。いろいろ、ね」
　
桜庭は軽く首をかしげて、しばらく白鳥の顔を見た後、ふっと口を開いた。
「白鳥くん、なんで君はここに来たかったの？」
「黒羽　高が、いたから」
当たり前のように言葉に出る、素直な答え。
「そう。だけど黒羽くんは、確かに砂城では有名人だけど、外の人は彼を知らないはずだよ」
「オレとコウ、会ってるんです。いや、会ったって感じじゃないな。だけど、オレはコウを知ってる」
桜庭は、静かに言った。
　
「白鳥くん、君は、なにもの？」
白鳥は何かを思い出すように、少し遠くを見つめた。
「…正義の味方、になりたいと思っている」
「そっか…」
桜庭は息を吐いた。
　
「それじゃ、正義の味方。彼を助けてやってよ」
白鳥は桜庭を振り向くと、にっこりと微笑んだ。
　
「うん」
　
座っていた椅子から立つ。
見上げる桜庭に、白鳥は小さく言った。
「いってきます」
いってらっしゃい。
しかし、その声は白鳥にはもう届かなかった。
彼は暗い廊下の向こうに、もう歩き出していた。
　
　
今日は、長い夜になりそうだった。

ＥＮＤ

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